令和7年のタカキビ餅

12月28日。妻とふたりでタカキビ餅を2升搗きました。もち米8合に対してタカキビ2合です。
タカキビは24日の夜に4合ぶんをまとめて浸水させましたので、3日半ほどつかっていたことになります。保管は冷蔵庫で、水は毎日替えました。もう1〜2日あった方が良い気もします。今回は前回令和5年に始めたやり方で、浸水しておいたタカキビを直前にすりこぎで挽き割って入れるというのを全面採用。結果は良好。挽き割りの割合は適当です。結構擦リました。どれくらい潰れているか・砕けているかは、見た目ではなかなか分かりづらいのです。量にして半分強ができていれば良さそうですが、3分の1でも良いかもしれません。その程度の加減で十分とは言えましょう。

一升づきの餅つき機を使いましたが、蒸す工程で「ボイラー」と称されるところへ入れる水の量は前回より増やして500cc。これも問題なく良かったと思います。正確には490ccくらいかも。機器の容量限界に近いためです。

もちとり粉(うるち米粉)は、春に笹巻きで使ったものの残りでした。テーブルにシートを貼ってその上でもちを丸める作業をするのですが、40リットル袋を切り裂いたものを1枚ではなく、2枚がよいですね。粉が隙間から下に潜って入ることがほぼ完全に防げます。

久しぶりに食べたからもあったのでしょうが、味は格別に美味しいものでした。
一升で丸餅が33個取れました。来年は3升は搗くべし。そして、春焼きを少しでもやるかと、気持ちが入り増田。たくさん収穫したいものです。今年の収穫はゼロでしたから。

奥出雲きこり友の会・山仕事やろう会

令和7年12月13日の備忘である。晴れのち曇り、奥出雲町八川の山林内で、「山仕事やろう会」が開催された。奥出雲町オロチの深山きこりプロジェクトの主催である。元来、安全技術研修のうち、出張研修と呼ばれるものに位置付けられていた(いる)。
 私は裏方兼記録である
 道の行き止まりには滝岩から流れる清水が。いくつかの谷水を集めはじめるあたりにはわさびが自生していました。ずいぶん少なくなってしまったと言われますが、こうして間伐を進めることでいくぶんか戻ってくるのではないかと思います。
 
 冬の山を、しかも、こうした造林された山を歩いても、そこは森のワンダーランド。しみだしながら流れになっていく水、折れても曲がっても生きようする幹や根、あきらめよく死んで菌が侵食し、キノコや粘菌やらがとりついた有機物もろもろ、土は色も密度も違えば、人の感知を超えてすむ数千数兆の生物を宿している。
 
そんなところで。
 世代も経験も背景も異なる16人が同じ山の中で仕事をする。いいなあと感じました。研修ですので習う教えるという関係はありつつも、身体を一緒に動かすことで自然と習得できるものがあるのだなあと実感する日でありました。
 
 さて、少々概念的な言い回しをしてみれば。
 危険をともなう作業の連鎖に促されるようにして、身体—道具—地形—他者の結びつきが強まり、動きの最適化が環世界的に生成される。
「声をかける」「間合いを取る」といった規範は、風と香り、音と振動、諸感覚にひたされた身体に刻まれていく、それは外在的な原理から演繹されるよりはるかに、伐倒などの切迫の中で繰り返し達成され、事後的に規範として析出する。
 そんな感じ。おもしろいですよね。
 

神戸、あるいは菌臭の境界線にて

 122日から3日にかけて神戸の街へ妻とふたりで訪れた。神戸の街という表現に一般性があるかどうかはわからず言っているが、ここでは元町、三宮あたりから山手の新神戸駅のあたりまでをいうこととする。神戸という言い方であれば、神戸経済圏をも指すであろうが、私が気にとめながら確かめたいと思うのは、文化=風土としての「神戸」である。

 測ることはできないものを断りつつ、人口についてざっと見ておけば、現在の神戸市はおよそ150万人。京都もほぼ同じだが、神戸のほうがやや大きく、近畿では大阪市280万にに次ぐ第2位の巨大都市である。

千年以上の歴史を有する港ではあるが、慶応三年の鎖国を解いた開港からまもない明治初期の人口は2万人ほどであった。同じころの松江市が3万8000人。いずれも但し書きを要する数字ではある。確かめれば誤りもあろう。いまはこれで。

