出雲の山墾り〜 R5.sec.18-1

7月18日の山墾り。夏がきたのだと知った。山に入ったのは夕方遅く。空と空気にはオレンジの色味がかかっていた。日陰の斜面でもあった。なのに。動けば汗が滝のように流れ出てくる。目に染みいって視界をさえぎるほど。2年畑のまわりでは、草がここ2週間ばかりで30センチはのびたのではなかろうか。
大豆のあるところだけ、黒い土がのぞいている。草たちが取り囲み、今にも押しいってやろうかという勢いである。周囲30センチほどを根の成長点からノコ鎌で刈り取る。その背後というか向こう側も軽く刈っておく。次回は刈払機でいっせいに始末しておかねば、獣が入ってこようぞ。
あぁ、それにしても単子葉植物の驚くべき成長力の凄まじさかな。美しさといってもいい。畑のこぼれダネから大きくなったタカキビも単子葉植物である。春先にダメ元でばら撒いていたタカキビの種子のうち、木綿のところのものがいくつか大きくなっていた。ちょうど牛が入った道で、踏耕ともいうべき土の掘り返しがあったところだ。草もそこだけ繁殖を控えているようで、5m先からも土の色が見えていた。イネ科雑草に取り囲まれたところにも何株かは負けじと成長していたが、茎が細く、踏耕の場所のそれと比べると弱々しい。周囲の草を刈って様子をみることにする。

そうそう、大豆・タカキビ畑の周囲を草刈りしているときに、トマトの匂いがした。もしやと丁寧にすすめていくと、果たしてトマトの株が3つほど。ブラックチェリーである。昨年はその種しか植えていないので間違いはない。うまくすれば9月の半ばに美味しい実が食べられるかもしれない。

さて、春焼畑。繰り返すがタカキビは単子葉。驚くべき成長である。前回7月12日のものと比べてみても。

出雲の山墾り〜 R5.sec.17-7

7月12日の山墾り。豪雨や東京行で、行けない日が続いた。この日は時間の隙間を縫い、様子見だけでもと春焼きの畑に入った。牛は入っておらず、ほっとしたが、そろそろ猪・狸らにも注意せねば。端的には周辺部の夏草を伸ばし放題にしないことである。柵の補修補強は次回でよしと。6月8日の火入れから一ヶ月が過ぎた。タカキビの成育はよろしくない。こんな状況。

場所によって生育にばらつきがかなりある。笹の地下茎が多いところはまあよくないのだが、そればかりが要因というほどでもない。もともと土壌がやせているがゆえに藪化していく傾向がみられた所なので首を傾げるほどではないのだが。ところで、藪を焼く焼畑については、「竹の焼畑」の名で白石昭臣氏が書籍にも残しておられる。ソバ・アワ・ヒエを初作とすること、夏焼きが多いこと、竹・笹を焼くこと、この3点が特徴ではなかったか(要確認)。だとすると、タカキビはやや不適であること、春焼きであること、竹・笹は混じっているが主な燃焼材ではないこと(もともとの植生には少なく、低灌木主体)、この3点が出雲・石見地方で見られた「竹の焼畑」の特徴からはややそれそうだ。民俗誌を再度参照して確かめること、タカキビの特性を確かめること、備忘としてここに記しおく。

さて、笹の新芽と葛の新生をよく取り除いた。ヨウシュヤマゴボウもよく育っていたので、除去。ヨウシュヤマゴボウが出ているところは黒ボク土である、この斜面では。昨年春に焼いたところほどではないものの。そこに、ハグラウリと地這キュウリを播種した。

斜面を一段さがったところには、大津くんたちが木綿を播種していたが、見当たらなかった(この日あとで、聞いたら、発芽はして育っているとのこと。踏まないように気を付けるべし)。斜面にまいたアマランサスは密にまきすぎたのだが、よく育っている。間引きしたほうがよいのかもしれないが、密植したことが笹の侵食と拮抗しうるとも思われる。いましばらく様子をみてみる。

 

