精読と訓読と積読と#1

机上にあるもの、手の届くところにあるもの、すべてではないが、ここに記し置く。

†. 菅豊,『川は誰のものか—人と環境の民俗学』吉川弘文館,2006年

目次をみれば一目瞭然ではあるが、本書のキーワードはコモンズ(commons)である。書名にないのが不思議なくらいである。菅は本書では次のようにコモンズを定義している。

「複数の主体が共的に使用し管理する資源や、その共的な管理・利用の制度」

そして、次の補足を付している。

コモンズは資源の使用、所有、管理という局面において、国家や政府が担う「公」的な位相と、個人が担う「私」的な位相の中間の「共」的な位相に存在する。

 菅の議論は、公共を「公」と「共」とに割り、コモンズとしての川を、国家や行政の「公」、個人の「私」、そして複数の主体が使用し管理する「共」のせめぎあいの場として捉えるものだ。そうすることで、環境政策の言葉を、歴史・履歴・民俗の位相へといったん差し戻すことができる。

しかし、この整理に違和感を感じるのは私だけではないと思う。「公」を国家・政府にかなり寄せていることがひとつ。公共政策でも社会学でも、public は必ずしも国家だけを意味しない。公共財、公共圏、市民的公共性、公共的討議といった概念整理では、むしろ国家から距離をとった市民的・開放的な領域こそが public と呼ばれることもある。

ただし、ここで菅が扱っているのは、公共性一般ではなく、川という資源をめぐる所有・利用・管理の正当性である。近世においては「旧例」や納税の履歴によって支えられていた在地の川利用が、近代国家の制度のなかで、そのままでは正当性を失っていく。そのとき人びとは、「公益」や「資源保全」といった、近代国家に通じる言葉を発見し、それを用いて自らのコモンズを守ろうとした。

私はここに、菅の議論が単なる歴史民俗誌にとどまらず、資源管理論=環境政策という舞台で、現実に「闘う」ための言葉を探している面を見る。

菅は、「川」という普遍名詞を使いながら、描いているのは新潟県岩船郡山北町を流れる大川のことである。

以下略。。ここで備忘的に私にとっての川がなんだったのかについてふれておく。

川。私が小学生の頃には、川はすでに自治から離れつつあった。1級河川、2級河川なる冠のついた河川名が、真新しい看板として設置されはじめていたようにも思う。1級が偉くて、2級はその次で、それは自分たちのものではなく国や県が管理するものである。自分たちが管理するものは一段も二段も低いもので、名前などつけてもらえていなかった。あったかも知れないが、「川」といえば通じていた。年に一度か二度、集落全員が集まって草刈りやドブさらいをした。なぜか子供たちもかり出され、何かした後におやつか何かをもらって食べていた記憶もあるが、何をしたのかはまったく覚えていない。大人たちが何人かで川の中にいた大きな鯉を大騒ぎしながら捕まえようとしていた光景だけは鮮明に今でも思い出す。その鯉は後ほどみなでお酒とともに食されたのだということを聞いて、へえー食べるのかあ、だからみんな夢中で必死だったんだと納得した。そんな記憶である。

その小さな川は、私の家の裏を通っていて、どこからか降りれるようにもなっていた。毎日の洗濯ほどではないにしても、母や祖母は何かを洗っていたような気がする。

この川は小学校までの道に沿って流れていた。その道は、ゆるやかなカーブを描きながら東に向かってのびていて、生活用水の名残を保持しながらも、その主たる用益は水田の用水であったが、目にしていたのは排水でしかなく、その水が下流へどのように渡っていったのかを知ることはなかった。

その川は今はない。耕地整理に際して川道も変わ、1m幅三面張りの本当に小さな用水路となっている。鯉も鮒も水草もなくザリガニもいない。カエルくらいは鳴くだろうか。そこに存在することすら気づかれずにあるかのようだ。

†. 中井久夫,『西欧精神医学背景史』みすず書房,1999年

†. 中井久夫,『治療文化論—精神医学的再構築の試み』岩波書店,1990年

†. 中井久夫,『分裂病と人類』東京大学出版会,1982年

 

