苺をつまみ、食べながら

5月31日。日がずいぶんと長くなり、7時ごろまで山で仕事ができる。この日は火入れのための給水と5月半ばに焼いたところへかんたんな播種をするのだった。

5月20日に播種したタカキビが芽を出していた。出揃ってはおらず、ポツポツと目につくほどだが、一安心。5月23日に亀嵩小のみなさんが火入れ外周部に播種したアマランサスだが、一株だけ芽を出しているのが目に入った。有望といえ、見守りを続けることとする。

この日の播種は、モチアワとササゲ。ササゲは外周(昨年火入れ地)に、5〜6年ほど常温で保管していたものを5〜10粒ずつあちこちに埋めた。発芽率は1割を切って1〜3%程度か。ひとつでも芽をだせばよしという程度の期待値である。モチアワはほかさまざまな野菜種子とばらまきした。明日明後日にかけて強い雨が降る予報にあわせた。

エンジンポンプが給水している間に、野山のものをつまみぐい。おそらくはじめて実をつけた桑の実。火入れ後5年、みつけたら大事にしてきた。つい刈払ってしまうことも多いのだが。待ちに待った実なのだ。うまいよ。うまいのだ。

ナガバモミジイチゴも例年になく目につく。今年はどの草木も花が多いことにもよるのだろうが、だんだんと食べられる実が増えているのは気の所為ばかりではないだろう。火入れや伐開、草刈り藪払いをわずかばかりでも続けていることで、「林縁」があちらこちらにできていることによるのだと考える。

いつのまにか大きくなっている樹も。桐の樹はまっすぐで成長も早いからだろうが、いつの間に、ここで。という感を受ける。

さて、来週からは大豆を植えるのと、クサギの葉をとりはじめる。そして、できれば竹の稈をとって漬け込みたい。昨年は遅すぎて、繊維がとれなかった。竹紙、今年はつくれるといいな。

3月25日の山

メモである。

ナラ山と呼んでいる場所で、1時間半ほど竹を切った。裾部に昨春から出たものであろう一年生あるいは二年生の若い竹が多かった。中でも密集して既存の落葉樹にかかっているものがある区画が目についたので、いまのうちに整えておいたほうがよいと、思い立ったのである。また竹紙のために漬けた樽を整理するためでもあった。ふた桶ぶんのそれは、発酵分解が途中でとまり、まったくといっていいほど繊維が取り出せないことがわかっていた。気温があがると虫がわいたりする可能性もある(糖分系のものは分解され尽くしているだろうとはいえ)。冬のうちにと思っていながら、春本番の時期まで来てしまったので、「待ったなし」状態でもあったのだ。

いざ切ってみると、なかなか厄介である。掛かりやすいのだ。コナラの大木にも、芽吹きが目につきはじめているので、新緑の時期にまで至ると、まず危なすぎて無理であろうし、樹への負荷も大きいと思われる。

そうしたところの竹や、すでに掛かっている木など、今の時期に整えておくべく、手をつけていくべし。

同じ場所にあって、数年見てきているウワミズザクラは変わりなかった。新芽がのびてきている。ミツマタはまだ花をつけていた。樹蔭にあって陽が射しそうにもないところで毎年咲かせている。鮮やかな黄の花は、陰の中にあって妖しげでもある。

ツクシが目立った。ふえていると思う。

令和4年12月30日の山

昨日の山。雪はまだ20〜30センチほどの深さで残っていて、歩けるけれど、というより、けっこうみんな歩いてる。
狐、狸、その他……。斜面をのぼりきったあたりに、大量の鳥の羽が雪の上に散らばっていた。狩られてしまったのか、逃げおおせたのかはわからない。雪の上でさえぎるものもなく、どんな生き物であれ目立つだろうに、なぜここで? 藪までは15mほどはあるが、そのあたりで捕まえられ、ここで激しく抵抗したのか。いまの私には手がかりとぼしく、妄想とさして変わらぬ想像を巡らせてみるが、これという確かさはつかまえられず。

そして、雪の上でしばし考えたこと―その1。
足跡はおおむね、いつも人=私が通っているルートを通っている。ふだんから同じ道を歩いているのだろうか。道とはいえないような箇所も同様。足跡は伐開作業中の竹藪の中へ向かっていた。他に入るルートはあるのだが、頻繁には利用していない。そうしたところには足跡はないのである。人であろうが、なんであろうが、通ったあとをたどるのは生物の生存上、最適解に近いのかもしれない。

