トロヘイ・ホトホトの現在を追う#1

頓原交流センターでトロヘイの藁馬をつくりながら聞いた話で、山口県地福との交流があるとのこと。頓原の子たちが地福へ行ったり、地福の子たちが頓原に来たりしているのだとか。山口地方で盛んであったことは柳田国男も書いていた(要確認)。なかでも地福は今でもトロヘイ儀礼(地福のトイトイ)を保持しており、国の重要無形民俗文化財指定を受けている。
頓原も申請すれば指定はおりるのだという。が、検討はしているものの「めんどうだ」と。誤解なきよう添えれば、その良否が複雑である意をもたせた言であろうし、私は指定なしでもいいではと思う。大事なのは国のお墨付きを得ることではないし、この来訪神儀礼は外に向いたものではないのだから。指定を受けようとすれば、あるいは受ければ、説明と報告をしなければならない。そういうものではないのだと私は考える。この儀礼については。

さて、本題。

現在、中国地方で確認できるトロヘイと類縁儀礼の現存地区は、広島県口羽、山口県地福、鳥取県日野町菅福(すげふく)の4箇所。これ以外にもあるかもしれず、また近年まで続いていた地区もあるだろう。それらを掘り起こしてみてはどうかということだ。
まずは引っかかったものから続々と。30くらい出揃ったところで、整理の方針をつけていきたい。

少しずつ。

†. 日野町菅福地区のホトホト行事について……鳥取県公文書館

†. 岩手県久慈市のホロロン……(wikipedia)

また、飯南町教育委員会に詳しい方がいると聞いたので、そちらの取材もいずれ。

◆備忘追記。
トロヘイに今はなくて、かつてより明瞭にあったもの。そして東北のナマハゲ系、ことにその南端とされる福井のアッポッシャに見られる来訪者=鬼、被差別の民という系譜が今どこにあるのかということが問題となる。
それは、現代、まさにいま現在の「いじめ・差別」の構造をとらえておく必要がある。
まずは中井久夫の「いじめの政治学」を再読のこと。そこから現代の論考をみておくこと。

頓原でトロヘイをつくる#2

頓原交流センターにて、小正月行事トロヘイの藁馬をつくる機会を得たことは、前回少し述べた通り。その時、講師の方から昔はどういうつくりをしていたのかはわからないと。
はてどこかに…あったよう……な、で、あった。勝部正郊の撮影したものを酒井董美が『中国の歳時習俗』(1976,明玄書房)中、島根編のなかに入れたもの。細部は微妙に違うけど、現存する一番古い親馬のつくりに近いのかなと思う。

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ついでに同書にある鳥取県智頭町の記録写真をのせる。
記録用に撮影されたものなのだろうか。お行儀のよさはさておき、蓑笠が浮いて見えるのは、この時点ですでにその装束の意味が薄れ消えていく過程にあることを物語っているようだ。近年、少なくとも2000年代に入ってからの記録をみると、みな雨具を身につけている。蓑笠がかけられる水をよける用としてしかとらえられなくなっていたからだろう。
だがしかし、少なくとも縁側に座している老人の記憶には、蓑笠がまとい続けてきた、人々に与えてきた心象が、残存していたのではないか。そんな空想をめぐらせてくれる一枚の写真である。すなわち、異人・法外者・富・死であると同時に、超越的権能・正義・抵抗者・生を表象した存在。まあ複雑、複雑なんだけれど、「おそれ」がそこにあったことは確か。そう、いくつかの地誌に散見される「こわいものだった」という記録は傍証たりえるやいなや。

次に、少し変わった事例をふたつ。

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岡山県勝田郡奈義町……トロヘンと同じ日に、子どもたちが「今日は嫁さんの尻叩き」といいながら、正月のゴミを集め丸めて縄でくくり、新嫁さんの尻を叩いてまわり、子どもたちはそこで餅をもらう。そうして叩かれると強い子どもを産む。同系のものは梶並にもあり、こちらは多産ということと、小さな鏡餅をもらうのだという。※上掲書より

