本日机上の書

令和6年6月29日。溜まっている机上の書をあげてみる。滞りはなににせよよいものではない。淀みをとって気の通りをよくせんとする意趣からも、書き記すのだ。

†. 坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその次代』新潮文庫,2011;2001マガジンハウス刊

数日前にふれた。少し読み進んでは中断することを繰り返し、はて3年ほどにもなろうか。ときは慶応三年、1867年。さかのぼること157年前になり、翌年の慶応四年に元号は明治となる。大きな時代の節目であり、明治という今につながる時代の幕開けの時。この年に生まれた7人の作家とともに、この時代の香りを味わってみたい。

†. 朝日重章著,塚本学編注『摘録 鸚鵡籠中記(上)』岩波文庫,1995;貞享元年1648〜享保二年1717の日記の摘録

切腹・自害の用例をめぐる参考文献として、現在、読み進んでいるもの。メモであれば近々あらためて記す予定である。下にあげている『天皇の影法師』にも関連して。

†. 猪瀬直樹『天皇の影法師』中公文庫,2012;1983朝日新聞社刊

1983年、昭和58年の発表であり、最終章にあてられた「恩赦のいたずら」は猪瀬の事実上の処女作にあたる。終戦の昭和20年8月末に起こった松江騒擾事件を題材としている。資料を渉猟しているさなかのものだ。なぜこの事件を? こたえとして3つ挙げておく。

1. 事件の主犯(首魁)、岡崎功のたどった道をなぞることで、速水保孝の見えない道(可能性)を照らしてみたい。速水は岡﨑よりふたつみっつ年下となるはずである。同じ高校(旧制松江中)を出て、同じ時代に東京へ出て、戦時下を過ごし、郷里島根に戻って何事かをなしている。かたや右翼、かたや左翼。岡﨑は事件で無期懲役、速水は次期総理と目されてもいた国務大臣秘書官となりながら「落ちこぼれ」て、県庁職員となる。挫折のときを抱えて生涯をまっとうしたふたり。重ならないようにみえるし、ふつうの意味で重なってもいないから、誰もこのふたりを対峙させながら描くことはしていない。だから、やってみたいという旋毛曲がり的性分にもよるのだが、とても意味のあることに私には思えるのだ。

2. と3.については、追って加筆。

†. 山下政夫『円い水平線―旅と口碑と民謡の隠岐』創元社,19;1983朝日新聞社刊

松江の冬營舎で購入。知らずして前記の速水と連関する記事が散らばっている。隠岐の狐つきの話がいくつか。また猪瀬の『天皇の影法師』と同年の出版。

以下、時間切れのため、追って加筆する。

†. 『現代日本思想大系29 柳田国男』益田勝実編,1965筑摩書房
†. 大塚英志『「捨て子」たちの民俗学―小泉八雲と柳田國男』角川選書,2006
†. 中井久夫『隣の病』ちくま学芸文庫,2010

†. 中井久夫『「伝える」ことと「伝わること」』ちくま学芸文庫,2012

†. 戸田山和久『科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる』NHKブックス,2005

 

滑稽新聞は松江で読まれていたか

『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』なる書がある。夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾口紅葉、斎藤緑雨。この七人と生きた時代を坪内祐三が綴っている。この七人を旋毛曲りとすれば、対する実直な?すなわち旋毛がまがっていない七人とは誰々だろう。僕はまず三人が思い浮かぶ。柳田國男、田中正造、森鴎外。どうだろう?

さて、旋毛曲りのほうの宮武外骨の代表作といえば「滑稽新聞」である。明治41年に発禁処分となっている(外骨にとっては何十回めかのことで珍しくはない)、確か。

借りっぱなしで明日おそるおそる返しにいく『松江八百八町町内物語〜白潟の巻』は昭和30年の発刊だが、その中に次の一文がある。

一文字屋の有名な売子「熊さん」も往年の松江駅の名物であった。「ビール、正宗、アンパン、ベントー。マツチェ(松江)八景、滑稽新聞」と声高に連呼する声は人をほほえまさないではいなかった。

