令和3年10月18日

大社方面へ。正午過ぎに出立、昼食をきづきで。割子と地魚丼。妻いわく、美味しい、一番と。帰り際、店主にご挨拶、久方ぶり。よい仕事をしておられると、僭越ながら思う。そういう仕事にあうと怠惰な身もひきしまるもの、だと言い聞かせよう。気づいたこと。看板が透明なアクリルに変わっており、メニューなどやや読みにくし。されど読めなくはなく、景観に溶け込んでいるといえなくもなし。文字が主張することがないのはよいところでもあろうか。

つづいて古代出雲歴史博物館へ。企画展はcome on 山陰弥生ライフ。
昭和10年にあたご写真館が撮影した米づくりの無声映像をふたりで見続けた。16分ほどか。背景に築地松もみえ、春に高畝を崩していく光景もあったので、斐川のどこかと思う。昭和10年、1935年。日本の生糸輸出がピーク(1900年に中国を抜き、世界最大の輸出国になっている)、日米開戦の6年前になる。籾摺りはすでに動力の映像であった。肥料も農薬も金で買えるものであったし、そうしたものを使うことが誇りでもあった時代であろう。野良の食事はお椀によそわれた山盛りの穀であったが、白米と麦だったろうか。ポロポロとよくこぼれていたし、稲刈りの時節であったので、麦と米であろう。田は米、麦、緑肥でまわしていたであろうことからも。
フィルムを提供しているアタゴ写真館は平田にある。昭和10年は創業時。他にこの年代あたりの写真なり動画が残っていれば観てみたい。
晩秋の庭先の風景の中に、鶏に給餌しているものがあったが、すべて白色レグホン。山間部よりも導入が早かったのではないかと思う。

弥生時代の手箕の出土品が見れたのは幸運であった。鳥取県埋蔵文化センター所蔵の金沢坂津口遺跡からのもので弥生前期。展示説明はほぼなかったため、帰宅後確認したのが下記。

【展示室2】弥生時代の「お宝」/とりネット/鳥取県公式サイト

材についは、《ヤナギ属のヨコ材2本一単位とする「ござ編み」で、タテ材にはツヅラフジの樹皮を中央部分に、サクラ属の樹皮を両側部分に使って編まれています。また、枠材はアカガシ亜族の丸木です。》と。
最近、ちょっとした風選を家の裏でやるときにステンレスのボウルを使っていること。倉庫においいた篩など一式がなくなったこと。などなどから道具を調達したいという思いもあったが、たまたまクサギナについてめくっていた書に手箕の記述があったので、ひいておく。椎葉クニ子さんの語りを佐々木章さんが記した「おばあさんの山里日記」葦書房,1998から以下を抜粋。
《明治の初めまでは手箕だけを使って、穫れた物を選り分けよったですよ。”さびる”いうて、大きく煽って風をおこして軽いものを飛ばしたり(風選)、”ゆる”いうて横に揺するようにすると、上の方に大きくて軽い物が出て来ますよ。それから、”よそる”いいよったが、細かく跳ねさせると、先の方に細かい”こめ”(精ヒエ)や”もみ”(玄ヒエ)が出てきますよ。私はサビるのは出来るがあとは下手ですよ。
(中略)
縦も横も竹でつくった竹箕というのもありますが、硬いので跳ねすぎて使い勝手が悪いですよ。この手箕の底は、カバ(ヤマザクラ)の皮を薄くしたのを縦に使ってありますよ。それにちょっと見ただけじゃ解らんかも知れんが、見て下さい小さいヒエでも隙間から漏れたりせんようにアサオ(アサ)の繊維(麻苧)を一緒に編み込んでありますよ。》

石斧、竪杵、平鍬、包丁など興味あるもの多々あり。土器が中心の展示であったが、”弥生ライフ”をうたうほどにはライフは見えてこず。展示の点数でいえばもっとも多い土器の用途について、研究は進んでいるはずだと思うが]、どうなのだろう。小林正史編,2017『モノと技術の古代史 陶芸編』吉川弘文館を紐解いてみたい。