雪の上でしばし考えたこと―その2。
ただ、同じ道でも微妙に何かがずれる。この写真でも足跡の系統はふたつある。右手の山側と左手の崖側。実はこの崖側だけを人が通った場合、ある箇所で足をとられて滑落する羽目に陥る。私は積雪前のそれを知っているから避けるのだが、そのトラップありの崖側にも重め・大きめの足跡がある。猪だろうか。数日はたっている古いものなので足跡からは確定できないが、みんな何を頼りに雪の上をたどっているのだろうか。ルートそのものは「通った記憶」だと思う、私もそうであるように。だが、足取りはどうか……。我が身に照らして省みるに、それも記憶が主である気はするのだが。どうだろう。ふだん、歩くときに、なにを頼りに歩いているのかということにかかわる。山の中を人が通うとき、古来、いくつかの標(しめ)が言われたり、伝えられたりしてきた。ちらちらと見え続けることで、いまいる位置がわかるというものだ。遠くかすかであれ視認できる高い山の姿であったり、老大木であったり。あるいは、響きか。響きの記憶である。歌をうたう。その響き方。

焼畑の蕪を掘り出す。積雪前にけっこう気温が高い日が続いたためか、8割方はすが入ってしまっているようだ。とれるものはとって、漬物にしてしまうのだ。

冬いちごもまだ雪の下に残っていて、つまむことができる。うまし。

 

令和4年冬の山仕事、12月16日

雪の積もる前に。
根雪が山に覆いかぶさる前に。
昨夕の山仕事。

◆落葉採取・15分

軽トラ荷台に2梱包。牧場から岩内山の尾根に至る道沿いから拾う。表面は乾いているが、上から二枚目の葉はぬれている。こうなっていると、地表に流れる程度の風では動かない。下層はしっとりと濡れている。金箒で掃き集めようにも、固まっている層は、そうだなあ3センチほどは平均してありそうだ。白い糸状の菌がところどころに見える。
この日集めたものは里の畑へ。50センチほど掘った溝に落とし込む。1年おけば腐葉土として苗土に使えるようになる。どんぐりを中心とした苗用に、そして焼畑栽培作物の苗用となる。
あと2回ほどは必要かと思う。そう雪の積もる前に。
山の麓につくる予定の腐葉土づくり用のものは、さらに先となるかな。
なお、見出しにつけた分単位の時間は大まかなもので計測はしていない。

◆崖地焼畑カブの種取選抜と植替え・15分

今回は4株のみとなった。残りは食用として持ち帰り。目標としていた40株までは到底たりない。現在10株ほどか。気張らずにこれから毎回、ひと株でも多くやっていこうと思う。

◆竹山整備兼春焼準備・60分

勘を取り戻しつつあって、段取り・流れの大枠がつくれてきたと感じる。効率は現状の倍にまでは高めたい今冬である。技能向上とあわせて。
さて、人に教える時に、よく「慣れだ」という言葉が使われる。一言で済むよさも手伝って頻発されているのだろうが、うまく伝わっていない。「やってみること」「数をこなすこと」が大事で、理屈理論から入るのではなく、考えずに身体で覚えていくものだということに間違いはない。が、それ、理論が十分に披瀝された上でないとうまく教えが機能しない。
こうして理屈を中途半端に述べるのもよくないが、《うまく&早く》すませることを試みてほしいということを伝えてみたいのだ。昨今とみに、抜け落ちているように思う。
昨今のアマチュアに対して指導される教授型は単純だ。
無理をしない、安全に、楽しんで。
それでいいのだろうか。私はよくないと思う。
我らは素人=アマチュアなのだから、なおのこと、職人=プロに見習わねばならない。少なくとも尊敬の念を把持すべきである。アマチュアの最低限の矜持であろう。

◆準備片付けと移動、小休止・20分

休憩中のつまみ食いは冬苺。残っているものは甘みが減って酸味が強いものばかりなるも、これが美味にして体力蘇る感。
年内にできればあと1〜2回。竹ほしい方、キクイモほしい方、いまなら、取り放題である。見るだけ、足を運んでいただくだけでも嬉しいことだ。お手伝いくださる方も募集中。
「出雲の山墾り〜2022」まで

岩屋寺と切開

岩屋寺、そして隣接する切開へ行ってきた。廃寺と特異な断層地形の見学であるが、切開も廃寺もその根底にみえ、伝わってくるものは「崩れ」である。崩れとは何か。幸田文の『崩れ』からひく。

