春の駆けていく音1

早い予兆は昨年12月の暮れ頃には示されていた。猪が筍を掘った跡を12月にみている。どんなに早くても1月であろうから、よほどの何かがあるのだろう、なんだろうと、訝しさ半分好奇心半分の構えであった。

桜、ソメイヨシノの開花は例年とさほど変わらず。ただ、みな一斉に咲くのではなく、咲き始めといい散り始めといい、バラけているようでもあった。勢いがないのをそう感じていただけかもしれないが。

ツツジは10日から14日は早いように思う。

近年は変動が毎年激しいので、記録を見ない限り「どうだっけ?」となってしまう。

備忘のためのメモ風につづっていく。

†.  カブの菜花は切り取っても長く花をつけつづける。なぜだろう。また、温海かぶよりも畑田カブのほうが、花のつきが長く続いている。これはカブのサイズがまちまちだからだろうか。それともより野生化(雑種化したもの)の特徴なのだろうか。

†.  17日の夜23時頃にはカエルが合唱していた。降雨が近いからか。12時を過ぎるころにはすっかり鳴かなくなった。いま1時過ぎだが、静まり返った夜。フクロウも鳴いてない。

†.  家の裏のコナラ。山のどんぐりをポットに入れて育てていたもののふたつほどを通路のわきにおろした。3年目だろうか。どんぐりからは4年目か5年目だと思う。昨年から急に大きくなり3m近くの高さがあるのだが、今日花がついているのを見つけた。昨日か今日に咲いたのだと思う。ハチや虫は蜜を吸いに来るだろうか。風媒花ではある。いろいろ思うところあり。

 

令和8年第5回焼畑フォーラム参加の備忘其の一

1. 去る3月末、新潟は山北地方へと赴いた。第5回焼畑フォーラムへ出席するためである。

2. 当日、3月28日。会場がおかれた府屋は、新潟の最北端、山形県境の山河を目前に控えた小さな町である。そんな辺境の地に、どういうわけか百名余もの人々が集結してしまった。

3. こうなると、密度も熱も勝手に上がるのは必然。不佞の身ながら、奥出雲のパネル前で3時間、寄せては返す問いの波を捌き続け、喉は枯れ、意識は朦朧。疲れる暇さえなかったが、あぁ、おもしろかったなあ。

4. この集いは焼畑実践者たちのフォーラムである。今回は8つの地域が名を連ねた。西から順に、宮崎県椎葉、島根県奥出雲、滋賀県余呉、福井県味見河内、石川県白山、山梨県奈良田、新潟県山北、山形県温海。奥出雲が、この連なりに座すのは不思議なことだなあとも思う。

5. さて、私の報告は、「環境変動下における作物との関わり方―〈カブ集団〉の観察から」と題した短いものである。昨秋、奥出雲の焼畑で目撃した「奇事」の一端をまとめた。火入れの遅れ、播種後の豪雨、そして秋の異常高温。あらゆる悪条件が畳みかけるようにカブを襲った。希望は持ちつつも、ダメかなあなんとかイケるかなあと、3か月が経過したあと、栽培者は、種子を採るための数個体を選抜採取して、残りを「失敗」として山に2週間放置したのだった。そして、久しぶりにおそるおそる入った12月の中旬、見放されたカブたちが「復活」を遂げていたその事件を報告した。

 信じがたい生命の現前を前にしたとき、人の思考主体も感受性も、分裂してしまう。その実感は、ここに備忘として留めておく。正直に、なかなか思い出すことができない出来事であるとだけ。記憶も曖昧だが、泣いていたような気もする。

6. 頭を冷やし直し、提示した観点は、次のものだ。すなわち、「多様性」とは、あらかじめカタログ化された固定的な「違い」ではない。それは、未知の環境の揺さぶりに対する「応答の幅(Response diversity)」そのものではないか。そして、古より焼畑を繋いできた人々は、この「応答の幅」を、知性で御するのではなく、身体的な感覚―あるいは堆積した民俗事象の集積―として静かに捉えていたのではないか。そんな作業仮説を、予察という名の放言として、放り込んでみた。

7. パスカルの説く「幾何学の精神(L’esprit de géométrie)」、すなわち定義と論理による管理の世界からすれば、こうしたカブの振る舞いは計算違いの「あり得ない」現象に映るだろう。しかし、同じく彼が説く「繊細の精神(L’esprit de finesse)」に立てば、それは何ら奇を衒うものではない。原理は常に我々の眼前にあり、日常のなかに脈打ち、無理なく自然に理解できるものなのだ。ただ、その機微を捉える「曇りのない澄んだよい目」を持たなければ見過ごし、それを受容する「よい精神」を持たなければ、推論を誤ってしまう。

8. 質疑応答のなかで、ある方から、この「応答の幅」にこたえるような事例をご教示いただいた。管理の手を逃れた固定種が、時として見せる驚くべき生命の表出。それを「私は横着なものだから、よく起こることでして」と、悪戯っぽく言われた。私は、「横着」という言葉に、救われるような思いがした。それは単なる怠慢ではない。人知による「管理」という、時に傲慢となる枠組みを、ふわりと脱ぎ捨てるための作法なのだ。

9. そもそも焼畑は、移動性と循環性を本質とする「非定常」な圃場であり、環境変動の幅は、通常の農地とは地平を異にする。そこで作物を育てることの特異性やおもしろさは、単なる技術論に留まらない。そこに価値や意味の次元を持ち込むとき、私たちは「焼畑の価値とは、現代において何なのか」という、いささか厄介で、しかし避けては通れぬ問いの前に立たされることになる。

10. 生命現象が本質的に複雑で、多様で、そして繊細なものであることは、いまや広く了解されていよう。一方で、私たちの知性の力―幾何学の精神―は、ここ二百年あまり、生命の深淵にまでそのメスを入れ続けてきた。分子生物学がそうであるように、複雑で繊細なものを、単純で操作可能なものへと「還元」することで、支配下に置こうとしてきたのだ。人知の営みとして。