次に、アントワークスギャラリーの展示会「秋のひだまり」へ。とりもと硝子店、フェルト豆ごはん、2人展。妻、フェルトをいくつか購入。サンタを予約する。10周年記念のワークショップでつくるもの。桐の木。

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梅雨のさなかに竹の繊維を取り出して

6月13日に「今年は一樽だけでも漬けておこうか」とつぶやいた。今年に限っていえば、紙を漉く場所、その融通が急にではあるが、できそうになったことも一因。
今年が無理でも漬けておけばなんとかなる。ただし漬ける好機は限られていて、筍が大きく竹となりはじめ、その稈がかたくなりはじめる手前まで。山へ行く道々、「そろそろかな」「もう遅いかな」「真竹ならまだ先かな」と気になっていた。

火入れの準備が優先とはいえ、えいやでやってしまえばそれまで。思い切ってみた。

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小屋を建てる

「なぜ、男は小屋を建てたがるのか」
この見出しにしようとしてやめた。「たがる」という言葉に含まれる揶揄はことの次第を見えにくくするだろうと、そう思い直したから。

「小屋を建てる」
つぶやくような、控えめな発言であっても、この言葉を聞いた男たちは、敏感に反応する。心にさざ波がさあっとたつような。
軽い興奮が寡黙な男たちを上機嫌にしていく。。。みたいな。
家だとそうはいかない。小屋でないと。
自分で建てるものだし、そういうものとして認知しているのだから、観たり聞いたりするだけで、身体がうずうずと反応するのだ。

で、たいがいは掘っ建て式となる。掘り方も、深さも、地面も、柱も、他さまざまなれど……この動画のように樹皮で縛るのもいいかもしれんと……。ちょっとした構造物を葛で緊縛した経験から類推するに、乾燥するとよくしまって硬くなる。ただ、日本の湿潤にして寒暖差の激しい気候に耐えうるかはよくわからん。
物置小屋兼雑穀乾燥小屋くらいのものから少しずつ試してみたい。
さて、柱というと、最近ワタシは、怒った柳田国男の姿が脳内リピートされて困るんですけど、どうしたらよいのでしょう?

 
エピソード2はこれ
https://youtu.be/CddeK1BQA7c
 
エピソード3はこれか?

https://youtu.be/_6_D4BzAyGk

灰小屋雑考

邑南町へ在来作物調査へ行く道すがら、灰小屋の「遺構」をみる。灰小屋といっても、岡山県から広島県にかけての高原地帯、山間部から島根県石見地方東部に多くみられるものは、田畑に近いところにもうけられ、そこで土を「焼く」小屋としてある。地域によって呼称の異動はあれど、このあたりだとハンヤと呼ぶことが多いようだ。
関心がありながらも放置してあるテーマであって、テーマは5つばかり。
1. 小屋の建築として…農夫がつくる建物という点、住ではなく機能性に特化したものとして。しかしながら中では火を扱うという点から納屋とは異なり、住に近いなにかを有するのではないか。すなわち住居の原型としてとらえてみたときに、何か大きな発見がある気がしている。
2. 再生を試みる実践…少なくとも3つの観点がある。ひとつめは焼土をつくる技法とその効果について。農学的アプローチがベースにありながら、環境民俗学をもちいねばとけぬ問題がある。どのような林野利用と農事の循環、作物栽培、複数の要因のからみあいのなかで醸成されてきたものであろうから。そして、多くは茅葺きであったことから、茅葺きの技術を小さくとも身につけることとリンクしている。安藤邦廣先生にご助言いただく予定。
3. 灰利用の文化…草木から繊維を取り出し、糸をつくる、あるいは紙をつくる、そのとき灰は書かせぬものである。麹菌を培養する際にも特定の樹種の灰が使われた。ほか、山菜の灰汁抜きに、焼き物の釉薬に、衣類の洗浄に、あげればきりがないほど。化学でどうのこうのという面をこえた感覚にせまってみたい。
4. 灰小屋の風景と環境と…田畑の中に煙がそこここからたちのぼっている風景。夢のなかであってもそれを見てみたい。灰小屋ひとつひとつは、その配置のバランスもさることながら、芝木を山から持ち運ぶ便、土を運びこむ便、できた焼土を田畑に戻す便、うまく燃焼させるための季節による風向きと強さ、などなど、多くの要因を計算にいれて合理的に設置されるものだが、それらが谷に散居しているさまは、その理ゆえに美しいものであったろうと思う。
5. 焼畑との関係はありやなしや…あっただろうと連想のまま書かれた記事はみかけるが、どうなんだろう。容易な結びつきはちょっと得られそうにないのだが。
むしろ、建築面からみるに、たたら小屋からの連続性をみるほうが得るところが多いのでは。
日本ではじめて、弥生時代の竪穴式住居が復元されたとき、参考にしたのが出雲地方のたたら小屋の構造であったと聞く。火を扱いながら、茅等の草葺であること、地面を掘り下げた構造であること……。ハンヤは掘っ建て柱は使わないが、その基本設計は系統を同じくするものではないか。