 もともとこの旅の第一の目的は、新神戸駅のそばにあるという竹中大工道具館。分類としては博物館に入るのだが、名乗りからしてそうではない。一時代を築いた「モノ」の墓場、ではない。そうしてなるものかという意思が宿っているかのようだ。その強度に陶然としてしまうような、夢の中にいるような、あるいは時間のエアポケットに入り込んだような場所だった。

大工道具の始原を石斧から起こし、石器から鉄器へという道具の「進化・発達」をもたらした要因が、実は「資源の枯渇」であったという見立て。自然と人との間にある媒体としての「道具」を見つめる、その視線のあまりの透徹さに心を打たれた。小さな館内が、言葉にしがたい膨大な熱量と密度で満たされている。一体なんなのだろう。

 そんな、道具館を出て街を歩くと、ふと奇妙な感覚に襲われる。決していやな空気ではなく、心地よいといってもよいのだが、なにか不自然な違和感あるいは落ち着きのなさを感じる。匂いに敏感なほうではない。ここでの匂いとは街の匂い、土地の匂いということだが、雰囲気とも空気ともいっていい。錯覚とも錯誤ともいえるものも混じってはいようが、そんな匂いは断固としてないと言い張れるものでもないだろう。誰しも心当たりはあるものとして言っているのだが、本格的に論じられてきてもいない。

多くはその街なり土地なりがたどってきた履歴・歴史に基づくものと、それによって形成される人の集団が醸すものとがあろう。そういう観点からすると、ここ神戸の街には、歴史があるはずなのに歴史がないとでも言いたくなる。ここからは飛躍となるが、神戸という街は、日本の都市の中でも例外的に、土地固有の「物語の重力」を持たないのではないか。

錯誤を恐れず言ってしまえば、多くの土地が持つはずの痕跡、沈殿、堆積といったものが、きれいに拭い去られている。なぜ神戸は語られなかったのか。いや、土地が決して自らを語ろうとしないのかもしれない。まるで、言葉によってその深部を照らし出されることを恐れているかのように。 本来、海と山がこれほど近く結ばれた場であるにもかかわらず、そのつながりは完璧なまでに絶たれている(ように感じる)。

 ただ、目を山の方へ向ければ、そこには異なる時間が流れている。神戸市北区にあたる山田庄には、いくつかの只ならぬ欠片が残存する。そのひとつが栗花落井(ツユイ/ツユザエモン)であろう。今回は訪れることが叶わなかったが、出雲地方になぜか濃厚に残り続け、今も信仰の対象となっている「ツイジンさん」の名称的遡源の地であると睨んでいる。乾いた街の背後に、湿り気を帯びた古層が眠っている。

 神戸にゆかりの深い精神科医、中井久夫はエッセイの中でこの土地について幾度か触れている。彼は街や土地が持つ固有の「匂い」を嗅ぎ分ける人であった。ここでいう匂いとは単なる嗅覚刺激ではない。かつて統合失調症の診断基準として議論された「プレコックス感」にも通じるような、全感覚的な直観に近いものだろう。  中井は明示的に「神戸の匂い」を定義してはいない。だが、彼の視座を借りるならば、私には「神戸には匂いがない」と感じられるのだ。中井は、人が家に落ち着きや馴染みを感じる匂いの正体を、複合的なキノコやカビの匂い、すなわち「菌臭」として捉えた。それは森の匂いであり、分解の匂いであり、死と再生の匂いである。エヴァンゲリオンでいうところのLCLの匂いといえば、その羊水的な安らぎが伝わるだろうか。

 京都の街はこの菌臭が濃厚で、奈良になると少し薄くなり、そして神戸の市街地にはほとんど感じられない。この菌臭の発生源は、森であり山である。生命の安らぎとしての菌臭からもっとも遠い場所、それが神戸の都市部なのかもしれない。  しかし、山からは海風に抗うようにして、その匂いが微かに流れ出ているはずだ。かつてのアカマツ山が照葉樹と広葉樹の山に変貌しているという30年前の中井の指摘を信じるならば、山には濃密な気配がある。  そう考えると、あの竹中大工道具館が、街外れの山の端、新神戸のあの一角に位置していることに深く得心がいった。あそこは、乾いた都市と、菌臭漂う山との境界線なのだ。道具という「木(森)」の記憶を宿したあの場所だけが、山から降りてくる豊潤な匂いと共鳴していたのかもしれない。

