昭和19年5月3日。2日後には古賀峯一の殉職が発表されることになっていた。山本五十六の後を受け連合艦隊司令長官の職位にあった古賀の死が意味するものを、この国に生きていた人々が、この時どう受け止めたのか、思い至るは難しかろう。すでに戦局は著しく悪化、前年から学徒出陣が多くの若者を戦地への送り込んでいる時勢である。1ヶ月後の6月15日には、本土空襲が福岡の八幡製鉄所を嚆矢としてはじまる。
東京帝国大学の国史学科に学んでいた加茂町出身の速水保考は昭和18年に海軍予備中尉として大学から離れた。戦死している私の祖父の弟は戦地から帰還するも、再び出陣しているのだが、同じ頃ではなかったかと思う。送る者も見送らるものも、誰もが生きて帰れるとは思っていない。そんなころのことだ。
この日、柳田は疎開先の神奈川県愛甲郡(現厚木市)から、島根県松江市奥谷に住していた牛尾三千夫へ葉書を認める。
十六島のわかめ御手紙と共に今朝到着皆々珍らしかり且つなつかしく存候 北濱の村長ハ心ある人のよしうけたまはり候 一度そういふ人たちに逢ひニ出雲路をあるいて見たく候 其の日の早く来れかしとのみ存候
十六島かどうかはわからんが半島産の板わかめをあぶり食したあと、「炭焼日記」をとかんとして、たままた目にしたのだった。美しい文の調べと当時の時勢、東京と島根の距離、その他諸々、候文の機微に心打たれる。
「其の日」はついに訪れることはなかった。
定本柳田國男集の別巻2であったか、書簡の入っている巻には牛尾宛の書簡が2~3頁にわたって収められている。昭和17年1月13日には伊豆熱海の樋口旅館からのはがきに、折口氏来訪三泊共同し、の文のあと、「粒々辛苦」は精読いたし候 と。