出雲の山墾り〜 R5.sec.18-2

7月21日。大豆、なにものかに食われる。畑には2日前の7月19日に入って以来であるから、20日の夕暮れから晩にかけての出来事であったろうか。
タカキビは小ぶりな一株のみ根本から10センチのところまで食われている。いちばん大きなタカキビは踏み倒され、茎が一箇所折られるのみで、口をつけたあとはなかった。踏み散らかしたようなあとはみられず、牛、猪でないことはほぼ確実。消去法的に可能性のある獣は以下。鹿、狸、狐、穴熊、ヌートリア、猿。

わからない。仮に狸としておこう。刈払機で草刈りに入るのがあと2日早ければとは悔やんだ、正直。外周に竹の枝を差し込みつつ続きは次回。

 

出雲の山墾り〜 R5.sec.18-1

7月18日の山墾り。夏がきたのだと知った。山に入ったのは夕方遅く。空と空気にはオレンジの色味がかかっていた。日陰の斜面でもあった。なのに。動けば汗が滝のように流れ出てくる。目に染みいって視界をさえぎるほど。2年畑のまわりでは、草がここ2週間ばかりで30センチはのびたのではなかろうか。
大豆のあるところだけ、黒い土がのぞいている。草たちが取り囲み、今にも押しいってやろうかという勢いである。周囲30センチほどを根の成長点からノコ鎌で刈り取る。その背後というか向こう側も軽く刈っておく。次回は刈払機でいっせいに始末しておかねば、獣が入ってこようぞ。
あぁ、それにしても単子葉植物の驚くべき成長力の凄まじさかな。美しさといってもいい。畑のこぼれダネから大きくなったタカキビも単子葉植物である。春先にダメ元でばら撒いていたタカキビの種子のうち、木綿のところのものがいくつか大きくなっていた。ちょうど牛が入った道で、踏耕ともいうべき土の掘り返しがあったところだ。草もそこだけ繁殖を控えているようで、5m先からも土の色が見えていた。イネ科雑草に取り囲まれたところにも何株かは負けじと成長していたが、茎が細く、踏耕の場所のそれと比べると弱々しい。周囲の草を刈って様子をみることにする。

そうそう、大豆・タカキビ畑の周囲を草刈りしているときに、トマトの匂いがした。もしやと丁寧にすすめていくと、果たしてトマトの株が3つほど。ブラックチェリーである。昨年はその種しか植えていないので間違いはない。うまくすれば9月の半ばに美味しい実が食べられるかもしれない。

さて、春焼畑。繰り返すがタカキビは単子葉。驚くべき成長である。前回7月12日のものと比べてみても。

出雲の山墾り〜 R5.sec.17-7

7月12日の山墾り。豪雨や東京行で、行けない日が続いた。この日は時間の隙間を縫い、様子見だけでもと春焼きの畑に入った。牛は入っておらず、ほっとしたが、そろそろ猪・狸らにも注意せねば。端的には周辺部の夏草を伸ばし放題にしないことである。柵の補修補強は次回でよしと。6月8日の火入れから一ヶ月が過ぎた。タカキビの成育はよろしくない。こんな状況。

場所によって生育にばらつきがかなりある。笹の地下茎が多いところはまあよくないのだが、そればかりが要因というほどでもない。もともと土壌がやせているがゆえに藪化していく傾向がみられた所なので首を傾げるほどではないのだが。ところで、藪を焼く焼畑については、「竹の焼畑」の名で白石昭臣氏が書籍にも残しておられる。ソバ・アワ・ヒエを初作とすること、夏焼きが多いこと、竹・笹を焼くこと、この3点が特徴ではなかったか(要確認)。だとすると、タカキビはやや不適であること、春焼きであること、竹・笹は混じっているが主な燃焼材ではないこと(もともとの植生には少なく、低灌木主体)、この3点が出雲・石見地方で見られた「竹の焼畑」の特徴からはややそれそうだ。民俗誌を再度参照して確かめること、タカキビの特性を確かめること、備忘としてここに記しおく。

さて、笹の新芽と葛の新生をよく取り除いた。ヨウシュヤマゴボウもよく育っていたので、除去。ヨウシュヤマゴボウが出ているところは黒ボク土である、この斜面では。昨年春に焼いたところほどではないものの。そこに、ハグラウリと地這キュウリを播種した。

