名についてー西石見と豊後のあいだで想う

名とは、失われゆくものをかろうじて結び止める仮の場であり、同時にその結び止めによって失わせてしまう形式である。

名は指し示す対象の不在を暗示する。名が呼ばれることによって、対象は、「そこにあった」「これからくる」と立ち上がる。よって名は「いま」「ここ」では必要とされない。

名は実体を欠いているのではなく、実体を欠いているからこそ名となる。名が実体を欠くためには、離れていなければならない。

名は非定常なものを定常化する。しかし名がなければ、非定常は記録されずに消える。

名によって見えるものと、名によって見えなくなるものとがある。

名づけられる前の、名を拒むような『場』や『動き』そのもの、を、よむことができるだろうか。それは名が挙げられるその時に現われるものだろう。名があがる前、名があがった後。

三平について、それをみてみよう。名があがる前、それはひとりの老人の記憶のなかにあった。

大分県津久見市長泉寺門前に立つ「日本特殊産椎茸栽培業者発祥地」と刻まれた碑の隣には、由来を記した銘文碑があり、次のように記されている。

《往昔、天保の頃、津久見の先覚者彦之内区三平、西之内区徳蔵、嘉吉、平九郎、久吉等の椎茸作業に端を発し、三平・徳蔵は石見へ出向し椎茸作を営む。これ中国地方における専門的栽培者の始祖なり》

昭和三〇年当時、椎茸栽培の起源を寛永年間に遡らせ、豊後国の源兵衛を創始者とする説が広く流布していたが、実証的な根拠はなかった。この碑は、むしろ椎茸栽培を事業として担った人々を、一人ひとり確認し、二七三名を顕彰したものである。

 その際に刊行された『日本特殊産業椎茸栽培業沿革史』(17)には、「降雪に埋没した三平」の実話が収録されている。顕彰碑の発起人・西郷武十が、三平・徳蔵とともに肥後国の御物山(官山)で椎茸作業に従事した嘉吉から直接聞き取ったとされるものである。嘉吉は文化十三年生まれで、明治三十二年一月、八二歳のときに西郷に語り、それが記録された。

 

国東治兵衛をよむ#01

国東治兵衛は『紙漉重宝記』を著した人物として知られる。大阪で寛政10年に刊行され、文化7年には江戸でも、翌8年には京都、大阪、江戸の三都で版を重ねている。当時から海外(オランダ経由か)へも紹介されていたかと思う。古書としていまも出るものがあるかどうかはわからないが、国内の図書館、博物館に所蔵されているものはあわせて12程度かと思う。

デジタルアーカイブで閲覧できるのは、国会図書館蔵、国立公文書館のふたつ。

そのうちのふたつあるいは3つが島根県内にある。島根大学付属図書館が蔵する桑原文庫に文化7年の版。島根県県立図書館にも文化7年の版があり、そしてもう一冊あるかもしれないものは昭和の手写本である可能性が高く近々に確認予定。

国東治兵衛像再考のための予察

まず、多くの事典に記載の國東治兵衛についての記述について。事典編纂時の問題でもあろうが、典拠史料を遡っていけば無根拠に等しいことがわかる。端的には益田市遠田に在住する紙問屋であったとする人物像である。
墓所とされ墓石に比定されている遺跡は、あくまで大正14年の段階、すなわち国東治兵衛の顕彰碑が遠田に建立された時にそうであると「された」ことに由来する。しかも、この顕彰碑は藺莚産業の起源をなす人物として顕彰されており、紙漉については一言もない。そして、藺莚産業の起源をなす人物ということにも、史料的根拠は、今はない。かつて誰かが見たかどうかすらも疑わしく、存在しないことを前提として、国東治兵衛像は捉え直し、主としたほうがよい。なんのために? 紙漉重宝記をよむために。そして益田市遠田をはじめ西石見をよむために。

