出雲の山墾り2023-sec.16

8月8日の火入れを前日の降雨で中止として、仕切り直す、そのセクションである。

8/12 (土)sec.16-1

ハチに刺された。ついこの前、2週間ばかり前に刺されたアシナガバチの腫れがほぼおさまった矢先である。今回はスズメバチである。時は午前8時〜9時の間。場所は火入地の最上部、刈った笹がやけにふかふかするなと訝しんでいた地点である。
笹の下に積んだ竹が隠れており、「そうかこれが弾力の要因であったか、(燃えると)あぶないあぶない、気がついてよかった、片付けよう」。という流れで、2本3本と引きずり出し、起こしては、火入地内へ投げ込んでいた。斜面は西を向いているものの、北西突端にあたるそこは、強い日差しが低灌木の上から届きはじめていた。そして、3本目か4本目を手にとったときだろうか、ハチが何匹か視界に入った。ふっと視界をひろげると、十数匹が足元から次々と飛び出している。しまった!とばかりに、離脱をはかる。ハチ忌避スプレーの置いてあるところへ走るように逃げようとしたその時、腰のあたりに痛みが走った。肌が露出していたかもしれない。迂闊であった。

いま思えば、迂闊であったというより、軽率であったのだ。あまりに自分都合で動きすぎていた。暑いからだとか、早く片付けたいだとか……。山にたいして謙虚であること。

もうひとつ、ハチに刺される前には、春焼畑に寄ったらば、なんと大豆が食べられていた。北の区画、大豆が育っている方形の外周部のみ。。上のほうだけかじられている。誰だ。なんの痕跡も残っていないところから推するに鹿か。草刈りを怠っていたからだろうか。鹿であれ誰であれ、なぜかじるように食べたのだろう。やや控えめな態度のようにもみえるが、単なる好奇心からという度はこえて、しっかり食べている。食べるものに困ってのことなのか、たまたまそこにあったからという出来心的なものなのか。

こたえに近づくためにも、草は刈っておこう。

8/13 (日)sec.16-2

春焼畑の草刈りを集中的に。昨日発覚した大豆を食べた何者かへのシグナルでもある。暑かった。タカキビの穂が出揃ったか。

大きくなったカボチャの実がいくつか目についた。

8/14 (月)sec.16-3

防火水タンクへの給水作業。そして、防火帯形成。

出雲の山墾り2023-sec.15

令和5年、2023年の夏焼きの準備、その記録である。7月から始めているものであるが、7月29日のものから記録する。それ以前のことなども、ときどき思い返しながら記していく。よって雑駁なものである。

ダムの見える牧場の北西部にあたる。牛舎からみてほぼ西に100mほどの地点となる。今年、令和5年の春焼いたところからみれば稜線の反対斜面。

なぜここなのか、なにをめざしているのか、伐開前の植生メモなどは追記事項とする。

sec.15-4/7月29日

伐開3回目にあたる。造林鎌と、刈払機の時間換算使用率は半々。埋もれている竹が想像していたより多い。稈内に水をためているものも見られた。かなり腐朽は進んでいるので、乾燥するのは早いだろう。それでも最低7日は必要か。

北側には白膠木が多く、3m近く成長したものもみられる。ほか合歓木、タラノキも背をのばしている。竹を多く高く積んだ場所は灌木の成長がさまたげられるからか、それ以外の要因もいろいろありそうだが、ともかく葛が繁茂展開するベースとなりやすいようだ。

朝7時20分から10時過ぎまでの作業だったが、9時過ぎで終えるのが気温を考えると妥当かと思う。刈払機作業は8時半までとして、あとは造林鎌だろう。ヘルメット着用だと大量の汗で視界が遮られるなど、支障多し。

sec.15-5/7月30日

伐開4回目。16時40分くらいからとりかかるも、ハチに刺される。ドロバチだろうか。迂闊であった。アブが多く、その音に惑わされて、小さな動きを見過ごした。しばし休息。腫れや不調もなく、作業は続行。しかし続いて雷と雨。パラパラと小降りではあったが手足をとめて様子を伺う。

sec.15-6/8月1日

伐開5回目は、3人で7時から10時過ぎまで。8割方済んだ。

10時過ぎからは春焼畑周辺の草刈り。ウバユリが点々と咲いていた、というより葛の下に埋もれていた。そーっと丁寧に刈っていったが、気づかずバッサリ切ってしまったものもある。タカキビが出穂。

 