其の日の早く来れかしとのみ存候

令和7年文化の日に

令和7年11月3日。文化の日は戦後の憲法制定を記念した祝日である。机上の書からいくつかをあげる。

猪瀬直樹『天皇の影法師』2012  ,中公文庫

1983年に朝日新聞社から刊行され、新潮、朝日、そして中公と文庫に収められてきた。猪瀬直樹の処女作であり、4編からなる。
天皇崩御の朝に—スクープの顛末
柩をかつぐ—八瀬童子の六百年
元号に賭ける—鴎外の執着と増蔵の死
恩赦のいたずら—最後のクーデター

「恩赦のいたずら」については日本ペンクラグのウェブサイトで公開されており、すぐさま読むことができる。舞台は島根県の松江・雲南・奥出雲であり、〈松江騒擾事件と切腹〉を参照されたい。事件の首謀者岡崎功は拘束された警察監視下にあって切腹を図るが一命をとりとめ、無期懲役刑を受けるが、作品名ともなっている恩赦を受ける。私立高校の校長として、あるいは極右ということでしか一般には知られていない。いや、ほとんど無名ともいっていいのかもしれない。私にとって、とここでは言っておこう、謎があまりにも残る事件なのだ。ことの真相という意味でなく(それもあるが)、昭和20年8月の日本、出雲、松江、そこに生きていた人たちの心情が知りたいのである。この命題を、ほぼ同年代と思われる加茂町出身の「落第」を自称する速水保孝と対比しながら書いてみたいと考えている。

史料は限られる。この事件ではなくとも、この時代について知る人はまだ生きておられる。猪瀬は文献について明示していないが、突き詰めていけばある程度はわかる。さすれば、どこまでが猪瀬の取材に基づくものであるか、が見えてくる。いまは、その途上にある。猪瀬が直に取材した人物の大半は、もはや鬼籍に入っている。事件の中心人物のひとりであった長谷川文明だけが、あるいは存命かもしれない。

奇しくもというべきか、「元号に賭ける」も同じサイトで公開。森鴎外は島根県西端・津和野藩の出である。青空文庫の森鴎外遺言三種をもとに、改行と句点を補ったものを下に引いておく。

遺言

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ。コヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス。
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ。奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス。余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス。森林太郎トシテ死セントス。
墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス。書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ。手続ハソレゾレアルベシ。コレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス。
大正十一年七月六日
森林太郎言 拇印
賀古鶴所書

参照

榛原守一の小さな資料室〜資料25 森鷗外の遺言「余ハ少年ノ時ヨリ……」

門賀美央子「文豪の死に様」第4回 森鴎外―死の床で「馬鹿らしい」と叫んだ人

中公文庫では、解説を網野善彦が書き、巻末に東浩紀と猪瀬直樹の対談を配している。短文にして要を得ているとみる。序として読むもよし。啓発されるところも大であろうが、それ以上に、昭和の終わりに臨んで提起されたこの「作品」が照射しようとしたものは、いまなお謎と未開の扉としてある。

森鴎外の最期の言葉、「馬鹿らしい」。それは鴎外を解放したであろうか。

東・猪瀬の対談は、「元号に賭ける」中、鴎外がお昼に芋を食べながら官僚たちと昼食をとる場面で語られる言葉、「僕は矢張り神は有るものにしておきたい」。そこから敷衍された『かのように』との重なりの中で締めくくられる。東浩紀はこの対談からおよそ十年後に、同じ問題を前にした対話を中島隆博との間で交わすことになる。中島の口調が鴎外の「かのように」と重なって私の中で響いた。

谷川健一,大和岩雄編『民衆史の遺産 第10巻 憑きもの』2016,大和書房

出雲市立図書館から貸出。後に加筆予定。
次の六編からなる。

酒井貴広「現在までの憑きもの研究とその問題点」
石塚尊俊「俗信の地域差とその基盤」
速水保孝「出雲の迷信」
吉田禎吾「日本の憑きもの」
須田圭三「飛騨の牛蒡種」
石塚尊俊(編)「全国憑きもの報告集成」