《私はそれまで崩壊を欠落、破損、減少、滅亡というような、目で見る表面のことにのみ思っていた。弱い、は目に見る表面現象をいっているのではない。地下の深さをいい、なぜ弱いかを指してその成因にまで及ぶ、重厚な意味を含んでいる》

岩屋寺がある山のそこここにみられる「崩れ」は、はじめて足を踏み入れた私に、何かを語ろうとしていた。同行したS氏は「ひとりで来るところじゃないです」という。それも同意。霊場であった山であること。建物も崩れつつあること。地形の崩れが相乗している。訪れる人がほとんどいない。あげれば他にもあるだろう。修験の霊場らしく大岩が点在しているが、いずれ崩落してもおかしくはない。そのような「実際上の危険」もさることながら、薄気味悪さ、不快さが人をして遠ざける場所となっているのだろう。

岩屋寺の「崩れ」が語ろうとしているものは、それら「不快」を発生さえる諸要因とどのような位相をもって接しているだろうか。

ジル・クレマン『動いてる庭』(山内朋樹訳・みすず書房)からひく。

《〈荒れ地〉はいつの時代にもあった。歴史的にみれば荒れ地とは、人間の力が自然の前に屈したことを示すものだった。けれども違う見かたをしてみればどうだろう? 荒れ地とは、わたしたちが必要としている新しい頁なのではないだろうか。》
《わたしたちは、ほんとうはなにを恐れているのか? むしろ、今なお、なにを恐れる必要があるのか? 下草の濃密な影や沼地の泥には無意識に追い払いたく不安があり、鮮明で明るいものは安心させ、残った部分にはあまねく不吉な妖精が満ちている……。》
《人間がそう感じるのとは逆に、荒れ地は滅びゆくこととは無縁であり、生物はそれぞれの場所で一心不乱に生みだし続けていく。》

彼が見ようとしているもの、伝えようとしているもの、その基底にあるのは「希望」であり「願い」であろう。南方熊楠の粘菌と森にまつわる書簡を、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を、思い起こしてみられよ。確信、信仰、真理、それらとは異なりながら、随伴するものとしての「科学」がそこにある。

荒れ地=崩れに対して、私たちが否応なく感じてしまう恐れや不安、不快感・嫌悪感、それら諸感覚を棚上げできるのは、理性―科学という乱暴な力だが、その暴力によってもたらされる「違う見かた」がある。

岩屋寺の崩れが語るものを、受け止めていくためには、サイエンスのアプローチを幾度か重ねていく必要がある。

さて、現在視認できるものは、比較的近年に生じたものと思われ、寺院の創建が奈良時代にまで遡るのであれば、千年単位での森林植生の移り変わりと、人がどうこの山をみてとらえ、手をかけてきたか、その履歴が探れそうだ。

寺跡については、総じて新しいもののように感じる。仁王門のルートは近世以降のもので、中世以前には違う参道ではなかったか。
現在の林相・下層植生など森としては貧弱にみえるが、生命力を感じる杉、松、桧が転々とありなぜだろう、どうなっているんだろうと好奇心をくすぐられる地であった。

崩壊をおしとどめる方策もちょっとしたことであれこれ浮かびはするが、事情からして観察関与。周辺の山主さんに伺いつつ歩き探索していけたらなあとは思う。

 

吉賀の背負い梯子

蔵木の水源会館

宇佐郷を振り返る。そこへ至る道から徒然に記す。

11月7日であった。晴れていた。木次を出たのは8時前であったろうか。下須の三浦家で妻をおろし、柿木の旧エコヴィレッジの前を通りすぎる頃から、10年前の記憶と変わらぬ風景が次々と現れる。七日市の六日市学園は、看板だけが新しくつけられていたような気がする。建物の姿形ははっきりと、当時と変わっていないように見えた。
外側は何も変わっていない。10年前とて、内側を見ていたとは思えない。自分はどうかと言われれば、変わっているはずなのだが、変わらぬ風景を見ている自分のありようは何も変わっていないように思える。
変わらないだの、思えるだの、見えるだの、曖昧な字句に終始するのは、車で駆け抜けるからなのだ。歩くということがほとほと少ない。歩いている人を見かけない。それが、ここ、吉賀町の特徴なのかもしれない。