斜面を一段さがったところには、大津くんたちが木綿を播種していたが、見当たらなかった(この日あとで、聞いたら、発芽はして育っているとのこと。踏まないように気を付けるべし)。斜面にまいたアマランサスは密にまきすぎたのだが、よく育っている。間引きしたほうがよいのかもしれないが、密植したことが笹の侵食と拮抗しうるとも思われる。いましばらく様子をみてみる。

 

みんな長生きしてほしいよね

「みんな長生きしてほしいよね」
と妻が言った。大雨の翌日であった。車で野菜を仕入れに隣町へ行く際、峠を越えるのだが、その降り道の急カーブが続くところで、唐突な、呟きというものよりははっきりとした口ぶりで。

ふたりは2日前、東京の高円寺にいた。暑い一日をほうぼう歩き回った夕方で、その日の最後の目的地まで百メートルもないところで、休みたいな休んでもいいのかもという気持ちに応えるように、目の前に現れた喫茶店。「喫茶 DENKEN」という店名と「OPEN」という看板だけがかかった、古い建物に蔦が絡まっていた。

妻の一言は、そこに入り受けた印象と感慨とを振り返ってもいたので、文脈としてはそこに連なるものであろう。
DENKENは創業が昭和30年ごろで、営業は70年におよぶ。創業以来その場所で働き続けている女性は90歳前後の白髪の老嬢であった。白いブラウスに黒のスカート、パンプスを履く姿もまた70年になんなんとしたものであろう。古典派ロマン派の曲が大きな良い音で鳴っていた。

あんなふうになりたい。なれたらいいな。どうしたらなれるのかな。どうするかな。
具体な話もあれこれする中で、自分自身のあり方である以上に、関わりあるみんなのあり方によるのだということが、ふと思われたのだろう。「みんな」とはそういうことだ。

出雲の山墾り〜 R5.sec.17-5

6/29の山墾り。明日から長雨となる予報が出ていて、積み残しは多々あれど、やれるところまではやって帰るつもりでいた。具体的には草刈り少々と柵の保守、それにアマランサスの播種。しかるに、着いてまず目にしたのが、柵がひとつ、牛に突破されている状況であった。優先順位を入れ替え、やれやれと補修作業に入る。動かしながら、運びながら、どうするかを考え考え、構えをつくっていく。陽射しがきつい。汗で目がしみる。なにぶん応急的処置であるから、今日はここまで!として終える。柵でなくバリケードである。塞ぐことを優先し使うことを考慮していない。つまり人が通れない、すなわち私も通れない。

人には迂回という知恵がある。別ルートで畑地に入ることにする。たぶん半年ぶりくらいに通るルートであって、なにが出てくるか少し不安でもあった。牛はここまできてるのかあ、でもここでさすがに行き止まりだよね、突破は無理というところの向こう側へ足を踏み入れる。人もなかなか入りにくい、ゆえにか新竹がまとまってあるのを発見した。では、切っていくかと手鋸と山ナタをふるい、4本目くらいのところだったろうか、新竹の柔らかい切り口に突き立てていた山ナタを喪失。カランカランと伐倒して足元に敷かれている竹の上を転がる音がした。地面は昨日の雨で湿っているし、6月も終わろうかという時期ゆえ、草の茂りも増している。竹をどかし、草木を整理しながら探し続けるもなかなかこれ見つけられない。

一旦チェーンソーの置いてあるところまで帰って、力技的にバシバシ太稈として地を覆っている竹を切っては外していくしかないと思い立ちつつも、もう少し、、と続けていたところ、足元にキラリと光る刃が目に入り、あれ、踏んでたのか?という発見であった。スパイクつきの長靴であたし、まったくわからなかった。おそらく何度も踏みつけるうちに土にめりこんでいったのだろう。よかった、ほっとした。

もうひとつの突破箇所に竹を持ち込みはじめたところ、下方に葛が樹冠を覆いつつある低木2〜3本を発見。とりのぞくべく降りていき、巻きついている蔓を処理していく。そして崖にくずれを見て驚く。ここを登ったのか牛、と。いやここもふさぐのは容易ではないな、どうしようかと思案しつつ、クサギナ数本を切ってふさぐように置いてみることにした。