執筆子は「滑稽新聞とはどんなものであるかよくわからないが、新聞は松江橋のたもとでまとめて立売しているのをよく人々は買うのであった」としている。松江駅の開業が明治41年11月であるから、「滑稽新聞」が売られていたかどうは微妙だが、「大阪滑稽新聞」のことであろうか。あるいはヒットにあやかった類似紙も多数あったらしいから、それらのどれかだったのかもしれない。

 

出雲の山墾り〜 R6.sec.17-4

新竹を除伐。5〜6本ほど。足場が未整理で少し動くのにもたいそう手間がかかる。枝葉はまだ展開されていないが、稈の硬化は進んでいる。もう2〜3週間ほど早ければもっと楽にできたと思うが、それは言うまい。一応間に合ったとは言えよう。

大豆は1週間前の播種にしては、もうずいぶんとのびている。牛に入られて少し踏み荒らされているが、打撃はわずか。こぼれ種子から発芽成長していたタカキビは大半がかじられていた。1本残っていたのが救いだ。久しぶりに腹が少し立った。牛に半分、自分に半分。もくもくと追加の柵=バリケードに、竹を運んだ。

春焼き畑のタカキビは播種から16日たつのに、わずかしか伸びていない。今日は6月26日。うまく稔ってくれるかなあ。ギリギリだなあと思う。

下の写真は昨年のタカキビ。6月11日撮影。

そんなこんなで、心細い思いを抱きながら、出てきた竹の新芽を除いていった。ばらまいたアワもヒエも発芽はしていない。タカキビの成長の遅さもだが、土の状態はよくなさそうだ。

手足を動かして、土にさわっていれば、気がつくこと、気になること、やらねばならぬことが、次々と浮かびあがってきて、まぁ、そんなことを繰り返していくのだな。

雨と畑

7月22日の土曜日から翌23日の日曜日にかけて、出雲地方は大雨に見舞われた。最高気温が30℃となるような日がしばらく続いていたことからすれば、恵みの雨でもあったのだが、裏の畑のところどころに水たまりができるというのは、おそらくはじめて見た。ここ数年でもあまりないほどの集中豪雨であったと思う。雨雲をとらえる気象マップデータでみると、局所的豪雨となるようなまとまった雨雲はないものの、スポット状のそれが散在して流れている様がみてとれた。大東の観測所では22日が38.5ミリ、23日が84.5ミリである。

24日、すなわち雨があがった今日、裏の畑に入ってみるに、水のはけは思ったよりよい。21日に播種したアマランサスが発芽していた。草ののび方が尋常ではない。これから1週間で、あちらこちらの草丈が一気にのびるのだろう。よく見ておきたい。

松江騒擾事件と切腹

松江騒擾事件の主犯、岡崎功が自害を試みた際、その法・手立てはいかなるものであったかを確かめたい。

《切腹の後、喉を切って突っ伏した》

概略はこれで間違いないかに思われる。猪瀬直樹は、事件から三十数年後に資料精読と当事者への取材をもって、「恩赦のいたずら―最後のクーデター」を発表した(『天皇の影法師』1983年,朝日新聞社刊・所収)。事件を包括的かつもっとも詳細に描いたものである。

しかしながら、一点の曇りもなく切腹を肯んずることには戸惑う。当時の県警警防課長で、顛末を「島根県町焼打事件懺悔覚書」として残した西村国次郎。そこに切腹の記載はない。西村は問題の瞬間を見ていない。

「ワァッ」「ウワァ」と号泣喧騒する大声がするので、驚いて現場へ飛んで行ってみると、剣道場の板場で首魁その人が打ち伏せとなって居り、其の傍らには日本刀が投げ出されてあり、又真っ赤な血潮が流れ出ている。(「島根県町焼打事件懺悔覚書」p.34)

現場にいた、特高課長と放送局長が棒立ちになっていたのを彼は見る。おそらく正気を保っていた西村が主導し、岡崎は日赤松江病院へ搬送。手当を受け一命をとりとめる。当時の位置関係を確かめてみたいが、車で5分とはかからないであろう。西村は「後で当時の模様を聞いて見ると」という言い方で顛末を次のように記す。留意すべきは、ことは警察の不祥事であり、何かを伏せようとする意思が常に働いている可能性である。