酒井の論は

湯浅泰雄『和辻哲郎—近代日本哲学の運命』1995,ちくま学芸文庫/1981,ミネルヴァ書房刊

次の11章からなる。

序 回想の和辻哲郎
一 村の子の孤独
二 あれかこれか―美と倫理の間に
三 日本回帰の道
四 アカデミズムの異端
五 ヨーロッパの旅
六 マルクス主義とナショナリズム
七 戦争と文化
八 天皇制論争
九 太平洋戦争とは何か
十 和辻倫理学
十一 日本思想史における近代
結び 晩年

前期二書からの流れを引き継ぎ、「天皇制論争」から少しひく。(つづく)

本日机上の書

令和6年6月29日。溜まっている机上の書をあげてみる。滞りはなににせよよいものではない。淀みをとって気の通りをよくせんとする意趣からも、書き記すのだ。

†. 坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその次代』新潮文庫,2011;2001マガジンハウス刊

数日前にふれた。少し読み進んでは中断することを繰り返し、はて3年ほどにもなろうか。ときは慶応三年、1867年。さかのぼること157年前になり、翌年の慶応四年に元号は明治となる。大きな時代の節目であり、明治という今につながる時代の幕開けの時。この年に生まれた7人の作家とともに、この時代の香りを味わってみたい。

†. 朝日重章著,塚本学編注『摘録 鸚鵡籠中記(上)』岩波文庫,1995;貞享元年1648〜享保二年1717の日記の摘録

切腹・自害の用例をめぐる参考文献として、現在、読み進んでいるもの。メモであれば近々あらためて記す予定である。下にあげている『天皇の影法師』にも関連して。

†. 猪瀬直樹『天皇の影法師』中公文庫,2012;1983朝日新聞社刊

1983年、昭和58年の発表であり、最終章にあてられた「恩赦のいたずら」は猪瀬の事実上の処女作にあたる。終戦の昭和20年8月末に起こった松江騒擾事件を題材としている。資料を渉猟しているさなかのものだ。なぜこの事件を? こたえとして3つ挙げておく。

1. 事件の主犯(首魁)、岡崎功のたどった道をなぞることで、速水保孝の見えない道(可能性)を照らしてみたい。速水は岡﨑よりふたつみっつ年下となるはずである。同じ高校(旧制松江中)を出て、同じ時代に東京へ出て、戦時下を過ごし、郷里島根に戻って何事かをなしている。かたや右翼、かたや左翼。岡﨑は事件で無期懲役、速水は次期総理と目されてもいた国務大臣秘書官となりながら「落ちこぼれ」て、県庁職員となる。挫折のときを抱えて生涯をまっとうしたふたり。重ならないようにみえるし、ふつうの意味で重なってもいないから、誰もこのふたりを対峙させながら描くことはしていない。だから、やってみたいという旋毛曲がり的性分にもよるのだが、とても意味のあることに私には思えるのだ。

2. と3.については、追って加筆。

†. 山下政夫『円い水平線―旅と口碑と民謡の隠岐』創元社,19;1983朝日新聞社刊

松江の冬營舎で購入。知らずして前記の速水と連関する記事が散らばっている。隠岐の狐つきの話がいくつか。また猪瀬の『天皇の影法師』と同年の出版。

以下、時間切れのため、追って加筆する。

†. 『現代日本思想大系29 柳田国男』益田勝実編,1965筑摩書房
†. 大塚英志『「捨て子」たちの民俗学―小泉八雲と柳田國男』角川選書,2006
†. 中井久夫『隣の病』ちくま学芸文庫,2010

†. 中井久夫『「伝える」ことと「伝わること」』ちくま学芸文庫,2012

†. 戸田山和久『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』NHKブックス,2005

 

本の記録〜令和3年9月7日

気になって読みかけのものの備忘。

†. ピーター・ゴドフリー=スミス.エリアーデ,2016『タコの心身問題―頭足類から考える意識の起源』夏目大訳,2018,みすず書房/県立中央図書館より借,その後購入
開架に入っているのをみつけ、手に取ろうとして取れずにいた一冊。腰を落ち着かせて一気に読んでみるべく「足元の小さな世界」展示図書のなかに置いている。オリゼ・サミさんがおもしろいから買うと申され、寄贈を受けたもの。