木次の村方・斐伊……若者が頬被りをして藁馬を「ほとほと」と唱えながら門口の戸をあけて投げ込む。楽しみに用意していた餅や祝儀を馬についた袋に入れる。隠れていた若者は綱をたぐって馬を引き出す。家人は桶か柄杓で水をかける。その家は一年、菜の虫がわかない。餅を牛に喰わせると牛が繁盛する。藁馬は荒神におさめる。古くはトシジイサン(歳神?)に扮した若者が白髪の老神の面をつけ、子どものいる家を訪れ、餅やお年玉を与えたもの。(木次町誌,1972)

1970年代に編まれた史誌記載の民俗は明治40年代から大正年間にあったものが多く、明治30年より前の姿が伺いしれるものは少ない。参考に現山口県錦町向峠のトロヘエについて下記をあげる。若者がやめたのは明治27、28年とあるが、中国山地のほかでもほぼ同時期にやめているところが多いように推察される。明治32年、養蚕の飼育法が安定し、全国くまなく盛んになり、入会地や山畑が桑畑に転換され、日本が世界最大の生糸輸出国になる。また、農村から都市へ若者が出ていくのもこの頃である。
《入口でトロトロというと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分来たもので、深須村のある女の如きは大正年代までやって来たという。》
しかし、それでもこの時代には、申年の飢饉の記憶が家々で語られていたことを想い起こしておくべし。

トロヘイの消失は農村から若者が都市へ出ていくことと軌を同じくして進行した事態である以上、その再生復活は民俗行事の保全にとどまらず、農村の再生への足がかりなのだ。だからこそ、ひろくおおくの地域で記録にも残らない復活と頓挫が繰り返されてきたのだろう。

頓原で藁馬をつくる#1

10月28日。午後より頓原交流センターでトロヘイの藁馬づくりを教わる。講師は、現在、張戸地区の小正月行事・トロヘイにおいて、藁馬づくりを子どもたちに教えておられる方だ。最初に公民館長の石川さんから当該地区トロヘイの概要を教えていただく。”生徒”は私含めて3人ほどのプライベートレッスン的なもの。

正直最初は、つくるほうより聞くほうに専念しようかと思っていたくらいだが、やってみていろいろ思うところあった。藁をしつける上手い下手ってあきらかに才能だなあとか。私は下手。だからわかるのだ。たぶん自分が持っている空間認識の欠陥があって、ふつうの人ならふつうにできる藁細工のあることが決定的にできないのだと思われる。

挨拶をしてセンターの玄関を出る際に、これ(藁馬)いいよねえ。かわいいよねえとは女性2人の言。藁草履のほうが実用性もあるしいいじゃないかという趣旨のことを言ってみたら、どうせ使わないのだから、こっちがいいのだと返されたのには、そうなんだと蒙を啓かれた。

私はむしろ、わら草履をつくってみたいと今回思った。そんな時間ができることを願って。

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こちら(上写真)が、講師の先生のお手本。きれいだねえ。私のような初心者は、藁たたきをより入念にしっかりやって水分もしっかりもたせてやること。手がおそいので、やりすぎぐらいにやわらかくないとうまくできないものだ。繊維が切断されてはもともこうもないけど。

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こちらが。いつのものかはわからないけれど、親馬で現存するもの。親馬に袋を結びつけて、子馬といっしょに縁側に置く。親馬は餅やおやつの入った袋といっしょに持ち帰り、子馬はその家に残す。残された子馬は神棚に。かつては厩の棚におかれていたという。

今回、久しぶりにトロヘイの世界にふれて、やっておくべきことを再認識。石見についてもふりかえりつつ、知らなかった山口のそれともくらべてみたい。

日原のといとい

日原聞書のp367 に、といといのことが記されており、そこでは草履と餅を交換する儀礼としてある。要素としてこちら(日原)にないのは「水かけ」と「馬」である。以下に引く。

