吉賀の背負い梯子

蔵木の水源会館

宇佐郷を振り返る。そこへ至る道から徒然に記す。

11月7日であった。晴れていた。日本海を時折木次を出たのは8時前であったろうか。下須の三浦家で妻をおろし、柿木の旧エコヴィレッジの前を通りすぎる頃から、10年前の記憶と変わらぬ風景が次々と現れる。七日市の六日市学園は、看板だけが新しくつけられていたような気がする。建物の姿形ははっきりと、当時と変わっていないように見えた。

外側は何も変わっていない。10年前とて、内側を見ていたとは思えない。自分はどうかと言われれば、変わっているはずなのだが、変わらぬ風景を見ている自分のありようは何も変わっていないように思える。

変わらないだの、思えるだの、見えるだの、曖昧な字句に終始するのは、車で駆け抜けるからなのだ。歩くということがほとほと少ない。歩いている人を見かけない。それが、ここ、吉賀町の特徴なのかもしれない。

水源会館は吉賀町の蔵木にある。吉賀川の水源(とされる)地にある。山の道具の展示があり、あるいは背負子もあるのではないかと立ち寄ったのだ。受付であるかどうかを確かめ入館。有爪の豊後型と思われるが、爪はとれたのかはずされているのか、寝かせて置かれており、詳しく見ること叶わなかった。事務所で伺うに、図録はじめ資料の類はまったくないようだ。展示されている道具は「このあたり」から集めたものだという。

地方名は「せた」。柿木村史には「蔵木ではせたと呼ぶ」とあり、柿木では「にこ」と称されていたことがわかる。宇佐郷では「せた」「せいた」「せーた」であった。日原で「にこ」であったことから単純にみれば、呼称の境界が南と北でわかれている。あまりに事例が少なく、覚えおくための見取りにすぎないだろうが。

 

 

斐伊川の記憶、残酷の根源#1

誰もがあたりまえに知っていることが書き起こされることは稀である。書き起こされたとして、人々の目にとまることはさらに稀である。
言うに憚られることも同様。
また、あたりまえの事象は言語化するに困難を抱えている。
以上みっつはよく似ている。
また違った側面、たとえば「あたりまえ」の側、すなわちあたりまえを言語化しようとはつゆも思わぬ側からみれば、あたりまえのことは曖昧模糊とした事象にみえるだろう。それがなにかを知ってはいるのだが。だからこそ、「あたりまえ」であるのだが。ことは言語化しようとする側にとってもそうは変わらないと思われる。知っているというのはみんなが知っているということを知っているというほどのことで、じつは誰も本当に知ってはいないのかもしれない。

そうした「あたりまえ」も、幾星霜か経るうちあたりまえではなくなる。場合によっては、世間の耳目を集める事象へと変貌をとげることもあるだろう。しかし、その正体・実態・正確な姿といった面では、皆目見当もつかないことになっているのだ。南方熊楠は「人柱の話」のなかで、こう語っている。(平凡社の全集第二巻)

《本邦の学者、今度の櫓下の白骨一件などにあうと、すぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱など全くなかったなどいうが、これは日記に見えぬから、わが子が自分の子でないというに近い。大抵マジナイごとは秘密に行うもので、人に知れるときかぬというのが定則だ。……中略…… こんなことは、篤学の士があまねく遺物や伝説を探って、書籍外より材料を集め研究すべきである》

南方は書籍を事象を記録している媒体として真っ先にあげているが、書籍外ともいえるし書籍ともいえ、書籍同様の確かさをもって存在している紙に記されて残っているものがいくつかある。地図もそのひとつ。地図にしろ航空写真にしろ、読める人と読めない人がいる。伝聞ではあるが、台湾の少数民族の調査でこんなことを聞いた。山岳少数民族出身の大学生も増えてきてわかったことだという。地理や航空写真の分析をやってきた学者でも読み取れないあるいは思ってもみなかったものを、そのマイノリティを出自にもつ学生は見ることができるのだという。当地を訪れたことはなくても、である。自らの故郷であった土地からの類推なのだろうか。地図を読むということについては、断片的ないくつかの逸話を思い出すのが、ここでは割愛する。