少しばかり詳述しておく。

現在普及している國東治兵衛像の起点は、矢富熊一郎『益田町史上巻』(1952・益田公民館)にある。

「国東治兵衛の郷里は、(益田町の)隣村遠田村である。…(中略)…彼が晩年に当る寛政十年、紙問屋として郷里に働いたことは、彼の著「紙漉重宝記」に依って知られ、藩主松平周防守から抜擢されて、「間仕事取調係」に委嘱されたことは、松平家古文書によって知られる。…(中略)…領内産業奨励の事務を托せられるや、畳表は勿論のこと、山地帯美濃郡奥部地方には、楮を栽植させて紙漉の事業を奨め又椎茸の栽培を徹底させて、間仕事たる副業方面の、向上発達に至大な貢献を与えた。」(P.427)

松平家古文書によって知られるというところ。松平古文書とはなにか。治兵衛を記録する唯一の史料・松平家古文書は、「間仕事取調書」であり、天保八年(1837)編であることが、矢富の『安田村発展史上巻』(昭和16年・1941)には記されている。しかしながら、この文書は所在不明である。

ここで些末なことだが注意すべきことをひとつ。先の『益田町史上巻』には治兵衛が「藩主松平周防守から抜擢されて、「間仕事取調係」に委嘱された」とある。そして『安田村発展史』にある「間仕事取調書」の年号は天保八年である。松井松平家(松平周防守家)は官名「周防守」を代々称し、天保七年に棚倉へ転封となった。これにより天保八年の浜田藩は越智松平家(松平右近衛将監家)である。領主家交代が「係」と「書」の間にある違いとなっている。そして、矢富によれば、国東治兵衛が委嘱を承けたのは、松平周防守であるが、そのことが記載されているのは、松平右近衛将監家時代の文書ということになる。

精読と訓読と積読と#2

あれこれと気がついた些末なことを書き留めておく。

†. 開高健,1960『ロビンソンの末裔』角川文庫,昭和39年(1964)

「上野駅には七時頃に行きました」。語りは場所の光景ではじまる。いつものように混乱、おびただしい数の人びとのひしめき、そして「高い鉄骨の丸天井のしたには靴音と声が潮のようにみちて、ゆれ、ふるえていました」と。

昨今の上野駅は真新しくもなったが、ここで描写される空間は変わらぬものがあるのだと思った。照度とは別にどこか暗いものと、音の響きと、そして鉄骨の丸天井と。

覚えておきたいことは、私が女房子供と一緒に抱えてきた荷物の中身である。バケツの一つに茶碗や箸や庖丁といった食器の類、もう一つに高粱、米、大豆。風呂敷包みには毛布と衣類。釜が風呂敷包みの中にあり、高粱八分に米二分が炊き込んである。

穀類の主たるものが高粱なのか。高粱八分に米八分か。麦でも黍でもなく高粱。高粱はタカキビである。小説とはいえ意外であることに加え、高粱八分である。三次の史誌に残る熊子飯の配合について、熊子八分に米二分という率を思い起こさせた。タカキビをたくさんつくれた年に試してもみたい気もする。

†. 杉浦日向子,〔1986〕『東のエデン』筑摩書房,杉浦日向子全集第5巻,1996

標題作品の初出が1986年。全集第5巻に収められている作品は。1983年から1984年にかけて雑誌に掲載されたものが大半であるが、未発表作品も2,3収められている。全集収録前にはちくま文庫の『ニッポニア・ニッポン』『東のエデン』に入っていたものも多い。杉浦日向子の文庫はすべて持っていたはずだが散逸してしまったのと、先の2冊はこの書を買ったあとに、誰かに譲った(売った)。

「江戸そのもの」とでもいうものは、あったとしてもそれとは気づけないのだろうが、ここにはあると信じられる。それは杉浦日向子という作家性に依拠するのではなく、その向こうにある無名の地平へと杉浦を媒として私たちが爪先なりと指先なりと、「かける」ことができるからだと思う。その”味わい”は空気とも場とも言い難い何か。そう言いたくなるが違うのは、「時」を持っているからだ。それこそが、「語り」なのだろう。時をともなうもの。