みんな長生きしてほしいよね

「みんな長生きしてほしいよね」
と妻が言った。大雨の翌日であった。車で野菜を仕入れに隣町へ行く際、峠を越えるのだが、その降り道の急カーブが続くところで、唐突な、呟きというものよりははっきりとした口ぶりで。

ふたりは2日前、東京の高円寺にいた。暑い一日をほうぼう歩き回った夕方で、その日の最後の目的地まで百メートルもないところで、休みたいな休んでもいいのかもという気持ちに応えるように、目の前に現れた喫茶店。「喫茶 DENKEN」という店名と「OPEN」という看板だけがかかった、古い建物に蔦が絡まっていた。

妻の一言は、そこに入り受けた印象と感慨とを振り返ってもいたので、文脈としてはそこに連なるものであろう。
DENKENは創業が昭和30年ごろで、営業は70年におよぶ。創業以来その場所で働き続けている女性は90歳前後の白髪の老嬢であった。白いブラウスに黒のスカート、パンプスを履く姿もまた70年になんなんとしたものであろう。古典派ロマン派の曲が大きな良い音で鳴っていた。

あんなふうになりたい。なれたらいいな。どうしたらなれるのかな。どうするかな。
具体な話もあれこれする中で、自分自身のあり方である以上に、関わりあるみんなのあり方によるのだということが、ふと思われたのだろう。「みんな」とはそういうことだ。

出雲の山墾り〜 R5.sec.17-5

6/29の山墾り。明日から長雨となる予報が出ていて、積み残しは多々あれど、やれるところまではやって帰るつもりでいた。具体的には草刈り少々と柵の保守、それにアマランサスの播種。しかるに、着いてまず目にしたのが、柵がひとつ、牛に突破されている状況であった。優先順位を入れ替え、やれやれと補修作業に入る。動かしながら、運びながら、どうするかを考え考え、構えをつくっていく。陽射しがきつい。汗で目がしみる。なにぶん応急的処置であるから、今日はここまで!として終える。柵でなくバリケードである。塞ぐことを優先し使うことを考慮していない。つまり人が通れない、すなわち私も通れない。

人には迂回という知恵がある。別ルートで畑地に入ることにする。たぶん半年ぶりくらいに通るルートであって、なにが出てくるか少し不安でもあった。牛はここまできてるのかあ、でもここでさすがに行き止まりだよね、突破は無理というところの向こう側へ足を踏み入れる。人もなかなか入りにくい、ゆえにか新竹がまとまってあるのを発見した。では、切っていくかと手鋸と山ナタをふるい、4本目くらいのところだったろうか、新竹の柔らかい切り口に突き立てていた山ナタを喪失。カランカランと伐倒して足元に敷かれている竹の上を転がる音がした。地面は昨日の雨で湿っているし、6月も終わろうかという時期ゆえ、草の茂りも増している。竹をどかし、草木を整理しながら探し続けるもなかなかこれ見つけられない。

一旦チェーンソーの置いてあるところまで帰って、力技的にバシバシ太稈として地を覆っている竹を切っては外していくしかないと思い立ちつつも、もう少し、、と続けていたところ、足元にキラリと光る刃が目に入り、あれ、踏んでたのか?という発見であった。スパイクつきの長靴であたし、まったくわからなかった。おそらく何度も踏みつけるうちに土にめりこんでいったのだろう。よかった、ほっとした。

もうひとつの突破箇所に竹を持ち込みはじめたところ、下方に葛が樹冠を覆いつつある低木2〜3本を発見。とりのぞくべく降りていき、巻きついている蔓を処理していく。そして崖にくずれを見て驚く。ここを登ったのか牛、と。いやここもふさぐのは容易ではないな、どうしようかと思案しつつ、クサギナ数本を切ってふさぐように置いてみることにした。