ここまでが長い序にあたる。本題は、地図が語るもの。2022年9月にFacebookに投稿した記事への、補足なのだ。すなわち次の一文への補足である。

「斐川の実家諸々整理のためもあり、昔マップをふとみてみるに、大正7年の斐川における新川の存在がにわかに現前し、驚き、しばし黙考。川の姿の記憶は失せようと、なにかが残り続ける。そうしたすべてを失うときに、生命は物に変えるのだなあと、パース=ジェスパー・ホフマイヤーを重ねがら考える」

端的には、新川開削に人柱はたてられたろうか、ということへの答えである。

斐伊川は暴れ川であって、慶長12年(1607)松江開府以降、凄まじいものとして記録からも伺うことができる。件の新川開削は天保2年(1832)からはじまるが、洪水被害の軽減をはかるのが主目的であった。現在まで200年はたってない開削事業は、語り草として家々で語られることもあると聞く。堤をつくるとき、人柱がたてられたという話は、新川より前のものだろう。私は親から聞かされたものだが、「足を引っ張られるから、斐伊川では遊んではいけない」と言われて育ったものだ。だからなのかどうなのか、身近な小川で遊ぶ子どもはいても、斐伊川で遊ぶ子どもはいなかった(と記憶している)。いや、いたし見たりもしたのだが、都会から遊びに来ている人たちで、「バカが!」と言いながら、通り過ぎる大人がいたという記憶はある。そうつぶやいたのは自分の親だったかもしれない。

《熊楠は、民俗学には残酷の感覚が必要である、と考えていた。それはこの学問が、人間的なるものすべての根源に触れていくような、始原学でなければならないからだ。人間的なるもののその根源、その奥底の闘技場では、たえまない残酷が行使され、その残酷の中から、差異の体系としての文化が創出されてくる。民俗学の主題は、近代のあらゆる学問に抗して、その始原の光景を、知の言葉の中に、浮上させてくることにある。近代のあらゆる学問に抗して、と言ったのは、近代の社会とそれをささえるすべての文化装置が、あげて、この始源の光景を隠蔽することから、みずからの存在理由を打ち立てようとしているからであり、民俗学はそれに抗して、近代の言説に亀裂を入れる、本質的に「例外の学問」にならなければならない。南方民俗学は、そのような始源学をめざしていた。》(中沢新一,1992『森のバロック』

中沢新一は南方熊楠の「人柱の話」から「南方民俗学」と自ら名付けたものを見出そう=作り出そうとしている。

〜つづく。

 

 

ナバニコ考#4

日原のなばにこについて

大庭良美,1974『日原聞書』(未来社)の「きのこ山師」に、ナバニコが出てくる。「ナバニコ」という言葉を話者の薬師寺惣吉は用いていない。「ニコ」と言っているのだ。ナバミノは使っている。それは当時、ミノはあってもニコが当地にはなかったからだ。

《私がここへ来た時、ここにはニコというものがないのでオイノコで物をかるいよりました。私のニコを見てこれは何にするものかというと分けてくれえというので二〇銭で売りました。それからだんだんこしらえてくれえというのでこしらえてやりました。》

採話は、昭和37年、話者が87歳のときであるが、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会から、4年後に刊行された『日原民具志』では、ニコについて、この『日原聞書』からの抜粋をはじめ、かなり書き加えられた説明がある。オイノコからナバニコへの転換についても簡単にさかれているが、『日原の民俗資料』での「次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」というテキストは抜かれている。訂正とみてよいのかどうか。そうした地域もあっただろうが、少なくとも茸師であった薬師寺惣吉が語る滝元ではオイノコからナバニコへという転換であった。加えて、こうある。

