粗々〜カブとクマゴの時間

標題の件、図書館での資料渉猟の折、メモすらしていないことをも含めて、まず書き残しつつ後ほどの整理に委ねる。
◆島根県出雲地方においては近世以降、水田を有しない耕作地帯はきわめて稀である(この件、要精査)。畑作なり漁撈なり、その比重の軽重こそあれ、水田稲作を基軸とした農耕文化がこの地域の特徴である、ように見える。が、しかし、である。大局的にはそう見えたとしても、個々の集落、ひとつひとつの儀礼、年中行事、それらを丁寧にみていくと、稲の儀礼にみえて、その基底に畑作があるのではないかとうかがわせたりするものがある(白石昭臣の論考との差異など補足)
◆地カブを供物とした儀礼がそうである。年取りカブ(正月カブ)と呼ばれる地カブは、文字通り、大晦日には欠かせぬものとされ、歳神さんを迎えるトシトコの飾りにはジンバソウなどと並んでこのカブをぶら下げる。また、この年取りカブは稲こぎにも米とならんで主役となる。
すなわち、稲こぎが終わったのちに、千歯こぎなど道具にお供えをするのだが、その供物とはカブと精米した米である。カブを一升枡に逆さに(尻が上に)おき、枡にはこぎおわった稲籾を精米した白米をなみなみと満たす。これを供えるものだ。
なぜカブなのか。なぜ米とカブなのか。
◆現在、森と畑と牛と、島根大学里山管理研究会が中心となって行っている「竹の焼畑」のフィールドは、旧奥出雲町の山方地区にあたるが、その山方と斐伊川をはさんでの隣地である林原、そして岩伏山をはさんだ向かいにあたる下布施地区は、かつての畑作優先地帯であり、焼畑をふくめた畑作文化がかつて濃厚にあった土地だった。尾原ダム建設(2011年:平成23年竣工)による集落移転によって、現在は無住地帯である。
◆白石昭臣は何度か調査に訪れ、その断片が論文・資料には残されている。白石の集大成的遺作ともいえる『農耕文化の民俗学的研究』(岩田書院)、集落移転を契機とした民俗調査報告書、島根県教育委員会, 1996『尾原の民俗 : 尾原ダム民俗文化財調査報告書』。  とりわけ「年取りカブ」に関するものとしては、前者のp.328にある一文は、後者より微妙に詳しい。ご本人にうかがえないことがくやまれる。

《〔事例11〕島根県仁多郡仁多町・大原郡木次町下布施一帯の山村では、大晦日に「トシトリのカミさん」と称して、ヒゲ(根)のついた地カブ(蕪)と二叉大根を、オモテの床の間の年棚に上方から吊す。これに大根ナマス、カブの味噌汁、ソバを供える。》

先の山方地域について2,3、気になることを記しておく。

ダム建設の残土置き場となったため、山中に点在していたものをここに合祀したときく。 伝承にも山の信仰の色がこい。※1
タイシコの雪隠し。馬にのってやってくる毘沙門天。尼寺の跡(姥石とも)。などなど。

