トロヘイ・ホトホトの現在を追う#1

頓原交流センターでトロヘイの藁馬をつくりながら聞いた話で、山口県地福との交流があるとのこと。頓原の子たちが地福へ行ったり、地福の子たちが頓原に来たりしているのだとか。山口地方で盛んであったことは柳田国男も書いていた(要確認)。なかでも地福は今でもトロヘイ儀礼(地福のトイトイ)を保持しており、国の重要無形民俗文化財指定を受けている。
頓原も申請すれば指定はおりるのだという。が、検討はしているものの「めんどうだ」と。誤解なきよう添えれば、その良否が複雑である意をもたせた言であろうし、私は指定なしでもいいではと思う。大事なのは国のお墨付きを得ることではないし、この来訪神儀礼は外に向いたものではないのだから。指定を受けようとすれば、あるいは受ければ、説明と報告をしなければならない。そういうものではないのだと私は考える。この儀礼については。

さて、本題。

現在、中国地方で確認できるトロヘイと類縁儀礼の現存地区は、広島県口羽、山口県地福、鳥取県日野町菅福(すげふく)の4箇所。これ以外にもあるかもしれず、また近年まで続いていた地区もあるだろう。それらを掘り起こしてみてはどうかということだ。
まずは引っかかったものから続々と。30くらい出揃ったところで、整理の方針をつけていきたい。

少しずつ。

†. 日野町菅福地区のホトホト行事について……鳥取県公文書館

†. 岩手県久慈市のホロロン……(wikipedia)

また、飯南町教育委員会に詳しい方がいると聞いたので、そちらの取材もいずれ。

◆備忘追記

トロヘイに今はなくて、かつてより明瞭にあったもの。そして東北のナマハゲ系、ことにその南端とされる福井のアッポッシャに見られる来訪者=鬼、被差別の民という系譜が今どこにあるのかということが問題となる。
それは、現代、まさにいま現在の「いじめ・差別」の構造をとらえておく必要がある。
まずは中井久夫の「いじめの政治学」を再読のこと。そこから現代の論考をみておくこと。

頓原で藁馬をつくる#1

10月28日。午後より頓原交流センターでトロヘイの藁馬づくりを教わる。講師は、現在、張戸地区の小正月行事・トロヘイにおいて、藁馬づくりを子どもたちに教えておられる方だ。最初に公民館長の石川さんから当該地区トロヘイの概要を教えていただく。”生徒”は私含めて3人ほどのプライベートレッスン的なもの。

正直最初は、つくるほうより聞くほうに専念しようかと思っていたくらいだが、やってみていろいろ思うところあった。藁をしつける上手い下手ってあきらかに才能だなあとか。私は下手。だからわかるのだ。たぶん自分が持っている空間認識の欠陥があって、ふつうの人ならふつうにできる藁細工のあることが決定的にできないのだと思われる。

挨拶をしてセンターの玄関を出る際に、これ(藁馬)いいよねえ。かわいいよねえとは女性2人の言。藁草履のほうが実用性もあるしいいじゃないかという趣旨のことを言ってみたら、どうせ使わないのだから、こっちがいいのだと返されたのには、そうなんだと蒙を啓かれた。

私はむしろ、わら草履をつくってみたいと今回思った。そんな時間ができることを願って。

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こちら(上写真)が、講師の先生のお手本。きれいだねえ。私のような初心者は、藁たたきをより入念にしっかりやって水分もしっかりもたせてやること。手がおそいので、やりすぎぐらいにやわらかくないとうまくできないものだ。繊維が切断されてはもともこうもないけど。

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こちらが。いつのものかはわからないけれど、親馬で現存するもの。親馬に袋を結びつけて、子馬といっしょに縁側に置く。親馬は餅やおやつの入った袋といっしょに持ち帰り、子馬はその家に残す。残された子馬は神棚に。かつては厩の棚におかれていたという。