●関連過去記事
尊い家とは何か~今和次郎とB.タウトと
粗朶ってなあに?

セーター、その始原性とダーニング

 NHKEテレBSプレミアムで放映されている「美の壺」。その<File:435>なる回のテーマが「セーター」だというので、観た。
 気仙沼では手編みのセーターが、伝統文化としてあった。はじめて知った。セーターといえば、明治から入ってきた洋文化だと思うだろうが、伝統を形づくる時は100年もあれば十分なのだ。それが人の暮らしに根ざしているかどうかなのだ。私たちは古くさかのぼれば、長く続いたものであれば、伝統としてありがたく頂戴しがちだ。そこではないのだ。織物・服飾に限らない、建築や技芸、食文化、どんなものであれ、人が編み出し共有していくものの育み方、そのヘリテージが伝統というものなのだと、認識を新たにした。
 番組では気仙沼ニッティングが紹介されていたが、ほかにも気仙沼で編み物を扱うところがいくつがたちあがっている。
 こちらの論文※1などからもわかるのだが、編み物は「階級」や年齢、職業を問わず、田舎でも都会でも人々の間に浸透していったようだ。
 経済的、すなわち材料が低廉で供給されたことと、道具が少なく特別な技術を要しないこと、このふたつが初期からそなわっていたのだ。いや、隠れたもうひとつの条件があるだろうが、これはいまは深くはおわない。が、ひとつだけ。
 家族の衣類は自分の家でつくるものだという理念のようなものがあったのだということだろうと思う。
 
 つくろうことができるということがうえの3つともかかわる。番組の〆もそこにおいていた。
 ほどいた毛糸で編み直すこと。
 そして、ダーニング(これ、はじめて知った)。
 衣服っておもしろいなあと思うことができた。
 と、同時に。本の編集を見直す観点を与えてくれそうだ。
 このあたり、もう少しほってみたいが、また次の機会に。

そして、もうひとつ。この本を読むこと。
「編む」は「織る」よりも、その起源を古層にまでたどれるものなのだ。
滝沢 秀一『編布(あんぎん)の発見―織物以前の衣料』を読みたくなった。
※1 森理恵,櫻井あゆみ,2012「近代日本における編物の変遷の一側面―明治後期から昭和前期の編物書 24 点の分析を通して」(日本家政学会誌 Vol. 63 No. 5 225 ~ 236)

金継ぎ、はじめます(かな)