 といとい

といといの晩(一月一四日)になると子供たちはといといといって餅をもらって廻りました。学校ではあんなことをしてはいけんと先生から止められたが、一四日の日には遊びに行くと今日はといといじゃけえというて、餅を紙に包んでくれる家もありました。餅はどこの家にもありましたが、もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました。

「もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました」
日本の餅の本質として、食は共有する慣習が支配的な中、正月の餅だけは個のものであったという柳田国男以来の見立てを証するものがここにもある。
また、その日は遊びに行くだけでも餅をもらったということから、「子どもへの贈与」ということがといといの本質であるともいえよう。これだけではなんともいえないが。

 といといは子供や若い者がしましたが難儀なものは大人でもしました。伊勢十さァは婆さァと二人でおりましたが、とても藁仕事が上手で、草履も上手につくると「伊勢十さァの草履のような」と人がいいよりました。伊勢十さァはといといの日にはおいのこをもって心易い家を廻りました。そしてこれを姉さんにあげてつかあされえなどといって置きました。そうすると米の一升もあげよりました。薄原(畑から一里半)の方からも来て、草履を二、三足も配って廻りました。これにも米の一合も出してやりました。

…つづく

昭和26年12月25日、木次のクリスマス

 木次に引越してきて何回目かの年越しと、クリスマスがやってくる。今年も持越しの宿題を棚にあげつつ、手がかりくらいはつかんでおきたいと思う。つかみたいのは、かれこれ75年前のこと、昭和26年の木次のクリスマス、そして年取りとカブについてである。
 昭和26年、1951年の12月の歴史的事件。クリスマスを前に、フランスの地方都市ディジョンで、サンタクロースが火炙りの刑に処せられた。C.レヴィストロースの『サンタクロースの秘密』に詳細がある。問題は同じ日に、日本の木次では市長がサンタクロースの衣装と子どもたちへのプレゼントを用意していたこと。C.レヴィストロースの著書を読めばわかるように、ディジョンと木次は、つながっている。そんなこんなを考えながら、年の瀬をなんとか乗り切りたい。


*写真は昭和27年2月刊?の広報きすき(だったかな)。つながり?と首をかしげる方へ。その深淵の入口は、なぜ、ディジョンでも木次でも市長(町長)のサンタなのか、というところでどうでしょう。あるいはマーシャルプラン、サンフランシスコ講和条約ディジョンの事件では、市長が”復活”したサンタクロースとなってプレゼントを配るのだという新聞記事で論争が終焉したかのようだ。サンフランシスコ講話条約は昭和26年9月8日に締結。もはや知らない人も多いのではないか。が、小さな町でもこの年の話題はこれが筆頭であったのだ。縮刷ではなく、できれば当時の紙で、それを味わってみたいと思うがどこかにあるのだろうか。
占領統治すなわち戦争状態が終わり、日本は主権を回復した。その年の年越しはいかなものであったのだろう。と同時に、市長サンタの政治と子どもたちの夢とみなそれぞれの不安と希望と、なんともいえない渦を感じないだろうか、みなさん。

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予祝とは願いではなく感謝である

すべてはうまくいっている。なんの問題もない。満ち足りた日々。

このような気持ちになることが、予祝というものの本質なのだと、ここ数日で思うようになった。めでたいことなのだ。だから、新年は「おめでとう」なのだ。

新しさ、門出、そうしたものへのめでたさ、あるいは祈りや願いではない。

通説とはまったく異なる解釈であるが、そうなのだ。民俗学では俗信的呪術という言い方をすることが多い予祝。正月に、秋の豊作を模擬的に実演するなど、農耕儀礼としてみられるものが多い。

死んだらどうなるの?#3

西宮一民『上代祭祀と言語』1990,桜楓社を手がかりに。
わたしたちの霊魂に対する考えは、大きな隔たりをお互いに持たない。だからこその「死んだらどうなるの?」なのだ。わたしたちとは、日本人といってもいいのだろうが、なんだろうそう言ってしまっては駄目、というよりは違う気がしてならない。わたしたちという言い方にとどめ、そこから先、何も付け足さない理由、あるいは言い訳である。