さて、今日、この書を紐解いたのは、国東治兵衛の『紙漉重宝記』の一丁「楮苧売買のこと」をみていて起こった疑問を解けないかというところから。

†. 國東治兵衛,1798(寛政10)『紙漉重宝記』

國東治兵衛像についての再考は「国東治兵衛を読む#01」。

その墓所とされた地を訪れたのは、5年も前になるか。くにさきという地名はなくなっており、「くにさき苑」という福祉施設だけが残っている。やがてここが「くにさき」と呼ばれていた時代も忘れ去られる日がくるのだと思う。

国東治兵衛 著 ほか『紙漉重宝記』,秋田屋太右衛門[ほか3名],文政7 [1824]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2537086 (参照 2026-06-22)

†. 大江健三郎,1884「もうひとり和泉式部が生まれた日」『いかに木を殺すか』文藝春秋,昭和59(1984)

作品名が思い出せなかったが、木次図書館で一度借りて読んだ記憶を頼りに、もう一度探してみた。何年か前にも読み返そうとして見つからなかった。たまたま閉架に大江の作品がかなり入っていることがわかったので探してみたのだ。3冊ほどあたりをつけて出してもらい、めくってみてすぐにわかった。谷のそこにもあらなくに!

 

精読と訓読と積読と#1

机上にあるもの、手の届くところにあるもの、すべてではないが、ここに記し置く。

†. 菅豊,『川は誰のものか—人と環境の民俗学』吉川弘文館,2006年

目次をみれば一目瞭然ではあるが、本書のキーワードはコモンズ(commons)である。書名にないのが不思議なくらいである。菅は本書では次のようにコモンズを定義している。

「複数の主体が共的に使用し管理する資源や、その共的な管理・利用の制度」

そして、次の補足を付している。

コモンズは資源の使用、所有、管理という局面において、国家や政府が担う「公」的な位相と、個人が担う「私」的な位相の中間の「共」的な位相に存在する。

 菅の議論は、公共を「公」と「共」とに割り、コモンズとしての川を、国家や行政の「公」、個人の「私」、そして複数の主体が使用し管理する「共」のせめぎあいの場として捉えるものだ。そうすることで、環境政策の言葉を、歴史・履歴・民俗の位相へといったん差し戻すことができる。

しかし、この整理に違和感を感じるのは私だけではないと思う。「公」を国家・政府にかなり寄せていることがひとつ。公共政策でも社会学でも、public は必ずしも国家だけを意味しない。公共財、公共圏、市民的公共性、公共的討議といった概念整理では、むしろ国家から距離をとった市民的・開放的な領域こそが public と呼ばれることもある。

ただし、ここで菅が扱っているのは、公共性一般ではなく、川という資源をめぐる所有・利用・管理の正当性である。近世においては「旧例」や納税の履歴によって支えられていた在地の川利用が、近代国家の制度のなかで、そのままでは正当性を失っていく。そのとき人びとは、「公益」や「資源保全」といった、近代国家に通じる言葉を発見し、それを用いて自らのコモンズを守ろうとした。

私はここに、菅の議論が単なる歴史民俗誌にとどまらず、資源管理論=環境政策という舞台で、現実に「闘う」ための言葉を探している面を見る。

菅は、「川」という普遍名詞を使いながら、描いているのは新潟県岩船郡山北町を流れる大川のことである。

以下略。。ここで備忘的に私にとっての川がなんだったのかについてふれておく。

川。私が小学生の頃には、川はすでに自治から離れつつあった。1級河川、2級河川なる冠のついた河川名が、真新しい看板として設置されはじめていたようにも思う。1級が偉くて、2級はその次で、それは自分たちのものではなく国や県が管理するものである。自分たちが管理するものは一段も二段も低いもので、名前などつけてもらえていなかった。あったかも知れないが、「川」といえば通じていた。年に一度か二度、集落全員が集まって草刈りやドブさらいをした。なぜか子供たちもかり出され、何かした後におやつか何かをもらって食べていた記憶もあるが、何をしたのかはまったく覚えていない。大人たちが何人かで川の中にいた大きな鯉を大騒ぎしながら捕まえようとしていた光景だけは鮮明に今でも思い出す。その鯉は後ほどみなでお酒とともに食されたのだということを聞いて、へえー食べるのかあ、だからみんな夢中で必死だったんだと納得した。そんな記憶である。