杵築の弥山ヘあがる

12/8出雲大社の裏山ともいえる弥山に登頂。
◆中世には、陰きわまる月に異界(黄泉)の扉が開くとも、あるいは如来信仰においては西方浄土への入口とも信じられていた、その稲佐の浜を望む。
◆山頂の風衝木はアカガシのようだ。完全に落葉しているが島根半島北山の尾根付近ではそうなるのが普通らしい。麓からも視認できる象徴樹として、これから大社を通るたびに見上げてみよう。
◆標高100m付近では赤い実をつけていたヤブニッケイは400mにもなると黒い実となる。ソヨゴも多い。ヤブツバキがみられると思っていたが、目にはつかなかった。ふだん奥出雲の山に多く入っていると、まったく違った植生に驚く。冬の厳しさがあるとはいえ暖かい海の山なんだなあと思う。
◆途中、狭い道の中央に居座りつづけるニホンマムシの幼体あり。またいでいくかどうかを迷うが、この地の古称にハビ山もあったかと思い出し、またぐなど非礼であるからして、道なき斜面を迂回することとする。
◆麓にはイヌマキらしき老大木も点在していてこの地がたどってきた歴史を想う。コナラ、クヌギ、アベマキなどの落葉樹林も点在しているが、いずれ照葉樹系に変わっていくようでもある。とはいえ、あちらこちらに崩落もみられて、要因は複合的なものだろうが、人為によるものも否定はできない。
◆いろいろ見ながら、感じながら、考えながら、楽しく過ごせた数時間。もろもろ感謝。

奴可神社の夜神楽を来年には

数日前、今年のサントリー学芸賞が発表され、鈴木昂太『比婆荒神神楽の社会史―歴史のなかの神楽太夫』(法藏館)が 社会風俗部門で選ばれた。
選評の伊藤亜紗は

「従来、その歴史は「祖霊加入」や「神の託宣」といった、ややもすると本質主義に傾きかねない神楽の意味論によって説明されることが多かった。これに対し、本書が試みるのは神楽の社会史である。注目するのは「人の生きざま」だ。それぞれの時代の社会的状況のなかで、神楽に関わる人々が、神楽を通してどのようにサバイブしてきたか。神楽を伝える、ではなく、神楽が伝わる。伝承とは、そのときどきの現実的な制約条件に、ときに節操なく見えるほどの創造性で応答していく、その積み重ねのことを言うのだろう」

と。

https://pub.hozokan.co.jp/book/b658766.html

法蔵館のサイトでは目次と数ページの本文冒頭が立ち読みできる。

https://pub.hozokan.co.jp/book/b658766.html

今週末、16日土曜日夜から翌日未明にかけて、奴可神社の夜神楽がある。来年、妻とふたりで行ってみたいと思った。

 

 

令和7年文化の日に

令和7年11月3日。文化の日は戦後の憲法制定を記念した祝日である。机上の書からいくつかをあげる。

猪瀬直樹『天皇の影法師』2012  ,中公文庫

1983年に朝日新聞社から刊行され、新潮、朝日、そして中公と文庫に収められてきた。猪瀬直樹の処女作であり、4編からなる。
天皇崩御の朝に—スクープの顛末
柩をかつぐ—八瀬童子の六百年
元号に賭ける—鴎外の執着と増蔵の死
恩赦のいたずら—最後のクーデター

「恩赦のいたずら」については日本ペンクラグのウェブサイトで公開されており、すぐさま読むことができる。舞台は島根県の松江・雲南・奥出雲であり、〈松江騒擾事件と切腹〉を参照されたい。事件の首謀者岡崎功は拘束された警察監視下にあって切腹を図るが一命をとりとめ、無期懲役刑を受けるが、作品名ともなっている恩赦を受ける。私立高校の校長として、あるいは極右ということでしか一般には知られていない。いや、ほとんど無名ともいっていいのかもしれない。私にとって、とここでは言っておこう、謎があまりにも残る事件なのだ。ことの真相という意味でなく(それもあるが)、昭和20年8月の日本、出雲、松江、そこに生きていた人たちの心情が知りたいのである。この命題を、ほぼ同年代と思われる加茂町出身の「落第」を自称する速水保孝と対比しながら書いてみたいと考えている。