苺をつまみ、食べながら

5月31日。日がずいぶんと長くなり、7時ごろまで山で仕事ができる。この日は火入れのための給水と5月半ばに焼いたところへかんたんな播種をするのだった。

5月20日に播種したタカキビが芽を出していた。出揃ってはおらず、ポツポツと目につくほどだが、一安心。5月23日に亀嵩小のみなさんが火入れ外周部に播種したアマランサスだが、一株だけ芽を出しているのが目に入った。有望といえ、見守りを続けることとする。

この日の播種は、モチアワとササゲ。ササゲは外周(昨年火入れ地)に、5〜6年ほど常温で保管していたものを5〜10粒ずつあちこちに埋めた。発芽率は1割を切って1〜3%程度か。ひとつでも芽をだせばよしという程度の期待値である。モチアワはほかさまざまな野菜種子とばらまきした。明日明後日にかけて強い雨が降る予報にあわせた。

エンジンポンプが給水している間に、野山のものをつまみぐい。おそらくはじめて実をつけた桑の実。火入れ後5年、みつけたら大事にしてきた。つい刈払ってしまうことも多いのだが。待ちに待った実なのだ。うまいよ。うまいのだ。

ナガバモミジイチゴも例年になく目につく。今年はどの草木も花が多いことにもよるのだろうが、だんだんと食べられる実が増えているのは気の所為ばかりではないだろう。火入れや伐開、草刈り藪払いをわずかばかりでも続けていることで、「林縁」があちらこちらにできていることによるのだと考える。

いつのまにか大きくなっている樹も。桐の樹はまっすぐで成長も早いからだろうが、いつの間に、ここで。という感を受ける。

さて、来週からは大豆を植えるのと、クサギの葉をとりはじめる。そして、できれば竹の稈をとって漬け込みたい。昨年は遅すぎて、繊維がとれなかった。竹紙、今年はつくれるといいな。

クサギノ葉ハ、少シ苦味ノアル、甚香ノ高キモノデアル

田中梅治の『粒々辛苦』に「クサギナ採」の項があるのを見つけた。資料として複写したきりで、これまで落ち着いて読むことはなかった田中翁の文。読むほどに、ある香りがたってくるのがわかった。この匂いは何なのだろう。何とはわからぬ。わからないままに、わからぬがゆえに、誘っているのかもしれない。「ここ」へきてみれと。一度、素読してみたいが、今はかなわぬ。よって、クサギナの件の箇所をひいて備忘としておきたい。

《クサギの葉は、少し苦味のある、甚香の高きものである。之を味噌汁に炊けば、中々馬鹿にならぬうまいものだ。而し前に書いた女のあま手の分が煮て呉れねば、にが手の分の女が煮たのでは苦味が多う過ぎる。之を五月末頃採りて乾し置き、後之を味噌汁に、大豆を叩き潰して、之を入れて炊けば、苦味がなく中々うまい。》

思うに、島根県邑智郡に在する田中翁がこれを記した頃、すなわち昭和一桁年代において、クサギを採って食する風は消え入る門にたっていたのかもしれない。同じように、翁自身も霧消していく存在であることを自覚されていたであろう。だからこそ、消えてなるものかと、老いてなお張り詰めた、それでいて優しさとも達観ともいえる眼差しのこもった匂いのようなものが、一つ一つの言葉から、立ち上がってくるのを、それが幻だとしても、私は受け止めてみたい。

 

3月25日の山

メモである。

ナラ山と呼んでいる場所で、1時間半ほど竹を切った。裾部に昨春から出たものであろう一年生あるいは二年生の若い竹が多かった。中でも密集して既存の落葉樹にかかっているものがある区画が目についたので、いまのうちに整えておいたほうがよいと、思い立ったのである。また竹紙のために漬けた樽を整理するためでもあった。ふた桶ぶんのそれは、発酵分解が途中でとまり、まったくといっていいほど繊維が取り出せないことがわかっていた。気温があがると虫がわいたりする可能性もある(糖分系のものは分解され尽くしているだろうとはいえ)。冬のうちにと思っていながら、春本番の時期まで来てしまったので、「待ったなし」状態でもあったのだ。

いざ切ってみると、なかなか厄介である。掛かりやすいのだ。コナラの大木にも、芽吹きが目につきはじめているので、新緑の時期にまで至ると、まず危なすぎて無理であろうし、樹への負荷も大きいと思われる。

そうしたところの竹や、すでに掛かっている木など、今の時期に整えておくべく、手をつけていくべし。

同じ場所にあって、数年見てきているウワミズザクラは変わりなかった。新芽がのびてきている。ミツマタはまだ花をつけていた。樹蔭にあって陽が射しそうにもないところで毎年咲かせている。鮮やかな黄の花は、陰の中にあって妖しげでもある。