日があがってくると小さな傾斜、短い登攀でも上り下りは体力消耗度が激しいものだ。気温は30℃には届いていないが、湿度が高い。

午前10時過ぎから午後1時過ぎまでの仕事であった。道具やヘルメットをクサギナがたつ木陰においていたので、そこで休みをしばしばとった。身体を休めると、小鳥の声がきこえてくる。身体を動かしているときも鳴いてはいるのだろうが、そして耳にも入っているのだろうが、意識がとらえてはいない、少なくとも記憶には残っていない。なんの鳥だろうかと、休んでいるときには思う。今日はじめて聞く鳴き声であった。数回聴くことがあれば、覚えて調べてもみれるだろう。伐開をはじめて10年ほどにもなるが、明らかに鳥の種類も数もふえている。もっと増えるだろうし、そうなってほしいと、そうしてまた身体を動かすのだ。動けと念じないと、まず動かないほどにはクタクタになってしまうものだ。

牛に入られたのは春焼き畑も、昨年焼いて今年大豆をつくる畑もだ。

大豆はまだ双葉から次の葉が出始めるくらいの段階だった。まったく口をつけていないのがおもしろいというか興味深い。同じような背丈のタカキビなどは根元近くまでかじられているのにだ。ほっと胸をなでおろしたい。また、おもしろいのは、よくかじられていたコナラの幼木はその後放置されていて、小さな若芽が育ちつつある。なんとか再生することを願う。そして、ヤマウルシは小さな葉ひとつ残らず、食されている。好みの問題なのかなんなのか、このあたりよくわからない。

梅雨に入って、作業しづらい日が続くだろうが、週に一度は柵を手入れしていきたい。

本日机上の書

令和6年6月29日。溜まっている机上の書をあげてみる。滞りはなににせよよいものではない。淀みをとって気の通りをよくせんとする意趣からも、書き記すのだ。

†. 坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその次代』新潮文庫,2011;2001マガジンハウス刊

数日前にふれた。少し読み進んでは中断することを繰り返し、はて3年ほどにもなろうか。ときは慶応三年、1867年。さかのぼること157年前になり、翌年の慶応四年に元号は明治となる。大きな時代の節目であり、明治という今につながる時代の幕開けの時。この年に生まれた7人の作家とともに、この時代の香りを味わってみたい。

†. 朝日重章著,塚本学編注『摘録 鸚鵡籠中記(上)』岩波文庫,1995;貞享元年1648〜享保二年1717の日記の摘録

切腹・自害の用例をめぐる参考文献として、現在、読み進んでいるもの。メモであれば近々あらためて記す予定である。下にあげている『天皇の影法師』にも関連して。

†. 猪瀬直樹『天皇の影法師』中公文庫,2012;1983朝日新聞社刊

1983年、昭和58年の発表であり、最終章にあてられた「恩赦のいたずら」は猪瀬の事実上の処女作にあたる。終戦の昭和20年8月末に起こった松江騒擾事件を題材としている。資料を渉猟しているさなかのものだ。なぜこの事件を? こたえとして3つ挙げておく。

1. 事件の主犯(首魁)、岡崎功のたどった道をなぞることで、速水保孝の見えない道(可能性)を照らしてみたい。速水は岡﨑よりふたつみっつ年下となるはずである。同じ高校(旧制松江中)を出て、同じ時代に東京へ出て、戦時下を過ごし、郷里島根に戻って何事かをなしている。かたや右翼、かたや左翼。岡﨑は事件で無期懲役、速水は次期総理と目されてもいた国務大臣秘書官となりながら「落ちこぼれ」て、県庁職員となる。挫折のときを抱えて生涯をまっとうしたふたり。重ならないようにみえるし、ふつうの意味で重なってもいないから、誰もこのふたりを対峙させながら描くことはしていない。だから、やってみたいという旋毛曲がり的性分にもよるのだが、とても意味のあることに私には思えるのだ。

