茸師と飢饉

【雨の日の地図旅行、その備忘】
五年ごし?の宿題を少々。

◉茸師 三平
大分県津久見市長泉寺境内にある椎茸碑の中に、次の一文がある。
「往昔、天保の頃、津久見の先覚者彦之内区三平、西之内区徳蔵、嘉吉、平九郎、久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し、三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり」
 三平は、豊後から隠岐島にわたり後継者も続く石堂長吉とくらべて一世代ちょい前の享和三年(1803)の生まれ。
 徳蔵は津和野藩領であった横道村に、三平は浜田藩領の広見河内村に入って茸山(ナバヤマ)をする。

 嘉永5年12月、三平は茸山を下って里に出た。その帰路、平泊(二軒家)にあった知人の家に立ち寄り、知人は泊まっていくようすすめるが、三平は山へ帰っていった。雪が溶けた頃、三平は雪に埋もれて冷たくなっていた。三平は平泊の人にねんごろに葬られた。その春、三平の茸山には凄まじいばかりの春子ができ、村人は驚嘆し、その遺徳をたたえ、供養塔をたて三平祭りを営んでいる。
……というのが要旨なのだが、平泊がどこなのかがわからないし、疑問は多々。
たとえば。
「茸山を下って里へ出た」とあるこの里とはどこなのか。平泊(二軒家)の地名がさすところがはっきりすればと思うのだが……。いちばん近い里は東村(下の石見国図)。しかし、東村から広見のどこかに存在した三平の茸山(をのぞむ三平の住処)に帰るにしては距離がかえって近すぎるのではなかろうか。平泊が東村と広見の中間的位置にあるとして、どうだろう、遠くても3km程度か。が冬山で吹雪にあえば距離の問題ではない。
石見ではなく現在の北広島にあたるところだということも考えられる。里とは、横川または戸河内。冬でも半日から一日ほどもかけず行けるところではありそうだ。
ただ、平泊で調べるからわからないのであって、平溜なら、匹見の小原集落の奥にある。しかも、三平の墓はかつてそこにあったという渡辺友千代さんの証言もある。そちらがどうかということはまた別途。(2020/09/26追記…)
匹見に残る三平の墓石には、茸師市兵之墓と刻まれている。三平ではなく市平。これもわからない。

三段峡〜広見

 三平が匹見にやってきた(と思われる)天保11年あたりの年について、石見国図を眺めながら、あれこれ渉猟してみたが、天保8年に広見河内村で17戸中6〜7戸が逃散の記事からの前進はなし。逃散後、空いたままの民家に三平が住まいしたかもしれない。この年は大阪で大塩平八郎が蜂起する事件が起こっている。前年の天保7年は、「申年の飢饉」と呼ばれる大飢饉がこのあたり一帯を襲った、そんな時代である。

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石見國図〜国会図書館デジタル

◉向峠のウダオレ
 三平は、豊後から匹見へわたってくるその道で、多くの窮状を目にしたであろうことを想像しながら。
三平が没した広見河内から一日あれば行けるところでは一村全滅に近いこともあった。昭和11年には百回忌の法要があったという。

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。
 向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。
 銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》
 宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」未来社より。
 現在の山口県玖珂郡高根村向峠のこと。昭和14年の記録。

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△昭和4年〜7年に修正測量された5万分の1地形図を張り合わせたもの。

◉美しい村
 昭和11年、向峠で申年の飢饉の百回忌が行われた五年後の昭和16年牛尾三千夫は、現在の金城町波佐から匹見、河津、向峠までを歩いている。いくつかのルートが(道なき道のため)不明なのだが、次の地点を確かめたく、あれこれ見た。
《河津越の頂に立って細長い谷間に点在している河津の部落を見下ろした時、非常に古風な感じがした。恐らくこの小さい部落は最初に木地屋等が来て住みついた処であらう。このあたり一望見渡す限りのナバヤマである。あれだけの栗の木を倒して椎茸を生やすのであるが、これが栗の木を切らずにゐた場合の栗の花盛りに、たまたまゆきあふとしたら、さぞかし花の匂いにむせかへるだらう。そして秋は何石何十石といふ栗の実を拾うことも可能であらう。大庭良美君の話によると、日原村の左鐙の横道では、十何俵といふ栗の俵が軒に吊ってあったのを見たと云ってゐた。そして此処では栗一升に米一合の割で日々食べてゐる。即ち栗が主食物であるといふ事を知ったと云ってゐた。》
 牛尾三千夫「美しい村ー民俗採訪記」昭和52,石見郷土研究懇話会