史料は限られる。この事件ではなくとも、この時代について知る人はまだ生きておられる。猪瀬は文献について明示していないが、突き詰めていけばある程度はわかる。さすれば、どこまでが猪瀬の取材に基づくものであるか、が見えてくる。いまは、その途上にある。猪瀬が直に取材した人物の大半は、もはや鬼籍に入っている。事件の中心人物のひとりであった長谷川文明だけが、あるいは存命かもしれない。

奇しくもというべきか、「元号に賭ける」も同じサイトで公開。森鴎外は島根県西端・津和野藩の出である。青空文庫の森鴎外遺言三種をもとに、改行と句点を補ったものを下に引いておく。

遺言

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ。コヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス。
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ。奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス。余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス。森林太郎トシテ死セントス。
墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス。書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ。手続ハソレゾレアルベシ。コレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス。
大正十一年七月六日
森林太郎言 拇印
賀古鶴所書

参照

榛原守一の小さな資料室〜資料25 森鷗外の遺言「余ハ少年ノ時ヨリ……」

門賀美央子「文豪の死に様」第4回 森鴎外―死の床で「馬鹿らしい」と叫んだ人

中公文庫では、解説を網野善彦が書き、巻末に東浩紀と猪瀬直樹の対談を配している。短文にして要を得ているとみる。序として読むもよし。啓発されるところも大であろうが、それ以上に、昭和の終わりに臨んで提起されたこの「作品」が照射しようとしたものは、いまなお謎と未開の扉としてある。

森鴎外の最期の言葉、「馬鹿らしい」。それは鴎外を解放したであろうか。

東・猪瀬の対談は、「元号に賭ける」中、鴎外がお昼に芋を食べながら官僚たちと昼食をとる場面で語られる言葉、「僕は矢張り神は有るものにしておきたい」。そこから敷衍された『かのように』との重なりの中で締めくくられる。東浩紀はこの対談からおよそ十年後に、同じ問題を前にした対話を中島隆博との間で交わすことになる。中島の口調が鴎外の「かのように」と重なって私の中で響いた。

谷川健一,大和岩雄編『民衆史の遺産 第10巻 憑きもの』2016,大和書房

出雲市立図書館から貸出。後に加筆予定。
次の六編からなる。

酒井貴広「現在までの憑きもの研究とその問題点」
石塚尊俊「俗信の地域差とその基盤」
速水保孝「出雲の迷信」
吉田禎吾「日本の憑きもの」
須田圭三「飛騨の牛蒡種」
石塚尊俊(編)「全国憑きもの報告集成」

酒井の論は

湯浅泰雄『和辻哲郎—近代日本哲学の運命』1995,ちくま学芸文庫/1981,ミネルヴァ書房刊

次の11章からなる。

序 回想の和辻哲郎
一 村の子の孤独
二 あれかこれか―美と倫理の間に
三 日本回帰の道
四 アカデミズムの異端
五 ヨーロッパの旅
六 マルクス主義とナショナリズム
七 戦争と文化
八 天皇制論争
九 太平洋戦争とは何か
十 和辻倫理学
十一 日本思想史における近代
結び 晩年

前期二書からの流れを引き継ぎ、「天皇制論争」から少しひく。(つづく)

万延元年夏、そして万延2年春、匹見で起きた椎茸山騒動

中村克哉は、著書『シイタケ栽培の史的研究』(1983,東宣出版)の中で、天保12年(1841)に起きた人吉藩の茸山一揆を取り上げている。一揆研究の中ではよくとりげられるものであるとして。

その諸研究も史実が語る一揆、主として政治-藩政史が主題であって、当時にあっての「椎茸」をめぐる諸関係が詳細に検討されているわけではなさそうだ。もちろん個々の研究にあたっての考量ではない。あて推量である

人吉藩における椎茸山は、天保年間からはじまったものであろうか、早い段階から専買制がしかれていたというが、初源については精査を要する。ここでは一揆の要因としてみる。制度たるものの宿痾として、時がたつにつれ整合性—秩序形成力—諸主体の均衡を欠いていく。制度は硬直していなければ制度足り得ず、硬直は内的矛盾—不均衡を拡大していく。制度は外部と内部を作り出すことで安定した(硬直でもある)運動をはじめることができるのだが、安定した運動がスケールの拡大を容易にし制度として機能を発揮すればするほどに、内的矛盾の拡大は進む。矛盾の抑制あるいは調整に失敗すれば、均衡は崩れはじめ、制度そのものの崩壊をもたらす。