《滝元では前にはにこはなくてオイノコでかるうていたというが、脇本わたりでもオイノコであった。オイノコは山へゆくにも肩に投げかけてゆけばよいので便利であった》

滝元、脇本の位置についてはのちほど追加するが、ほか大庭加筆のポイントとしてふたつ。

・初めは男が、のちには女も使用するようになった

・私のところでなばにこをつくったのは昭和56年頃である

後者について。大庭がいうわたしのところとは、畑のことであろう。なばにこを畑に「いれた」のが大正の終わりで、「つくった」のが昭和56年頃ということか。『日原の民俗資料』と『日原民具志』に矛盾がなければそうなる。しかし、移入から自家での作成まで50年以上を有するというのはいささか長すぎはしまいか。不明であるなかで、確かなこと、それは畑でなばにこをつくったのは、昭和56年頃であったということ。そして、なばにこの日原への移入と在来にこの転換は、複雑な様相をもって推移したであろうと、いまは捉えておこう。

 

野生のアズキは古い川のほとりに

「秋、野生のあずきを探しに、6000年前の記憶を探しに」と、書いてから5年が経ち、いま2箇所ほどのスポットで毎年みている。最初の2年ほどはどこを探しても見当たらず、途方に暮れたと思うのだが、当時どこを探したかも忘れてしまった。あきらめ半分で、人にそれとなく尋ねるようにもなった。そういうものがあるんですよ、というくらいに。それから半年か1年たつかの頃に、いまみている2箇所を、教えてもらった。「ありましたよ。たぶんそうなんじゃないか」と。

見つける(かる)時期は9月。つる性であるし、他の植生とまじりわかりにくいが、この時期に黄色い花が目立つので、見つけやすいのだ。

さて、野生のアズキとはヤブツルアズキ(Vigna angularis var. nipponensis)のこと。ひとつのポイントでは、毎年安定して開花結実している(もうひとつのポイントでは翌年は消えたりもするが、いまのところ見つけられている)。河川ぞいに点々とひろがってもいて、じっくりと探していたわけでもなかったが、なんと数日前にツルマメ(Glycine soja)も発見した。ふたつがからみあっているので、わかりにくいでしょうが、ヤブツルアズキは褐色の蔓、実は熟して鞘は黒くなっている。ツルマメはグリーンの蔓、実は枝豆のちっちゃいやつがついている。ほんとに大豆そっくりだ。あちこちにはびこっている葛と似ていなくはないが鞘も葉も異なる。

はじめて見つけたのが10月5日で、10日後の10月15日に様子をみにいってみたが、採種にはまだ早かった。もっとも密生しているところは見事に刈られ、すみにかためられていた。水路の堰のそばであったからだろうが、なぜここにと考えたときに、あぁやはり上流から流れてきたものかもしれないと。

来歴についてはおぼろげに気にしている程度であったが、今日が吉日として、たどってみることにした。そして、あった。ポイントほどの群生ではないが、生きている。小さな群れで。ツルマメもいっしょだ。採種ポイントからは1kmほど河川をさかのぼったところ。かつては後谷川と呼ばれていた川のほとりだ。後谷……民俗学では、後谷、イヤ谷、寺田、これらは葬送地を意味するものとして認知されている。下の写真である。この小さな川と谷は明治19年に大規模土木工事によって改変された場所でもある。

ツルマメはウェブサイト「松江の花図鑑」にもある。2012年10月13日、玉湯でまだ青い果実だ。このポイントと標高は20m程度しか変わらないと思う。開花、結実とも栽培大豆とほぼ同じなのだろう。

ツルマメと似た野生種にヤブマメがあるが、「三河の植物観察」をみると両者を比較した違いを写真とテキストでわかりやすく示している。ツルマメは「小葉が細く、花の長さが短く、小型。果実は全体に毛があり、種子の表面もざらつく」と。ヤブマメは「小葉の幅が広く、花の長さが長く、やや日陰を好む」と。