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△河津越の頂とはどこであったか。現在、山道は埋もれているが、昭和50年代撮影の航空写真でみると、推測しやすい。おそらく囲ったあたりから図外に至るところ。

森と畑と牛と いま・そして

 奥出雲の小さな山村は、水を蓄え、資源を育み、食やエネルギーをまちへ送る役を果たしてきた。山村とまちとの連なりが、都市を育み、世界と繋がり、今日の生活経済文化圏がある。
村を破らず川を荒らさず山を荒らさず真の文明を築き上げてきた先人の労苦には万感横溢するを禁じ得ない。
しかるにここ数十年来、圏域をめぐる循環を生み出す源流、山村における森の荒廃と産業の凋落には底が見えない。人的資本は減耗の一方である。
くわえて現在、地域固有の在来作物や採集草木利用ならびにそれと連なる民俗文化はまさに消滅しようとしている。
しかし……。
生命現象における死は再生と同じ地平にある。より存在する為に複雑多様化しつつ、時にはそれを捨てる。私たちは、ひとつの文明の滅びのなかから、創出の道を歩もうと思う。森は、殺したり殺されたり食べたり食べられたりしながら、複雑精妙な共存共生の場をつくる力をもっている。人は、牛を飼い畑をつくることを通して森の生命場とつながってきたのだ。
世界が向かう先は闇ではあるが、この森に集うひとりひとりが、小さくとも強く、暖かな灯りとなって、美しい野山と人の世界をつくりだす希望となろう。

森と畑と牛と 設立趣旨より
「森と畑と牛とβ」発刊を機に、巻末に掲載した一文をここにあげてみた。

申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ

「この人は、お金がなくても、食えるように、いろいろやってるよ(笑)」

自分のことをそう言われてなるほどなとは思った。そんなつもりはないのだけれど、山を焼き雑穀を育て、野草の食べ方をいろいろと試し……、などなど。研究なのか趣味なのか事業※なのかは判然としないが、実践を積み重ねているのは確かだ。※森と畑と牛と

今日は松江市立中央図書館で、享保の諸国産物帳のうち隠岐、出雲、備前備後のものを草木を中心に通覧して必要箇所を複写し、ほか開架で目についたものをめくっていたら、あっというまの3時間だった。こうした書や資料を読んでいると、飢饉、救荒のことは必ず出てくる。

滅びゆく、用の済んだ、時代に取り残されたものばかりを集めていることは、冷笑されることもしばしばだが、いやそれはそのとおりであると自覚しているが、役に立つことがあるとしたらば、消え行く「食べるための」智慧を集めているということなのかもしらん。

飢饉は多く農村で生じる(てきた)。江戸時代以降、都市での餓死は少ない。食糧は都市に集積されるものだが、現代においてはどうなのだろう。そもそも食糧がどこでストックされ流通し消費されるのかというそのめぐり方において、現代日本の農村と都市の対比は意味が薄い。

農村から作物をつくる知恵や技術が少しずつ失われていくはじまりは江戸時代に入ってからだと推察する。中期・享保年間あたりから、農書や救荒の書が次々と刊行されることがその傍証である。およそ300年も前から、「山に入れば生き延びられる」ことは稀になっていったのだ。あえて悪し様にいえば「ただ言われたままにつくるだけ」の農民は江戸時代に誕生し今日までその栄華をきわめているのだ。とはいえ、山野の知=野生の思考の断片は生きていて、再生も復興も可能な時代に我々はいるのだということを希望としよう。

宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」は昭和14年に宮本が見聞したものが中心で、金山谷や戸河内や匹見のことでへぇー、ほぉー、なんでだろう、とおもしろく読めるところ多出する。

なかでも、山口県玖珂郡高根村向峠(むかたお)のことは、何度か通ったり眺めてきた土地であることと、2〜3の書き留めておくべき項目があったので以下に記す。ひとつは、そう、飢饉のことである。

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。

向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。

銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》

申年の飢饉という言葉は鳥取藩で語り継がれたものとしてよく出てくる。

(以下加筆予定)ホトホトのことなど。

雲州一国の者他国へ出る事甚禁じてあり

 温泉津の蔵元、若林酒造の開春、これ美酒なり。日日楽しむ。

 ほの暗い樽中の発酵を垣間見、肌寒い蔵中で糀の香りに慰撫されてより、またその味わいもひとしおというもの。さするに数日前のこと、佐賀錦から生酛づくりでものされた無濾過生原酒をちびりちびりと飲みながら、そういえば種村季弘氏が温泉津のことで筆を走らせておられたはずで、あの本はどこにあるのだろうと、思い起こしていた。

 あっけなくも昨日発見。実家の棚にあるのを持ち帰ってきた。

 ふむふむ。これであったか。

 書名は『種村季弘のネオ・ラビリントス7巻 温泉徘徊記』。河出書房新社から全8巻で刊行され、手元にある第7巻は1999年の初版。現在、需要は満たしての絶版である。種村季弘の古書はそもそも市場に出ること少なくして、値崩れしないことで知られる。しかるに6巻の食物読本がほしいなあと思いアマゾンでみるに、2000円の根づけが!? どれどれと思ってクリックしてみれば、タバコ臭ありますと。なるほど。他の出品をみれば9000円〜12000円となっている。

 納得。

 いい値段である。ほいほいとは買えぬ。諦念の向こうにあって手の届かぬものでもない。まっとうな本の適正価格というのはこのあたりなのだろうなと思う。

 さて標題に記した本題のこと。

 野田泉光院の『日本九峰修行日記』から、種村がひいたものである。

 泉光院野田成亮(しげすけ)は日向国佐土原の安宮寺の住職をつとめた修験宗の山伏であり、多くの行を積んだ大先達であった。文化9年(1812)9月から文政元年(1816)11月までの6年2ヶ月を諸国修行にまわり「西の芭蕉」とも呼ばれた。宮本常一『野田泉光院ー旅人たちの歴史1』として、石川英輔が『大江戸泉光院旅日記』として一冊にまとめている。

 つまりはたいへん著名であり、文化・文政年間の旅の記録とあれば、”観光資源”として”活用”されていそうであるが、これが島根県内では一切みたことがない。理由はあれこれ思いつくのだが。

 件の一文は、山伏の野田泉光院が出雲国に入ると、泊まるところがなく大変苦慮したすえにでてくるものらしい。今の時代も変わってないなあと思った次第。

 さっそくその記を県立図書館の地下書庫より出してきてもらい閲覧。『日本庶民生活史料集成』の第2集におさめられている。

《雲州一国の者他国へ出る事甚禁じてあり、因って旅ということを知らざる者多き故、人の情も慈悲も知らざる者多し》

 もっとも平田ではよくしてもらった人もいて、出雲に格段に悪い印象をもったわけでもなさそうだ。長州から芸州そして石州をへて出雲に入るその日記をつらつらと眺め読むに、他国に比して神仏をのことを語り合うことがきわめて少なかったように思える。それがゆえか、出雲路をしめくくるに痛切なひとことを残している。