ツクシが目立った。ふえていると思う。

庭と畑の備忘録〜令和4年の畑

令和3年、4年と記録を残していない。昨年ぶんを今年、令和5年の予定も含めて振り返っておく。大部分下書きのままであるが、編集のしやすさから公開しながら加筆していき、まとまったところで、樟舎のブログへ移すものである。

◆山の畑

†. アマランサス

早く蒔いたのが悪いわけではない(そう思っていたが)。取り入れが遅くなってしまったことが悔やまれる。7割近くが台風の影響で倒伏した。雨も続いていて、結実後に湿潤に長くさらされ、虫がつきすぎたりもした。
振り返れば、火入れ後、何回かにわけての播種をすることでそうしたことを回避する策は打っていた。初回の播種が5月30日。収穫が9月13〜26日。これ、8月末からの収穫がよかった。播種時期そのものは問題ないが、もう1ヶ月遅くてもよいと思われる。令和5年は焼畑ではほんの少し蒔くだけのつもりだが、時期は変えずに5月末にしようと思う。

†. タカキビ

面積を少しでもふやし、収量をあげたい。播種時期はOK。令和5年で留意すべきは日照大事なこと。播種時期は火入れ直後の5月中旬〜下旬。

†. カボチャ

ややツルボケ気味となった。土は火入れ地のほんの端っこ。解せぬところあり、再度同じように試みる。

†. ブラックチェリーとブラジルミニ

放置栽培。まずまず。

†. ナス

水が足りなかったか、うまく育たず。

†. 地這いキュウリ

うまい。

†. ハグラウリ

うまい。まずまず。

†. 白大豆

牛に食べられた。令和5年は雑穀栽培跡地でこれまでにない面積での栽培にチャレンジする。

†. 里芋(三刀屋在来)

土寄せができなかったため、うまくいかず。

†. カブ

まずまず。

†. ダイコン

播種場所がまずかっただけで焼畑でもいける。

★令和5年の焼畑作物

2年目畑:白大豆+黒大豆少々(+アズキ)
火入れ畑:タカキビを主として、ミニトマト、カボチャ。斜面にハグラウリ、地這いキュウリ。

◆オリゼ畑

†. ナス

場所をかえて継続

†. さくら豆

つるボケとなった。播種時期と土の問題か。

†. スペルト小麦

○○○○○

†. オーツ麦?

○○○○○

†. 黒大豆

ほぼ実をつけず。土の問題と気候の問題か。

★令和5年の作物
上記に追加して以下。

†. スペルト小麦→さくら豆、アマランサス少し

 

◆斐川畑

†. ミニトマト

場所をかえて継続

†. 黒大豆

まずまず。

★令和5年の作物

スペルト小麦
黒大豆
カボチャ
ハーブ類いろいろ

令和4年12月30日の山

昨日の山。雪はまだ20〜30センチほどの深さで残っていて、歩けるけれど、というより、けっこうみんな歩いてる。
狐、狸、その他……。斜面をのぼりきったあたりに、大量の鳥の羽が雪の上に散らばっていた。狩られてしまったのか、逃げおおせたのかはわからない。雪の上でさえぎるものもなく、どんな生き物であれ目立つだろうに、なぜここで? 藪までは15mほどはあるが、そのあたりで捕まえられ、ここで激しく抵抗したのか。いまの私には手がかりとぼしく、妄想とさして変わらぬ想像を巡らせてみるが、これという確かさはつかまえられず。

そして、雪の上でしばし考えたこと―その1。
足跡はおおむね、いつも人=私が通っているルートを通っている。ふだんから同じ道を歩いているのだろうか。道とはいえないような箇所も同様。足跡は伐開作業中の竹藪の中へ向かっていた。他に入るルートはあるのだが、頻繁には利用していない。そうしたところには足跡はないのである。人であろうが、なんであろうが、通ったあとをたどるのは生物の生存上、最適解に近いのかもしれない。

雪の上でしばし考えたこと―その2。
ただ、同じ道でも微妙に何かがずれる。この写真でも足跡の系統はふたつある。右手の山側と左手の崖側。実はこの崖側だけを人が通った場合、ある箇所で足をとられて滑落する羽目に陥る。私は積雪前のそれを知っているから避けるのだが、そのトラップありの崖側にも重め・大きめの足跡がある。猪だろうか。数日はたっている古いものなので足跡からは確定できないが、みんな何を頼りに雪の上をたどっているのだろうか。ルートそのものは「通った記憶」だと思う、私もそうであるように。だが、足取りはどうか……。我が身に照らして省みるに、それも記憶が主である気はするのだが。どうだろう。ふだん、歩くときに、なにを頼りに歩いているのかということにかかわる。山の中を人が通うとき、古来、いくつかの標(しめ)が言われたり、伝えられたりしてきた。ちらちらと見え続けることで、いまいる位置がわかるというものだ。遠くかすかであれ視認できる高い山の姿であったり、老大木であったり。あるいは、響きか。響きの記憶である。歌をうたう。その響き方。