11. だが、この話はここまで。ともあれ、私にとっては「横着」もまた重要な作法である。あるいは、横着を許容すること。管理を逃れさせること。システムに「あそび」をもたせること。無理せずとも、生命が生命として在れる場所を確保すること。そして、それを見守るための澄んだ目と、正しい心を養うこと。そんな、地に足をつけ、手で土をつかみつづける智恵を、山北の地で授かったように思う。

12. こうしたことを考えながら、列車を待つ小一時間ほど、府屋の町を歩いた。そして、今も「コド漁」が行われているという大川の河口付近へ行ってみることにした。漁期を外れた今は、その特異な仕掛けを拝むことは叶わなかったが、漁期ではない今、その仕掛けを見ることはできなかったが、あぁ、ここなのかあと感慨を深めた。

13. コド漁とは、全国で唯一この場所に残存した、極めて古い鮭漁の仕掛けである。かつては現村上市一帯に広く見られたものらしいが、今はただ府屋の河口にだけその命脈を保っている。

14. 以下、多くを菅豊の論考より得たものとして、ごく簡単に記す。コド漁は、河口近くの川岸に暗い囲いをつくり、遡上してきた鮭が物陰で休む習性を利用して捕る漁である。鮭の動き、流れ、川底の石の配置まで読む経験知を要する。きわめて効率の悪い漁ではあるが、その非効率さゆえに、むしろ共同体の秩序と結びついて残ったともいえる。

15. ただし、ここで見落としてはならないのは、コド漁が単なる資源管理の仕組みではないということだ。鮭を捕ることだけが目的ではない。川を見に行き、場所を読み、今年の流れを測り、互いの腹を探り、取り損ねた鮭の噂を聞き、誰かの腕を笑い、また称える。その一連の過程そのものに、漁の楽しみがある。菅のいうマイナー・サブシステンスの視点に立てば、コド漁の非効率は欠陥ではなく、人と川、人と人との関係を切らさないための余白でもあった。

16. つまりそこには、野性知を駆使する技術だけでなく、商業的な乱獲を許さぬ共同的領域秩序があった。加えて、大川流域は近世以降も統治形態の入れ替わりがあり、府屋は村上藩領から幕府領へと変遷した、越後最北の境界地帯でもあった。このため大規模で統一的な河川管理や資本による独占が進みにくく、しかも消費地から遠かったことが、コド漁を「残した」のではなく、「残らせた」のだ。

16. その漁地を見下ろす丘に、縁の墓石が、崩れきらず、しかし本来の並びでもない仕方で集められたような場所があった。不思議なところだ。町に残る、これまた特異な建築意匠もあわせて、再訪かなうことを期しつつ、春風の府屋を後にした。


「応答の幅(Response diversity)」について

生態学が扱うレジリエンス(回復力)理論においては標準的な用語と思われるが、一般的な「生物多様性」の議論には浸透していないようである。

2003年にトーマス・エルムクヴィストらが提唱したこの概念は、それまでの「多様性=種の数」という量的な議論に対する修正案だった。「応答の幅」は「種のカタログ」としての多様性ではなく、「動的な適応力としての多様性」を指す概念である。

  • 種の多様性: 「どのような種が、いくつ存在するか」という状態の記録。
  • 種の応答の幅: 「未知の攪乱に対し、集団がどう振る舞い得るか」という機能の可能性。

焼畑という「非定常(攪乱が前提)」の場において、この概念はさまざまに機能しうる。近代農法が「応答の幅」を(原理的には:個別少数的例外は確かにあるが総じて)ノイズとして排除し、「幾何学的」な収穫予測を優先するのに対し、焼畑の実践は「繊細」にその幅を許容することで、数百年という時間軸でのレジリエンスを保ってきたともいえる。また、生態学会、環境省では「応答の幅」ではなく「応答多様性」を訳語としていることを断っておく。

出雲の山墾りsec.2-3

午後の3時前から小一時間ほど入って、竹を5本ほどであろうか、整理した。青竹は2、3であったと思う。孟宗竹の密集地であり、伐ればどこかに引っかかる。よって、かかった稈を幾度か元伐りしながら伏せ込むことになる。立ったものを寝かせていく作業ともいえる。木を伐り倒すことを伐倒とはいうが、この場合、倒れはせずにかかるのだ。開放面があれば、倒れる方向をそこへ向けて「伐れ」ば、地面に「倒れる」。当たり前のことを難しく書いている。しかたがない。その場でこそ当たり前のことが、離れてしまうとまるでわからない。山とはそういう場なのである。

元に戻ろう。方向をずらす牽引力と管理できる器具があれば、開放面に接した場所から作業をはじめ、順に「倒す」のがよいのかもしれない。

そうしないのは、器具が手元にないということもあるのだが、山ではできる限り身軽でいたいという心持ちが大きく働いているからだろう。それを今日、思った。ただでさえ、チェーンソーという動力機械で山と接することは、「学び」としての損失を大きくみたほうがよい。かといって、ノコとナタでひとり山に挑むのは、趣味に過ぎる。それに、ちょっと筋とは逆のことを言うようだが、チェーンソーは、粗暴なようでいて繊細を人に求める機械である。

先ほど、繊細という言葉を使った。使ったのは、単純で強いものに対置する語として呼び出したのだが、それだけにとどまらないことに、気付いたのだ。

パスカルが『パンセ』の冒頭で用いた繊細の精神(esprit de finesse)、幾何学の精神(esprit de géométrie)。

「幾何学の精神」は、定義が明瞭で原理が日常から離れているため、力強いが適応できる世界は(実は)狭い。対して「繊細の精神」は、原理が日常のなかにあり、誰もが目にしているが、あまりに微細であるため、全人格的ともいえるな「よい目」を持たなければ捉えられない、あるいは原理が多すぎることで遺漏なく捉えることが、極めて困難だという。ひとつでも見過ごせば誤るとも。