10日から14日後を目安にまた来てみることとしよう。

神谷美恵子という人

『神谷美恵子の日記』(角川書店)を立ち読みして、「なんという人だろう」と。こんな人がいるのだろうか、いたのだ、確かに。そして、確かめるためにこれから読んでみようと思う。

一九三九年四月二日(日)より

《夕方バッハのカンタータをラジオできいて心のハイマート〔故郷〕に帰った心地がした。軽い調べ底に流れる深い悲哀、この世に関する限りこれが本当の調子であることを思う。よろこんでいる人よりははるかに数の多い人々の苦しみと悲しみと、人生そのものにまつわる悲哀とを思う。
私は自分一個のためにもう充分苦しんだ。今はもはや自分のために苦しんでいる時でも喜んでいる時でもない。》

「今はもはや自分のために苦しんでいる時でも喜んでいる時でもない」
神谷美恵子、25歳の言葉である。この年1939年に、反対していた父が医学に進むことを受入れ、それを「転回」と記している。

中井久夫はこう書いている。

《二十五歳の日に「病人が呼んでいる」!」と友人に語って医学校に入る決心をされたと記されている。このただごとでない召命感というべきものをバネとして医者になった人は、他にいるとしても例外中の例外である》

みすず書房の中井久夫集1に収められている「精神科医としての神谷美恵子さんについて」の一文である。この短いテキストには、幾度も読み返したくなる何かがある。間にあるものを捉えようとして寄せては返す波のように、動いている、その波が私を引き寄せる。また、中井のあらゆるテキストへつながる根がここにあるようにも思う。

《病いに呼びかけられ、病いを恐れ、憎しみつつ、偏愛し、憧憬し、病いに問いかけるという両義性が時に名医と呼ばれる人の中に発見されるように私は思う。たとえば脳外科の開拓者たちに。このような両義的な対象愛は職人に近縁であり、職人と同じく有能であることによってはじめて許容されるものである》

そして中井は、両義的な対象愛とそれを許容しうる有能を彼女は有していたであろうと述べつつ、《しかし、彼女は「病に呼ばれた」のでなく「病人に呼ばれた」のである》と断ずる。
「病に呼ばれた」のではなく「病人に呼ばれた」。この違いをしばらく考えてみたい。

 

 

ナバニコ考#3

ナバニコなる語彙は、日原の土地で生まれたものではないか。
背負梯子をニコと呼んでいた日原に、茸師(なばつくり:日原、匹見での語彙)が、新奇である特徴をもったニコを持ち込んだ。そのニコを在来のニコとは区別してナバニコと土地の人は呼んだ。やがて土地のニコそのものがナバニコに近づく変化を遂げつつも、ナバニコへと「置き換わっていった」。

そう仮説づけて、ナバニコと椎茸の栽培化で生じた自然認識と環境管理技法の変遷を自然思想史(あるいは民俗学)のなかで捉えてみたい。西中国地方から九州にかけてのローカルなそれとして。時代のなかでは石見地方のたたら師が九州へと流れていくのと逆の流れ、人の流れが九州から石見へとあることを意識してみたい。

材料は乏しく、わずかな断片からそこまで広げようとすれば、孤立的離散的な諸事実に架空の連関と歴史を賦与するだけだという誹りを受けよう。誹りは一向にかまわない。意思と冷徹な頭をもって行けるところまで行ってみたい。

ナバニコと名付けられた民具が展示されているのは、日原歴史民俗資料館。開館は昭和56年(1981)11月4日。大庭良美が蒐集と開館へ向けて指導したもので、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にまとめられている。そのあとがき、すなわち開館記念の挨拶の記録には次の一言がしるされている。

《今後に残された問題
一、開館はしたがこれで完成したのではない。まだ足らぬものもたくさんあり、これで十分ということはないからひきつづき資料を収集して充実したものにしなければいけない。
二、資料には一つ一つ写真や図をつけ、名称、使用方法、使用場所、使用年代、製作者、材質、寄贈者等くわしいことを記入した台帳を整備しなければいけない。》