《且又雲州は神国と他国よりは称すれども、雲州の人は神威も知らず、神国にして神国に非ず、人気宜しからざる国なり》

山の口あけ

9月は山の口あけ。失われた記憶と記録を求めてのろのろじたばたしている。民俗としての記録が現存するトチノミ採取文化の西の果て「柿木村黒淵のIさん大正11年生まれかあ」※1とつぶやくと、「あぁ○○さんね」と妻曰く。すげー。山村の文化凝縮度は基本的には都市をはるかにしのぐということか。黒淵は数回通り過ぎただけの記憶しかないが、椛谷のさらに奥にある。妻の同級生だった黒淵の子は小学校から寮に入っていたという。

「山村といわれるものの多くは、実は奥まった農村にすぎない」(千葉徳爾,1950)のであるが、数十年前まで農村とは異なる数少ない本当の山村が日本のあちらこちらにはあって、柿木には確かにあったのだろう。

トチノキを1本切り出すと1年分の収入があったので、どんどんと切り出されたというような文字の記録をあちらこちらでみた。多いところで年間10俵もとれる生物資源は家族数年ぶんの現金収入と交換されえた。同時に白米が山村に入ってくる、麦飯が主だった平地よりむしろ早く。

いや、しかし、それでさえ「山村」の残映のようなもので、椎茸の栽培が全国に広まる時代に、時代の結節点があるという仮説を抱いて匍匐している。焼畑もそう。時代でいえば元禄より前の時代。どこからたどれば糸がつかめるのか。

匹見(広見)に椎茸栽培を伝えたという三平さんの墓参に行ってみようか。何かわかるかもしれないと思ったり。

柿木村下須の西にかつてあった広大な笹地の謎も糸のひとつだろうが、参照必須の千葉徳爾の「はげ山の研究」「はげ山の文化」は県内に蔵書がない※2。『西石見の民俗』1962に千葉が「土地利用の展開」を稿している。今日は県立図書館でこれも見てみる。

大山あがり調査も半年放置していたものを再開する。山と牛と竹(笹地)とを結ぶ謎と未来を見出すべく。

雨で倒伏したであろうアマランサスの収穫後の干し場も探さねばだし、ヒエをどうしよう。古来の手法で調製したいし(いやそれしかないし)。アワはまあなんとかなるでしょ。そうこうしているうちに蕎麦もできちゃうよ。やれやれ。

※1)辻稜三「中国山地におけるトチノミ食とその地域差について」1993,人文地理第45巻第2号:調査の概要表に記された取材地一覧を眺めていたら柿木村の文字を見つけてつぶやいた。

※2)勘違いでして、島根大学付属図書館にありました。また、この後、『西石見の民俗』は古書にて購入した。

地方創生に必要なのは経済循環の向こうにあるインプロビゼーション

 藻谷浩介氏がPRESIDENT Online(2016年09月09日)でこう記しておられる。

そもそも地方創生の政策のイノベーティブなところは、交通インフラ整備に工場誘致、という旧来の発想は通じないことを直視し、「地域内の経済循環の拡大」が必要だと明確に掲げたことにある。

 http://lite.blogos.com/article/189813/?axis&p=4

 論旨はだいたい以下である。

・だというのに、地方創生は補助金で箱物つくることだと、未だに考えている議員が大半である。経済循環が何かさえまったく理解できていない。

・そんな中、地方に無駄な補助金を投入するくらいなら、東京一局集中を加速することに注力して、都市間競争を勝ち抜かねばならないという論陣が力を増してきた。

・地方でも成功しているケースは多くあり、大都市こそが学ぶべきである。人材や市場が過少な中でのビジネスは、まさに東京でこそ求められている。

 藻谷氏の論は大筋ではおかしくないのだが、ミスリードを起こしがちだと思う。経済循環がわからない議員を嘆くのはわかるのだが、産業連関表が読める(たとえば自営業者や中小企業が自社の経営に利用するという意味で)人がどれだけ地方にいるのだろうか。私も解説つきで読めるレベルであって、理解しているとは言いがたいのだが。(中国地方、島根県岡山大学の中山良平教授の貢献もあって、大変めぐまれているのに。中山氏の著書『まちづくり構造改革―地域経済構造をデザインする』2014(日本加除出版)は、わかりやすく有益です)