チェーンソーによる「作業」を、「繊細を人に求める」としたのは、繊細の精神(esprit de finesse)を求めると言い換えられる。パスカルとの接続が可能だということである。

チェーンソーという機械は、外見上は力まかせの道具に見える。しかし実際には、その機械の動力学、慣性、刃が対象—木質への入り方にそった操作者の応答を要求する。それは機械が「場」を持っているということでもある。操作者が意図を押しつけるのではなく、機械と場の動きに応じて、操作者は判断に基づいた動きをなすことで意図—目的を達成しようとする。

ここで誤解を生みやすい概念として、繊細(finesse)を捉え直しておこう。finesseを繊細と訳したのは前田が最初であったろうか。それはともかく。finesseについてふれている次のテキストを参照されたい。Firadis WINE CLUBが掲載しているコラム、「ワインボキャブラ天国【第48回】「フィネス」英:finesse 仏:finesse」より。

ということで今回ご紹介する言葉は…… 「フィネス」 英:finesse 仏:finesse(女性名詞:発音は「フィネッス」)

「エレガンス」などと同様に、使い方がなかなか厄介な言葉です。
プロのテイスターだと例えば「このワインにはフィネスがある、フィネスを感じる」なんていう風に使う訳なのですが、「分かりにくい言葉でなんとなく煙に巻いている」といううさん臭さが漂ってしまいがち。
だから僕自身は殆どこの言葉は使いませんが、海外のワイン専門誌・評論等では非常に頻繁に出て来る用語です。 英語仏語共に同じスペルで使う言葉「finesse=フィネス」。 辞書で調べるとその意味には「技巧」「腕のさえ」「精妙さ」等の言葉が並びます。 そこから考えればフィネスのあるワインとはつまり、職人的な造り手の「技」や「腕」を感じさせる非常によく出来た高品質なワイン、と考えて良いのだと思います。
「技」「腕」を感じさせるワイン、なんて言っても、曖昧にしか感じられないかもしれません。 ですが「技」を感じさせるワインと言うのは概して絶妙な香り・味わいのバランスを実現しているもの。
物凄くパワフルなのに、又は非常に酸が強いのに全く飲み疲れない、飲み飽きない。 様々の要素が理想の調和を見せてくれて、そこに造り手の精緻な目論見を見つけた時に「フィネスがある」と感じます(口には出しませんが)。 ワインの「フィネス」には明確な定義はありません。
だ飲み手が自分なりの評価基準を持ち、自発的に感じ取りにいけば良いもの、なのかもしれません。 ボンヤリした結論で申し訳ないのですが…でもそのくらい曖昧な言葉なんです、実際。

ここでは、finesseを繊細などの単一の語句であらわすことが、できないものであるとだけ認識しておけばよい。まずパスカルだ。

重要なのは、パスカルが問題にしているesprit de géométrieとesprit de finesseに共通するesprit (精神)とは、能力の区分ではないということ。それは原理(principes)への到達の仕方の違いだ。

パスカルこう述べている(ラフュマ版断章512前後、ブランシュヴィック版1–4付近):

幾何学の精神は、原理がはっきりしており、しかもそれが感覚から遠い場合に、うまく働く。
繊細の精神は、原理が数多く、微妙で、ほとんど感じられるが定義できない場合に働く。

ここでの対置は「論理 vs 直観」ではない。むしろ、

  • 幾何学の精神:原理が明確で、数が少なく、抽象的で、遠くにある。→ それらを定義し、順序立て、演繹できる。
  • 繊細の精神:原理が多数あり、日常のただ中にあり、あまりに近すぎて定義できない。→ それらを「一目で」把握する。

違いは認識能力の優劣ではなく、対象領域の構造の違いに応じた精神の働き方の違いなのだ。

「繊細」は感覚主義ではない

多くの要約では「感覚」「直観」と説明されているのだが、おかしい。パスカルの finesse は、感情的理解ではない。

  • 無数の微細な前提
  • 暗黙の了解
  • 言語化不能な原理

これらを瞬時に総合する能力である。

それはむしろ社会的・道徳的・政治的判断のための知性である。恋愛や名誉、礼儀、権威、信仰といった領域では、原理は数式のように提示できない。しかしそれでも判断は必要だ。

つまり、finesse は「論理以前」ではなく、論理を適用できないほど複雑な原理の場における理性の形式なのだ。

対立ではなく、互いに盲目

パスカルは「両立が必要」と穏当に調停しているわけではない。むしろこう言っている。

  • 幾何学者は繊細さに鈍い。
  • 繊細な人は幾何学に耐えられない。

これは単なる性格論ではなく、精神の構えが変わらない限り、互いの領域は理解不能であるという断絶の指摘だ。幾何学者はすべてを定義しようとする。しかし finesse の領域では、定義しようとした瞬間に本質が逃げる。だからパスカルにとって問題なのは「バランス」ではなく、「人間精神は、なぜそのように分裂しているのか」という問いである。

神学的文脈

パスカルの「パンセ」は全体を通じて、近代的知性が神とどう向き合うかという問題に挑んだものだともいえる。つまり、繊細/幾何学の区別は単なる認識論にとどまらない。それはパスカルの人間論・罪の教義・恩寵論と結びついているものだ。

人間は理性を持つが、堕落している。理性は真理を証明できるが、救いには至らない。幾何学の精神は証明を求める。しかし信仰の原理は「証明」できない。だからこそ彼は言う:

心には、理性の知らない理由がある。(Le cœur a ses raisons que la raison ne connaît point)

この有名な断章は finesse の文脈に属する。しかしそれは反理性ではない。むしろ理性の限界の内部での理性批判である。

(つづく)