†.  現代思想2020年11月号「ワクチンを考える」青土社/県立中央図書館より借
「考える」とは何か、それを反芻せずにはいられない論考いくつか。
・中村桂子「ワクチン開発に学ぶ時間の重要性」
《この半年間は、「いのちを守る」というあたりまえでありながら、現代社会の中では意識されずにきた日常が表面化してきたのである》
何年かあとに、あれはなんだったのだろうと振り返る時がくるのだろうか。

†. 中島義道,2006『カントの法論』ちくま学芸文庫/書棚に眠っていたものを机右におくも、再び書棚へ。

本の記録〜令和3年6月3日

†.  野本寛一『採集民俗論』2020,昭和堂/県立中央図書館より借

椎茸、ウバユリ、オオバギボウシなどの項を拾うために手元に寄せたもの。大著だけに断片を拾うだけのつもりだったが、一度通読してみたくなった。腰を落ち着かせて……、と書きかけて、あぁしかし、そうやって向かいたい本を数え上げただけで日が暮れてしまいそうだ。拙速は巧遅に勝るのか。いや、拙速でも巧遅でもない、そうした二極にみえる状況そのものを転覆してみたい、と思う。
本書における椎茸民俗の採取は明治以降の栽培化以降、大正生まれの世代からの聞き書きが主となるためか、他の採集草木と比して異貌の感を強くした。この違和感を携えて奥へと分け入りたい。
そう、御蔵島の採集椎茸について、野本氏は〈シケミミ〉の名をもって以下のように記している。
《シイの古木の幹の一部や枝は台風などで倒れたり落ちたりする。台風がやってくると、そうした倒木や腐木に大量のシイタケが出た。島ではこれを「シケミミ」と呼んだ。シケミミは薄くて足が長いのが特徴である。シケミミがたくさん出るムラ山(共有山)は、事前に区画を割って定めておき、シケミミの採取権を入札で決めていた。……略……シケミミは、菌打ち栽培化以前の採集シイタケだった。シケミミは自生シイタケの組織的な共同管理・採集・加工の貴重な事例である》
中村克哉『シイタケ栽培の史的研究』に記されているスダジイの根本を焼いて枯らす方については野本は触れていない。

†.  『東北学vol.8−総特集:飢えの記憶』2003.4,東北文化研究センター

前掲書のなかで、野老の民俗について金田久璋の論考からの引用を目にして購入。

本の記録〜令和3年1月5日

久しぶりに記録する。年末年始に目を通す時間くらいはと思っていたが、結局のところ出来ず。再読のために覚えとしてここに置くものである。

†. 『豊穣と再生 宗教学概論2;エリアーデ著作集第二巻』M.エリアーデ,1968;久米博訳,1981,せりか書房/

県立中央図書館より借
日本の民俗信仰のなかで見られる樹木信仰との類比をどう捉えていけるかを確かめてみたく。また、メイポールをまつりの後に焼くという記述の確認のため。出雲大社境内で平成○年に発掘された柱の先端が焼かれていたことと、メイポールでのそれを同じ理由に基づくものとしている論文を瞥見し、いま少し掘り下げてみるべく。

†. 宮本常一『旅人たちの歴史1・野田泉光院』1980,未来社/松江工業高専より借。

木次図書館にて取寄。資料として。

†. 『日本思想体系46・佐藤一斎,大塩中斎 』校訂:相良 亨, 溝口 雄三, 福永 光司,1980, 岩波書店

木次図書館より借。
佐藤一斎については、言志録、言志後録、言志晩録、言志耋録の四録を所収。
大塩中斎では、洗心洞箚記。

†. 大室幹雄『正名と狂言――古代中国知識人の言語世界』1975,せりか書房

島根県立図書館より借
古書の札が残っている。所蔵は禁帯出が別に一冊あり。貸出用に求めたのだろうか。県内公共図書館の蔵書は、県立に2冊、島根大付属に1冊。古書を求めて再読を期すことに。

†. 『民衆史の遺産・第八巻 海の民』2015,大和書房

島根県立図書館より借
内海延吉「海鳥の嘆き」所収。この1編と編者として大和岩雄とともに名を表にしている谷川健一の序論が、『日本民俗文化資料集成』第五巻の「渚の民俗誌」と同一(1990年、三一書房刊)。