 《地域内の経済循環の拡大》を、どう理解し創生につなげるかについては、その欠点があまりに経済学(均衡理論)らしいことによるのだと思う。経済学は分析のツールであって、ツールでしかない。創生は分析ではないのだから、そこを勘違いしないことだ。

 いや、いや、それ? もちっとヒントを、と誰でも思うだろう。私もそう思う。

 ここからが本題なのだが、ジェインジェイコブズの勉強会をやろうと検討中なのだ。

 ジェインジェイコブズ(以下JJ)は今年2016年が生誕100周年にあたるし。なにより経済学プロパーからは非難囂々、経済学をわかっていない素人が何をいうか爆弾が多数投下されている。

 そんな中、塩沢良典氏がどこかでこんなコメントをしていて、ハッとしたわけだ(あとで出所いれます)。

《ジェインジェイコブズは経済は散逸構造であると言いたかったのではないか。生態学と経済学をつなごうとしたのだ》

 そして、触発されて、手元にある『発展する地域、衰退する地域』を改めて手に取りました。JJの著書は理解するのではなく、道を示そうとしている灯りなのだと、そうひらめいた。

 その道は読者ひとりひとりが見つけ歩むべきもの。対話や討議が必要。できればひとりでなく。ん〜、でも誰もいないし、と思いながら文庫解説をみると、なんと片山善博氏が寄せているではないですか。そのなかで、鳥取県知事時代の事例をあげていたので、それをほじってみました。

 JJはインプロビゼーション(improvisation:ジャズの即興のような)という用語で示しているが、地方創生の「創生」にあたるし、その創生を駆動するのはイノベーション創発)であり、創発の本質はこのインプロビゼーションであろう。すなわち、「要素間の局所的な相互作用が複雑にからみあいながら新たな秩序を形成していく場の力」である。

 さて、事例をみてみよう。→のついた仕組と心情は私の想定である。

【学校給食の地産地消インプロビゼーションをおこすか】

ステージ1)【政策】学校給食の地産地消を促す

      →仕組:栄養士の献立表にもとづいて食材を調達するには地元調達が困難。

      →心情:反発を受けて進まない。

ステージ2)【修正試行】ある栄養士が地元の作付けを調査。

       野菜の収穫量に基づいて献立を作成。

       結果:地産地消率がアップ。

      →仕組:ロジスティクスを担うJA等の組織が動く

       ※ロジスティクスの要諦:必要なものを・必要な時に・必要な量を・必要な場所に

      →心情:コミットメントしている個人が「うれしい」。昂揚感の醸成。

ステージ3)【創発インプロビゼーション

       地元農家が(献立表をみて)、地域外調達をしている食材のなかで、

       地元で調達・作付が可能な野菜類の作付けに着手。

       結果:地産地消率がさらにアップ。

      →仕組:ステージ2より高度なロジスティクスとなる。

          新たな作付が農家にとってプラスとなるかどうかは不透明。

          市場原理とは違う価値観が駆動しながらも、市場とも連動する

          必要がある。

      →心情:地域のため+長期的信頼関係に資する意志決定が農村では結果とし

          て利得が高い。

 場をつくるためには、プレイヤーがステージ3の心情(あるいは規範)を共有しているかどうかが鍵となるのではと思う。農村であれコミュニティであれ大規模システムに抗して経済をまわすためにはこれがアドバンテージとなる。従来、非合理性や因習性あるいは障壁障害として捉えられていたことである。マイナス評価をプラスに捉えるための概念を与えてみたいと思うが、現状、材料不足であり、「宿題」としたい。

 