その小さな川は、私の家の裏を通っていて、どこからか降りれるようにもなっていた。毎日の洗濯ほどではないにしても、母や祖母は何かを洗っていたような気がする。

この川は小学校までの道に沿って流れていた。その道は、ゆるやかなカーブを描きながら東に向かってのびていて、生活用水の名残を保持しながらも、その主たる用益は水田の用水であったが、目にしていたのは排水でしかなく、その水が下流へどのように渡っていったのかを知ることはなかった。

その川は今はない。耕地整理に際して川道も変わ、1m幅三面張りの本当に小さな用水路となっている。鯉も鮒も水草もなくザリガニもいない。カエルくらいは鳴くだろうか。そこに存在することすら気づかれずにあるかのようだ。

†. 中井久夫,『西欧精神医学背景史』みすず書房,1999年

†. 中井久夫,『治療文化論—精神医学的再構築の試み』岩波書店,1990年

†. 中井久夫,『分裂病と人類』東京大学出版会,1982年

 

其の日の早く来れかしとのみ存候

春の駆けていく音1

早い予兆は昨年12月の暮れ頃には示されていた。猪が筍を掘った跡を12月にみている。どんなに早くても1月であろうから、よほどの何かがあるのだろう、なんだろうと、訝しさ半分好奇心半分の構えであった。

桜、ソメイヨシノの開花は例年とさほど変わらず。ただ、みな一斉に咲くのではなく、咲き始めといい散り始めといい、バラけているようでもあった。勢いがないのをそう感じていただけかもしれないが。

ツツジは10日から14日は早いように思う。

近年は変動が毎年激しいので、記録を見ない限り「どうだっけ?」となってしまう。

備忘のためのメモ風につづっていく。

†.  カブの菜花は切り取っても長く花をつけつづける。なぜだろう。また、温海かぶよりも畑田カブのほうが、花のつきが長く続いている。これはカブのサイズがまちまちだからだろうか。それともより野生化(雑種化したもの)の特徴なのだろうか。

†.  17日の夜23時頃にはカエルが合唱していた。降雨が近いからか。12時を過ぎるころにはすっかり鳴かなくなった。いま1時過ぎだが、静まり返った夜。フクロウも鳴いてない。

†.  家の裏のコナラ。山のどんぐりをポットに入れて育てていたもののふたつほどを通路のわきにおろした。3年目だろうか。どんぐりからは4年目か5年目だと思う。昨年から急に大きくなり3m近くの高さがあるのだが、今日花がついているのを見つけた。昨日か今日に咲いたのだと思う。ハチや虫は蜜を吸いに来るだろうか。風媒花ではある。いろいろ思うところあり。

 

令和8年第5回焼畑フォーラム参加の備忘其の一

1. 去る3月末、新潟は山北地方へと赴いた。第5回焼畑フォーラムへ出席するためである。

2. 当日、3月28日。会場がおかれた府屋は、新潟の最北端、山形県境の山河を目前に控えた小さな町である。そんな辺境の地に、どういうわけか百名余もの人々が集結してしまった。

3. こうなると、密度も熱も勝手に上がるのは必然。不佞の身ながら、奥出雲のパネル前で3時間、寄せては返す問いの波を捌き続け、喉は枯れ、意識は朦朧。疲れる暇さえなかったが、あぁ、おもしろかったなあ。

4. この集いは焼畑実践者たちのフォーラムである。今回は8つの地域が名を連ねた。西から順に、宮崎県椎葉、島根県奥出雲、滋賀県余呉、福井県味見河内、石川県白山、山梨県奈良田、新潟県山北、山形県温海。奥出雲が、この連なりに座すのは不思議なことだなあとも思う。