奥出雲きこり友の会・山仕事やろう会

令和7年12月13日の備忘である。晴れのち曇り、奥出雲町八川の山林内で、「山仕事やろう会」が開催された。奥出雲町オロチの深山きこりプロジェクトの主催である。元来、安全技術研修のうち、出張研修と呼ばれるものに位置付けられていた(いる)。
 私は裏方兼記録である
 道の行き止まりには滝岩から流れる清水が。いくつかの谷水を集めはじめるあたりにはわさびが自生していました。ずいぶん少なくなってしまったと言われますが、こうして間伐を進めることでいくぶんか戻ってくるのではないかと思います。
 
 冬の山を、しかも、こうした造林された山を歩いても、そこは森のワンダーランド。しみだしながら流れになっていく水、折れても曲がっても生きようする幹や根、あきらめよく死んで菌が侵食し、キノコや粘菌やらがとりついた有機物もろもろ、土は色も密度も違えば、人の感知を超えてすむ数千数兆の生物を宿している。
 
そんなところで。
 世代も経験も背景も異なる16人が同じ山の中で仕事をする。いいなあと感じました。研修ですので習う教えるという関係はありつつも、身体を一緒に動かすことで自然と習得できるものがあるのだなあと実感する日でありました。
 
 さて、少々概念的な言い回しをしてみれば。
 危険をともなう作業の連鎖に促されるようにして、身体—道具—地形—他者の結びつきが強まり、動きの最適化が環世界的に生成される。
「声をかける」「間合いを取る」といった規範は、風と香り、音と振動、諸感覚にひたされた身体に刻まれていく、それは外在的な原理から演繹されるよりはるかに、伐倒などの切迫の中で繰り返し達成され、事後的に規範として析出する。
 そんな感じ。おもしろいですよね。
 

神戸、あるいは菌臭の境界線にて

 122日から3日にかけて神戸の街へ妻とふたりで訪れた。神戸の街という表現に一般性があるかどうかはわからず言っているが、ここでは元町、三宮あたりから山手の新神戸駅のあたりまでをいうこととする。神戸という言い方であれば、神戸経済圏をも指すであろうが、私が気にとめながら確かめたいと思うのは、文化=風土としての「神戸」である。

 測ることはできないものを断りつつ、人口についてざっと見ておけば、現在の神戸市はおよそ150万人。京都もほぼ同じだが、神戸のほうがやや大きく、近畿では大阪市280万にに次ぐ第2位の巨大都市である。

千年以上の歴史を有する港ではあるが、慶応三年の鎖国を解いた開港からまもない明治初期の人口は2万人ほどであった。同じころの松江市が3万8000人。いずれも但し書きを要する数字ではある。確かめれば誤りもあろう。いまはこれで。

 もともとこの旅の第一の目的は、新神戸駅のそばにあるという竹中大工道具館。分類としては博物館に入るのだが、名乗りからしてそうではない。一時代を築いた「モノ」の墓場、ではない。そうしてなるものかという意思が宿っているかのようだ。その強度に陶然としてしまうような、夢の中にいるような、あるいは時間のエアポケットに入り込んだような場所だった。

大工道具の始原を石斧から起こし、石器から鉄器へという道具の「進化・発達」をもたらした要因が、実は「資源の枯渇」であったという見立て。自然と人との間にある媒体としての「道具」を見つめる、その視線のあまりの透徹さに心を打たれた。小さな館内が、言葉にしがたい膨大な熱量と密度で満たされている。一体なんなのだろう。

 そんな、道具館を出て街を歩くと、ふと奇妙な感覚に襲われる。決していやな空気ではなく、心地よいといってもよいのだが、なにか不自然な違和感あるいは落ち着きのなさを感じる。匂いに敏感なほうではない。ここでの匂いとは街の匂い、土地の匂いということだが、雰囲気とも空気ともいっていい。錯覚とも錯誤ともいえるものも混じってはいようが、そんな匂いは断固としてないと言い張れるものでもないだろう。誰しも心当たりはあるものとして言っているのだが、本格的に論じられてきてもいない。

多くはその街なり土地なりがたどってきた履歴・歴史に基づくものと、それによって形成される人の集団が醸すものとがあろう。そういう観点からすると、ここ神戸の街には、歴史があるはずなのに歴史がないとでも言いたくなる。ここからは飛躍となるが、神戸という街は、日本の都市の中でも例外的に、土地固有の「物語の重力」を持たないのではないか。

錯誤を恐れず言ってしまえば、多くの土地が持つはずの痕跡、沈殿、堆積といったものが、きれいに拭い去られている。なぜ神戸は語られなかったのか。いや、土地が決して自らを語ろうとしないのかもしれない。まるで、言葉によってその深部を照らし出されることを恐れているかのように。 本来、海と山がこれほど近く結ばれた場であるにもかかわらず、そのつながりは完璧なまでに絶たれている(ように感じる)。

 ただ、目を山の方へ向ければ、そこには異なる時間が流れている。神戸市北区にあたる山田庄には、いくつかの只ならぬ欠片が残存する。そのひとつが栗花落井(ツユイ/ツユザエモン)であろう。今回は訪れることが叶わなかったが、出雲地方になぜか濃厚に残り続け、今も信仰の対象となっている「ツイジンさん」の名称的遡源の地であると睨んでいる。乾いた街の背後に、湿り気を帯びた古層が眠っている。

 神戸にゆかりの深い精神科医、中井久夫はエッセイの中でこの土地について幾度か触れている。彼は街や土地が持つ固有の「匂い」を嗅ぎ分ける人であった。ここでいう匂いとは単なる嗅覚刺激ではない。かつて統合失調症の診断基準として議論された「プレコックス感」にも通じるような、全感覚的な直観に近いものだろう。  中井は明示的に「神戸の匂い」を定義してはいない。だが、彼の視座を借りるならば、私には「神戸には匂いがない」と感じられるのだ。中井は、人が家に落ち着きや馴染みを感じる匂いの正体を、複合的なキノコやカビの匂い、すなわち「菌臭」として捉えた。それは森の匂いであり、分解の匂いであり、死と再生の匂いである。エヴァンゲリオンでいうところのLCLの匂いといえば、その羊水的な安らぎが伝わるだろうか。