首魁その人は特高課長の尋問を受けた後
「自分の為に同士を誤らしめたから謝罪がしたい」
と懇願するので特高課長と放送局長が随伴して、同士二十余名が監視されている剣道武道場に入ると、彼は先ず道場に設けられた神棚に礼拝をしてから座につき、同士に対して陳謝の辞を述べて後突然所持の日本刀を抜き払って二度までも自己の咽喉を突き切って自殺を図ったと云うのである。(「島根県町焼打事件懺悔覚書」p.34)

令和6年(2024年)に生きる我らの過半は、この場面、喉を切っての自殺未遂と取るであろう。時は昭和20年(1945年)、遡ること80年ほど前になる。腹を切る、切腹だけで自殺を遂げることが難しいことが未だ常識としてあった時代である。また戦時下、敵の辱めを受けぬための自害、その法についての理解は今より深かったと思われるが、今はふれない。すなわち切腹による自害には、致命傷とするための何かが必要であり、それは介錯による頭部切断か、咽喉を自ら突き刺す、あるいは心臓に向けて刃を突き刺すことで達せられるという「常識」である。

岡崎に随行し、みすみすその自害に至る行為を許してしまった特高課長と放送局長にとって、その不祥事への引け目がことの隠蔽まではいかずとも、なにがしかの力を持っていたと思われる。すなわち、いきなり咽喉を突かれたのであれば、止めようもなかろうが、切腹ののち、咽喉を突くまでを許した自らを認めたくはなかろうということ。

しかしながら、別な可能性もある。切腹の詳細を記している猪瀬は、岡崎の「回想録」はじめ、首謀者側からの言・文をもとにしている。彼ら彼女らにとっては、単なる自害であるより、神を拝し腹を切ったという儀礼が完遂されたことは、自らがなしたことの誇りの擁護たりうる。切腹がなかったのにあったように記す可能性はある。が、しかし、岡崎の思想・信条・行動の履歴から考えて、それは極めて考えにくい。ただいまは、岡崎らの中にある虚偽―影の存在に留意しておくにとd岡崎が記録として残した歌集からひく。(岡崎功『火雲』)

白鳥の如く清けく今死なむ
國の生命(いのち)の終るこの日に

 

古(いにしえ)の 武士(もののふ)のごと 腹切りて
死出の旅路を 手をとり往かむ

 

介錯を頼めど 友は立たざりき
傷つきし吾を 助けむとして

 

現し世に別れむとして君が代を
唱ひ終れば残るものなし

介錯を頼んだ友とは、直接には、県庁焼討を遂行した森脇昭吉か大野火薬店を襲撃した波多野安彦。岡崎が所持し自らを切るのに使ったのは「鎧通し」である。猪瀬の記述をみてみる。

岡崎ら「皇国義勇軍」がNHK放送局立て籠もりから投降する際の条件は、岡崎以外のメンバーの罪を問わないということであった。しかし、手錠もかけられず武器も所持されたままの投降後、松江署での話し合いでこの約束は撤回される。岡崎は「同志に相談させて欲しい」といい、みながいる剣道場にいく。投降が午前9時過ぎ。同志は車座になって昼食を終えた後であっただろうか。緊張がほぐれた18歳から20歳ぐらいの少年たちの顔をみながら、ことにいたる。先の西村の記載とあわせると、岡崎はまず神棚に礼拝し、二十数名が車座となっているところに腰をおろす。

「取り調べを堂々と受けてくれ。釈放されたあかつきには日本の再建のために頑張って欲しい。こういう結果を招いて済まなかった」
というと懐中から、よろい通しを素早く取り出し腹に刺した。腹を切るとき、バリバリと紙を裂くような音がして一度ヘソの上で浮き上がった。岡崎は同じ傷口にもう一度、よろい通しを刺した。特高課長と放送局長はあわてて駆けよろうとしたが、日本刀をつかんだ波多野が目を血走らせて立ち向かう。真っ赤な血が床の上に飛び散っている。岡崎は波多野を制しながら「天皇陛下万歳」と叫び、よろい通しを今度は首筋に突き立ててその場に伏した。(猪瀬直樹「恩赦のいたずら―最後のクーデター」;『天皇の影法師』中公文庫,2012 )