5. さて、私の報告は、「環境変動下における作物との関わり方―〈カブ集団〉の観察から」と題した短いものである。昨秋、奥出雲の焼畑で目撃した「奇事」の一端をまとめた。火入れの遅れ、播種後の豪雨、そして秋の異常高温。あらゆる悪条件が畳みかけるようにカブを襲った。希望は持ちつつも、ダメかなあなんとかイケるかなあと、3か月が経過したあと、栽培者は、種子を採るための数個体を選抜採取して、残りを「失敗」として山に2週間放置したのだった。そして、久しぶりにおそるおそる入った12月の中旬、見放されたカブたちが「復活」を遂げていたその事件を報告した。

 信じがたい生命の現前を前にしたとき、人の思考主体も感受性も、分裂してしまう。その実感は、ここに備忘として留めておく。正直に、なかなか思い出すことができない出来事であるとだけ。記憶も曖昧だが、泣いていたような気もする。

6. 頭を冷やし直し、提示した観点は、次のものだ。すなわち、「多様性」とは、あらかじめカタログ化された固定的な「違い」ではない。それは、未知の環境の揺さぶりに対する「応答の幅(Response diversity)」そのものではないか。そして、古より焼畑を繋いできた人々は、この「応答の幅」を、知性で御するのではなく、身体的な感覚―あるいは堆積した民俗事象の集積―として静かに捉えていたのではないか。そんな作業仮説を、予察という名の放言として、放り込んでみた。

7. パスカルの説く「幾何学の精神(L’esprit de géométrie)」、すなわち定義と論理による管理の世界からすれば、こうしたカブの振る舞いは計算違いの「あり得ない」現象に映るだろう。しかし、同じく彼が説く「繊細の精神(L’esprit de finesse)」に立てば、それは何ら奇を衒うものではない。原理は常に我々の眼前にあり、日常のなかに脈打ち、無理なく自然に理解できるものなのだ。ただ、その機微を捉える「曇りのない澄んだよい目」を持たなければ見過ごし、それを受容する「よい精神」を持たなければ、推論を誤ってしまう。

8. 質疑応答のなかで、ある方から、この「応答の幅」にこたえるような事例をご教示いただいた。管理の手を逃れた固定種が、時として見せる驚くべき生命の表出。それを「私は横着なものだから、よく起こることでして」と、悪戯っぽく言われた。私は、「横着」という言葉に、救われるような思いがした。それは単なる怠慢ではない。人知による「管理」という、時に傲慢となる枠組みを、ふわりと脱ぎ捨てるための作法なのだ。

9. そもそも焼畑は、移動性と循環性を本質とする「非定常」な圃場であり、環境変動の幅は、通常の農地とは地平を異にする。そこで作物を育てることの特異性やおもしろさは、単なる技術論に留まらない。そこに価値や意味の次元を持ち込むとき、私たちは「焼畑の価値とは、現代において何なのか」という、いささか厄介で、しかし避けては通れぬ問いの前に立たされることになる。

10. 生命現象が本質的に複雑で、多様で、そして繊細なものであることは、いまや広く了解されていよう。一方で、私たちの知性の力―幾何学の精神―は、ここ二百年あまり、生命の深淵にまでそのメスを入れ続けてきた。分子生物学がそうであるように、複雑で繊細なものを、単純で操作可能なものへと「還元」することで、支配下に置こうとしてきたのだ。人知の営みとして。

11. だが、この話はここまで。ともあれ、私にとっては「横着」もまた重要な作法である。あるいは、横着を許容すること。管理を逃れさせること。システムに「あそび」をもたせること。無理せずとも、生命が生命として在れる場所を確保すること。そして、それを見守るための澄んだ目と、正しい心を養うこと。そんな、地に足をつけ、手で土をつかみつづける智恵を、山北の地で授かったように思う。

12. こうしたことを考えながら、列車を待つ小一時間ほど、府屋の町を歩いた。そして、今も「コド漁」が行われているという大川の河口付近へ行ってみることにした。漁期を外れた今は、その特異な仕掛けを拝むことは叶わなかったが、漁期ではない今、その仕掛けを見ることはできなかったが、あぁ、ここなのかあと感慨を深めた。

13. コド漁とは、全国で唯一この場所に残存した、極めて古い鮭漁の仕掛けである。かつては現村上市一帯に広く見られたものらしいが、今はただ府屋の河口にだけその命脈を保っている。