西宮が霊魂の定義づけに、現代の通念と違和なく受け取れるものとして第一にあげる『古事類苑』は明治から大正にかけて刊行されたものであるから、宜なるかなと言えるのだが、だからこそ、西欧の生命霊魂感を受けつつのものではなかろうか。

なんとなれば、件の霊魂の義については、「生命」の項にあるのだから。

《生命ハ、邦語之ヲイノチト云ヒ、霊魂ハ、タマ又はタマシヒと云フ、霊魂ハ不滅と信ゼラレ、其人体ニ存在スル間ヲ生ト云ヒ、其出離シタル後ヲ死ト云フ、因テ又霊魂ニ、生霊、死霊ノ別アリ、上古ハ霊魂ヲ分チテ和魂、荒魂、幸魂、希魂ノ四種ト為シ、其人体ヲ遊離センコトヲ恐レテ、為ニ鎮魂、招魂等の法ヲ修セシコトアリ》

(つづく)

三沢の要害山山頂における大仙権現

大正8年刊行の仁多郡誌に要害山について記載があります。
ひと月ほど前のこと、三沢のMさん宅でお話を伺っていた折のこと。このあたりは牛馬信仰は縄久利さんで、ダイセンさんじゃないよという流れの中で、「確か要害山にダイセンさんがありますよね」と質問したところ、「? 聞いたことないけどね〜」という反応でした。

三沢ではほかにKさんに聞いただけですが、縄久利さんの祭りはあるが、ダイセンさんもあるということで、その場所も教えてもらい、確認したこともあります。が、要害山にあったという記録を見た記憶があり、確かめてみたところ、仁多郡誌にあったというわけです。あとで、原文を引用しておこうと思いますが、図面と記述があり、石像があると記されています。

ところが、です。Mさんもおっしゃっておられたように、私も記憶にありません。何度か山頂にはあがり、そこにあるものは写真におさめたりしているのですが、記憶にも写真の記録にも、ないのです。

山城祭のときにでも、現地を確認してみようとは思うのですが、もしないのだとしたら、誰が、なぜ、それを移したのか。そして移したものはいまどこにあるのか、ということ。

少なくとも大正年間にはそこにあったのですから。また、ここで行われていた祭祀、すなわちダイセンさん=山あがりがどのようなものであったのかということ。

そして、山頂にある「古井」の由来についても、単に放牧してあった牛が落ちたから埋めたのではない可能性がでてくるのではないか。山あがりの祭祀のときに、牛を連れてあがるということは、平成の今でも昔の思い出としてお年寄りから聞くことができます。その牛が落ちたのか、あるいはもともと井戸などなく、牛が落ちて死んだための塚としてあったものではないのか。
このような山頂に井戸がある意味として、山城跡であったためだと合点しがちであるが、山城の山頂部分には井戸があるものなのか、どうか。

ほか確かめたいことは多々あるが、まずはとりかかりの緒として、備忘に記すものです。

 