昭和56年11月4日は、はじまりに過ぎない。そこから何がどのように進展したのか、今知ることはできない。何もないかのようにすら見える。だが、公開されていないだけで何かが残っているはずだ。そこからさらに歩を進めるために、足がかりを探してみよう。ひとつには、ここで記されている台帳が閲覧できればと思う。

そして、もうひとつ、蒐集者のこと。大庭良美が民具蒐集にあたりたどった足跡である。代表的著作には『石見日原聞書』、『家郷七十年』『唐人おくり』があるが、寄稿論文で書籍にまとまっていないものもあるだろう。それらを年代順に整理しよう。大庭の民俗学への傾倒、そのはじまりは幼少の頃の星空への憧れであったか。随筆に記されているかもしれない未読のそれをあたること。野尻抱影とは無名の頃からの文通があった。野尻が星の民俗を蒐集しはじめるきっかけとなった、最初に星座の地方名を書き送ったのは他ならぬ若き大庭良美である。

大庭が東京のアチック・ミューゼアムへ野尻抱影の紹介で訪問したのは昭和12年1月21日。この時、磯貝勇から『民具蒐集調査要目』『山村語彙採集帳』を出してこられ、民具名彙や農村語彙を採集してみたらとすすめられている。

地方名というものに大庭の関心のみならず、それをどう扱うべきかについての深い洞察があったことはこれら状況から推察できる。ただ『日原の民俗資料』にはその面は希薄であろうか。6年後の1992年に刊行された『日原民具志』と比較してみようと思う。

ナバニコと同様の民具名として、安田村(現益田市安田)の「なば山負子」がある。『安田村発展史』p.407からひろっておく。国東治兵衛が椎茸栽培法をもたらしたとする記載中に出てくるのだが、国東治兵衛の椎茸栽培がどこまで成功したかは実際のところ不明である。

《東仙道村ではあし高の背負梯子を、なば山負子と云って居る。椎茸栽培が豊後邊の他國人に指導されたことは、那賀郡杵束村に存する、せんどうばつちの語を見ても、了解できる》

つづく。

 

ナバニコ考#2

木次図書館で確かめた。7月に資料館でみたナバニコは、大庭良美1986に1点ほど掲載されているものとは異なるし、口絵で確認できる2点のナバニコ(らしきもの)とも違う。同書巻末に掲載されている収蔵品目録には「にこ」10点とあるので、どこかに所蔵されているはずである。観覧願いを出して確かめてみたいものだ。

同書の「交通運輸」の章、運搬道具の項に解説と写真がある。p.136-138. 国会図書館デジタルの個人送信でも見ることができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576167

《普通のにこは在来のもので、荷をのせるコは枝を利用してつくった。なばにこは豊後のなば師が椎茸つくりにきた時持ってきたもので、足が長く、荷をおごねたり、途中で休んだりするのに便利なので、なば師に頼んで作ってもらって使うようになり、次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである》

なば師からはいくらで作ってもらったのだろう。そして、在来のにこと入れ替わっていくのはいつごろのことなのだろう。大庭良美の『石見日原村聞書』も参照するに、日露戦争が終わる頃から大正時代の終わりにかけてではないか。そしてそれは豊後から入ったなば師がひいていく頃でもあったろう。

《在来のにこやなばにこは、草や稲、藁、ひたき、薪といったものから米でも木炭でも何でもかるわれ、なくてはならぬ道具であった。かるい荷の大部分はこれを使った。》

「なくてはならぬ」ものが、「なくてもいい」ものに変わり、消えていくのだが、これほど大事にされてきたものがそう簡単に消え失せるとは思えないし、思わない。こうして博物館の展示を通して、私、令和4年に生きているひとりの人間が、かつてナバニコを背負い、山と山を、山から里へ里から山へ、里からまちへと行き来したもうひとりの人間と出会おうとしているのだし。