柿の木村の大鹿山北西部にあった「竹林」の謎〜その2

  島根県の西に端に位置する大鹿山の北西部の竹林はどうやら篠地のようだと、そして、入手できるもっとも古い航空写真を入手してみよういうのが前回のお話。

  入手しました。約4000円。解像度はあがりましたが(400dpi→1200dpi)、そもそも元の画質がそこまでではなかったようです。なんでしょ う。失敗ですね。しかし、めげずに進みましょう、前へ前へ。今後1947年頃の航空写真はそこまでして取り寄せる必要はないということがわかりました。 な、ら、ば。国土地理院のウェブサイトで閲覧できるものを片っ端からあたってみるのみ。
 ………
 なかなか難儀です。3時間あまりを費やしていますので、作業途中の一部画像をざくっとあげておきます。

 問題の場所は、谷筋からいえば、大井谷の上流という位置づけができます。そして、大鹿山からみると谷を隔てた西の面にあたります。興味深いのは、この場所のみならず、昭和初期年代において、吉賀町の山地で「荒地」となっているのは、奥山部分だということです。大井谷でいえば、扇状地が水田利用で山麓薪炭林、そして奥山が共有林で「焼畑」利用なのか。

 ざっとみた限りですが、昭和初期においては、木次もですが頓原でさえ、山地に荒地の記号はほとんど見当たらない中、吉賀の山のそれはあきらかに多い。

 もう少し地図のエリアをひろげてプロット作業をしてみたいと思います。

 「広葉樹」「針葉樹」「水田」「荒地」「篠地」の区分にて。〆切を決めよう。14日以内とします! まずは5万分の1の<木次><頓原><津和野>にて。

 

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村のはじまり〜1

 日本の村はいつごろから村となったのか? わかったようなわからないような問いではあるが、およそ14世紀頃だとされている。応仁の乱前後のことである。
 さて、島根県仁多郡の北端に位置する三澤郷(現奥出雲町三沢地区、阿井地区の一部、雲南市木次町温泉地区)の成立について、「沢=豊富な水=水源」というものを問いを切り開く先鋒として使ってみたい。
 さするに、三澤における水汲みの場のなかでも、をち水として出雲国国造が朝廷に献上したその水はどこから汲んでいたのか問題の重要ポイントがこの地図の場所である。
 時代は先の村の創生期たる応仁の乱から一時代をさかのぼった奈良・平安の頃になるのだが。
 いやはやさてはて。
maenomainokoi
 村の始原への問いは常に頭の片隅にじっとうずくまっている。村を開く、村をはじめる、群れでその土地を占有し、定住することである。むらの語源としてむれ(群れ)があることはどの辞典にも記されていることがらである。移動をつづける狩猟採集あるいは遊牧主体の群れから、ひとつ土地にとどまってそこで命をつないでいくということの始原において、むらは生まれたのだ。
 さするに、それは、私の頭の奥底で、物心つく頃から座しつづける問いへとつながる。
「人は群れとして生きるのか、個として生きるのか」
 村の始原を問うことは、人が群れとして生きるというのはどういうことなのかを問うことなのだ。
 村が人間集団のあり方のなかでも、その基底に位置する形態であるのだから、村は日本だけのものではない。平凡社『世界大百科事典』は「村」の項をこうはじめていてわかりやすい。

〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。

 一般に<村>という場合、それは<町>に対置される存在であることを挙げたのちに、地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な「社会集団」のことであると定義する。しかし村の内実、すなわち村を村たらしめるものの時代・地域による多様なあり方を見よと、筆は読み手をいざなおうとする。
 その誘いにのるのは、次の機会にしよう、すぐに訪れる。
 ヨーロッパ、中東、インド、中国、朝鮮……と、きて、日本のところから抜粋しよう。

中世
 広域の地域区分ないし所領単位である郷や荘の内部に形成された,比較的小さな地域単位ないしそれに対応する共同体を指す語として村が現れる。その時期は地域差があり,中世初頭から始まって,中世後期には一般化する。

このような郷=村は支配の単位であるとともに,百姓相互の地縁的な共同体,いわゆる村落であった。これが発展して自治的な政治組織をもつようになったのが惣村である。草分け的な百姓である住人が集団で開発したことが契機となって村が形成された場合は惣村に発展しやすい。領主側の開発が大きな比重を占めた場合,あるいは領主が村落領主の公文層を支配権力の中に組織した場合など,領主支配が強いと自治的な惣村に発展しにくいが,その場合も,中世後期に百姓による共同体の形成が進む。