2. と3.については、追って加筆。

†. 山下政夫『円い水平線―旅と口碑と民謡の隠岐』創元社,19;1983朝日新聞社刊

松江の冬營舎で購入。知らずして前記の速水と連関する記事が散らばっている。隠岐の狐つきの話がいくつか。また猪瀬の『天皇の影法師』と同年の出版。

以下、時間切れのため、追って加筆する。

†. 『現代日本思想大系29 柳田国男』益田勝実編,1965筑摩書房
†. 大塚英志『「捨て子」たちの民俗学―小泉八雲と柳田國男』角川選書,2006
†. 中井久夫『隣の病』ちくま学芸文庫,2010

†. 中井久夫『「伝える」ことと「伝わること」』ちくま学芸文庫,2012

†. 戸田山和久『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』NHKブックス,2005

 

滑稽新聞は松江で読まれていたか

『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』なる書がある。夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾口紅葉、斎藤緑雨。この七人と生きた時代を坪内祐三が綴っている。この七人を旋毛曲りとすれば、対する実直な?すなわち旋毛がまがっていない七人とは誰々だろう。僕はまず三人が思い浮かぶ。柳田國男、田中正造、森鴎外。どうだろう?

さて、旋毛曲りのほうの宮武外骨の代表作といえば「滑稽新聞」である。明治41年に発禁処分となっている(外骨にとっては何十回めかのことで珍しくはない)、確か。

借りっぱなしで明日おそるおそる返しにいく『松江八百八町町内物語〜白潟の巻』は昭和30年の発刊だが、その中に次の一文がある。

一文字屋の有名な売子「熊さん」も往年の松江駅の名物であった。「ビール、正宗、アンパン、ベントー。マツチェ(松江)八景、滑稽新聞」と声高に連呼する声は人をほほえまさないではいなかった。

執筆子は「滑稽新聞とはどんなものであるかよくわからないが、新聞は松江橋のたもとでまとめて立売しているのをよく人々は買うのであった」としている。松江駅の開業が明治41年11月であるから、「滑稽新聞」が売られていたかどうは微妙だが、「大阪滑稽新聞」のことであろうか。あるいはヒットにあやかった類似紙も多数あったらしいから、それらのどれかだったのかもしれない。

 

出雲の山墾り〜 R5.sec.17-4

新竹を除伐。5〜6本ほど。足場が未整理で少し動くのにもたいそう手間がかかる。枝葉はまだ展開されていないが、稈の硬化は進んでいる。もう2〜3週間ほど早ければもっと楽にできたと思うが、それは言うまい。一応間に合ったとは言えよう。

大豆は1週間前の播種にしては、もうずいぶんとのびている。牛に入られて少し踏み荒らされているが、打撃はわずか。こぼれ種子から発芽成長していたタカキビは大半がかじられていた。1本残っていたのが救いだ。久しぶりに腹が少し立った。牛に半分、自分に半分。もくもくと追加の柵=バリケードに、竹を運んだ。

春焼き畑のタカキビは播種から16日たつのに、わずかしか伸びていない。今日は6月26日。うまく稔ってくれるかなあ。ギリギリだなあと思う。

下の写真は昨年のタカキビ。6月11日撮影。

そんなこんなで、心細い思いを抱きながら、出てきた竹の新芽を除いていった。ばらまいたアワもヒエも発芽はしていない。タカキビの成長の遅さもだが、土の状態はよくなさそうだ。

手足を動かして、土にさわっていれば、気がつくこと、気になること、やらねばならぬことが、次々と浮かびあがってきて、まぁ、そんなことを繰り返していくのだな。

雨と畑

7月22日の土曜日から翌23日の日曜日にかけて、出雲地方は大雨に見舞われた。最高気温が30℃となるような日がしばらく続いていたことからすれば、恵みの雨でもあったのだが、裏の畑のところどころに水たまりができるというのは、おそらくはじめて見た。ここ数年でもあまりないほどの集中豪雨であったと思う。雨雲をとらえる気象マップデータでみると、局所的豪雨となるようなまとまった雨雲はないものの、スポット状のそれが散在して流れている様がみてとれた。大東の観測所では22日が38.5ミリ、23日が84.5ミリである。

24日、すなわち雨があがった今日、裏の畑に入ってみるに、水のはけは思ったよりよい。21日に播種したアマランサスが発芽していた。草ののび方が尋常ではない。これから1週間で、あちらこちらの草丈が一気にのびるのだろう。よく見ておきたい。