さて、水源会館に着いたのは12時前であったと思う。吉賀町の蔵木、吉賀川の水源地にある。山の道具の展示があり、あるいは背負子もあるのではないかと立ち寄ったのだ。受付であるかどうかを確かめ入館。有爪の豊後型と思われるが、爪はとれたのかはずされているのか、寝かせて置かれており、詳しく見ること叶わなかった。事務所で伺うに、図録はじめ資料の類はまったくないようだ。展示されている道具は「このあたり」から集めたものだという。

資料の説明プレートには「せた」とある。地方名である。柿木村史には「蔵木ではせたと呼ぶ」とあることとも一致する。
そういう柿木では「にこ」と称されていたらしい。蔵木の南方、宇佐郷では「せた」「せいた」「せーた」であった。
柿木の北方、日原では「にこ」と呼ばれていた。
単純にみれば、呼称は北でにこ、南でせた、となる。事例少なしとはいえ何かを語ってくれるかもしれん。下書き中の【民俗文化地図ににるセータとニコと】に、このつづきは記す予定。

柿木の背負い梯子

妻から、「背負子、最近まで使っていた人はみたよ」と聞き、ひょいと「柿木村史」をめくってみれば、豊後型のそれがニコとしてあったし、なにより使っている人がいるというところが朗報であった。柿木=旧柿木村といってもひろい。下須、福川、椛谷、白谷、木部谷と。木部谷や椛谷を歩いてみてもよいのかもしれないが、またの機会に。

さて柿木村史の当該箇所を下に挙げておく。背負い梯子が入る前に、荷を背負う縄として使われていた「ニオ」にまつわるまじないのことが記されていて、興味深い。

ニオのまじない

ニオは日原では、オイノコと呼ばれていたものとほぼ同じものだと思う。さて、そのニオ、一方の縄の先を特に長くしておき、まじないに使うのだという。

《もしも作業中などで、両口蛇(両方に口のある蛇)やハミツグロ(多くのマムシが一つに固まっている)に出くわしたら、すぐさま、その長い方の端を切って与え、次のまじないを唱えれば、食いつかれずに済む》

唱えごとにある「ワラビの恩を忘れたか」とはなんだろう。気に留めておこう。

ナバニコ考#4

日原のなばにこについて

大庭良美,1974『日原聞書』(未来社)の「きのこ山師」に、ナバニコのことが出てくる。ところが、「ナバニコ」という言葉を話者の薬師寺惣吉は用いていない。「ニコ」と言っているのだ。同じくナバ=茸を語頭に冠した「ナバミノ」という言葉は使っている。それは当時、ミノはあってもニコが当地にはなかったからだ。

《私がここへ来た時、ここにはニコというものがないのでオイノコで物をかるいよりました。私のニコを見てこれは何にするものかというと分けてくれえというので二〇銭で売りました。それからだんだんこしらえてくれえというのでこしらえてやりました。》

採話は、昭和37年、話者が87歳のときであるが、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会から、4年後に刊行された『日原民具志』では、ニコについて、この『日原聞書』からの抜粋をはじめ、かなり書き加えられた説明がある。オイノコからナバニコへの転換についても簡単にさかれているが、『日原の民俗資料』での「次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」というテキストは抜かれている。訂正とみてよいのかどうか。そうした地域もあっただろうが、少なくとも茸師であった薬師寺惣吉が語る滝元ではオイノコからナバニコへという転換であった。加えて、こうある。

《滝元では前にはにこはなくてオイノコでかるうていたというが、脇本わたりでもオイノコであった。オイノコは山へゆくにも肩に投げかけてゆけばよいので便利であった》

滝元、脇本の位置についてはのちほど追加するが、ほか大庭加筆のポイントとしてふたつ。

・初めは男が、のちには女も使用するようになった

・私のところでなばにこをつくったのは昭和56年頃である

後者について。大庭がいうわたしのところとは、畑のことであろう。なばにこを畑に「いれた」のが大正の終わりで、「つくった」のが昭和56年頃ということか。『日原の民俗資料』と『日原民具志』に矛盾がなければそうなる。しかし、移入から自家での作成まで50年以上を有するというのはいささか長すぎはしまいか。不明であるなかで、確かなこと、それは畑でなばにこをつくったのは、昭和56年頃であったということ。そして、なばにこの日原への移入と在来にこの転換は、複雑な様相をもって推移したであろうと、いまは捉えておこう。

 