 一昨日、全6回の金継ワークショップ受講を終えました。
 「金継ぎ師guu.仲秋の金継教室」として雲南市木次町のカフェ・オリゼで開かれていたもの。9月の残暑きびしい日から寒さで凍えるような年の瀬まで、終わってしまえばあっという間でした。漆がかたまるのをまって次の工程にはいるので、3〜4ヶ月はかかるのですね。段ボールを使った簡易な室で「お世話」することも、手間だなあ面倒だなあという気持ちとは裏腹に、手をかけることに漆がこたえてくれているようで、楽しい時間でした。湿度と気温をみながら、霧吹きで段ボールの中をしめらせておくのですが、季節のうつろいとともにかわきかたもなにもかわっていきます。漆は生きている。そう思わずにはいられません。それやこれやもふくめて、昨今ぱぱっと終えるワークショップが隆盛するなかでは息の長い教室だといえましょう。
 1回のワークショップは2時間程度なのですが、筆やへらの使い方やら練り方やら、ひとつひとつが「微妙」な加減を会得するのが骨折りでした。いや骨折りというのは言葉が違う。ほんの一瞬なので、つかまえようがありませんし、なんとなくわかった気になっているだけです毎回。よって次回にはすっかりといっていいほど忘れている。メモをとっていてもさして役に立ちません(が、メモがないと完全に忘却)。そういう具合だったので、6回の受講をおえてまず思い立ったのは、忘れぬうちに実践せねば!ということ。これから、自家(カフェ含む)の器を少しずつ手入れしていきます。
 下の写真は最終回の様子。ガラス板にのっているのは絵漆です。

 最終回を終えてのguu.さんの言葉から。

《金継ぎをやっていると、どの工程もすごく大切なのがよくわかります。 (きっと生徒さんたちにもわかっていただけたはず!) 粉蒔きを美しく仕上げるには、中塗りや下塗りから美しくしておかないといけなくて、中塗りや下塗りを美しくするには、錆漆等の下地から美しくしておかないといけなくて… 「丁寧な仕事」の積み重ねが最後の仕上げに全て表れるのと同時に、「まあいっか」の積み重ねも最後の仕上げに全て表れます。 「ものを直す」ということを、少しでも身近に、気軽に考えていただきたいのとともに、職人さんや作家さんの漆器が、いかに「丁寧な仕事」の積み重ねであるか、感じていただけたら嬉しいです。》

 丁寧な仕事の積み重ね。工芸にはそれが出るものですし、伝わる、ときには数千年をへだてても。景観にもあるのではないかと思う、あるいは思いたくなっている、今日このごろ。美しい風景には、人が手をかけただけの積み重ねがあるのだと。ね。

尊い家とは何か〜今和次郎とB.タウトと

 粗朶ってなあに?の中であげている「ハンヤ」のことを今和次郎が名著『日本の民家』(1922鈴木書店,1989岩波文庫所収)であげていた。
・鈴木書店の初版(国会図書館デジタルコレクション)

・岡書院の改版,1927(国会図書館デジタルコレクション)

デジタルコレクションでは、岡書院から出た改版のほうの158コマ目にある。

59 備後山間の灰屋

《これらは肥料の製造所である。田圃の中や山の根だどにこれらは作られている。農夫たちは仕事の余暇に山の芝を刈り取って来て、この家の中でもやして灰を作るのである》と。

 ほぼこれだけの記述なので、ハンヤについての新たな知見はなかったのだが、何かが気にかかった。今はハンヤの何が気にかかったのだろう。今は日本の民家に何を見ようとしていたのだろう。そうしたことを思い、読み返してみた。これまで資料的に散見する程度のものであったから。それは、考現学今和次郎ではなく、『日本の民家』を書く作家として読むことである。ほどなく、というより、とてもわかりやすく、今の筆が走るのがどんな家なのかが見えてきた。「山人足の小屋と樵夫の家」では、無邪気ともいえるようなはしゃぎっぷりがほとばしりでている。

《柱は又を頂く丸太を掘立にし、桁や棟木を柱から柱へ架け渡している。自在鉤の工夫は木片のかんたんな細工である。燃えざしの枝が真っ白な灰になり、その端に谷川の水を汲みとってきたルリ色のヤカンが尻をあぶられて留守の小屋の中に残されていたのである。小屋の壁は刈りとった叢の枝で出来ていて、生葉の枯れた匂いが室内に充ち満ちている。そして細かく切り刻まれた日光の片々が、薄暗い室内をぼんやり明るくしている》