14. 以下、多くを菅豊の論考より得たものとして、ごく簡単に記す。コド漁は、河口近くの川岸に暗い囲いをつくり、遡上してきた鮭が物陰で休む習性を利用して捕る漁である。鮭の動き、流れ、川底の石の配置まで読む経験知を要する。きわめて効率の悪い漁ではあるが、その非効率さゆえに、むしろ共同体の秩序と結びついて残ったともいえる。

15. ただし、ここで見落としてはならないのは、コド漁が単なる資源管理の仕組みではないということだ。鮭を捕ることだけが目的ではない。川を見に行き、場所を読み、今年の流れを測り、互いの腹を探り、取り損ねた鮭の噂を聞き、誰かの腕を笑い、また称える。その一連の過程そのものに、漁の楽しみがある。菅のいうマイナー・サブシステンスの視点に立てば、コド漁の非効率は欠陥ではなく、人と川、人と人との関係を切らさないための余白でもあった。

16. つまりそこには、野性知を駆使する技術だけでなく、商業的な乱獲を許さぬ共同的領域秩序があった。加えて、大川流域は近世以降も統治形態の入れ替わりがあり、府屋は村上藩領から幕府領へと変遷した、越後最北の境界地帯でもあった。このため大規模で統一的な河川管理や資本による独占が進みにくく、しかも消費地から遠かったことが、コド漁を「残した」のではなく、「残らせた」のだ。

16. その漁地を見下ろす丘に、縁の墓石が、崩れきらず、しかし本来の並びでもない仕方で集められたような場所があった。不思議なところだ。町に残る、これまた特異な建築意匠もあわせて、再訪かなうことを期しつつ、春風の府屋を後にした。


「応答の幅(Response diversity)」について

生態学が扱うレジリエンス(回復力)理論においては標準的な用語と思われるが、一般的な「生物多様性」の議論には浸透していないようである。

2003年にトーマス・エルムクヴィストらが提唱したこの概念は、それまでの「多様性=種の数」という量的な議論に対する修正案だった。「応答の幅」は「種のカタログ」としての多様性ではなく、「動的な適応力としての多様性」を指す概念である。

  • 種の多様性: 「どのような種が、いくつ存在するか」という状態の記録。
  • 種の応答の幅: 「未知の攪乱に対し、集団がどう振る舞い得るか」という機能の可能性。

焼畑という「非定常(攪乱が前提)」の場において、この概念はさまざまに機能しうる。近代農法が「応答の幅」を(原理的には:個別少数的例外は確かにあるが総じて)ノイズとして排除し、「幾何学的」な収穫予測を優先するのに対し、焼畑の実践は「繊細」にその幅を許容することで、数百年という時間軸でのレジリエンスを保ってきたともいえる。また、生態学会、環境省では「応答の幅」ではなく「応答多様性」を訳語としていることを断っておく。

出雲の山墾りsec.2-3

午後の3時前から小一時間ほど入って、竹を5本ほどであろうか、整理した。青竹は2、3であったと思う。孟宗竹の密集地であり、伐ればどこかに引っかかる。よって、かかった稈を幾度か元伐りしながら伏せ込むことになる。立ったものを寝かせていく作業ともいえる。木を伐り倒すことを伐倒とはいうが、この場合、倒れはせずにかかるのだ。開放面があれば、倒れる方向をそこへ向けて「伐れ」ば、地面に「倒れる」。当たり前のことを難しく書いている。しかたがない。その場でこそ当たり前のことが、離れてしまうとまるでわからない。山とはそういう場なのである。

元に戻ろう。方向をずらす牽引力と管理できる器具があれば、開放面に接した場所から作業をはじめ、順に「倒す」のがよいのかもしれない。

そうしないのは、器具が手元にないということもあるのだが、山ではできる限り身軽でいたいという心持ちが大きく働いているからだろう。それを今日、思った。ただでさえ、チェーンソーという動力機械で山と接することは、「学び」としての損失を大きくみたほうがよい。かといって、ノコとナタでひとり山に挑むのは、趣味に過ぎる。それに、ちょっと筋とは逆のことを言うようだが、チェーンソーは、粗暴なようでいて繊細を人に求める機械である。