近世
(1)成立と特質 人の集住する小地域を村と呼ぶことは古代からあったが,〈村〉という行政単位が出現するのは太閤検地以降の検地によってである。また近世の村はこの時代における最も重要な社会的構成単位でもあった。近世の村の特質は石高制と村請(むらうけ)制である。

匹見の広見河内について

 広見河内について。

 なにかをいう前にもう少し調べてみたい。そのための材料をいくつかおいておこう。

 角川地名辞典から引用したものが下記。

 天保のころに17戸ほどがあったということがわかる。 

江戸期〜明治7年の村名石見国美濃【みの】郡のうちはじめ幕府領の益田【ますだ】領匹見【ひきみ】組,元和5年から江戸期を通じて、浜田藩領のうち匹見組に属す村名の由来は山間の所々に広い所があることによるという(八重葎)。

 検地は明暦2年・明和元年で,明暦2年の村高は36石余であり、生産高があまりに少ないため、法懸御免につき免税された。その後村高は「石見国高郷村帳」に33石余、「天保郷帳」では36石余山村で、文政7年には安芸吉和【よしわ】村の組頭が細谷山の杉の木を買入れているまた枌【そぎ】が天保7年に57貫410匁、安政3年に杉大枌17束・杉小枌835束を藩に献上した。

 当地では、禿ノ谷・オウコウ・河崎原で藤井氏によって鈩【たたら】が行われていた。天保8年の飢饉には被害が大で、17戸のうち6〜7軒が逃散し、5反歩の田から三斗俵が5俵しかとれなかったという。

 広見河内神社があり、この神社および村名については次のような伝承がある「安政元年1匹の鹿が広見部落へ迷い込んできたこれを河崎の部落民が捕えて殺し、肉を分けようとした時、鹿は急に起きあがって走り出したので人々は、鹿を埋葬し社を建て河内神社とした。安政2年この話を聞いた藩主が、これまで広見村といっていた村名を広見河内と改称するように命じられた」という(石見匹見町史)。

 地内を通る広見街道は途中で分岐し1つは安芸の佐伯【さえき】郡を経由して芸州の山県【やまがた】郡の二軒小屋へ、1つは五里山の頂上を通って吉和村に向かっていた。明治7年東村と合併して匹見村となる。

広見小学校についてですが、「匹見町へ行こう!」ブログに以下の記述。

広見小学校は集落移転に伴い

昭和45年12月24日に廃校式と集落移転式が行われ

翌年1月から匹見小学校に統合されています。

匹見町へ行こう!)

またもうひとつ。廃村をまとめて出版しておられるHEYANEKOさんのページから。

広見小学校は,へき地等級2級 児童数31名(S.34),明治17年開校,昭和45年閉校。 三八豪雪や集中豪雨の影響もあって過疎化が進行した時期は早く,最終年度(昭和45年度)の児童数はわずか2名でした。

広見集落の閉村は昭和45年12月。同年に制定された過疎地域対策緊急措置法(過疎対策法)を受けた匹見町の集落再編事業によるもので,最後まで残った7戸。そのうち2戸は甲佐家と久留須家だったことになります。

http://heyaneko.web.fc2.com/zsw14.html

道の過去と未来

 2013年12月7日にこの記事をテストとして記した。

 川の道、山の道、鉄の道。

 これら、すべて、今、人が省みなくなっている「道」なのである。

 鉄の道については、とくにここ奥出雲の歴史にかかわるところ大ではあるが、他の日本の村においても見落としがちな道である。

 

ホースセラピー

 

 上の記事から7年後の2017年12月18日に追記する。

 このときに抱いた思いはいまでも変わらない。

 忘れられた道の痕跡はいまでも、手をのばせば届く過去を生きた人の記憶に残っている。

 牛の道、峠、塞ノ神、馬頭観音……。

 あと少し。あと少し。