粗々〜カブとクマゴの時間

標題の件、図書館での資料渉猟の折、メモすらしていないことをも含めて、まず書き残しつつ後ほどの整理に委ねる。
◆島根県出雲地方においては近世以降、水田を有しない耕作地帯はきわめて稀である(この件、要精査)。畑作なり漁撈なり、その比重の軽重こそあれ、水田稲作を基軸とした農耕文化がこの地域の特徴である、ように見える。が、しかし、である。大局的にはそう見えたとしても、個々の集落、ひとつひとつの儀礼、年中行事、それらを丁寧にみていくと、稲の儀礼にみえて、その基底に畑作があるのではないかとうかがわせたりするものがある(白石昭臣の論考との差異など補足)
◆地カブを供物とした儀礼がそうである。年取りカブ(正月カブ)と呼ばれる地カブは、文字通り、大晦日には欠かせぬものとされ、歳神さんを迎えるトシトコの飾りにはジンバソウなどと並んでこのカブをぶら下げる。また、この年取りカブは稲こぎにも米とならんで主役となる。
すなわち、稲こぎが終わったのちに、千歯こぎなど道具にお供えをするのだが、その供物とはカブと精米した米である。カブを一升枡に逆さに(尻が上に)おき、枡にはこぎおわった稲籾を精米した白米をなみなみと満たす。これを供えるものだ。
なぜカブなのか。なぜ米とカブなのか。
◆現在、森と畑と牛と、島根大学里山管理研究会が中心となって行っている「竹の焼畑」のフィールドは、旧奥出雲町の山方地区にあたるが、その山方と斐伊川をはさんでの隣地である林原、そして岩伏山をはさんだ向かいにあたる下布施地区は、かつての畑作優先地帯であり、焼畑をふくめた畑作文化がかつて濃厚にあった土地だった。尾原ダム建設(2011年:平成23年竣工)による集落移転によって、現在は無住地帯である。
◆白石昭臣は何度か調査に訪れ、その断片が論文・資料には残されている。白石の集大成的遺作ともいえる『農耕文化の民俗学的研究』岩田書院、集落移転を契機とした民俗調査報告書、島根県教育委員会, 1996『尾原の民俗 : 尾原ダム民俗文化財調査報告書』。  とりわけ「年取りカブ」に関するものとしては、前者のp.328にある一文は、後者より微妙に詳しい。ご本人にうかがえないことがくやまれる。

《〔事例11〕島根県仁多郡仁多町・大原郡木次町下布施一帯の山村では、大日に「トシトリのカミさん」と称して、ヒゲ(根)のついた地カブ(蕪)と二叉大根を、オモテの床の間の年棚に上方から吊す。これに大根ナマス、カブの味噌汁、ソバを供える。》

先の山方地域について2,3、気になることを記しておく。

ダム建設の残土置き場となったため、山中に点在していたものをここに合祀したときく。 伝承にも山の信仰の色がこい。※1
タイシコの雪隠し。馬にのってやってくる毘沙門天。尼寺の跡(姥石とも)。などなど。

ヌルデのこと
春といえば、美保神社(美保関)の青柴垣神事。 春は生命が芽吹くはじまりの季節。
◆青柴垣神事ではトコロイモ・里芋が重要な供物……4月1日には海でトコロイモ(野老)を洗うという神事あり。いまでは他の地方からもってこられるらしいですが、かつては山の畑でつくられていました。そう、焼畑で里芋をつくっていたエリアなのです。海の色彩とともに山の神信仰の色が濃い。
◆山村塾が焼畑をしている土地(旧仁多町山方)では、かつて関講があり、御札と稲魂のやどった種籾を美保神社に詣でて受け、各家々で札は水口に祭り、種籾は用意した種籾とまぜて苗をつくったものです。
◆そして、神事に用いられる負棒。かつては「もり木」であったと。もり木は消失した民俗儀礼に多出します。花嫁を背負う木でもあり婚姻時に用いたのち大事に保管し、その嫁が死する時にともに弔うあるいは骨を拾うときに使う箸にするなど。これはおそらくアイヌの神送りにまで連なるものですが、焼畑実践者であれば、おなじみ、ヌルデの木が材として使われます。椎葉でも、そして先に焼畑フォーラムが開催された井川でもありました。焼畑のあと、最初にはえてくる木、それがヌルデです。奥出雲の佐白でもそうであることは、焼畑地の草刈り参加者にはおなじみでしょう。
◆海とヌルデの関係は「塩」ということからも ヌルデといえば、椎葉のクニ子おばばとこんな話をしたのを思い出します。 クニ子「山にはなんでもあるから」 私「あ、でも、塩はないでしょう」 クニ子「ヌルデの実があるわね。塩の代わりになる」 ヌルデの実が白い粉をふいているのをなめると塩辛いです。粉はリンゴ酸カルシウム。塩(塩化ナトリウム)とは違うのだけれど、昔から山での塩分補給になっていました。
◆なぜ、ヌルデの木なのでしょう。生命の根源にある塩をふき、焼畑で最初に芽生える森の先導者。小正月では占いの木でもあり、魔除けの木でもある。 そう、焼畑の民にとってヌルデとは死と再生に深くかかわる木なのです。