焼畑の蕪を掘り出す。積雪前にけっこう気温が高い日が続いたためか、8割方はすが入ってしまっているようだ。とれるものはとって、漬物にしてしまうのだ。

冬いちごもまだ雪の下に残っていて、つまむことができる。うまし。

 

令和4年のタカキビ餅

12月29日、今年もタカキビ餅がつけた。よかった。ほんとうに。

年の瀬にタカキビ餅をつきはじめて何回目となるかはわからない。すぐにはわからないくらいには経験を積み重ねてきたせいか、準備も当日も記録メモを都度見直しながらということはなく、頭の中にあるものと、身体が覚えているもので対応はできていたように思う。

タカキビと餅米の割合は2:8。タカキビはすべて焼畑のもの。よくみのった。やや早いと思われる9月上旬、台風通過の予報が出ていた前日に取り入れたものだ。とってみればちょうどよい熟し方であった。しっかり熟したのであるから、早めに水に浸けておかなかればならない。4日〜6日を要するが、諸事情で着手できたのは3日前。そのぶん、ひき割りにする割合を増やそうとしてみたが、加減がよくわからない。ひき割りの過程で皮の薄いものはよくむけたと思われるから、水の吸収はよくなっていたはずである。

妻とふたりでつくつもりであったが、声をかけたら6人も集まってくれることになった。慌てて餅米を買い足した。タカキビ餅2升、白餅2升をあわせてつくことに。餅つき機は1升づきのものなので、あわせて4回戦となる。蒸し過程で入れる水の量は取扱説明書の目安量より10ccましの450cc(のちほど再確認のこと)とした。1回目は二人で、試しにと白餅でやってみたが、慣れないもので、みんなが着てからだねと、2回戦の開始を後ろにずらす。

ひとりふたりとやってきて、あわせて8人揃ってみれば、ついた一升を丸餅にまとめるのはあっという間。餅を切るのが一番の技を要するのだが、慣れた人が一人入って、スイスイ。

機械が蒸したり搗いたりする間はお茶とおしゃべりで楽しく過ごす。そうした時間も含めてではあろうが、餅つきは皆さん楽しんでもらえたようで、「また来年も」という話にもなり、「杵と臼が家にあるから持ってきますよ」との声も。

実食についてはまた追記する。

来年も、また焼畑でつくれることを祈りつつ。

令和4年冬の山仕事、12月16日

雪の積もる前に。
根雪が山に覆いかぶさる前に。
昨夕の山仕事。

◆落葉採取・15分

軽トラ荷台に2梱包。牧場から岩内山の尾根に至る道沿いから拾う。表面は乾いているが、上から二枚目の葉はぬれている。こうなっていると、地表に流れる程度の風では動かない。下層はしっとりと濡れている。金箒で掃き集めようにも、固まっている層は、そうだなあ3センチほどは平均してありそうだ。白い糸状の菌がところどころに見える。
この日集めたものは里の畑へ。50センチほど掘った溝に落とし込む。1年おけば腐葉土として苗土に使えるようになる。どんぐりを中心とした苗用に、そして焼畑栽培作物の苗用となる。
あと2回ほどは必要かと思う。そう雪の積もる前に。
山の麓につくる予定の腐葉土づくり用のものは、さらに先となるかな。
なお、見出しにつけた分単位の時間は大まかなもので計測はしていない。

◆崖地焼畑カブの種取選抜と植替え・15分

今回は4株のみとなった。残りは食用として持ち帰り。目標としていた40株までは到底たりない。現在10株ほどか。気張らずにこれから毎回、ひと株でも多くやっていこうと思う。

