国東治兵衛をよむ#01

国東治兵衛は『紙漉重宝記』を著した人物として知られる。大阪で寛政10年に刊行され、文化7年には江戸でも、翌8年には京都、大阪、江戸の三都で版を重ねている。当時から海外(オランダ経由か)へも紹介されていたかと思う。古書としていまも出るものがあるかどうかはわからないが、国内の図書館、博物館に所蔵されているものはあわせて12程度かと思う。

デジタルアーカイブで閲覧できるのは、国会図書館蔵、国立公文書館のふたつ。

そのうちのふたつあるいは3つが島根県内にある。島根大学付属図書館が蔵する桑原文庫に文化7年の版。島根県県立図書館にも文化7年の版があり、そしてもう一冊あるかもしれないものは昭和の手写本である可能性が高く近々に確認予定。

国東治兵衛像再考のための予察

まず、多くの事典に記載の國東治兵衛についての記述について。事典編纂時の問題でもあろうが、典拠史料を遡っていけば無根拠に等しいことがわかる。端的には益田市遠田に在住する紙問屋であったとする人物像である。
墓所とされ墓石に比定されている遺跡は、あくまで大正14年の段階、すなわち国東治兵衛の顕彰碑が遠田に建立された時にそうであると「された」ことに由来する。しかも、この顕彰碑は藺莚産業の起源をなす人物として顕彰されており、紙漉については一言もない。そして、藺莚産業の起源をなす人物ということにも、史料的根拠は、今はない。かつて誰かが見たかどうかすらも疑わしく、存在しないことを前提として、国東治兵衛像は捉え直し、主としたほうがよい。なんのために? 紙漉重宝記をよむために。そして益田市遠田をはじめ西石見をよむために。

少しばかり詳述しておく。

現在普及している國東治兵衛像の起点は、矢富熊一郎『益田町史上巻』(1952・益田公民館)にある。

「国東治兵衛の郷里は、(益田町の)隣村遠田村である。…(中略)…彼が晩年に当る寛政十年、紙問屋として郷里に働いたことは、彼の著「紙漉重宝記」に依って知られ、藩主松平周防守から抜擢されて、「間仕事取調係」に委嘱されたことは、松平家古文書によって知られる。…(中略)…領内産業奨励の事務を托せられるや、畳表は勿論のこと、山地帯美濃郡奥部地方には、楮を栽植させて紙漉の事業を奨め又椎茸の栽培を徹底させて、間仕事たる副業方面の、向上発達に至大な貢献を与えた。」(P.427)

松平家古文書によって知られるというところ。松平古文書とはなにか。治兵衛を記録する唯一の史料・松平家古文書は、「間仕事取調書」であり、天保八年(1837)編であることが、矢富の『安田村発展史上巻』(昭和16年・1941)には記されている。しかしながら、この文書は所在不明である。

ここで些末なことだが注意すべきことをひとつ。先の『益田町史上巻』には治兵衛が「藩主松平周防守から抜擢されて、「間仕事取調係」に委嘱された」とある。そして『安田村発展史』にある「間仕事取調書」の年号は天保八年である。松井松平家(松平周防守家)は官名「周防守」を代々称し、天保七年に棚倉へ転封となった。これにより天保八年の浜田藩は越智松平家(松平右近衛将監家)である。領主家交代が「係」と「書」の間にある違いとなっている。そして、矢富によれば、国東治兵衛が委嘱を承けたのは、松平周防守であるが、そのことが記載されているのは、松平右近衛将監家時代の文書ということになる。

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