今回、久しぶりにトロヘイの世界にふれて、やっておくべきことを再認識。石見についてもふりかえりつつ、知らなかった山口のそれともくらべてみたい。

日原のといとい

日原聞書のp367 に、といといのことが記されており、そこでは草履と餅を交換する儀礼としてある。要素としてこちら(日原)にないのは「水かけ」と「馬」である。以下に引く。

 といとい

といといの晩(一月一四日)になると子供たちはといといといって餅をもらって廻りました。学校ではあんなことをしてはいけんと先生から止められたが、一四日の日には遊びに行くと今日はといといじゃけえというて、餅を紙に包んでくれる家もありました。餅はどこの家にもありましたが、もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました。

「もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました」
日本の餅の本質として、食は共有する慣習が支配的な中、正月の餅だけは個のものであったという柳田国男以来の見立てを証するものがここにもある。
また、その日は遊びに行くだけでも餅をもらったということから、「子どもへの贈与」ということがといといの本質であるともいえよう。これだけではなんともいえないが。

 といといは子供や若い者がしましたが難儀なものは大人でもしました。伊勢十さァは婆さァと二人でおりましたが、とても藁仕事が上手で、草履も上手につくると「伊勢十さァの草履のような」と人がいいよりました。伊勢十さァはといといの日にはおいのこをもって心易い家を廻りました。そしてこれを姉さんにあげてつかあされえなどといって置きました。そうすると米の一升もあげよりました。薄原(畑から一里半)の方からも来て、草履を二、三足も配って廻りました。これにも米の一合も出してやりました。

…つづく

農書『家業考』〜年中勝手心得の事 からの示唆

木次図書館の郷土資料の棚に農文協の農書全集第9巻がある。「神門出雲楯縫郡反新田出情仕様書」や「農作自得集 」をおさめているからだろうか。あるいは広島県高田郡吉田町に豪農が記した「家業考」を、雲南市吉田町のものと勘違いしたということも考えられる。  なにはともあれ、ざっとではあるが、目を通してみるに、ほかの農書に比してもそうとうおもしろい。肥料としての焼土の利用が仕込みも含め年間通じてかなりのボリュームをしめているのも興味深い。焚き木にもならない小さな小枝を使うのだとか、田植の馳走に鯖を手配しているのだとか、ふるまわれるのがどぶろくではなく清酒であることだとか。郷土史編纂の折、偶然にも「発見」された丸屋甚七著とある農書。再読していねいに記しておきたいが、今日のところは4つをとりあげておく。

●正月一日の食事のことなど。

《正月一日。家来ぞふに(こぶ、ごほふ、大こん、ぶり)。中飯米のめしつけもの。夕はん米めし、平(ぶりのあら、大こん、いも、みそ汁、酒かんどく一つ。》

まず、一日が三食であることを記憶しておきたい。この書は明和年間(1764〜71)にしたためられたと推定されている。市中ではない、農村での食制である。ぶりのあらなんてものまであるのだから、おどろくことでもないのかもしれない。

昼食が「米の飯」に漬物。翻刻・解題の小都勇二は、米の飯が多いことに意外感をもたれているようだ。かぞえてみれば、三食とも米飯の日が年間14日、昼夜二食が4日、夜だけでも米の飯という日が14日。もっとも、この豪農家がとりわけ多かったのかもしれないわけで、しかし比較しうる資料もなかなかあるものではないだろう。

ふと、農家はもっと米の飯を食べていたという資料の読みを書いている有薗 正一郎の論考を思い出した。書棚の奥に引っ込んだままなので、また紐解いてみよう。検索をかけたら、「家業考」についての論文があった。 〈「家業考」にみる中国山地西部の水田耕作法の地域的性格〉愛知大学大学論叢72号1983年/愛知大学文学界(p.312〜291)  国会図書館のデジタルアーカイブにおさまっているようなので、折をみて図書館でみてみよう。

夕はんにある平とはおひらのこと。平椀のことだが、知らなかった。妻にきいてみれば、「おひら」のことでしょうと。お盆のときなどに供える膳にのる椀としてよく知られているだろうとのこと。口絵に写真があって、膳に四椀が並ぶ左上からお平、坪、飯碗、吸物椀となっている。