日があがってくると小さな傾斜、短い登攀でも上り下りは体力消耗度が激しいものだ。気温は30℃には届いていないが、湿度が高い。

午前10時過ぎから午後1時過ぎまでの仕事であった。道具やヘルメットをクサギナがたつ木陰においていたので、そこで休みをしばしばとった。身体を休めると、小鳥の声がきこえてくる。身体を動かしているときも鳴いてはいるのだろうが、そして耳にも入っているのだろうが、意識がとらえてはいない、少なくとも記憶には残っていない。なんの鳥だろうかと、休んでいるときには思う。今日はじめて聞く鳴き声であった。数回聴くことがあれば、覚えて調べてもみれるだろう。伐開をはじめて10年ほどにもなるが、明らかに鳥の種類も数もふえている。もっと増えるだろうし、そうなってほしいと、そうしてまた身体を動かすのだ。動けと念じないと、まず動かないほどにはクタクタになってしまうものだ。

牛に入られたのは春焼き畑も、昨年焼いて今年大豆をつくる畑もだ。

大豆はまだ双葉から次の葉が出始めるくらいの段階だった。まったく口をつけていないのがおもしろいというか興味深い。同じような背丈のタカキビなどは根元近くまでかじられているのにだ。ほっと胸をなでおろしたい。また、おもしろいのは、よくかじられていたコナラの幼木はその後放置されていて、小さな若芽が育ちつつある。なんとか再生することを願う。そして、ヤマウルシは小さな葉ひとつ残らず、食されている。好みの問題なのかなんなのか、このあたりよくわからない。

梅雨に入って、作業しづらい日が続くだろうが、週に一度は柵を手入れしていきたい。

本日机上の書

令和6年6月29日。溜まっている机上の書をあげてみる。滞りはなににせよよいものではない。淀みをとって気の通りをよくせんとする意趣からも、書き記すのだ。

†. 坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその次代』新潮文庫,2011;2001マガジンハウス刊

数日前にふれた。少し読み進んでは中断することを繰り返し、はて3年ほどにもなろうか。ときは慶応三年、1867年。さかのぼること157年前になり、翌年の慶応四年に元号は明治となる。大きな時代の節目であり、明治という今につながる時代の幕開けの時。この年に生まれた7人の作家とともに、この時代の香りを味わってみたい。

†. 朝日重章著,塚本学編注『摘録 鸚鵡籠中記(上)』岩波文庫,1995;貞享元年1648〜享保二年1717の日記の摘録

切腹・自害の用例をめぐる参考文献として、現在、読み進んでいるもの。メモであれば近々あらためて記す予定である。下にあげている『天皇の影法師』にも関連して。

†. 猪瀬直樹『天皇の影法師』中公文庫,2012;1983朝日新聞社刊

1983年、昭和58年の発表であり、最終章にあてられた「恩赦のいたずら」は猪瀬の事実上の処女作にあたる。終戦の昭和20年8月末に起こった松江騒擾事件を題材としている。資料を渉猟しているさなかのものだ。なぜこの事件を? こたえとして3つ挙げておく。

1. 事件の主犯(首魁)、岡崎功のたどった道をなぞることで、速水保孝の見えない道(可能性)を照らしてみたい。速水は岡﨑よりふたつみっつ年下となるはずである。同じ高校(旧制松江中)を出て、同じ時代に東京へ出て、戦時下を過ごし、郷里島根に戻って何事かをなしている。かたや右翼、かたや左翼。岡﨑は事件で無期懲役、速水は次期総理と目されてもいた国務大臣秘書官となりながら「落ちこぼれ」て、県庁職員となる。挫折のときを抱えて生涯をまっとうしたふたり。重ならないようにみえるし、ふつうの意味で重なってもいないから、誰もこのふたりを対峙させながら描くことはしていない。だから、やってみたいという旋毛曲がり的性分にもよるのだが、とても意味のあることに私には思えるのだ。

2. と3.については、追って加筆。

†. 山下政夫『円い水平線―旅と口碑と民謡の隠岐』創元社,19;1983朝日新聞社刊

松江の冬營舎で購入。知らずして前記の速水と連関する記事が散らばっている。隠岐の狐つきの話がいくつか。また猪瀬の『天皇の影法師』と同年の出版。

以下、時間切れのため、追って加筆する。

†. 『現代日本思想大系29 柳田国男』益田勝実編,1965筑摩書房
†. 大塚英志『「捨て子」たちの民俗学―小泉八雲と柳田國男』角川選書,2006
†. 中井久夫『隣の病』ちくま学芸文庫,2010