クマゴのこと
◆クマゴの記載のみられる町史等をみるに、こらまで島根県内で確認できたのは次のもの。広島県北部をまだあたっていない。三好市の図書館にいけばある程度そろうだろうか。 赤来町史 勝部正郊氏が取材執筆されており、聞き取りの要約であっても信頼がおける。 そのままひく

《さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。  主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。》

大和村誌 p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物) (江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。 羽須美村誌(下) p494

《第五項 くまご(こあわ) 麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。  麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である。(中略)反収二石も獲れれば上作である。  この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。  昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、たべ易く味も悪くはなかったが一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。》

ここで特筆すべきことはいくつかあるが、なんといってもくまごを「こあわ」としていること。
桜江町誌、旭町史にクマゴの記載はなし
どちらも食生活の項目に雑穀の記載はあって、その比重の大小は地域内の差はあれど、それなりに大きい。桜江町については粟食も濃厚でウルチ粟の飯を食していた記録もあるが、その粟をクマゴとは呼んでいない。旧石見町も山間部はそうであろうから(未確認)、クマゴの境界はちょうど瑞穂町のあたりとなろうか。
おそらくもっとも近年までくまごを食していたと思われる都賀行をあわせてみると、地カブをよく食していた地域と重なるのではなかろうか。
さらに西の地域を資料の渉猟と、森神、大元神、地神の残存、祖霊信仰とあわせて探っていきたい。
◆クマゴ、地カブについて大浦周辺で聞いてみるも、年寄りはみんなおらんようになった。とのこと。ただ、地カブと思しきカブはそこここに点在している。

 

※1…山中に点在していたのではなく、尾白峠周辺にあったものだろう。写真右に草に隠れて見えない石仏がある。双体の才ノ神で、『尾原の民俗』など参照。2022/02/06追記

戸河内町史・民俗編にみる小正月の訪問者

 なかなか見つからないものを探すときには、ほかの気になるものをひろい集めたりするものだ。ちがうだろうか。良し悪しを問う前に、もうこれは癖のようなものだから、なるようにやるしかないのだが。開き直りつつも、これでいいのかという迷いもあるということで本題。

 頭がパンク寸前にいろんなものが渦をまいているので、忘れぬように、あちこちに記しているもののひとつとして。

 横田の図書館に、戸河内町史や東郷町史など隣接する広島の誌史があり、3分だけ見るならどれだろうと数秒迷った末、戸河内町史・民俗編を手にとった。だだっとななめ読んだらば、なんとも興味深いページが。年中行事の小正月の項だ。

 ひとつ。小正月の訪問者=来訪者は、満月の夜にやってくるということ。

《正月の14日か15日の夜のことだが、最初の満月の夜に、顔を隠し箕を着たりして家々を訪ねる、いわゆる小正月の訪問者がある》

 これまでうかつにもこのことを考えて見なかった。そう、小正月は満月の夜でなければならないのだ。旧暦の15日は満月。この意味するところによくよく気をつけて、これからみていこう。

 ふたつ。地域によって截然と、やるところとやらないところがあるということ。これは地図をみながら再確認。

《小板には「とろへい」があった。猪山では「とのへい」、本郷、上殿などでは「とろとろ」といっている》

 声は「とろへい、とろへい」とかけていたようだが、「とろとろ」もあっただろうと思われる。そして、問題はその声である。

 みっつ。神霊示現の声は奇矯なものだったこと。

《また、とのへいの声は、ふだんと違った変な声をだす。そこで猪山では、ふだんに変な浮わついたような声を出すと、「とのへい声をするな」と、親からたしなめられた》

 刊行が1997年と新しい。ひょっとしたらこの声についてまだ何か聞けるかもしれない。

 森と畑と牛と1号が終わったら、取材してみよう。