酒かんどく一つとは銚子に一本ということのようだ。
ほかに、牛にてんこ10、よき餅10とある。てんことはてんこもちのこと。小都氏の注釈には「くず米や小米、籾殻まじりの米をこねてつくる粗末な団子もち」とあるが、石見山間部では粟や黍など穀類などが主ではなかったか。これも事典類をひいたところでは、広島・島根など中国地方に多い方言のようだ。「てんこ」の語彙を知りたい。

●とろへいのこと

《正月十四日。よなべさせぬこと。とろへいハそうべつてもち壱つツゝ、尤此谷のこどもちさきいわひ一つツゝ》
とろへいが明和年間にはあったということがここから知れる。大正時代前後に編纂された郡史には、とろへいを乞食として扱っていたのではと思い起こしてみるがよくわからん。要確認のこと。
よなべをさせないのは、15日からみやげをもたせて家に帰させるからということもある。

●年越と年取りは違う!?
これが主題といっていいのだが、よくわからない。原文をあげておきながら宿題とする。

《としごへのばんニハよなべなし。としとりのばんニハなをさらよなべハなし。まやいあらば木こり、木わり、わらしごとハ時の考ニてさしてよし》

作業仮説としては、年越の晩が大晦日、年取りの晩が元日の夜であろうか。大晦日であっても暇があれば仕事をさせてもよいと追記しているので、年越しの夜からが休業という意味合いもあるのかもしらん。  家業考では休日のことを「あそび日」としている。

《正月三ケ日ハ朝より家来下女ともあそぶ。其外の年中のあそび日ハ朝飯迄しごとして朝飯よりあそばしてよし。》

年越しについては、国史大辞典における田中宣一の文をあげておく。

年越(としこし) 新年を迎えようとする夜の時間、およびその間の行事。一般に年越といえば大晦日の夜を指すが、立春七日正月小正月を控えた夜をも年越ということがある。古い考えでは日没時を一日の境としていたとされるが、この場合、夜は前夜ではなく、もう朝に続く一日のはじまりとみなされていたのである。したがって、新年を控えた年越という夜は、年の最後の時ではなく、新年に含まれる時間であった。一方、神霊の出現は夜とされ、祭は夜に開始されるのが普通である。だから年越にはすでに正月の神が訪れてきているのであり、この神を祭るいろいろな行事が執り行われるのである。大晦日夕方までには正月飾りを完了し、そのあとハレの着物に着替えて、一家揃って年神棚の前でハレの食事をいただく地方があった。このハレの食事をオセチ料理という所もあるが、一般化した年越そばもこの一種かと思われる。また、この夜は囲炉裏で浄かな大火を焚きながら起き明かすべきだと考えられており、もし早く寝ると皺がよるとか白髪になると信じられ、その上「寝る」という言葉さえ忌んで、代りに「稲を積む」といっていた所は多い。これらは来臨した年神に一夜侍坐していることを意味し、夜が明けると神への供饌を下ろして神人共食するのが、雑煮を祝うことのもともとの意味であったとされる。節分・六日年越・十四日年越の場合にも、同じく神の来臨を想定して各種の行事が行われ、明けて七草粥や小豆粥が祝われるのである。》

夜が一日のはじまりというのは世界共通の「原始」認識であることは、学的には定説といっていいだろうが、ひろく常識とはならない。クリスマス・イブについてもそうであるように、前夜祭という意識・観念を払拭するには至らない。
この認識・感覚のズレは、掘り下げてみるとおもしろいものが出てきそうだ。
あぁ、そして思いついたことを最後に。
神人共食がセチの料理であり、年越しの料理であるのに対して、雑煮は異なる。
それはプレゼント。贈与なのである。年玉がそうであるように。 年取りカブは、神が食したものの下賜なのであり、と同時に身分の違うものが同じものを食するというそういう世界を顕現させるものとして、もちとは異なる何かなのだ、と、まずは想定して、進んでみよう。