†. 中井久夫『「伝える」ことと「伝わること」』ちくま学芸文庫,2012

†. 戸田山和久『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』NHKブックス,2005

 

滑稽新聞は松江で読まれていたか

『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』なる書がある。夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾口紅葉、斎藤緑雨。この七人と生きた時代を坪内祐三が綴っている。この七人を旋毛曲りとすれば、対する実直な?すなわち旋毛がまがっていない七人とは誰々だろう。僕はまず三人が思い浮かぶ。柳田國男、田中正造、森鴎外。どうだろう?

さて、旋毛曲りのほうの宮武外骨の代表作といえば「滑稽新聞」である。明治41年に発禁処分となっている(外骨にとっては何十回めかのことで珍しくはない)、確か。

借りっぱなしで明日おそるおそる返しにいく『松江八百八町町内物語〜白潟の巻』は昭和30年の発刊だが、その中に次の一文がある。

一文字屋の有名な売子「熊さん」も往年の松江駅の名物であった。「ビール、正宗、アンパン、ベントー。マツチェ(松江)八景、滑稽新聞」と声高に連呼する声は人をほほえまさないではいなかった。

執筆子は「滑稽新聞とはどんなものであるかよくわからないが、新聞は松江橋のたもとでまとめて立売しているのをよく人々は買うのであった」としている。松江駅の開業が明治41年11月であるから、「滑稽新聞」が売られていたかどうは微妙だが、「大阪滑稽新聞」のことであろうか。あるいはヒットにあやかった類似紙も多数あったらしいから、それらのどれかだったのかもしれない。

 

出雲の山墾り〜 R5.sec.17-4

新竹を除伐。5〜6本ほど。足場が未整理で少し動くのにもたいそう手間がかかる。枝葉はまだ展開されていないが、稈の硬化は進んでいる。もう2〜3週間ほど早ければもっと楽にできたと思うが、それは言うまい。一応間に合ったとは言えよう。

大豆は1週間前の播種にしては、もうずいぶんとのびている。牛に入られて少し踏み荒らされているが、打撃はわずか。こぼれ種子から発芽成長していたタカキビは大半がかじられていた。1本残っていたのが救いだ。久しぶりに腹が少し立った。牛に半分、自分に半分。もくもくと追加の柵=バリケードに、竹を運んだ。

春焼き畑のタカキビは播種から16日たつのに、わずかしか伸びていない。今日は6月26日。うまく稔ってくれるかなあ。ギリギリだなあと思う。

下の写真は昨年のタカキビ。6月11日撮影。

そんなこんなで、心細い思いを抱きながら、出てきた竹の新芽を除いていった。ばらまいたアワもヒエも発芽はしていない。タカキビの成長の遅さもだが、土の状態はよくなさそうだ。

手足を動かして、土にさわっていれば、気がつくこと、気になること、やらねばならぬことが、次々と浮かびあがってきて、まぁ、そんなことを繰り返していくのだな。

雨と畑

7月22日の土曜日から翌23日の日曜日にかけて、出雲地方は大雨に見舞われた。最高気温が30℃となるような日がしばらく続いていたことからすれば、恵みの雨でもあったのだが、裏の畑のところどころに水たまりができるというのは、おそらくはじめて見た。ここ数年でもあまりないほどの集中豪雨であったと思う。雨雲をとらえる気象マップデータでみると、局所的豪雨となるようなまとまった雨雲はないものの、スポット状のそれが散在して流れている様がみてとれた。大東の観測所では22日が38.5ミリ、23日が84.5ミリである。

24日、すなわち雨があがった今日、裏の畑に入ってみるに、水のはけは思ったよりよい。21日に播種したアマランサスが発芽していた。草ののび方が尋常ではない。これから1週間で、あちらこちらの草丈が一気にのびるのだろう。よく見ておきたい。