ヌルデのこと
春といえば、美保神社(美保関)の青柴垣神事。 春は生命が芽吹くはじまりの季節。
◆青柴垣神事ではトコロイモ・里芋が重要な供物……4月1日には海でトコロイモ(野老)を洗うという神事あり。いまでは他の地方からもってこられるらしいですが、かつては山の畑でつくられていました。そう、焼畑で里芋をつくっていたエリアなのです。海の色彩とともに山の神信仰の色が濃い。
◆山村塾が焼畑をしている土地(旧仁多町山方)では、かつて関講があり、御札と稲魂のやどった種籾を美保神社に詣でて受け、各家々で札は水口に祭り、種籾は用意した種籾とまぜて苗をつくったものです。
◆そして、神事に用いられる負棒。かつては「もり木」であったと。もり木は消失した民俗儀礼に多出します。花嫁を背負う木でもあり婚姻時に用いたのち大事に保管し、その嫁が死する時にともに弔うあるいは骨を拾うときに使う箸にするなど。これはおそらくアイヌの神送りにまで連なるものですが、焼畑実践者であれば、おなじみ、ヌルデの木が材として使われます。椎葉でも、そして先に焼畑フォーラムが開催された井川でもありました。焼畑のあと、最初にはえてくる木、それがヌルデです。奥出雲の佐白でもそうであることは、焼畑地の草刈り参加者にはおなじみでしょう。
◆海とヌルデの関係は「塩」ということからも ヌルデといえば、椎葉のクニ子おばばとこんな話をしたのを思い出します。 クニ子「山にはなんでもあるから」 私「あ、でも、塩はないでしょう」 クニ子「ヌルデの実があるわね。塩の代わりになる」 ヌルデの実が白い粉をふいているのをなめると塩辛いです。粉はリンゴ酸カルシウム。塩(塩化ナトリウム)とは違うのだけれど、昔から山での塩分補給になっていました。
◆なぜ、ヌルデの木なのでしょう。生命の根源にある塩をふき、焼畑で最初に芽生える森の先導者。小正月では占いの木でもあり、魔除けの木でもある。 そう、焼畑の民にとってヌルデとは死と再生に深くかかわる木なのです。

クマゴのこと
◆クマゴの記載のみられる町史等をみるに、こらまで島根県内で確認できたのは次のもの。広島県北部をまだあたっていない。三好市の図書館にいけばある程度そろうだろうか。 赤来町史 勝部正郊氏が取材執筆されており、聞き取りの要約であっても信頼がおける。 そのままひく

《さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。  主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。》

大和村誌 p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物) (江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。 羽須美村誌(下) p494

《第五項 くまご(こあわ) 麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。  麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である。(中略)反収二石も獲れれば上作である。  この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。  昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、たべ易く味も悪くはなかったが一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。》

ここで特筆すべきことはいくつかあるが、なんといってもくまごを「こあわ」としていること。
◆桜江町誌、旭町史にクマゴの記載はなし
どちらも食生活の項目に雑穀の記載はあって、その比重の大小は地域内の差はあれど、それなりに大きい。桜江町については粟食も濃厚でウルチ粟の飯を食していた記録もあるが、その粟をクマゴとは呼んでいない。旧石見町も山間部はそうであろうから(未確認)、クマゴの境界はちょうど瑞穂町のあたりとなろうか。
おそらくもっとも近年までくまごを食していたと思われる都賀行をあわせてみると、地カブをよく食していた地域と重なるのではなかろうか。
さらに西の地域を資料の渉猟と、森神、大元神、地神の残存、祖霊信仰とあわせて探っていきたい。
◆クマゴ、地カブについて大浦周辺で聞いてみるも、年寄りはみんなおらんようになった。とのこと。ただ、地カブと思しきカブはそこここに点在している。

 

※1…山中に点在していたのではなく、尾白峠周辺にあったものだろう。写真右に草に隠れて見えない石仏がある。双体の才ノ神で、『尾原の民俗』など参照。2022/02/06追記

熊子(クマゴ)のこと〜その2

森と土と水と火の記憶を探す旅。

2016年3月17日のこと。以下はウェブの記録から発掘し整理し直して記すものです。

西へ南へ、そして県境にほど近いとある山村へ。

奥出雲町の三沢から、車を飛ばして1時間半ほどして着いたその家では、「だいたい家にいるよ」と紹介していただいたお年寄りの方が不在。しょうがないなと、周辺の家々を飛び込みで訪問してみるも、どこもお留守。犬も歩けば何かにあたるかと散策開始です。家の跡に残る扉の壊れた小さな小屋と雨水のたまった鍋と狂い咲きの芳香を放つ椿に頭をくらくらさせながら1時間ほどもうろついていました。そうして、やっと見つけたトラクターをいじるおじさんひとり。