切腹はなく咽喉への突き刺しを「二度までも」と表する西村の記述。腹に立てた刃が浮いたため「二度目」の刃を刺し、その後「天皇陛下万歳」を叫び、喉を切ったとする猪瀬の記述。いずれも「二度」の「刺し」があったことが共通し、さらに重要なのは岡崎本人が所持していた刀でことが行われたことに双方齟齬はない。

猪瀬の実質的には処女作となる「恩赦のいたずら」が『天皇の影法師』に収められ朝日新聞社から刊行されたのは1983年。その数年前から、何か封印が解かれたかのように、続々とこの事件を一項目として記した書が世に出始める。

それ以前。昭和43年(1968年)に元県知事であった山田武雄の回想録には、NHK放送局に立て籠もった岡崎らは「軍と警察で強制武装解除した」と記されている。山田は武装解除なしに署での取り調べならぬ「話し合い」がなされていたことを隠蔽したかったのか?
そうでもあろうし、そうでもないように思える。

戦前の知事は現在の知事とは似て非なる官である。言行とその心理・原理推し量るのは容易ではないことに留意しつつ、山田(元)知事は、事実を知っていた上でと考える。昭和20年の8月24日未明。終戦から10日という日に、NHK松江放送局という場で起こった事実とは《武装警官50名が放送局を包囲し、松江聯隊からもトラックで兵隊がかけつけたために、ついに岡崎ら皇国義勇軍は放送を断念し、県知事に直訴するということで警察に同道することを決定した。武装したままで警察練習所に護送されたのであった》(内藤正中『島根県の百年』1982,山川出版社)

山田にとっては想像の範疇を越える事態、相通ずることのない心情がそこにはあったのではないか。先に引用した内藤の記事は次の文で終わっている。

この事件の特徴は、海軍航空隊や松江聯隊の抗戦派軍人と連絡をとりあい、松江憲兵隊長の了承もとりつけたうえで、皇国義勇軍だけで実行されたものであり、事前に配布したビラや檄文で警察当局もじゅうぶん承知していたはずの『武装決起』が実行されたことにある。そのかぎりからすれば、終戦時において、軍隊や警察が内部にもっていた”感情”が、表明された事件といわなければならない。

つづく

 

梅雨入り前に

天気予報に「夏日」「真夏日」の語が頻出する日が過ぎ、やや穏やか、とはいっても最高気温は30℃あたりまでは届くここ数日。明日は雨、しあさっても雨。どうやら梅雨入りということになるようだ。

梅雨。つゆ。rainy season。

写真は昨年の令和5年、吉野にて。

スペルト小麦を収穫した。出来はよくないが、播種の遅れに由来するものと、元来よくない畝の土に由来するものとふたつ。あとにはアマランサスをまくつもりでいるが、

令和6年、笹巻きの会

笹巻きの会。カフェオリゼにて、6月16日に開催。前日の15日は山へ笹採りに。島根県奥出雲地方のチュウゴクザサであり、地元では単にササ、またはクマザサと呼ぶ。会は今年で3年め。出雲地方では、田植えが終わる頃に家族でつくり身内で食することが多い。オーナーは島根県石見地方の出身で、なじみがなかったが、教員である友人が赴任地で笹巻きに「はまり」、その教授を受けたことから、教わりながらやってみようということではじまった。

出雲地方に育った40歳代くらいまでであれば、多かれ少なかれ、幼少の頃に体験した記憶を持っている。作り方はおぼろげに記憶にあれど、伝授まではされていない経験をもつ人が大半である。いまさら親にも聞きにくいし、そもそもつくる機会もない。だから、つくってみたい人はいるのだ。いまや「買う時代」であるが、買うとなかなかに高価なものだ。