◆追記注1―はじまりとおわりの感覚
 はじまりがあっておわりがあること。私たちはそれを当たり前のこととして、常識として、生きている。別な言い方をすれば、1日にはじまりがあることを疑うことはないし、はじまりとはなにか、一日とはなにかということを、「考える」「吟味する」ことはない。が、少しだけ、ほんの少しだけでも、疑いをはさむことはじつに容易であることにむしろ驚く。感覚的には、一日にしろ一月にしろ一年にしろ、そこにはじまりもなければおわりがないというのが、「感覚」がひとりひとりに示すことだからだ。そう、はじまりもおわりも、きわめて言語に依存した概念・観念なのだ。
 さらにすすめていえば、単位、区切りというもの自体がそうだ。一個二個という単位は同じものがふたつ以上存在することが条件となるが、二進法があればロゴスが生まれのとは異なるレベルで、数には秘められたロゴスが宿ると信じられてきた。
日本における六曜が数百年にわたって、「迷信だからよせ」「禁止する」などの弾圧をものともせず、生き延びているこの強さとはなんなのかということについて、それは「数」がつねにたちあがりつづける契機として機能しているからだと仮説づけてみよう。ここから、はじまりとおわりの「感覚」がなんなのかが見えてくるはずだ。

ホトホトと餅とダイシコの関係

宮本常一が山口県玖珂郡高根村向峠での調査記録を著作集23に残している。●申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ  この続きを今回。
複写したところをふと読み返し、はたと膝を打ったので、思いつきではあるが、記しておくものである。向峠はムカタオと読む。昭和5年時の地図を下に。宮本がこの地、向峠を訪れたのは昭和14年のことであり、ほぼ当時の地理を伝えていると思う。

深谷川の深い谷の上にある様がわかると思うが、写真だとさらに明確。国土地理院のウェブサイトにある1947/09/19(昭22)米軍撮影空中写真の向峠周辺を下におく。まるで谷と山に囲まれた島のように見える。実際、谷底以上に弧立した村であったのではないかと想像する。まとまった平地はあるものの、モノと人とが行き交う道からははずれやすいのではないか。

それだけに、古いものを残していたではないかと想像する。
さて、向峠の「年齢集団と行事」としてまとめられた項のひとつトロヘエ。宮本はこう記している。

トロヘエ 正月十五日の夜、若者達は藁草履を作り、また藁で馬を作り、あるいは竹で茶柄杓などを作って手拭で顔をかくし、家に投げ込んで歩いた。するとその家では餅をくれた。そういうとき「若い衆が来た時にはかまうてやれ」といい水をかけたり、餅をもらうために家の中へ手をさし入れるとかくれていてその手をつかみ、顔を見ようとしたりした。ずるいのになると馬や草鞋に縄をつけて投げ込んでおいて、かえる時にはまたひいてかえるものもあった。  またしみったれた家や村で人気の悪い家へは報復した。たとえばちょうど入口のところへ肥をタゴに汲んでおいたなどという話が残っている。村を一まわりすると適当な家へ集って焼いて食べた。若連中ばかりでなく、ごく貧乏なものは袋をさげて昼やって来た。入口でトロトロというと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。  若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分来たもので、深須村のある女の如きは大正年代までやって来たという。》

以下、5つのポイントをあげつつ、のちほど追記することを前提としたメモであることを断りつつ記す。
トロヘンが来訪神の系譜をもちながら、ナマハゲと違うところは、ふたつの欠如だ。
・そこに「神」はいない。だれも神も鬼も信じていない……かのように見える。しかし、神を持ち出すことで、このパフォーマンスが成り立っている。
・恐怖の出現はそこにはない。恐怖の不在。
ごく貧乏なものは袋をさげて昼やって来た。そこには儀礼はないようでいて、入口で訪問者は「トロトロという」ことで、家のものが餅をやるという。
貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履をもって歩いた。
・これは他の地域での事例を知らない。どういうことなのか。ここで記された老人仲間とはなにか。大変重要なことだと思うのだが、、、。家を訪れるのは、3者である。共通するものは家人が餅を与えるということだ。
来訪する3者がやめた時期は次の順序である
・若連中は明治28年頃にやめた
・貧しい仲間(老人仲間? 若連中のなかで貧しいもの?)は明治35年頃
・深須村のある女は大正年代まできていた→他村からもきていたというということである。うむう。
餅は神に供えるものであると同時に神からの贈り物であると考えたときにこの事象をどうとらえるか。すなわち何と何が交換されるのか。
・若者連中が贈るものは「藁草履」「藁馬」「茶柄杓」。ほかでは聞かない茶柄杓とはなにか。
・老人仲間が贈るものは「藁草履」
・貧しいものは何も贈らない。 ダイシコについては、のちほど加筆するが、柳田國男の引用だけしておく 物忌と精進より