 京都の街はこの菌臭が濃厚で、奈良になると少し薄くなり、そして神戸の市街地にはほとんど感じられない。この菌臭の発生源は、森であり山である。生命の安らぎとしての菌臭からもっとも遠い場所、それが神戸の都市部なのかもしれない。  しかし、山からは海風に抗うようにして、その匂いが微かに流れ出ているはずだ。かつてのアカマツ山が照葉樹と広葉樹の山に変貌しているという30年前の中井の指摘を信じるならば、山には濃密な気配がある。  そう考えると、あの竹中大工道具館が、街外れの山の端、新神戸のあの一角に位置していることに深く得心がいった。あそこは、乾いた都市と、菌臭漂う山との境界線なのだ。道具という「木(森)」の記憶を宿したあの場所だけが、山から降りてくる豊潤な匂いと共鳴していたのかもしれない。

万延元年夏、そして万延2年春、匹見で起きた椎茸山騒動

中村克哉は、著書『シイタケ栽培の史的研究』(1983,東宣出版)の中で、天保12年(1841)に起きた人吉藩の茸山一揆を取り上げている。一揆研究の中ではよくとりげられるものであるとして。

その諸研究も史実が語る一揆、主として政治-藩政史が主題であって、当時にあっての「椎茸」をめぐる諸関係が詳細に検討されているわけではなさそうだ。もちろん個々の研究にあたっての考量ではない。あて推量である

人吉藩における椎茸山は、天保年間からはじまったものであろうか、早い段階から専買制がしかれていたというが、初源については精査を要する。ここでは一揆の要因としてみる。制度たるものの宿痾として、時がたつにつれ整合性—秩序形成力—諸主体の均衡を欠いていく。制度は硬直していなければ制度足り得ず、硬直は内的矛盾—不均衡を拡大していく。制度は外部と内部を作り出すことで安定した(硬直でもある)運動をはじめることができるのだが、安定した運動がスケールの拡大を容易にし制度として機能を発揮すればするほどに、内的矛盾の拡大は進む。矛盾の抑制あるいは調整に失敗すれば、均衡は崩れはじめ、制度そのものの崩壊をもたらす。

崩壊—最初の襲撃(打ち崩し)は、椎茸問屋横田辰右衛門の邸であった。専買制にかかわる不正疑惑と過剰な搾取を容易に物語るようではあるが、そうそう簡単なものではあるまい。まず、その背景に天保年間前後より全国各地で進展していたインフレがあることをおさえておかねばなるまい。幕府各藩とともに経済統制をもってこれに対処しようとして失敗する。幕府によるものは問屋組合・仲間の解散によりインフレをおさえようとしたが、元来問屋が担っていた市場調整機能を単に破壊しただけとなり、逆に大きな混乱を招いた。そうした考察は多々なされている。

さて、私がそうした背景も踏まえつつ注目したいのは、農民の心理であり、山稼ぎあるいは山の民との間で生じている摩擦・葛藤である。

一揆の主体は稲作農民であり、その訴えのなかには、出稼ぎにきている茸作(ナバツクリ)が、雨をもたらし、不作を生じさせるということがあったと、文書に記録されている。

以下は中村克哉『シイタケ栽培の史的研究』よりそのままひくが、この箇所について中村は複数の史料からひいたものと思われる。詳細は追々確かめていきたい。

《人吉藩の茸山は球磨郡の鹿蔵山でかなりの規模で行われ、乾燥小屋なども各地に散在していた。茸山では秋になるとほだ木を浸水して、水から出す時に「ナバよでろ、でろ。稲はナバになれ。豆もナバになれ」といったような意味の歌をはやしながらほだ木をたたいて作業をしたものだ。シイタケの発生には雨が多いほうがよい。(中略)「茸山では盛んに雨乞いをする。そのためによく雨が降る。夏の気温が上がらない。人吉藩内の凶作は藩の茸山が元だ」という妄想が生じはじめた。水に浸けたほだ木を出す時に「米の精よナバになれ」「ソバの精もナバになれ」などと景気をつけていたことも一般農民の反感をあおり、一揆の原因をなした》

ここで着目したいことがふたつある。

ひとつは、「不作の原因は茸山で雨乞いをするからだ」というような妄想が、他の地でも見られたかどうか。全国各地であたってみたい。中村によれば、豊後にひとつあったようだが、一揆研究でとりあげられることはないという。

そして、匹見(現島根県益田市匹見町)にも、安政年間から幕末にかけてそうした事態が生じているのである。一揆には至らない不穏として記録されているものだ。矢富熊一郎『石見匹見町史』から。

万延元年の夏、西村の農民一同が椎茸の製造は、湿気を必要とするため、雨天を祈って栽培をするのであるから、農作に支障を起こすものである、との見解から、その栽培者を放逐しようと企て、大勢が集会し一揆徒党がましい振舞いに出たが事は平和に落着した》

しかしことはこれで収まらなかった。西村の農民が敵視していた豊後の茸師(ナバツクリ)集団は小原のハビ山、七村、三葛一帯の山に入っていたものと思われる。西村の南方にあたる山々だ。この頃、匹見の山に入り込んでいた茸師(ナバツクリ)集団は、多数にのぼり、農民の不安・不満は暴発寸前だったのだ。豊後の茸師は晩秋に小屋番を残して一旦帰郷する。そして春ふたたびやってくる。