訳を話すと、「あぁ、何某さんならあそこのゲートボール場だよ」。あぁなんという好機。十数人の爺さん婆さんが揃っておられる。

お茶とぜんざいをいただきながら、聞き取りをはじめると、知っている人と知らない人が半々くらい。そして、また、記憶を呼び戻すのは、なかなか大儀なところもあって、思い出そうにも思い出しづらそうなところもある。

「……だっと思う」「……じゃなかったかな」「ほら、このくらいの太さで、穂が垂れてる……」

そんな、言葉が行き交うなかで、私のとなりでずーっと黙って聞いていた婆ちゃんが、突然こうおっしゃいました。

「私、見たことある。○×谷で」
ただひとつの断言。
それはいつ頃のことですか?とたずねると、ぽつりと一言。
「……乙女の頃」

みなさん、爆笑で、わいわいと場が盛り上がります。しかし、隣にいた私には、わかりました。一生懸命に記憶をたどっていたそのお婆ちゃんの心は確かに乙女の時までをさかのぼっていた。戦後間もない頃、その谷で風にゆれる、失われた穀物「熊子」の姿が、瞼にあったのだと。確かに。
その谷はさらに川の上へさかのぼったところにあるといいます。
4月に入ったらまた出かけようと思います。※2

20160317-P113081402

※1. 写真は話を聞いた場所から5分ほども歩いたところにある石組み。

※2. この後一度出かけはしたものの、通り過ぎる程度であって、取材はすすめておらず。2018年か2019年の春、地カブが黄色い花をいっせいに咲かせるころには何軒か飛び込みで聞いてもみ、道行く人や草刈りをしている人などに聞いてみるが、わからなかった。古くから住んでおられる方は少ないようであり、「知らないなあ」というくらいには問いを受けてくださった方も遠くから墓の掃除にいらしていた方であった。

◉追記1

文字に記されたものを追いながらですが、「もうその人は認知で施設に入られているから」「あぁ、半年前になくなったよ」というような言葉を、この地でたくさん聞きました。跡形もなく消え去ってしまう前に、継いでいけるものがあればと、それだけです。

さて熊子が「アワ」らしきものかどうかですか。
お婆ちゃんもですし、みなさん記憶に異同があります。
が、聞くところからはモチアワのことを単にアワと呼び、ウルチアワのことを熊子と呼んでいたのではないかと推定できます。

・アワとクマゴはちがう→これはかなり強く言う人が1名と同意する人が過半。「アワはモチで食べるでしょ。クマゴは違う」「アワは白い。クマゴは黄色い。クマゴはアワより粒が大きかったような気がする」

・クマゴの味をはっきり覚えて語る方はなしでした。どうだったかなあ。と。粟餅はクマゴを食べなくなってからもかなり長く食されていたようで、甘くておいしかったと。

・形状は「粟」のそれですが、人によって曖昧です。確かなのは、、キビとは違うという認識。

・電話で聞いたこの村(旧村)の66歳男性は5歳頃の記憶で「クマゴめし(クマゴとただ米(うるち米)をまぜたご飯)」を食べた記憶があると。昭和30年代頃までつくっていたのだと思うと。

また、これらの証言を得た地域では、山裾の草地・藪を焼いてカブをつくったという聞き書きがあります。『聞き書き島根の食事』農文協

◉追記2(2020/09/06)
初稿の際は地名を載せなかった。その後4年が経過するが、取材も重ねられず残せるものは残すべきと考え、出しておく。現美郷町の都賀行である。

◉石組追記

大和村誌編纂委員会,昭和56『大和村誌(下巻)』には、「村のそここに残っている石垣にも古人の汗と血のにじむ苦難のあとを偲ぶことが出来る」という一文ではじまる石垣の項がある。積み方を3つに大別し、野面(のづら)積、打込ハギ積、切込ハギ積をあげている。写真の石垣は小なれど打込ハギ積である。