《神巡遊の信仰の今日年中行事になっているものは、旧11月23日を中心としたいわゆる御大師講であるが、この解説には仏法が干与して…………(中略)…土地によって少しずつ話はちがうが、大師の足跡隠しといってこの日は必ずゆきが降るといい、または二股大根を女が洗っている処へ来て、半分貰って食べたという類のおかしい言い伝えばかりが多い。…………(中略)…その結論だけを言ってみると、ダイシは上代に入ってきた漢語で、大子(おおいこ)すなわち神の長子の意かと思われる。大昔以来の民間の信仰では、冬と春との境に特に我々の間を巡ってあるきたまう神があって、それは天つ神の大子であるという信仰があったらしいのである。…………(中略)…日本では二十三夜待ちという信仰がど、どうやらこれと関係があるらしい》

先日、阿井で聞いた「タイシコ」の日は餅をついて食べるのだという。年末であるが、年取りの餅とは違うというのだ。旧暦11月23日のタイシコが、新暦導入のなかで、年末に固定したものではないだろうかと推するが、どうなのだろう。
→つづきは以下 ・「雲南地域におけるダイシコ(大師講)の断片」

◆追記 向峠は街道筋にあたった?
向峠が孤立した村落だなんてとんでもなかった、の、かもしれない。番所を通る道筋にあたっていたようなのだ。野田泉光院の「日本九峰修行日記第2巻」。文化11年に岩国から錦町、そしてこの向峠のそばを通った記録がある。石川英輔は『泉光院江戸旅日記』で、こう記している(釈している)。
《十四日、栗栖村を発って安芸と長門(長州・山口県北西部)の境界になる峠(生山峠)を超えて大原(山口県玖珂郡錦町大原)へ出、さらにもう一つの峠(向峠)を登ると、長州と石見国津和野領の境杭があった。少し下ると番所があったが、手形を出す必要はなかった。田原村(島根県鹿足郡六日市町田野原)泊。》
原著ではどうなっているか。
《十四日、晴天。朝辰の刻栗栖村出立。当村より二里の大峠を越え、又一里の峠を越し大原村と云うに下る、又山へ上がれば此所に石州津和野領境杭あり、下に番所あり、手形出すに及ばす津和野領田原村源治と云う宅へ宿す。》
問題は、距離、時間、そして峠の上り下り。地図をひろげつつ、泉光院の足取りを確かめてみたい。原著と地図をみると、向峠を通っていないのようにもとれる。つまり石川が誤っているということ。峠という文字にひっかかったのだろうか? あれ? ムカタオは峠ではなかったか?  大原→宇佐→田野原という道であれば、向峠は通らない。  長州から津和野に入るルートはどうなっていたのか。番所があるくらいだから、古地図を確かめるのが早いのでは、とも思う。 ちょっとあたってみよう。
(つづく)

◆追記2 野田泉光院は向峠を通らず星坂村を通った
古地図をみた。街道は日本輿地路程全図 をみるに、大原から星坂を通るようだ。星坂の文字があるのは意外だったので、角川歴史地名大辞典を参照したところ、あっさり結論がでた。表題の通りである。

《江堂の峠に周防国との境界石がたてられたが、現在は田野原の柏谷に移建されている。津和野藩より萩藩に通じる長崎街道(廿日市街道)筋で、藩主亀井氏の参勤交代の通路にあたるため慶長年間に番所が設けられ、士卒数人が常駐していた》