松江騒擾事件と切腹

松江騒擾事件の主犯、岡崎功が自害を試みた際、その法・手立てはいかなるものであったかを確かめたい。

《切腹の後、喉を切って突っ伏した》

概略はこれで間違いないかに思われる。猪瀬直樹は、事件から三十数年後に資料精読と当事者への取材をもって、「恩赦のいたずら―最後のクーデター」を発表した(『天皇の影法師』1983年,朝日新聞社刊・所収)。事件を包括的かつもっとも詳細に描いたものである。

しかしながら、一点の曇りもなく切腹を肯んずることには戸惑う。当時の県警警防課長で、顛末を「島根県町焼打事件懺悔覚書」として残した西村国次郎。そこに切腹の記載はない。西村は問題の瞬間を見ていない。

「ワァッ」「ウワァ」と号泣喧騒する大声がするので、驚いて現場へ飛んで行ってみると、剣道場の板場で首魁その人が打ち伏せとなって居り、其の傍らには日本刀が投げ出されてあり、又真っ赤な血潮が流れ出ている。(「島根県町焼打事件懺悔覚書」p.34)

現場にいた、特高課長と放送局長が棒立ちになっていたのを彼は見る。おそらく正気を保っていた西村が主導し、岡崎は日赤松江病院へ搬送。手当を受け一命をとりとめる。当時の位置関係を確かめてみたいが、車で5分とはかからないであろう。西村は「後で当時の模様を聞いて見ると」という言い方で顛末を次のように記す。留意すべきは、ことは警察の不祥事であり、何かを伏せようとする意思が常に働いている可能性である。

首魁その人は特高課長の尋問を受けた後
「自分の為に同士を誤らしめたから謝罪がしたい」
と懇願するので特高課長と放送局長が随伴して、同士二十余名が監視されている剣道武道場に入ると、彼は先ず道場に設けられた神棚に礼拝をしてから座につき、同士に対して陳謝の辞を述べて後突然所持の日本刀を抜き払って二度までも自己の咽喉を突き切って自殺を図ったと云うのである。(「島根県町焼打事件懺悔覚書」p.34)

令和6年(2024年)に生きる我らの過半は、この場面、喉を切っての自殺未遂と取るであろう。時は昭和20年(1945年)、遡ること80年ほど前になる。腹を切る、切腹だけで自殺を遂げることが難しいことが未だ常識としてあった時代である。また戦時下、敵の辱めを受けぬための自害、その法についての理解は今より深かったと思われるが、今はふれない。すなわち切腹による自害には、致命傷とするための何かが必要であり、それは介錯による頭部切断か、咽喉を自ら突き刺す、あるいは心臓に向けて刃を突き刺すことで達せられるという「常識」である。

岡崎に随行し、みすみすその自害に至る行為を許してしまった特高課長と放送局長にとって、その不祥事への引け目がことの隠蔽まではいかずとも、なにがしかの力を持っていたと思われる。すなわち、いきなり咽喉を突かれたのであれば、止めようもなかろうが、切腹ののち、咽喉を突くまでを許した自らを認めたくはなかろうということ。

しかしながら、別な可能性もある。切腹の詳細を記している猪瀬は、岡崎の「回想録」はじめ、首謀者側からの言・文をもとにしている。彼ら彼女らにとっては、単なる自害であるより、神を拝し腹を切ったという儀礼が完遂されたことは、自らがなしたことの誇りの擁護たりうる。切腹がなかったのにあったように記す可能性はある。が、しかし、岡崎の思想・信条・行動の履歴から考えて、それは極めて考えにくい。ただいまは、岡崎らの中にある虚偽―影の存在に留意しておくにとd岡崎が記録として残した歌集からひく。(岡崎功『火雲』)

白鳥の如く清けく今死なむ
國の生命(いのち)の終るこの日に

 

古(いにしえ)の 武士(もののふ)のごと 腹切りて
死出の旅路を 手をとり往かむ

 

介錯を頼めど 友は立たざりき
傷つきし吾を 助けむとして

 