崩壊—最初の襲撃(打ち崩し)は、椎茸問屋横田辰右衛門の邸であった。専買制にかかわる不正疑惑と過剰な搾取を容易に物語るようではあるが、そうそう簡単なものではあるまい。まず、その背景に天保年間前後より全国各地で進展していたインフレがあることをおさえておかねばなるまい。幕府各藩とともに経済統制をもってこれに対処しようとして失敗する。幕府によるものは問屋組合・仲間の解散によりインフレをおさえようとしたが、元来問屋が担っていた市場調整機能を単に破壊しただけとなり、逆に大きな混乱を招いた。そうした考察は多々なされている。

さて、私がそうした背景も踏まえつつ注目したいのは、農民の心理であり、山稼ぎあるいは山の民との間で生じている摩擦・葛藤である。

一揆の主体は稲作農民であり、その訴えのなかには、出稼ぎにきている茸作(ナバツクリ)が、雨をもたらし、不作を生じさせるということがあったと、文書に記録されている。

以下は中村克哉『シイタケ栽培の史的研究』よりそのままひくが、この箇所について中村は複数の史料からひいたものと思われる。詳細は追々確かめていきたい。

《人吉藩の茸山は球磨郡の鹿蔵山でかなりの規模で行われ、乾燥小屋なども各地に散在していた。茸山では秋になるとほだ木を浸水して、水から出す時に「ナバよでろ、でろ。稲はナバになれ。豆もナバになれ」といったような意味の歌をはやしながらほだ木をたたいて作業をしたものだ。シイタケの発生には雨が多いほうがよい。(中略)「茸山では盛んに雨乞いをする。そのためによく雨が降る。夏の気温が上がらない。人吉藩内の凶作は藩の茸山が元だ」という妄想が生じはじめた。水に浸けたほだ木を出す時に「米の精よナバになれ」「ソバの精もナバになれ」などと景気をつけていたことも一般農民の反感をあおり、一揆の原因をなした》

ここで着目したいことがふたつある。

ひとつは、「不作の原因は茸山で雨乞いをするからだ」というような妄想が、他の地でも見られたかどうか。全国各地であたってみたい。中村によれば、豊後にひとつあったようだが、一揆研究でとりあげられることはないという。

そして、匹見(現島根県益田市匹見町)にも、安政年間から幕末にかけてそうした事態が生じているのである。一揆には至らない不穏として記録されているものだ。矢富熊一郎『石見匹見町史』から。

万延元年の夏、西村の農民一同が椎茸の製造は、湿気を必要とするため、雨天を祈って栽培をするのであるから、農作に支障を起こすものである、との見解から、その栽培者を放逐しようと企て、大勢が集会し一揆徒党がましい振舞いに出たが事は平和に落着した》

しかしことはこれで収まらなかった。西村の農民が敵視していた豊後の茸師(ナバツクリ)集団は小原のハビ山、七村、三葛一帯の山に入っていたものと思われる。西村の南方にあたる山々だ。この頃、匹見の山に入り込んでいた茸師(ナバツクリ)集団は、多数にのぼり、農民の不安・不満は暴発寸前だったのだ。豊後の茸師は晩秋に小屋番を残して一旦帰郷する。そして春ふたたびやってくる。

その春は万延二年のこと。浜田藩の詰所(代官出張所)のあった澄川村の農民が他の村を巻き込みながら、道谷村へ押し寄せた。二月五日(新暦で3月中旬か)のこと。席旗・竹槍を携え、山に点在する小屋を焼き討ちに入ろうとしていた。その理は、近来組内の奥筋(匹見の山々に)へ、他国人が多数入りこみ、椎茸山や伐木の駄賃等に従事しておるので「穀類高直ニ相成、及難儀」、このままでは村一同飢餓に陥ると。これに驚いた東村庄屋斎藤六左衛門と、西村庄屋本多万右衛門の両人は、早速飛脚を組内の各庄屋へ走らる一方、各村々から集まりつつあった一同を道谷村に集合させ、懇懇と慰撫に努め事なき不穏として収まったという。※1)該当箇所