先ほど、繊細という言葉を使った。使ったのは、単純で強いものに対置する語として呼び出したのだが、それだけにとどまらないことに、気付いたのだ。

パスカルが『パンセ』の冒頭で用いた繊細の精神(esprit de finesse)、幾何学の精神(esprit de géométrie)。

「幾何学の精神」は、定義が明瞭で原理が日常から離れているため、力強いが適応できる世界は(実は)狭い。対して「繊細の精神」は、原理が日常のなかにあり、誰もが目にしているが、あまりに微細であるため、全人格的ともいえるな「よい目」を持たなければ捉えられない、あるいは原理が多すぎることで遺漏なく捉えることが、極めて困難だという。ひとつでも見過ごせば誤るとも。

チェーンソーによる「作業」を、「繊細を人に求める」としたのは、繊細の精神(esprit de finesse)を求めると言い換えられる。パスカルとの接続が可能だということである。

チェーンソーという機械は、外見上は力まかせの道具に見える。しかし実際には、その機械の動力学、慣性、刃が対象—木質への入り方にそった操作者の応答を要求する。それは機械が「場」を持っているということでもある。操作者が意図を押しつけるのではなく、機械と場の動きに応じて、操作者は判断に基づいた動きをなすことで意図—目的を達成しようとする。

ここで誤解を生みやすい概念として、繊細(finesse)を捉え直しておこう。finesseを繊細と訳したのは前田が最初であったろうか。それはともかく。finesseについてふれている次のテキストを参照されたい。Firadis WINE CLUBが掲載しているコラム、「ワインボキャブラ天国【第48回】「フィネス」英:finesse 仏:finesse」より。

ということで今回ご紹介する言葉は…… 「フィネス」 英:finesse 仏:finesse(女性名詞:発音は「フィネッス」)

「エレガンス」などと同様に、使い方がなかなか厄介な言葉です。
プロのテイスターだと例えば「このワインにはフィネスがある、フィネスを感じる」なんていう風に使う訳なのですが、「分かりにくい言葉でなんとなく煙に巻いている」といううさん臭さが漂ってしまいがち。
だから僕自身は殆どこの言葉は使いませんが、海外のワイン専門誌・評論等では非常に頻繁に出て来る用語です。 英語仏語共に同じスペルで使う言葉「finesse=フィネス」。 辞書で調べるとその意味には「技巧」「腕のさえ」「精妙さ」等の言葉が並びます。 そこから考えればフィネスのあるワインとはつまり、職人的な造り手の「技」や「腕」を感じさせる非常によく出来た高品質なワイン、と考えて良いのだと思います。
「技」「腕」を感じさせるワイン、なんて言っても、曖昧にしか感じられないかもしれません。 ですが「技」を感じさせるワインと言うのは概して絶妙な香り・味わいのバランスを実現しているもの。
物凄くパワフルなのに、又は非常に酸が強いのに全く飲み疲れない、飲み飽きない。 様々の要素が理想の調和を見せてくれて、そこに造り手の精緻な目論見を見つけた時に「フィネスがある」と感じます(口には出しませんが)。 ワインの「フィネス」には明確な定義はありません。
だ飲み手が自分なりの評価基準を持ち、自発的に感じ取りにいけば良いもの、なのかもしれません。 ボンヤリした結論で申し訳ないのですが…でもそのくらい曖昧な言葉なんです、実際。

ここでは、finesseを繊細などの単一の語句であらわすことが、できないものであるとだけ認識しておけばよい。まずパスカルだ。

重要なのは、パスカルが問題にしているesprit de géométrieとesprit de finesseに共通するesprit (精神)とは、能力の区分ではないということ。それは原理(principes)への到達の仕方の違いだ。

パスカルこう述べている(ラフュマ版断章512前後、ブランシュヴィック版1–4付近):