ナバニコ考#3

ナバニコなる語彙は、日原の土地で生まれたものではないか。
背負梯子をニコと呼んでいた日原に、茸師(なばつくり:日原、匹見での語彙)が、新奇である特徴をもったニコを持ち込んだ。そのニコを在来のニコとは区別してナバニコと土地の人は呼んだ。やがて土地のニコそのものがナバニコに近づく変化を遂げつつも、ナバニコへと「置き換わっていった」。

そう仮説づけて、ナバニコと椎茸の栽培化で生じた自然認識と環境管理技法の変遷を自然思想史(あるいは民俗学)のなかで捉えてみたい。西中国地方から九州にかけてのローカルなそれとして。時代のなかでは石見地方のたたら師が九州へと流れていくのと逆の流れ、人の流れが九州から石見へとあることを意識してみたい。

材料は乏しく、わずかな断片からそこまで広げようとすれば、孤立的離散的な諸事実に架空の連関と歴史を賦与するだけだという誹りを受けよう。誹りは一向にかまわない。意思と冷徹な頭をもって行けるところまで行ってみたい。

ナバニコと名付けられた民具が展示されているのは、日原歴史民俗資料館。開館は昭和56年(1981)11月4日。大庭良美が蒐集と開館へ向けて指導したもので、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にまとめられている。そのあとがき、すなわち開館記念の挨拶の記録には次の一言がしるされている。

《今後に残された問題
一、開館はしたがこれで完成したのではない。まだ足らぬものもたくさんあり、これで十分ということはないからひきつづき資料を収集して充実したものにしなければいけない。
二、資料には一つ一つ写真や図をつけ、名称、使用方法、使用場所、使用年代、製作者、材質、寄贈者等くわしいことを記入した台帳を整備しなければいけない。》

昭和56年11月4日は、はじまりに過ぎない。そこから何がどのように進展したのか、今知ることはできない。何もないかのようにすら見える。だが、公開されていないだけで何かが残っているはずだ。そこからさらに歩を進めるために、足がかりを探してみよう。ひとつには、ここで記されている台帳が閲覧できればと思う。

そして、もうひとつ、蒐集者のこと。大庭良美が民具蒐集にあたりたどった足跡である。代表的著作には『石見日原聞書』、『家郷七十年』『唐人おくり』があるが、寄稿論文で書籍にまとまっていないものもあるだろう。それらを年代順に整理しよう。大庭の民俗学への傾倒、そのはじまりは幼少の頃の星空への憧れであったか。随筆に記されているかもしれない未読のそれをあたること。野尻抱影とは無名の頃からの文通があった。野尻が星の民俗を蒐集しはじめるきっかけとなった、最初に星座の地方名を書き送ったのは他ならぬ若き大庭良美である。

大庭が東京のアチック・ミューゼアムへ野尻抱影の紹介で訪問したのは昭和12年1月21日。この時、磯貝勇から『民具蒐集調査要目』『山村語彙採集帳』を出してこられ、民具名彙や農村語彙を採集してみたらとすすめられている。

地方名というものに大庭の関心のみならず、それをどう扱うべきかについての深い洞察があったことはこれら状況から推察できる。ただ『日原の民俗資料』にはその面は希薄であろうか。6年後の1992年に刊行された『日原民具志』と比較してみようと思う。

ナバニコと同様の民具名として、安田村(現益田市安田)の「なば山負子」がある。『安田村発展史』p.407からひろっておく。国東治兵衛が椎茸栽培法をもたらしたとする記載中に出てくるのだが、国東治兵衛の椎茸栽培がどこまで成功したかは実際のところ不明である。

《東仙道村ではあし高の背負梯子を、なば山負子と云って居る。椎茸栽培が豊後邊の他國人に指導されたことは、那賀郡杵束村に存する、せんどうばつちの語を見ても、了解できる》

つづく。

 

ナバニコ考#2

木次図書館で確かめた。7月に資料館でみたナバニコは、大庭良美1986に1点ほど掲載されているものとは異なるし、口絵で確認できる2点のナバニコ(らしきもの)とも違う。同書巻末に掲載されている収蔵品目録には「にこ」10点とあるので、どこかに所蔵されているはずである。観覧願いを出して確かめてみたいものだ。

同書の「交通運輸」の章、運搬道具の項に解説と写真がある。p.136-138. 国会図書館デジタルの個人送信でも見ることができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576167