残っている記録は断片的であるのみならず、何か大事なものが欠けているようだ。

・安政年間中に、匹見町広瀬で豊後の茸師が椎茸栽培を開始(大谷道太,藤谷一夢「広瀬物語」1984)

・浜田藩、河鮨景岡、42歳で御用人になる。藩の財政改革に着手。シイタケについては、横道での成功を知り、茸師を招き、栽培を奨励し、藩政たてなおしにつとめた(メモにつき出所確認中)※2

一次史料を欠くものではあるが、問題は「茸師を招き」にある。藩が雇うわけではない。財政改革中にそれはしないであろうし、同時代の他藩の例をみても、いわば委託方式である。いずれにせよ本当に「招いた」のだとしたら、農民にとっての山の用益権・既得権を無視した暴挙となったであろうことは想像に難くない。つまり、農民たちの矛先が向かっていたのは藩政に対してのものであったろうということだ。

この時代の匹見における御立山(官林)の所在は不明である。旧広見河内の西部に位置する赤岩がそうであることは知られるが、ほか数カ所あったはずである。御立山の用益ではなく、村の共有林をめぐるものであれば、当然村がよしとしない限りは、その借上はできない理屈である。が、藩からの指示でそれが無理にでも動いたのであれば、大きな摩擦が起きたであろう。もちろん相応以上の対価は払われたであろう。が、その対価ではいかんともしがたい。幕末のインフレが襲ってきた。共有林では焼畑での雑穀栽培が地域の貴重な糧であった。その資源を奪われ、対価は受取ったものの、それでは口に糊できないとなれば、「穀類高直ニ相成、及難儀」となる。以上はあくまで作業仮説である。これからさらに詰めていく。

そして、もうひとつの着目点。

《ナバよでろ、でろ。稲はナバになれ。豆もナバになれ」といったような意味の歌》が、記録されている史料である。中村は人吉藩の一揆の史料で見ているようなので、そちらの確認とあわせ、各地をみていく必要がある。

引き続き探索は続けるが、別なアプローチも試す。

段上達雄「海辺の山人・豊後なば山師」(『山と民具』1988,雄山閣)にあるのが、以下の一文である。

《なば山師たちはセコ(山あがりした河童)の話をよくする。なかなか姿を見せないが、子供くらいの大きさだという。夜になるとホーホーと鳴いたり、母屋の棟を揺らしたりした。いたずらはするが、人には危害を加えない。セコは春の彼岸から秋の彼岸までは川に入って河童になるともいわれている。》

この《セコ(山あがりした河童)》とはそもそも何か。柳田国男が早くから着目していた山童と同一とみてよいのか、どうか。

また、同書で段上はこうも言う。

《お茶を沸かしたり、シケウチ(秋子を出す時、よきで小口をたたく)の時に焚き火をたく際、火つけをすることを「お明かりを上げる」といい、神棚の灯明にたとえるほど神聖視した。(改行)。仕事から戻って暇があると、相撲をとって遊んだ。漬け木をする堤を築いたときにも、相撲をとって池底を固めることもあった》

シケウチの際に唱えたものが、先の一揆で例として出た唱え言である。 以上のなかで、関連する事項がいくつか出てきた。 灯明、堤ー水、お茶の湯をわかす—灯明、相撲ー河童ー水。 それぞれに興味ふかいが、とりわけ水ー火(明かり)ー沸かすーシケうち、の関係である。

※1)「澄川村の農民が他の村を巻き込みながら、道谷村へ押し寄せた」とするのは地理的にも状況としても違和感がある。澄川村にあった浜田藩の詰所へ向かい、村民が連れ立って書状を持ち込まんとしたところ、道谷村付近で庄屋の説得にあったのではないか。

※2)