現し世に別れむとして君が代を
唱ひ終れば残るものなし

介錯を頼んだ友とは、直接には、県庁焼討を遂行した森脇昭吉か大野火薬店を襲撃した波多野安彦。岡崎が所持し自らを切るのに使ったのは「鎧通し」である。猪瀬の記述をみてみる。

岡崎ら「皇国義勇軍」がNHK放送局立て籠もりから投降する際の条件は、岡崎以外のメンバーの罪を問わないということであった。しかし、手錠もかけられず武器も所持されたままの投降後、松江署での話し合いでこの約束は撤回される。岡崎は「同志に相談させて欲しい」といい、みながいる剣道場にいく。投降が午前9時過ぎ。同志は車座になって昼食を終えた後であっただろうか。緊張がほぐれた18歳から20歳ぐらいの少年たちの顔をみながら、ことにいたる。先の西村の記載とあわせると、岡崎はまず神棚に礼拝し、二十数名が車座となっているところに腰をおろす。

「取り調べを堂々と受けてくれ。釈放されたあかつきには日本の再建のために頑張って欲しい。こういう結果を招いて済まなかった」
というと懐中から、よろい通しを素早く取り出し腹に刺した。腹を切るとき、バリバリと紙を裂くような音がして一度ヘソの上で浮き上がった。岡崎は同じ傷口にもう一度、よろい通しを刺した。特高課長と放送局長はあわてて駆けよろうとしたが、日本刀をつかんだ波多野が目を血走らせて立ち向かう。真っ赤な血が床の上に飛び散っている。岡崎は波多野を制しながら「天皇陛下万歳」と叫び、よろい通しを今度は首筋に突き立ててその場に伏した。(猪瀬直樹「恩赦のいたずら―最後のクーデター」;『天皇の影法師』中公文庫,2012 )

切腹はなく咽喉への突き刺しを「二度までも」と表する西村の記述。腹に立てた刃が浮いたため「二度目」の刃を刺し、その後「天皇陛下万歳」を叫び、喉を切ったとする猪瀬の記述。いずれも「二度」の「刺し」があったことが共通し、さらに重要なのは岡崎本人が所持していた刀でことが行われたことに双方齟齬はない。

猪瀬の実質的には処女作となる「恩赦のいたずら」が『天皇の影法師』に収められ朝日新聞社から刊行されたのは1983年。その数年前から、何か封印が解かれたかのように、続々とこの事件を一項目として記した書が世に出始める。

それ以前。昭和43年(1968年)に元県知事であった山田武雄の回想録には、NHK放送局に立て籠もった岡崎らは「軍と警察で強制武装解除した」と記されている。山田は武装解除なしに署での取り調べならぬ「話し合い」がなされていたことを隠蔽したかったのか?
そうでもあろうし、そうでもないように思える。

戦前の知事は現在の知事とは似て非なる官である。言行とその心理・原理推し量るのは容易ではないことに留意しつつ、山田(元)知事は、事実を知っていた上でと考える。昭和20年の8月24日未明。終戦から10日という日に、NHK松江放送局という場で起こった事実とは《武装警官50名が放送局を包囲し、松江聯隊からもトラックで兵隊がかけつけたために、ついに岡崎ら皇国義勇軍は放送を断念し、県知事に直訴するということで警察に同道することを決定した。武装したままで警察練習所に護送されたのであった》(内藤正中『島根県の百年』1982,山川出版社)

山田にとっては想像の範疇を越える事態、相通ずることのない心情がそこにはあったのではないか。先に引用した内藤の記事は次の文で終わっている。

この事件の特徴は、海軍航空隊や松江聯隊の抗戦派軍人と連絡をとりあい、松江憲兵隊長の了承もとりつけたうえで、皇国義勇軍だけで実行されたものであり、事前に配布したビラや檄文で警察当局もじゅうぶん承知していたはずの『武装決起』が実行されたことにある。そのかぎりからすれば、終戦時において、軍隊や警察が内部にもっていた”感情”が、表明された事件といわなければならない。

つづく