その春は万延二年のこと。浜田藩の詰所(代官出張所)のあった澄川村の農民が他の村を巻き込みながら、道谷村へ押し寄せた。二月五日(新暦で3月中旬か)のこと。席旗・竹槍を携え、山に点在する小屋を焼き討ちに入ろうとしていた。その理は、近来組内の奥筋(匹見の山々に)へ、他国人が多数入りこみ、椎茸山や伐木の駄賃等に従事しておるので「穀類高直ニ相成、及難儀」、このままでは村一同飢餓に陥ると。これに驚いた東村庄屋斎藤六左衛門と、西村庄屋本多万右衛門の両人は、早速飛脚を組内の各庄屋へ走らる一方、各村々から集まりつつあった一同を道谷村に集合させ、懇懇と慰撫に努め事なき不穏として収まったという。※1)該当箇所

残っている記録は断片的であるのみならず、何か大事なものが欠けているようだ。

・安政年間中に、匹見町広瀬で豊後の茸師が椎茸栽培を開始(大谷道太,藤谷一夢「広瀬物語」1984)

・浜田藩、河鮨景岡、42歳で御用人になる。藩の財政改革に着手。シイタケについては、横道での成功を知り、茸師を招き、栽培を奨励し、藩政たてなおしにつとめた(メモにつき出所確認中)※2

一次史料を欠くものではあるが、問題は「茸師を招き」にある。藩が雇うわけではない。財政改革中にそれはしないであろうし、同時代の他藩の例をみても、いわば委託方式である。いずれにせよ本当に「招いた」のだとしたら、農民にとっての山の用益権・既得権を無視した暴挙となったであろうことは想像に難くない。つまり、農民たちの矛先が向かっていたのは藩政に対してのものであったろうということだ。

この時代の匹見における御立山(官林)の所在は不明である。旧広見河内の西部に位置する赤岩がそうであることは知られるが、ほか数カ所あったはずである。御立山の用益ではなく、村の共有林をめぐるものであれば、当然村がよしとしない限りは、その借上はできない理屈である。が、藩からの指示でそれが無理にでも動いたのであれば、大きな摩擦が起きたであろう。もちろん相応以上の対価は払われたであろう。が、その対価ではいかんともしがたい。幕末のインフレが襲ってきた。共有林では焼畑での雑穀栽培が地域の貴重な糧であった。その資源を奪われ、対価は受取ったものの、それでは口に糊できないとなれば、「穀類高直ニ相成、及難儀」となる。以上はあくまで作業仮説である。これからさらに詰めていく。

そして、もうひとつの着目点。

《ナバよでろ、でろ。稲はナバになれ。豆もナバになれ」といったような意味の歌》が、記録されている史料である。中村は人吉藩の一揆の史料で見ているようなので、そちらの確認とあわせ、各地をみていく必要がある。

引き続き探索は続けるが、別なアプローチも試す。

段上達雄「海辺の山人・豊後なば山師」(『山と民具』1988,雄山閣)にあるのが、以下の一文である。

《なば山師たちはセコ(山あがりした河童)の話をよくする。なかなか姿を見せないが、子供くらいの大きさだという。夜になるとホーホーと鳴いたり、母屋の棟を揺らしたりした。いたずらはするが、人には危害を加えない。セコは春の彼岸から秋の彼岸までは川に入って河童になるともいわれている。》

この《セコ(山あがりした河童)》とはそもそも何か。柳田国男が早くから着目していた山童と同一とみてよいのか、どうか。

また、同書で段上はこうも言う。

《お茶を沸かしたり、シケウチ(秋子を出す時、よきで小口をたたく)の時に焚き火をたく際、火つけをすることを「お明かりを上げる」といい、神棚の灯明にたとえるほど神聖視した。(改行)。仕事から戻って暇があると、相撲をとって遊んだ。漬け木をする堤を築いたときにも、相撲をとって池底を固めることもあった》

シケウチの際に唱えたものが、先の一揆で例として出た唱え言である。 以上のなかで、関連する事項がいくつか出てきた。 灯明、堤ー水、お茶の湯をわかす—灯明、相撲ー河童ー水。 それぞれに興味ふかいが、とりわけ水ー火(明かり)ー沸かすーシケうち、の関係である。

※1)「澄川村の農民が他の村を巻き込みながら、道谷村へ押し寄せた」とするのは地理的にも状況としても違和感がある。澄川村にあった浜田藩の詰所へ向かい、村民が連れ立って書状を持ち込まんとしたところ、道谷村付近で庄屋の説得にあったのではないか。

※2)

椎茸は菌類である

椎茸は菌類である。2025年の世にあってはふつうの常識である。ただ菌類という言い方は世俗的には細菌を含めることもあり、違和感を覚える人がいなくはない。多くのキノコと同様、カビと同じ仲間だとされると首をかしげる人もまた少なくはない。何が正しいということや、正しい知識を身に着けようということへ向かうのではない。菌類であることは、その認識把握において、不確定性を余儀なくされるということをそれとなく伝えたいのである。

あぁ、だから、こうして書くということが大変むずかしい事態となるのだ。一行書いたらつまづいてしまう、ためらうのだ、続けることを。かつて、生物を動物と植物のふたつにわけていた時代があった。いまでいう菌類は植物の一種であってキノコは隠花植物という分類であった。生殖や機構構造、系統において明らかに植物とは異なる菌界というグループができたのは、1960年代であったと思う。

だから、どちらといえば、植物の仲間に近いと常識感覚は訴えるであるが、現在では植物よりは動物に近いものという捉え方が、生物学的には主流である。

こう考えれば、常識的感覚でも納得できるのではないか。植物は形を描ける。静止した状態、カタチそのものが、その機能・性質を表しうる。すべてではないにしても。ところが動物の場合、植物ほどにはいかない。日本語はそれをよく表している、動くものであることがその本質にあるのだから。

 