◆竹山整備兼春焼準備・60分

勘を取り戻しつつあって、段取り・流れの大枠がつくれてきたと感じる。効率は現状の倍にまでは高めたい今冬である。技能向上とあわせて。
さて、人に教える時に、よく「慣れだ」という言葉が使われる。一言で済むよさも手伝って頻発されているのだろうが、うまく伝わっていない。「やってみること」「数をこなすこと」が大事で、理屈理論から入るのではなく、考えずに身体で覚えていくものだということに間違いはない。が、それ、理論が十分に披瀝された上でないとうまく教えが機能しない。
こうして理屈を中途半端に述べるのもよくないが、《うまく&早く》すませることを試みてほしいということを伝えてみたいのだ。昨今とみに、抜け落ちているように思う。
昨今のアマチュアに対して指導される教授型は単純だ。
無理をしない、安全に、楽しんで。
それでいいのだろうか。私はよくないと思う。
我らは素人=アマチュアなのだから、なおのこと、職人=プロに見習わねばならない。少なくとも尊敬の念を把持すべきである。アマチュアの最低限の矜持であろう。

◆準備片付けと移動、小休止・20分

休憩中のつまみ食いは冬苺。残っているものは甘みが減って酸味が強いものばかりなるも、これが美味にして体力蘇る感。
年内にできればあと1〜2回。竹ほしい方、キクイモほしい方、いまなら、取り放題である。見るだけ、足を運んでいただくだけでも嬉しいことだ。お手伝いくださる方も募集中。
「出雲の山墾り〜2022」まで

岩屋寺と切開

岩屋寺、そして隣接する切開へ行ってきた。廃寺と特異な断層地形の見学であるが、切開も廃寺もその根底にみえ、伝わってくるものは「崩れ」である。崩れとは何か。幸田文の『崩れ』からひく。

《私はそれまで崩壊を欠落、破損、減少、滅亡というような、目で見る表面のことにのみ思っていた。弱い、は目に見る表面現象をいっているのではない。地下の深さをいい、なぜ弱いかを指してその成因にまで及ぶ、重厚な意味を含んでいる》

岩屋寺がある山のそこここにみられる「崩れ」は、はじめて足を踏み入れた私に、何かを語ろうとしていた。同行したS氏は「ひとりで来るところじゃないです」という。それも同意。霊場であった山であること。建物も崩れつつあること。地形の崩れが相乗している。訪れる人がほとんどいない。あげれば他にもあるだろう。修験の霊場らしく大岩が点在しているが、いずれ崩落してもおかしくはない。そのような「実際上の危険」もさることながら、薄気味悪さ、不快さが人をして遠ざける場所となっているのだろう。

岩屋寺の「崩れ」が語ろうとしているものは、それら「不快」を発生さえる諸要因とどのような位相をもって接しているだろうか。

ジル・クレマン『動いてる庭』(山内朋樹訳・みすず書房)からひく。

《〈荒れ地〉はいつの時代にもあった。歴史的にみれば荒れ地とは、人間の力が自然の前に屈したことを示すものだった。けれども違う見かたをしてみればどうだろう? 荒れ地とは、わたしたちが必要としている新しい頁なのではないだろうか。》
《わたしたちは、ほんとうはなにを恐れているのか? むしろ、今なお、なにを恐れる必要があるのか? 下草の濃密な影や沼地の泥には無意識に追い払いたく不安があり、鮮明で明るいものは安心させ、残った部分にはあまねく不吉な妖精が満ちている……。》
《人間がそう感じるのとは逆に、荒れ地は滅びゆくこととは無縁であり、生物はそれぞれの場所で一心不乱に生みだし続けていく。》

彼が見ようとしているもの、伝えようとしているもの、その基底にあるのは「希望」であり「願い」であろう。南方熊楠の粘菌と森にまつわる書簡を、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を、思い起こしてみられよ。確信、信仰、真理、それらとは異なりながら、随伴するものとしての「科学」がそこにある。

荒れ地=崩れに対して、私たちが否応なく感じてしまう恐れや不安、不快感・嫌悪感、それら諸感覚を棚上げできるのは、理性―科学という乱暴な力だが、その暴力によってもたらされる「違う見かた」がある。

岩屋寺の崩れが語るものを、受け止めていくためには、サイエンスのアプローチを幾度か重ねていく必要がある。

さて、現在視認できるものは、比較的近年に生じたものと思われ、寺院の創建が奈良時代にまで遡るのであれば、千年単位での森林植生の移り変わりと、人がどうこの山をみてとらえ、手をかけてきたか、その履歴が探れそうだ。

寺跡については、総じて新しいもののように感じる。仁王門のルートは近世以降のもので、中世以前には違う参道ではなかったか。
現在の林相・下層植生など森としては貧弱にみえるが、生命力を感じる杉、松、桧が転々とありなぜだろう、どうなっているんだろうと好奇心をくすぐられる地であった。

崩壊をおしとどめる方策もちょっとしたことであれこれ浮かびはするが、事情からして観察関与。周辺の山主さんに伺いつつ歩き探索していけたらなあとは思う。