《普通のにこは在来のもので、荷をのせるコは枝を利用してつくった。なばにこは豊後のなば師が椎茸つくりにきた時持ってきたもので、足が長く、荷をおごねたり、途中で休んだりするのに便利なので、なば師に頼んで作ってもらって使うようになり、次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである》

なば師からはいくらで作ってもらったのだろう。そして、在来のにこと入れ替わっていくのはいつごろのことなのだろう。大庭良美の『石見日原村聞書』も参照するに、日露戦争が終わる頃から大正時代の終わりにかけてではないか。そしてそれは豊後から入ったなば師がひいていく頃でもあったろう。

《在来のにこやなばにこは、草や稲、藁、ひたき、薪といったものから米でも木炭でも何でもかるわれ、なくてはならぬ道具であった。かるい荷の大部分はこれを使った。》

「なくてはならぬ」ものが、「なくてもいい」ものに変わり、消えていくのだが、これほど大事にされてきたものがそう簡単に消え失せるとは思えないし、思わない。こうして博物館の展示を通して、私、令和4年に生きているひとりの人間が、かつてナバニコを背負い、山と山を、山から里へ里から山へ、里からまちへと行き来したもうひとりの人間と出会おうとしているのだし。

「かるい荷の大部分はこれを使った」というナバニコ、在来のニコと置き換わっていったというナバニコ。まずはその時代へ、「わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」と大庭氏のいうその時代へ行ってみよう。『石見日原聞書』が案内してくれる。わたしのところというのは、大庭氏の生まれ育った日原の畑である。天然記念物の大楠で知られる。

文献

†. 大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会

ナバニコ考#1

日原民俗資料館で見たナバニコ。
ナバは茸、ニコは荷子だろうか。日本の山ではあまねく見られたであろう民具であり、現代にあっては背負子(背負子)と呼ばれることが多い。子は梯子の子と同根と推定。民具の一般名としては「木負子」になるのだろう。

さて、ナバニコ。大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にある写真と若干違うような気がして、図書館で確かめてみようと思う。ナバニコについている札には「名称:ニコ」とあるのだ。また、ナバニコの分布について、少しおってみたい。

下のニコと比較して、上部がスリムであること、脚が長めであること、背がゆるやかに弧状であることなどが特徴的。背負ってみればわかるだろうが、荷重の重心がより腰や背に近くなるだろう。背当ての丸い藁編み(緩衝具)も含めてのものなのかどうかは不明である。
明治に入る以前から豊後の茸師が持ち込み、日原の人が見て背負ってみたのだと思う。仕事に雇われて使ってみて良さを実感した。そして肝心なのはその次だ。大庭1986によれば、茸師に「頼んでつくってもらった」ものだという。

まず、この展示一点だけなのか、他にいくつもあったのか。後者であればどの程度あったのか。少なくとも「なばにこ」という名で呼ばれ、少ない数が存在したのだと考えるのが自然だ。せめてもう一点現存していれば特徴を定めやすいのだが。

これら民具の収集にもっとも協力的であったのは左鐙地区の老人会であったと聞く*1。かの地は天保11年頃には豊後の茸師・徳蔵が入って営業をはじめている地である。(徳蔵は文久4年に山小屋で喀血死。天保5年〜天保10年まで三平、徳蔵、嘉吉の3名は深葉の官営事業所で椎茸栽培に従事した仲間として、嘉吉が西郷武十に語ったものが典拠であるが、資料は現在入手折衝中。西郷武十『日本特殊産業椎茸栽培沿革史』昭和30年,津久見椎茸顕彰会刊)

3つ目に、匹見の美濃路屋敷(歴史民俗資料館)にあっただろうかということ。あれば撮っているだろうから、たぶんないのだろうが。数年前に一度駆け足で訪れた際には豊後ヨキの写真を撮っている。豊後由来で名称がついたものを集めてみる必要もあろう。

ちょっと横にそれた。
ナバニコであるが、名称表示はなくとも、同じような形態のニコをどこかでみたぞとたどってみれば、芸北 高原の自然館の隣にある山麓庵にあったのだ。下の写真右上のがそれらしい。その下にある「にこ」とは形態が異なることがみてとれるが、どうだろう。

 

*1
博物館で聞いたのかパネル説明にあったのか。大庭1986のあとがきにもあったので以下記す。
《特に《左鐙にあった資料は大きなものだけでもトラックに八台、運ぶのに一日半かかりました》