「かるい荷の大部分はこれを使った」というナバニコ、在来のニコと置き換わっていったというナバニコ。まずはその時代へ、「わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」と大庭氏のいうその時代へ行ってみよう。『石見日原聞書』が案内してくれる。わたしのところというのは、大庭氏の生まれ育った日原の畑である。天然記念物の大楠で知られる。

文献

†. 大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会

ナバニコ考#1

日原民俗資料館で見たナバニコ。
ナバは茸、ニコは荷子だろうか。日本の山ではあまねく見られたであろう民具であり、現代にあっては背負子(背負子)と呼ばれることが多い。子は梯子の子と同根と推定。民具の一般名としては「木負子」になるのだろう。

さて、ナバニコ。大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にある写真と若干違うような気がして、図書館で確かめてみようと思う。ナバニコについている札には「名称:ニコ」とあるのだ。また、ナバニコの分布について、少しおってみたい。

下のニコと比較して、上部がスリムであること、脚が長めであること、背がゆるやかに弧状であることなどが特徴的。背負ってみればわかるだろうが、荷重の重心がより腰や背に近くなるだろう。背当ての丸い藁編み(緩衝具)も含めてのものなのかどうかは不明である。
明治に入る以前から豊後の茸師が持ち込み、日原の人が見て背負ってみたのだと思う。仕事に雇われて使ってみて良さを実感した。そして肝心なのはその次だ。大庭1986によれば、茸師に「頼んでつくってもらった」ものだという。

まず、この展示一点だけなのか、他にいくつもあったのか。後者であればどの程度あったのか。少なくとも「なばにこ」という名で呼ばれ、少ない数が存在したのだと考えるのが自然だ。せめてもう一点現存していれば特徴を定めやすいのだが。

これら民具の収集にもっとも協力的であったのは左鐙地区の老人会であったと聞く*1。かの地は天保11年頃には豊後の茸師・徳蔵が入って営業をはじめている地である。(徳蔵は文久4年に山小屋で喀血死。天保5年〜天保10年まで三平、徳蔵、嘉吉の3名は深葉の官営事業所で椎茸栽培に従事した仲間として、嘉吉が西郷武十に語ったものが典拠であるが、資料は現在入手折衝中。西郷武十『日本特殊産業椎茸栽培沿革史』昭和30年,津久見椎茸顕彰会刊)

3つ目に、匹見の美濃路屋敷(歴史民俗資料館)にあっただろうかということ。あれば撮っているだろうから、たぶんないのだろうが。数年前に一度駆け足で訪れた際には豊後ヨキの写真を撮っている。豊後由来で名称がついたものを集めてみる必要もあろう。

ちょっと横にそれた。
ナバニコであるが、名称表示はなくとも、同じような形態のニコをどこかでみたぞとたどってみれば、芸北 高原の自然館の隣にある山麓庵にあったのだ。下の写真右上のがそれらしい。その下にある「にこ」とは形態が異なることがみてとれるが、どうだろう。

 

*1
博物館で聞いたのかパネル説明にあったのか。大庭1986のあとがきにもあったので以下記す。
《特に《左鐙にあった資料は大きなものだけでもトラックに八台、運ぶのに一日半かかりました》

令和4年秋、種子だけはとれると思っていた大豆が牛に齧られた日に

令和4年9月30日。徒然なるままに記す。

4日前から家の裏の金木犀が香りを放っている。夕方、山へ行った。春に焼いた畑は、トマト、里芋、大豆を残すのみとなった。タカキビが無事に収穫できたことでほっとしていた。気がゆるんでいたともいえる。夏に焼いた急斜面でも期待していなかったカブは大きく育ちつつあって、11月下旬にはとれるのではないかと淡い期待を抱いている。