 今が描く「日本の民家」は、明治の終わりから大正の時代に取材記録され、1922年(大正11)に刊行されたものだ。当時にあっては、ごくごくふつうの民家がその対象となっている。その中でも、粗末な家に、小屋のような家に、つまりは家の原初の姿を形としてとどめるものに今は惹かれているように思える。
 開拓者の家(小屋)を今は、「尊い家」だといい、《めったにそれらの尊い家を訪問した人はいないと思うからここで一般の民家の構造を紹介する一番最初に、真実な心で私は、それらの家の話をして置くことにする》として述べる。

 《彼らは木の枝や木の幹を切り取ってきて、地につきたてて柱とする。枝の又が出ているとそれが棟木を架けるのに利用される。縄でそれらは結び付けられる。……(略)……。床は土間のままである。一方に入口が付けられ、そこには藁の菰が吊るされる。そこは野原の上の彼らの家の門であり、玄関であり、また部屋の入口でもあるのだ》

 今和次郎のこの叙述に、私はブルーノ・タウトと同じ匂いを覚える。篠田英雄訳『忘れられた日本』から一節をひいておこう。

《農民は、今日と異なりできるだけ金銭の厄介にならなかった。それだからこそ彼等の自然観は、家屋のみならず、総じて自分達の作りだすものに独自の形を与え得たのである。実際、私は農家のいかものをこれまでついぞ見たことがないくらいである。  原始的なごく貧しい小屋は、丸太をほんの形ばかり斧で削って柱や梁とし、この簡単な屋根組の上に竹を敷き並べて藁屋根を葺くのである、小屋を蔽うている藁葺屋根の線は非常に美しく、また柱間に塗った藁スサ入りの荒壁は絵のようである》 

 さて、大まかな見取り線として、松岡正剛による今和次郎柳田国男の分岐点をひきながら、ひとまず2つの書籍をあげておく。松岡は今の『考現学』をあげる際、次の記を入れている。

《そこへ関東大震災である。焼け野原になった東京のそこかしこを見ていると、そこに草の芽のようにできてくる「現代」の芽吹きに関心をもった。今の目はここで考古から考現に切り替わる。そしてあえて「考現学」の狼煙をあげたのがいけなかった。「柳田先生から破門の宣告を頂戴してしまったのである」。
 今を動かしたのは考現学だけでなく、焼け跡に次々に粗末に建っていくバラックだった。これを見ると矢も盾もたまらずに、今は美術学校の後輩を集めて「バラック装飾社」をつくり、ハシゴをかつぎ、ペンキ缶をぶらさげてブリキやトタンや板っきれに「絵」を描きはじめたのだ。銀座のカフェー・キリンがその代表で、そこには原始人まがいの、いわばオートバイ族が壁にペンキスプレーで描くような奇怪な「絵」が出現していった。》

松岡正剛の千夜千冊〜今和次郎『考現学入門』1987,ちくま文庫

 荒地から出現するもの。まがまがしさ。
 日本儒学が見出していった「古学」と、ひとつの到達点としての宣長、そして国学。このあたりを鍵として、読み解いていけたらと思う。
 ひとつめは柳田が避けてきたものとしての民藝である。

 †. 前田英樹『民俗と民藝』2013,講談社選書メチエ

 ふたつめは柳田の山神論、みっつめにジル・クレマンの『動く庭』であろうか。

 

 

岩のカマド

椎葉で見た岩のカマド。いいなあ、できそうだなあと思わせる。の、だが、そう簡単でもないと思う。開口のとりかたとか、内部のドーム構造のとり方とか、煙突の角度や長さなど。ピザ窯ほどではないにせよ、燃焼効率を高めるようなバランスをもっていないと、焚付のときに煙がかなり中にこもるはずだし、、。
まずは石と泥とで試作してみるべか。