今年の参加者は10名ほど。興味ふかい、おもしろい話もいくつかあるが、それらは追って加筆してみたい。

まずは写真をあげておく。

稲扱ぎ箸

民具の写真の中に稲扱ぎ箸を見つけて驚いたことがある。現在の島根県邑南町、川本町、美郷町のどこかである。

国内ではおよそ元禄時代前後から脱穀の方法が変化する。直接的には千歯扱きの発明と普及による効率向上によるが、都市への人口流入(人口増加)、新田開発の進展、等々の複合的変化。社会構造の転換がある。荻生徂徠『政談』参照。

その転換以前の社会の姿を端的に表しているのが、稲扱ぎ箸だと考えるのだ。

宮崎安貞『農業全書』にある図を掲げておく。元禄10年刊行。

6月19日は晴れ。最高気温30℃。斐川の実家の工場の屋根を補修。雨漏りするとおぼしき箇所をラバー塗料で処理。うまくいくかは豪雨を待って確かめることに。また、畑に黒大豆を播種。

雑駁たる梅雨入り前の一日

6月18日。例年なら梅雨空を眺めているだろう日。最高気温が30℃をこえることも珍しくなく、数字だけみれば夏である。

とはいえ6月は6月。夏と呼ぶにはまだ早く、梅雨と呼びたい月なのだ。松江気象台の観測データをみれば、例年6月中旬の最高気温は27℃ほどである。室内のデスクワークであれば、快適というに無理はない。そんな日も偽?の夏にまじってあるにはある。今日もそんな日で、最高気温は28℃。外で働けば汗はかくが、バテるほどではない。

かような日の雑駁な出来事を羅列してみよう。

カフェオリゼのマーケット出店用おにぎり写真を撮影。試作された、わかめおにぎりをふたつ、板にのせ小皿にわかめを添えて。

今晩開催の会議に出す資料を作成。2時間ほどを午前中に。内容について、事務局長と電話とメールでやり取り。

朝のゴミ出しのあと、庭と畑をみて手入れを軽く。ミモザアカシアの剪定は梅雨入り前にできるかどうか。ユーカリを剪定して、小枝は使えそうか佐美さんきく。玄関に飾ろうかという。ドライになっているミモザを片付けて入れ替えるようだ。ほか気になるものを少し整理した。ものの数分ではあるが。

畑のスペルト小麦をみる。まだ青いものもあるが、明後日には刈り取りできるだろう。梅雨入りが遅かったからこその間に合い加減。昨秋の播種の遅れがなんとか辻褄あいそうだ。

昨日鉢から土に落としたりんごとレモン。一晩の雨もあって、異常はなし。根が早くのびてくれますように。

午後からは青野さんのところへ野菜をとりに。CiBO、小雨くらいでなんとかできるといいねと話す。ネギの美味しさを伝えると、路地だから少し繊維が強いけどと。いや、その強さもいいし、味(辛味、甘み、香りなど)のバランスがよいのだけどねと思う。

黒目の実家では屋根の補修、、の前の掃除をしながら方針を思案。畑でディルの種子をとりながら、黒豆をまかせてもらう場所を母と談判。明日か明後日に、屋根とあわせて。また、庭の梅をいただく2kgほどか。

木次図書館へ借りていた福原宣明著『魂の点火者―奥出雲の加藤歓一郎先生』の延長手続きとあわせて、下巻にあたる「日登教育と加藤歓一郎先生」の巻を借りに行く。

下巻は本というよりは「資料集」として読む体裁である。すなわち、読みづらい―リーダブルでない面も多々あるが、資料としては細工が少ないほうがよいのである。加藤の講演録がそのまま掲載されていたりするところなど。

”下巻”の第35話「公民館の設立と社会教育」の項に、日登公民館の機能の図式が、「公民館報1号による。昭和26年刊」として載っているのだが、見てみたい。『記念誌』と福原が記している日登公民館四十年を記念して編集されたもの(平成3年11月刊、公民館長藤井暁)の中にもあるかもしれない。

そうそう。

宮澤賢治と加藤をつなぐ線を探してみよう。政治と宗教と文学と農学がひとつものであったその時代に

そう書いた何年か前のやりかけ(の続き)にようやく手が届きつつあるのだった。