昭和12年の民具研究

ナバニコ考#3、いま読むとずいぶんイキっているものだと、我ながら失笑を禁じ得ないところもあるが、当時(といっても3年前)の民具資料を収集した施設に対する波は、あらゆるものを押し流してしまいそうで、耐えられぬものがあったのだ。いま、状況はさらに進み、社会ニュースで存続そのものに疑問を呈する報道も少なくない。益田の民俗資料館はリニューアルにともない民具の展示はなくなった。保管はされているとのことだが、誰も知らぬ間に、手続き上は問題なく、廃棄となることをおそれる。

こうなることを、大庭良美はわかっていたのではないか。予期はあったであろう。NDLのデジタルコレクションで閲覧できる大庭の著、『日原の民俗資料』1986,日原町教育委員会刊。そのあとがきにも、現れていると私は思う。

日本における民具研究は、戦前、戦中、戦後にかけて、理念的基盤をかたちづくったと考えるのだが、当時の人脈‐学脈ともいえるものから、それは生まれている。これはまた、知らず複雑な問題を孕んでいる。あの戦争をめぐって構造づけられた社会の中で、当時の人がどう生きたか、学問はそれにどうこたえようとしていたか、ということと民具研究あるいは民俗学は、深い関係を持っている。このことは、本題からはそれるが、自分に対して一言しておくものである。

さて、《大庭が東京のアチック・ミューゼアムへ野尻抱影の紹介で訪問したのは昭和12年1月21日。この時、磯貝勇から『民具蒐集調査要目』『山村語彙採集帳』を出してこられ、民具名彙や農村語彙を採集してみたらとすすめられている。》と、以前ナバニコ考#3に書いたのだが、出所を記しておらず、かつ、思い出せない。

重要なことだと思うので、見つけ出したい。探しものをたぐりよせる糸はおそらく3つ。野尻抱影の糸、民具研究の糸、磯貝勇の糸。この3つのうち、民具研究の糸をたぐろうとしている。

昭和12年、大庭が東京のアチック・ミューゼアムを訪ねる前年、昭和11年には、アチック・ミューゼアムが大正12年から取り組んでいた足中研究の成果が『所謂足半に就いて』としてまとめられた。民具研究のひとつ画期といっていいものであるが、「足中なんぞを研究している変わり者たち」という視線にもさらされることになる昭和12年である。少なくないテキストがあるのだが、宮本常一が著者となっている『日本民俗文化大系 3 澁澤敬三』1978,講談社からひく。

(渋沢は)学問の方法は一人一人の中にあるものでその方法は一人一人が自己の体験を通して開発していかなければならぬものであるとしていた。もとより研究方法の手ほどきは、その初めには誰かに学ぶことが大切であるだろうが、注意深く、しかも見落としのないようにこまかに物を見て行こうとするとき、おのずから自分なりの見方が生まれて来るのではないかというのが澁澤の考え方であった。

宮本はアチックマンスリー19号(昭和11年12月刊)に澁澤が書いたものをひき、「これがアチックという学問社会の理念であったと言っていい」と記している。すなわち以下の4点である。

◯アチック同人は美しき鹿であってほしい。しかしそれは山野を駆ける美しき鹿たることが肝要で、檻に入れられた鹿であってはならない。
◯アチックにうぬぼれは禁物だ。独善と自尊、妥協と協調、謙遜と卑屈、これらの混同はアチック社会には見出せないはずである。
◯『学とは精密なる知識の系統的全部なり』と。簡明説き得て妙である。が、これは形態的定義である。およそ高貴な人格の上に成り立ってとは公理である。
◯アチック同人はアチック社会を各自が生態学的見地に於て批判するを要する。自己反省は正しき成長の決定的ホルモンである」

参照

岩井宏実,1993『民具が語る日本文化』(河出書房新社)-p19

宮本常一,1972「民具学の提唱 民具試論四」,日本常民文化研究所編『民具論集4』(常民文化叢書9,慶友社)

この時代を「感じる」ことを、宮本の足取りから少しひろってみよう。昭和14年の秋、教員を辞してアチック・ミューゼアムの研究所員となった宮本は出雲、石見の旅に出る。所員として最初の旅は邑智郡田所の田中梅治を訪ね、稲作についての農村語彙集ともいえる「粒々辛苦」の原稿を出版へと進めるべく話をつめることであった。田中梅治を訪ねたときのことは、宮本のもっとも知られた著作である岩波文庫の『忘れられた日本人』にくわしい。

一連の旅は、昭和18年に三國書房から刊行された『村里を行く』に「土と共に」として収められた。

翌昭和15年の夏、宮本は大田植の調査で邑智郡日貫(田所のふたつ隣の村)を訪れ、田中梅治と再開する。この時、同席していたのは、澁澤敬三、石田春昭、森脇太一、牛尾三千夫、そして、大庭良美。大庭は澁澤、み「石見日原村聞書」の原稿をその場で見てもらい、出版への道が開けた。『石見日原村聞書』の未来社版前編のあとがきにそれは記されている。また、1961年に未来社から刊行された『新編村里を行く』には昭和30年に日原を訪れたときのことが「大庭さんの日原聞書」として収められている。

このときの、澁澤と宮本のやり取りからひこう。

さて宿屋の座敷にくつろぐと、翁はあらためて渋沢先生のまえで挨拶した。私はうっかりして気がつかなかったが、翁が階下へおりてから、
「田中さんは実に古風な人だね」と言われた。
「どうしてですか」ときくと、
「あの人はね、今挨拶するのに―普通の人なら手のひらを畳につけて挨拶するだろう―手をかるくにぎって、手のひらの方を内側に向けて手をついていたよ。律儀で古風な人の証拠だよ。あの人の頭の中には古い知識が正確にしかもギッシリつまっているよ。引き出して記録しておきたいものだ。大した人だよ」私はまた私の師匠の眼のするどいのにおどろいた。
「あの人はね、えらい人だよ。自分の学問をちっとも鼻にかけていないだろう。田舎をあるくと、多少とも学問のあるものはそれを鼻にかけて尊大ぶるものだがあの人にはすこしもそれがない。ボスではないね、ほんとうの百姓だよ」