住まいの床下は土であるべきと私は考える

 森と畑と牛と=MHU.が手がける奥出雲の小さな風の谷のプラン(自然地形としての谷にとって大事なのは水と風が淀まず流れ続けることです)。そこにはどんな建物がどこに配置されていくべきなのか。…てなことを皮切りに、忘却の箱にいれたままだった建築のことを少しずつ思い出しています。

 下山眞司さんのブログを読みながら、こんな記事を発見。

アリヂゴク・・・・アリヂゴクが棲める床下

《一般に、床下は湿気ると言われている。

 たとえば、「住宅金融支援機構(以前の「住宅金融公庫」)」の「木造住宅工事仕様書」には、「床下は、地面からの湿気の蒸発等により湿気がたまりやすい・・・」と解説があり、「ベタ基礎」以外の場合は「防湿用のコンクリートの打設」または「防湿フィルムの敷詰め」とすることを求めている。 この解説にある「床下の湿気理論」について、かねてから私は疑問を抱いている。》

 かねてから、古民家にこの仕様を施す例を散見するにつれ、疑問がぬぐえなかったのですね。構造的補強の仕方もですが、ここで問題視されている湿気・通気に与える影響についてからも。だって、土は呼吸しているんですから。

 引き続き引用(というには長いのですが)。

《では、普通の土地で、床下をコンクリートを打設したりフィルムを敷き詰めると、どのような事態が起きるだろうか。

 床下の地面は、陽が当らないから、その温度は屋外の地面よりは低い。コンクリートやフィルムの表面温度も、地面の温度と同じになっているはず。そこへ、床下の地表温度よりも暖かい湿気た空気が入り込むと、どうなるか。コンクリートやフィルムの表面に結露するのである。夏の朝、雨も降らなかったのに、舗装道路が濡れているのも同じ現象。

 そうならないようにと「断熱材(保温材)」をコンクリートやフィルムの下に敷きこめばよい、と考える人がいる。そういう「仕様」もある。しかしそれは、「断熱材」の「断熱」の語に惑わされている証拠。どんなに厚く「断熱材(保温材)」を敷こうが、地温になるまでの時間がかかるだけに過ぎない、だから、コンクリートやフィルムの表面は地温に等しい、ということを忘れている。》

 なぜ「忘れる」のでしょう。理由はともかく、確かに忘れるのです。

《(前略)同じ理由で、私は「ベタ基礎」は使わない。地耐力が小さくても、別の手立てを考え、床下地面を確保する。》

 現場から(シロアリ屋のひとり言)からも、こんな写真が。

「古民家だから冬はすきま風が入って寒いです。密閉対策をしてほしいな」などと言われる我が家(一部店舗)ですが、隙間だらけでよかったね〜と思います。

 住まいの床下は土であるべきと私は考えますし、アリジコクとともにある住まいがいいなあと思います。

革新の工芸に革新はありやなしやの巻

12月4日、東京国立近代美術館工芸館へ行ってきた。企画展「革新の工芸 ―“伝統と前衛”、そして現代ー」の最終日を観るために。結論からいえばInnovationを感取することはできなかった。「現代」がいかに暗い時代かということを再認識した次第。銀杏の黄葉が美しく、大気は暖かく、あぁ東京はまだ秋だったのだなあと、のんびりと北の丸を歩けており、気持は明るかったのだが。

それにしても展示の最終一室にまとめられた「工芸の時代の先駆者」は圧巻だった。これを先駆というのだろうか、先駆と位置づけうるのだろうか。

生野祥雲斎の竹華器「怒濤」

http://blog.goo.ne.jp/shiotetsu_2015/e/8b6582194260b47bbd78bf2b955ffa06

山脇洋二の蜥蜴文硯箱

浜田庄司の掛分釉壺

富本憲吉の色絵金銀彩四弁花文飾壺

河井寬次郎の色絵筒描花鳥文扁壷

北大路魯山人織部俎板盤

以上。