幾何学の精神は、原理がはっきりしており、しかもそれが感覚から遠い場合に、うまく働く。
繊細の精神は、原理が数多く、微妙で、ほとんど感じられるが定義できない場合に働く。

ここでの対置は「論理 vs 直観」ではない。むしろ、

  • 幾何学の精神:原理が明確で、数が少なく、抽象的で、遠くにある。→ それらを定義し、順序立て、演繹できる。
  • 繊細の精神:原理が多数あり、日常のただ中にあり、あまりに近すぎて定義できない。→ それらを「一目で」把握する。

違いは認識能力の優劣ではなく、対象領域の構造の違いに応じた精神の働き方の違いなのだ。

「繊細」は感覚主義ではない

多くの要約では「感覚」「直観」と説明されているのだが、おかしい。パスカルの finesse は、感情的理解ではない。

  • 無数の微細な前提
  • 暗黙の了解
  • 言語化不能な原理

これらを瞬時に総合する能力である。

それはむしろ社会的・道徳的・政治的判断のための知性である。恋愛や名誉、礼儀、権威、信仰といった領域では、原理は数式のように提示できない。しかしそれでも判断は必要だ。

つまり、finesse は「論理以前」ではなく、論理を適用できないほど複雑な原理の場における理性の形式なのだ。

対立ではなく、互いに盲目

パスカルは「両立が必要」と穏当に調停しているわけではない。むしろこう言っている。

  • 幾何学者は繊細さに鈍い。
  • 繊細な人は幾何学に耐えられない。

これは単なる性格論ではなく、精神の構えが変わらない限り、互いの領域は理解不能であるという断絶の指摘だ。幾何学者はすべてを定義しようとする。しかし finesse の領域では、定義しようとした瞬間に本質が逃げる。だからパスカルにとって問題なのは「バランス」ではなく、「人間精神は、なぜそのように分裂しているのか」という問いである。

神学的文脈

パスカルの「パンセ」は全体を通じて、近代的知性が神とどう向き合うかという問題に挑んだものだともいえる。つまり、繊細/幾何学の区別は単なる認識論にとどまらない。それはパスカルの人間論・罪の教義・恩寵論と結びついているものだ。

人間は理性を持つが、堕落している。理性は真理を証明できるが、救いには至らない。幾何学の精神は証明を求める。しかし信仰の原理は「証明」できない。だからこそ彼は言う:

心には、理性の知らない理由がある。(Le cœur a ses raisons que la raison ne connaît point)

この有名な断章は finesse の文脈に属する。しかしそれは反理性ではない。むしろ理性の限界の内部での理性批判である。

(つづく)

カブの抽苔

畑田カブの抽苔がはじまった。7日ほど前からだと思う。もう花芽が膨らむほどだ。

カフェオリゼ(自宅)の裏庭である。
母数が少ないが、肥大できたのは、20あるなかで2割程度だと思う。
極端に小さいものは除外するとしたら、10ほどになるだろう。
そこからすべて採種する方向で考えている。
生殖量が多いのは肥大したものであるから、今年の栽培で肥大率が増えるようであれば方針が間違いないとわかる。

温海カブはまだ、形をあらわしていないが、反応はすでに起きているはず。

出雲の大社の節分会

3月3日、節分の日。午後から出雲の大社へ。
オリゼの麹づくりが仕上げとなり、数箱を発酵器に残すが、新しく仕込むものはない。妻はほっとした気持ちになったことが顔の表情にわかりやすく出ている。出来上がった麹をもって大社方面へ配達に出る。
ついでというと失敬なのだが、その足で大社に参拝するつもりで。
車のなかでいろいろ話をする。
3月3日は妻の父(義父)の命日である。

冬に閉じ込められて暗い空が続いていたが、この日、久しぶりに太陽の光が地上に届く、よい日和だった。

大社に着くと、昼もだいぶ過ぎていたので、人はまばらだったが、地面に落ちた豆の量が人出のあったこと教えてくれる。だれか食べにくるだろうか。

帰る頃になって、人形をおさめにきたこともあったかと思い出す。家族で参るものであった気もする。

 

思う所いろいろあり。また加筆しようと思うが、このあたりで。