†. 山内志朗『湯殿山の哲学――修験と花と存在と』2017,ぷねうま舎

島根県立図書館より借
冬に読んで春を迎えたい。「存在が花咲く」

†. 末木文美士『近世の仏教――華ひらく思想と文化』2010,吉川弘文館

島根県立図書館より借
ほとんど目を通せず。以下目次。
近世仏教を見なおす―プロローグ
中世から近世へ
開かれた近世
思想と実践
信仰の広がり
近世から近代へ―エピローグ

†. 藤野 裕子『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』2020, 中公新書

島根県立図書館より借
序章のみ読。こうしたまとめ方は求められているものなのだろう。で、それでいいのかと思いをいだきつつ、謙虚に1章以下を読む機を次回に。
序章 近世日本の民衆暴力
第1章 新政反対一揆―近代化政策への反発
第2章 秩父事件
第3章 都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム
第4章 関東大震災時の朝鮮人虐殺
第5章 民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理

†. 『葬儀と墓の現在――民俗の変容』国立歴史民俗博物館編,2002,吉川弘文館

島根県立図書館より借
再読を願いつつ、目次を置く。書誌データとして目次を表示するウェブサイトは、東販系のe-honのみか。いくつかの版元サイトでもそう。いやはや。ここもe-honからひいているのだが、肝心の著者名がなかったため加筆している。購書空間から人が消えていく。
第1部 葬儀と墓の変容
赤嶺政信,奄美・沖縄の葬送文化―その伝統と変容
金田久璋,樹木葬とニソの杜―樹下の死・森神・他界観
武田正,東北地方の葬送儀礼―山形県米沢地方を中心として
福澤昭司,葬儀社の進出と葬儀の変容―松本市を事例として
米田実,大型公営斎場の登場と地域の変容
太郎良裕子,清めの作法―明治から平成へ
板橋春夫,葬儀と食物―赤飯から饅頭へ
関沢あゆみ,葬送儀礼の変容―その意味するもの
第2部 討論 葬儀と墓の行く方
沖縄の洗骨改葬,葬祭業者と葬祭場,葬儀のかたち,葬送の新しい兆し,赤飯と清め,お骨の行く方,私の霊魂観
新谷尚紀,フォーラムを終えて―変化を読み取る民俗学へ

†. 村上重良『国家神道』1970,岩波新書

島根県立図書館より借

森のことの葉〜#7_Book 7 days

本の顔の7日間、その7

ある夜、何を思うわけでもなく書棚から一冊の本を抜き、開いた頁から押し寄せてくる波に、ゆだねながらそれに乗るということができたなら、読むという愉悦とともに、どこまでもいつまでもその時間は延伸できる、ように、そのただなかには感じられる。その全き自由を支えているのも時間なら、ついていたはずの翼がないと気づかせるやいなや、全身を襲う倦怠を墜落の後悔とともに押付けるのも時間だ。

そして、次の3冊の中には時間が欠けている。欠けているがゆえに読むことの永遠性に開かれている。と同時に3冊はスタイルと顔をまったく異にしながら、ひとつの物語のように連続している。……この続きは、森と畑と牛と1号で、たぶんそして必ず。

†. ミッシェル・フーコー、神谷恵美子『臨床医学の誕生』みすず書房

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わたしが、そしてあなたが、考えない(考えられない)ことは何なのか? この問いを抱えて読む書。

「人間の思考のなかで重要なのは、彼らが考えたことよりも、むしろ彼らによって考えられなかったことのほうなのである」序文より

そして、右の英文は、パースのWhat Is A sign?
https://www.marxists.org/reference/subject/philosophy/works/us/peirce1.htm
この本に時間がない、欠けているという言いぐさは、おかしいだろうか。医学史の一冊として読まれているだろう書であろうし、書名からして、歴史=過去の時間の流れを追いながら、生じた出来事をある規則性、構造として可視化するもの、そういうものであろうから、時間が欠けているはずはなかろうと、そういう疑問が浮かぶほうが自然だ。その自然さに対して、こう言ってみよう。時間の本質とは流れと変化であり、そこからして、未来と同義であると。歴史が扱うのは過去でしかないし、過去のすべてがわかったとて、未来を知るのに十分ではない。そして変化こそが知ること、治める、統治することととは異相の世界を開くのである。