つづく。。

熊子(クマゴ)のこと〜その3

前進していないわけではない。
ここ1〜2ヶ月の間に拾った資料としては2つ。
ひとつは、「出雲民俗」の第24号(昭和27年7月)に掲載された「熊子のからはたぎ」記事。

昭和27年当時は、熊子を粳の粟だと断ずるには至っていないことがわかる。
なにより、この時代において、すでに「熊子」がなんであるか、出雲地方ではまったくわからなくなっていることが驚きである。
少なくとも幕末・明治初頭には、誰もが知っていたことであろうに。
もうひとつは、神米に比するものとしてのクマゴ。
奠をクマと訓じ、供米と同じく、神への供物としての米を「クマ」としたことに由来する用語が山陰地方にある。
邑智郡には神に供える米を「くましろ」と呼ぶ方言があった。この場合のしろは土地を意味し、くましろを供米をつくる田とする用例は古い。和名類聚抄には「神稲 久末之呂」とある。
ここでピンとくるのが、出雲国産物帳名疏における熊子のひとつ、「坊主熊子」が寺に供するアワであった可能性である。坊主正月は昭和30年代にはまだ生きていた。言葉のみならず習俗としても。
熊子=粳アワであるとはいえないのではないか。
どこかで散見した資料には、熊子とはアワだけではなく広く雑穀でアワの代わりに用いたものも呼んだという一文が確かにあったのだが、思い出せない。県立図書館であると思う。それほど重要だとは捉えなかったのは、典拠不明なものであったのかもしらん。
これまでブログで書いた記事をまとめつつ、少しずつ整理していこう。

●備前國備中國にも熊子はあった

●クマゴ、地カブ、キビ

●みざわの館前の「地カブ」

●熊子(クマゴ)のこと~その1

●熊子(クマゴ)のこと〜その2

◆追記

†. 白石昭臣は、邑智の地名を次のように解く。
「地名の邑(おお)は、青(アオ・オオと発音、記述)と同じで稲魂信仰にかかわる名称。青、邑の付く地名は一般に初期稲作文化渡来の地であるが、この邑智もこれに該当する。それ故に神稲(くましね)と稲の付く郷も存在したのであろう。智はその聖なる範囲を示す語で、地にも通じよう」(白石昭臣『島根の地名辞典―あなたのまちの地名考」2001,ワンライン)
2023年9月21日

 

都賀村の地カブについて

『聞き書島根の食事』の中で、くまご飯、くまご、が出ているのは、都賀村のみであった。『聞き書広島の食事』にもない。その都賀村には「地カブ」の話がある。年とりカブと呼ばれていたかはわからない。

いくつかの抜粋を以下に。

p174(野菜〜利用のしくみ)

菜園畑(さえんばたけ;奥出雲ではさえもんばた)は、家のまわりにわずかしかない。山すその草原を焼いて焼畑もつくり、そこには地カブの種をばら播きにする。

春は、秋にとり残した地かぶが焼畑からとれ、菜園畑には、ひらぐきの茎立ちがまず元気に姿をみせる。ひらぐきは、冬の間青いものが不足した生活に活気を与えてくれる。人々は「青いものを食うと、いっぺんにまめになる(元気が出る)」と喜ぶ。つづいて、かきば(高菜)、ちちゃ(ちしゃ)が暖かな春の日差しをあびて見る間に伸びてくる。青菜の茎立ちの味噌あえ、ごまあえはたまらなくおいしい。

p181(漬物〜地かぶの切り漬)

菜園畑が少ないので、山すその草原を焼いて地かぶをつくる。地かぶの根は大きくならないので葉のみを利用する。葉を細かくきざんで、そうけいっぱい用意し、二合塩で漬ける。かぶと塩を交互に重ねるとき、とうがらしのきざんだものもふりかけ、二斗樽で二本漬けこむ。