昭和14年の「村里を行く」に戻る。

現吉賀町の金山谷でのことで、隠居した老人が椎茸栽培で生活費はまかなえるのだというところ。

子供たちに金山谷の様子を一通ききとって、私は村の下のはづれに一人の老人をたづねた。もう隠居して部屋住みの身である。腰を下して、丁度乾燥してゐる椎茸の事からききはじめると、之だけで隠居の生活費は出るとの事であった。村の様子からすると河津とはかなり差があるらしい。

つづく。

天然スギの来し方、茸師の来し道、私たちの行く末

3年前になる。日原の山奥の一軒屋、軒先に吊るしてあるのを見つけた私に、お婆さんは「持っていってくれ」と。亡くなった爺さんのだからと。そして、今も手元にあるナバニコ。直して使うつもりでまだ物置にある。
ナバニコは茸作が豊後から西石見に持ち込んだ背負子であり、大正ごろから地元でもつくり使うようになったものだ。

ナバニコは、山陰の西端から東端の智頭町へと飛ぶ。鳥取県智頭町の芦生地区は、ブナと混交した天然スギが残る地である。活字では多く触れ知る機会はあるものの、いまだ訪れる機を得ていない。

島根大学農学部(林学)を1974年に退官された遠山富太郎氏は、芦津と森林生態も似た「芦演(京都大学芦生演習林)」で過ごされ、「芦生のスギのために墓碑銘を書くことにした」と、『杉のきた道』を退官2年後、中公新書から出された。(芦津と芦生を混同していました。初稿訂正)
天然杉の口碑を追った書ともいえるのだが、匹見・日原は天然杉の大森林が、全国でも残存した地であるのにもかかわらず、「地元の人にも、営林署の人にも当時のことを教えてくれる人がほとんどいない」とあとがきに記されている。

それはそうであろう。日原での伐木搬出は明治の半ばから終わりにかけてであったが、施業は多く紀州、木曽、土佐、安芸のほうから入ってきた人たちであった。日原に残った人もいたであろうが、多くは他の地に転じている。

幕藩時代、里に近い共有林はほとんどが焼山・草山であり、御立山と呼ばれた藩有林は、維新後に国有林となったもので、土地の人間には縁のうすいものであった。なにより奥山の天然木は神のすむ異界でもあったのだ。そこに古くから入っていたのは木地屋、たたら集団、そして江戸後期に入って茸作(シイタケ栽培者)である。津和野藩領では木地屋、たたら師は保護(管理でもある)したが、茸作の事情が不明である。

茸つくりたちは、古くは寛政年間から断続的に、天保、嘉永、そして幕末の文久、元治、慶応にには陸続として、豊後からわたってきた。木地師、たたら集団の解体離散と同期である。

1974年刊の大庭良美『石見日原村聞書』を、遠山は目にすることがなかったようだ。そこには、ありし日のスギ伐採のあり様が、わずかとはいえ描かれてもいる。

スギに限らず、樹木は「いかい」(どでかい)のが、ごろごろあったというが、スギであれば、切株に寝転んでも足が出ない。というから直径170センチクラスである。天然であること、気候地形などからして、樹齢300~500年だろうか。

さて、本題はそこではなく、日原聞書をあたっている中で、奥殿という土地がわからなかったということ。奥殿。周辺の土地には詳しい妻に聞いてみるが、聞いたことないという。

『石見日原村聞書』に奥殿にくらす老夫婦の話が出てくる。

《奥殿の水津宗太という人はもう八〇を過ぎておりますが、年寄りの二人ぐらしでとても仲がよい。あんな仲のよい夫婦は見たことがありません。一年中かかって作った籾を一年中にちちっとずつ二人でかるうて日原へ出て、農協で挽いて白にしてもろうて、それをいるだけ売って金にして、店屋へ入って酒を飲んで、酒を買うて、残った米を二人でかるうて、小一里(4km弱)もある山道を帰って行く。実に仲のよいものです。この間老齢年金のさがった時も二人で出て来て、爺さァが郵便局で受取って、婆さァ、こんなにもろうたでやというて渡しなはったら、婆さァは、そうかいなあというてふところへしまいなはった》(河村の野口 沖田栄吉77歳 昭和38年3月採話)

 奥殿から日原へ、山から里へ、3~4kmの道のりを、老夫婦が30~60kgほどの籾を、背負って降りてくる。その光景は幻にしては、ありありと目に浮かびくる。なんだろう。

 その道をざっくりと、地図におとしてみた。間違いも勘違いもこうしてみると、やがてわかってくるものだ。人が指摘してくれもする。

奥殿(おくとん)は、添谷(そえだに)にある奥殿川の最上流部にあったであろう集落である。現在、集落はなく、道も通ってはいない。昭和50年代の航空写真をみると、一軒の民家と水田が見える。右に写真、左に国土地理院5万分の1地形図という図であるが、竹林を示すそばには民家なりその跡らしきものが写真から伺える。

比較

 

参謀本部明治32年測量、昭和7年要部修正測量の五万分の1をみると、水田はさらに広範囲に見られる。周辺の山々は造林も始まっているが、草山・焼山であった履歴を残していて興味深い。

奥殿

上記ふたつを参照しながら、現在の地理院地図に昭和38年ごろ、仲のよいふたり暮らしの年寄りが歩いたであろう道を黄線でとってみた。

その家の納屋の軒には、ふたつのナバニコが並んでかかっていたであろう。
「切株に寝ても足が出ないほど」の大杉が林立していた山は、そこから5kmほど東に進んだところにあった。