さて。
時間とは、ハイデガーの現れを支えるものではないかと、そう捉えることが、この本と顔と顔をつきあわせて対話することを可能にする。

  

†. エドゥアルド・コーン、奥野克巳、近藤宏『森は考える』亜紀書房

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「この本の内容は空間、ことばおよび死に関するものである。さらに、まなざしに関するものである。」
先のフーコーの著書において序文冒頭に掲げられた一文は、そのまま、この本の序となりうる。

川の源を同じくするからなのか。
50年ばかりのときを隔てて、フーコーソシュールから、コーンはパースから、記号論の支えを得ている。

そうしたことも理解の支えになるが、なにより強調されるべきは、「まなざし」であろう。
まなざしを支えるのは、姿勢、位置でもあるが、意思でもある。その意思=心とは、個のものではない。individual、分割できない単位とは違い、心とは川の流れ全体に浮かぶ泡のようなものだ。

†. 河井寛次郎『六十年前の今』日本民芸館

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のちほど加筆。

†. ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫

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のちほど加筆。

 

すべての生き物はね、死んだらだれかに食べられるのよ〜#6_Book 7 days

◆本の顔の7日間、その6。

◉ジル・クレマン、山内朋樹『動いている庭』2015,みすず書房
これは焼畑の本である。
ピンとくる人は、どこにもいない、と思うけれど、言ってみる。
庭の本でないことは確かだが、著者は作庭家である。
また、すぐれた実務書でもある、と私は思う。
なんの役にたつ本なのか?と問われても困るけれど、なにかの役に立つ本なんて実は何の役にも立たないものだが、この本はなんの役に立つかわからないのに、いやだからこそきっと役に立つのだと、強く言ってみる。
あぁ、そうそう本題。庭を畑におきかえても通じる本。動いている畑、それが焼畑

下は同名の映画の画面ショット。みすずの本の方よりも顔としていいなと思う。中央、横切る人物がジル・クレマン。

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 https://www.msz.co.jp/book/detail/07859.html
みすず書房のサイトでは序文が読める。
これだけでも読んでみられることをおすすめしたい。

 

何年か前の火入の後、3日後くらいの様子。こんなにも菌が炭にくいついている。

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◉小川真『森とカビ・キノコー樹木の枯死と土壌の変化』2009,築地書館
これも焼畑の本である。
今年島根県で開催される予定だった植樹祭は1年延期となった。
なぜか。コロナのせい? いや、そうではない。そんなことを考えさせてくれる。
原因と結果を単純に結びつけたがるのは、機械を組み立てる発想だが、生物・生命は違う。
パーツを組み立てれば機械は動く。生物はそうはならない。つねに部分ではなく全体が先にあるからだ。
そこから、病気とはなんなのか、その本質性を垣間見ることができる稀有な書。

不思議なほどに島根県の話がたくさん出てくる。

 

◉大園享司『生き物はどのように土にかえるのかー動植物の死骸をめぐる分解の生物学』2018,ペレ出版

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これだって焼畑の本である。

「ねえねえ、死んだらどうなるの?」
「すべての生き物はね、死んだらだれかに食べられるのよ」
生と死が交錯する、食べたり食べられたりする場に、自らも同調すること、それこそが、森の本質であると思う。
焼畑は森とともにある。

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本は物であり、物には心がある〜#5_Book 7 days

◆本の顔の7日間、その5。
◉バッジュ・シャーム、ギター・ヴォルフ『世界のはじまり』2015,タムラ堂

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木綿、麻のクズ布を砕いて漉いた紙。都度調合される色。中部インド、ゴンドの吟遊詩人であり画家であるバッジュ・シャームの神話世界。
さわる本。本が物であることを忘れないために。


Creation 『世界のはじまり』メイキング映像

◉田中忠三郎『物には心がある。』2009,アミューズエデュテイメント

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 本が物であるとき、本には心が宿る。
 そして、この本は、いまの書店・流通を拒否しているかのようだ。わたしは、ドンジャをさわることができた浅草の博物館で贖った。だれもがどこでも買える本など本ではない、のかもしれない。心は買うものでないのと同じく。

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