大豆のこと

そのカブのある斜面から5mもあがれば夏焼の畑に着く。目に飛び込んできたのは、葉のなくなった大豆だった。見事に葉の部分だけが齧られている。きれいなものだ。もともと5〜6株しかなかったのだから、荒らされてはいない。そばには大きな糞があった、2〜3日たっているだろうか。あぁ、種子は無理か、一からやり直しか、まぁよい、黒大豆はもともと難しかった。白大豆にそろえてやりなおそう。いい機会かもしれない。さて、これはどうしようか、一株くらい残そうか、枝豆としてすべて食べてしまおうか。そんなことをつらつら考えた。

白大豆は焼畑で5〜6年はついできたものだ。品種はよくわからなくなっているが、庭でもよく育ったので、無肥料地にうまく適応しつつあったものだ。まともにとれたのは一度もないように思う。牛に食われたのは一度くらいしかないが、タヌキかアナグマには収穫の前日にめちゃくちゃにされたこともあった。あのときは悲しかった。豆を食われたのだから。土にまみれてしまったなかから救い出した豆数個を翌年ついでできたときには嬉しかったような記憶がある。

焼いて2年目から3年目の畑でよくできた。今年は初年から区画の端にまいてみたが、例年にない雨の少ない梅雨で、発芽はごくわずか。1割ほどではなかろうか。2度めの台風では倒れてしまったが、翌日に起こして支えを入れたのがよかったのか、実がだんだんと膨らんでいくのがうれしかった。そんな矢先に牛に齧られたわけだ。タヌキ対策はこれからだったし、策があったわけではない。来年はタカキビ・アマランサスの後に植えるつもりであるから、策を二重三重に練り上げておこう。

タカキビのこと

林原のとある農家で長年栽培されてきたものを7年ほどなんとかついできている。今年は丈が高くなってしまった。平均2m30cmほどだったか。あとで面積と株間をはかり、来年も同程度の面積は確保したい。できればもっと広く。播種時期はちょうどよかった。

アマランサスのこと

間引きが遅れたのと、面積を広げすぎた。播種時期はもう少し後ろでもよい。

里芋のこと

今日掘り上げたか、おそすぎた。焼畑の場合、土寄せができないので、9月頭に掘り上げてよかった。

今日のところはこのへんで。また加筆するかもしらん。

合歓木の花が目立つ今年の夏

まとまった雨が降り山の畑もほっと一息。春焼き後の点描を。

◉アマランサスは順調にみえて少し変。昨年は火入れができず、菜園畑で採った種子を用いたのですが、なんか違うものが交雑してるようです。葉っぱの味も違う。やれやれ。できる限り選別していきますが、難しい。里の畑だとヒユ科の何かが混じってしまうのだと再認識。


◉ミニトマト(ブラックチェリー)の草勢は想像以上。ほとんどいじらず放任して様子をみます。

◉カボチャ(かちわり)も降雨以降盛り返して、遅れを取り戻しています。3年前はうまくいかず、焼畑にはあわないのかと期待はしていませんでしたが、いけそうです。

◉ナス(黒小町)は交配種で、一代限りのお試しですが、雨の降らない時期によく枯れずに残ったというところ。復活の様子見。

◉はぐらうりは今年はじめて。牛が入るところに直播し、まったく芽が出ず、諦めていたのですが、出てました。よかった。ウリ科の草は牛が放置してくれるのではという期待もこめて。どうなりますか。

◉タカキビ(林原在来)は初期の成育がよくなかったのですが、いい感じかと思います。

◉サトイモ(三刀屋在来)もなんとか。焼畑のはとりわけ美味いことは実証済みなので、楽しみに見守っていきたい。

◉ヒエは、まったく発芽しませんでした。なぜ。心当たりはもちろん複数あるのですが。
◉大豆もゼロかと思っていましたが、わずかにのびているものがありました。黒大豆か。白大豆はたぶん全滅。ヒエもですが、雨がないと、焼畑の大豆はちょっと無理ですね。たまたま堅い土のところでもあったためよけいに。