天保7年の浜田、ある春の日

忙中閑あり、といえるのかどうか。
ここのところ、江戸時代の文書やら記録やらを、慣れぬ頭と手であれこれしているためか、ふと手を休めた夕暮れ、ほんの一瞬であるが、その時代の空気が流れてくる気がするのだ。
備忘として、その錯覚を記す。
天保7年の春。なぜか浜田城の裏門が見える場所に私はいた。ひとりの男の後ろ姿を見ている。
その男の名は橋本三兵衛。
浜田藩勘定方のひとりであった。
三千石の家老岡田頼母に見出された百姓の三男である。
豪放にして細心、奇想天外の意見するときもその裏に周到緻密な計算あって空想に馳せることなく、才気あるを認められて勘定方に進んだと伝えられる。町方、下士からも信望あり、また愛されたとも。
その日、朝から快晴であった空は、昼すぎより雨を降らせはじめていた。
三兵衛は、半年以上前から、準備していた。
郷里の親元親戚にはかたみの品をわけ、妻子は戸籍(宗門帳)から外し、別家をたてた。
後世が竹島事件と名づけた一件である。
家老岡田頼母、年寄松井図書、橋本三兵衛、そして廻船問屋八右衛門、ほか関係するものも多数いたであろう。逼迫する藩財政を陰で支えた抜け荷・密貿易が事件化したのである。
いくつもの但し書きを要するが、政争の渦中にあっての出来事にして、なにが本当だったかという目的をもってのぞめば徒労感に苛まれるだろう。
間宮林蔵の告を受けてこの件に動いたのは、大阪西町奉行矢部定謙である。翌天保8年、大塩平八郎が大阪で乱を起こした際、奸佞として糾弾された人物として知られるが、経済政策の見識についてはのちに高く評価されている。定謙もまた江戸町奉行を罷免後、無実を訴え絶食死と伝えられる。
そういう時代である。
濱辺には穏やかな春の波が打ち寄せていた。網を手入れする漁師と世間話をしていた廻船問屋の八右衛門は、やってきた捕縛吏に対し、どこにも逃げはしない、母に挨拶してからだと。その堂々たる態度に役人も気圧され従ったとは地元に伝わる話である。
それから幾時かをへた浜田城。橋本三兵衛は、門外で待つ捕縛吏を知ってはいたが、そんなことはまったく感じさせず、定刻どおりに辞し家路につくかのように門へ向かっていた。
小雨がだんだん強くなっていく中、傘もささずに、軒をわたりながら進む姿に、「橋本の旦那、傘をお持ちなさい」と差し出すものがあったが、「有がたう、もう、ついそこだから」と言って門を出たという。
二人は6月10日、大阪から江戸へ引き渡され、12月23日に死罪の申し渡しを受けた。
岡田頼母、松井図書の二人は呼び出しに応じ出立する前日の夜(暁方とも)、6月29日に自害。頼母74歳、図書34歳。
この年、雨は夏になっても降り止むことなく冷夏、加えて暴風雨と大洪水が襲い、ついで大霜となり諸作のすべてが大凶作。百年以上語り継がれる「申年のがしん」となった。
*多くは大島幾太郎『浜田町史』一誠社, 昭和10による。

椎茸は菌類である

椎茸は菌類である。2025年の世にあってはふつうの常識である。ただ菌類という言い方は世俗的には細菌を含めることもあり、違和感を覚える人がいなくはない。多くのキノコと同様、カビと同じ仲間だとされると首をかしげる人もまた少なくはない。何が正しいということや、正しい知識を身に着けようということへ向かうのではない。菌類であることは、その認識把握において、不確定性を余儀なくされるということをそれとなく伝えたいのである。

あぁ、だから、こうして書くということが大変むずかしい事態となるのだ。一行書いたらつまづいてしまう、ためらうのだ、続けることを。かつて、生物を動物と植物のふたつにわけていた時代があった。いまでいう菌類は植物の一種であってキノコは隠花植物という分類であった。生殖や機構構造、系統において明らかに植物とは異なる菌界というグループができたのは、1960年代であったと思う。

だから、どちらといえば、植物の仲間に近いと常識感覚は訴えるであるが、現在では植物よりは動物に近いものという捉え方が、生物学的には主流である。

こう考えれば、常識的感覚でも納得できるのではないか。植物は形を描ける。静止した状態、カタチそのものが、その機能・性質を表しうる。すべてではないにしても。ところが動物の場合、植物ほどにはいかない。日本語はそれをよく表している、動くものであることがその本質にあるのだから。

 

知ってる人なら出てきてくれてもいいのにと妻は言った

お盆になると、お墓に迎えに行く。

もう乗ったかねと母はいった。

盆踊りは賑やかで楽しかった。みんなで踊った。

うちわが配られてそれがくじになっていた。

と同時に、寂しさがこみあげてくる日だった。

夏が終わる、夏休みが終わる、なにかが終わる、日。