そう、向峠はやはり孤立した集落であったのだ。

頓原張戸のトロヘイ

来訪神がちょっとしたブームかもしれません。日本でもっとも知られているのは秋田のナマハゲですが、近年、子供への虐待なのでやめてほしいという苦情・訴えによって存続があやぶまれているとか。一方でナマハゲ含め日本の来訪神行事をユネスコの人類無形文化遺産へ「登録すべく」申請中でもあるとか。

文化庁が申請中の「来訪神:仮面・仮装の神々」にあげられているのは、以下のものです。

・甑島(こしきじま)のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)
・男鹿(おが)のナマハゲ(秋田県男鹿市)
・能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)
・宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)
・遊佐(ゆざ)の小正月行事(アマハゲ)(山形県遊佐町)
・米川(よねかわ)の水かぶり(宮城県登米市)…宮城県登米市「米川の水かぶり」小考 | 文化遺産の世界
・見島(みしま)のカセドリ(佐賀県佐賀市)
・吉浜(よしはま)のスネカ(岩手県大船渡市)

のちほど、動画のリンクなどはっておきましょうぞ。

さて、トロヘイです。昨日1月7日に頓原張戸でやると聞いたので見学してきました。知る限り、県内で現存しているのは、頓原地区のみです。かつて、島根県内では、現在の雲南市、奥出雲町、飯南町、安来市、旧簸川郡、美郷町、浜田市など、ひろく行われていたものです。まとまった記録をみたことがありませんが、金城の西中国山地民具を守る会で、1988年に《古老による「トロヘイ」の復元、記録作成 (1988年2月)》を実践されています。
あるいは映像記録が一部でも残っているやもしれません。(以前「実践民俗学」の記録について隅田氏に聞いたところでは、大半が残っていないと聞きました)。
奥出雲町阿井では大正時代に風紀紊乱を理由に禁止されたトロヘイ。日本国語大辞典では簡潔にこう定義しています。《小正月に村の青年などが変装して家々を訪れ、銭や餠(もち)をもらって歩く行事を、広島県あたりでいう。》  ………
えー、のちほど加筆するとして、今日のところは写真をアップしておしまいにします。眠いのですまん。  ここでも何度かなくなり復活しを繰り返されているようです。現在は頓原の公民館活動のひとつですが、最大の理由は子供の数が少なくなってしまったから。今年の張戸地区の子供(小学生までか)は5人。

馬と水の組み合わせにいたく刺激され、帰路、いろいろと妄想いたしました。 大正2年刊の『高田郡誌』では年中行事の2月の項にあらわれている。

《前高田諸村は陰暦十三日、後高田、奥高田は十四日、トノヘイ又はトロヘイ、トトラヘイ、鳥追幣杯と稱し貧家の少年或いは奴僕等郡をなして来り、大家の門前に喧騒し、牛馬の索沓等を献ず、餅又は米銭を與えて去らしむ、古来此日には人の門に立つを恥とせざる風俗と云う、其何故たるを知らず、或は戦国武士の流落身を寄するなき者の為に貧民食を請うの遺風にて、殿への意にはあらずやと云ふ、未だ其証を得ず近年此風殆んど廃す。》

乞食原理の風に重きをおいた記載です。風紀紊乱を理由として禁止される向きにはこの風が著しくあらわれた時代においてでしょう。ただ、乞食原理というも、もとをたどれば神の訪れと軌をならべることもあり、なかなかに事情は複雑です。  柳田国男は『食物と心臓』のなかでこう記しています。

《小正月の前の宵に家々の門をたたいて、餅をもらいあるく行事は全国的で、地方によってカパカパ・チャセゴ・カセギドリ・カサトリ・ホトホト・トベトベなど、十数種の異名のあることはすでに知られているが、これにも家々の幸福を主として祝うものと、訪問者自身の必要のためにするものとがあって、その堺は犬牙交錯している。岡山県北部のコトコトは厄年の男女の心願であったといい、四国の大部分から中国へかけての粥釣りなども、名の起こりはまたこの七軒乞食であったらしいのである》