家を離れて他地へ行った者が、村に帰ってきて一番おいしいと好んで食べのが、この切り漬である。

熊子(クマゴ)のこと〜その1

「熊子(くまご)」とは何かで、いろいろ調べておりましたが、あぁ意外な見落とし忘れ。

かつて調べてメモしておりました。

「竹の焼畑メモ」http://on.fb.me/1ZWpXlD

白石昭臣『竹の民俗誌』p26に飯南町の志津見の話として、竹の焼畑の作物として以下の記述あり。

「焼いたあとまだ灰の冷めやらぬうちにソバやカブを播く。2年目にクマゴ(アワ)、三年目にナタネなどを作る。そのあと放置し牛を放牧する。クマゴは1反(約10r)あたり6俵(約430リットル)の収穫をみたという。」

改めて『竹の民族誌』を読み返してみたものの、クマゴという名称が出てくるのはこの箇所のみでした。

そして、もうひとつ『聞き書島根の食事』。

くまご飯が口絵に登場しております。

kumagomesi

邑智郡都賀村での聞き書きであって、基本食の成り立ちの項の中で、日常のごはんを3つあげている。「麦飯」「くまご飯」「茶がゆ」。

都賀村は広島県境に近い江の川両岸にせまる急傾斜地にある。水田、畑ともに少なく、米を食いのばすのに、麦、くまご(あわ)、豆、いも、山菜や野草を年間米にまぜて食べているとある。

以下、いくつかを抜粋引用してみる。

p169〜(雑穀の項)

米には税がかかるが、雑穀にはかからないので助かる。

山すその畑とか焼き畑につくり、自給自足でできただけを食べている。くまご、きび、そばなどを植える。なかでも一番利用するのが「くまご」と呼んでいるうるちあわで、くまご飯にして食べる。きびは、おもにきびもちにし、そばは粉にひいてつもごりそば(年越しそば)などにする。

(くまご飯)

くまごは秋に収穫し、麦を食べ終えるころから春まで食べる。

くまご七にただ米三を入れて炊く。くまごの割合が多いので、子どもが食べた膳のまわりは、ほうきで掃き寄せなければならにほどぽろぽろごはんがこぼれている。

志津見で行われていた竹の焼畑

竹の焼畑メモを更新しました。

重複しての引用を以下にひっぱります。
飯南町の志津見では竹の焼畑の証言が白石昭臣『竹の民俗誌』p.26にもある。

 …前略…三瓶山の東麓にわたる神戸川上流域の山村。近年、この地区内にダムができることにより集落の再編がみられるが、かつてはハンゲ(※1)までに田植えをすませると、組ごとに管理する山を焼く。無用山ともいう竹や笹を主とする雑木山を焼くもので、サンカ(山火)ともいっている。一戸あたり1.5町歩(約150a)を焼くという。

40年ほど前(昭和35年ごろ)までみられたもので、まず共同体で竹木を伐り、飛火を防ぐ道を切ってから、火入れをする。よく焼けるという。焼いたあとまだ灰の冷めやらぬうちにソバやカブを播く。2年目にクマゴ(アワ)、三年目にナタネなどを作る。そのあと放置し牛を放牧する。クマゴは1反(約10a)あたり6俵(約430リットル)の収穫をみたという。ソバもよくできていた。かつては麻も栽培していた地区であり、ここでも田の神サンバイは3月から山から田に、ハンゲがすむと麻畑に入り、山に行くという。

昭和35年頃までみられたということは、証言を集めることは今でもできる。

読み落としていてちょっと驚いたのは、焼畑4年目以降に牛を放牧するということ。この牛は肉牛だったのだろうけれど、詳細を知りたい。また、組で管理していた無用山という存在についても。入会地の呼び方として。なぜ「無用」としたのか。

*令和4年12月17日追記
昭和35年頃までみられたのである。これ聞いてみなくては!