戸河内町史・民俗編にみる小正月の訪問者

 なかなか見つからないものを探すときには、ほかの気になるものをひろい集めたりするものだ。ちがうだろうか。良し悪しを問う前に、もうこれは癖のようなものだから、なるようにやるしかないのだが。開き直りつつも、これでいいのかという迷いもあるということで本題。

 頭がパンク寸前にいろんなものが渦をまいているので、忘れぬように、あちこちに記しているもののひとつとして。

 横田の図書館に、戸河内町史や東郷町史など隣接する広島の誌史があり、3分だけ見るならどれだろうと数秒迷った末、戸河内町史・民俗編を手にとった。だだっとななめ読んだらば、なんとも興味深いページが。年中行事の小正月の項だ。

 ひとつ。小正月の訪問者=来訪者は、満月の夜にやってくるということ。

《正月の14日か15日の夜のことだが、最初の満月の夜に、顔を隠し箕を着たりして家々を訪ねる、いわゆる小正月の訪問者がある》

 これまでうかつにもこのことを考えて見なかった。そう、小正月は満月の夜でなければならないのだ。旧暦の15日は満月。この意味するところによくよく気をつけて、これからみていこう。

 ふたつ。地域によって截然と、やるところとやらないところがあるということ。これは地図をみながら再確認。

《小板には「とろへい」があった。猪山では「とのへい」、本郷、上殿などでは「とろとろ」といっている》

 声は「とろへい、とろへい」とかけていたようだが、「とろとろ」もあっただろうと思われる。そして、問題はその声である。

 みっつ。神霊示現の声は奇矯なものだったこと。

《また、とのへいの声は、ふだんと違った変な声をだす。そこで猪山では、ふだんに変な浮わついたような声を出すと、「とのへい声をするな」と、親からたしなめられた》

 刊行が1997年と新しい。ひょっとしたらこの声についてまだ何か聞けるかもしれない。

 森と畑と牛と1号が終わったら、取材してみよう。

生ける神としての荒神

神は死んだ

そう叫ぶものがいた

私たちはそれをいくどか耳にした

二千年前に

五百年前に

百五十年前に

つい五十年ほど前に

神は死んだ

そうささやくものがいた

私たちはそのささやきを耳にする

森神をまつる大きな木の下で

稲穂たなびく平原のただなかで

道をつくり川の流れを変えるその橋のたもとで

ふたりの男がいた

ひとりはこういった

あたりまえのことではないか

死んだのでなければ、もともとなかったのだ

神がいるのならば、神がいたというのならば、教えてほしい

もうひとりの男はこういった

なにをばかなことをいうのか

神は死んだのではない、立ち去ったのだ

もう一度神の声を聞きたい

神が今どこにいるのか教えてほしい

 職場のお茶の時間に、こんな話を聞いた。

「立原といえば、道の真ん中に大きな木があるよね」

「あぁ、あれ。道がふたつにわかれているところ。夏にはよく木陰で休んでいるよ。風も通って気持いいんだろうね。ベンチもあって。小さな憩いの場にもなっているけど、不思議だよね」

「あぁ。あの木はね。切るとたたるといって、誰もさわれないんよ。地元の人も業者の人も。だから、役場の人も枝を切るのを頼むのは、遠くから呼んできて切るらしいよ」

「それ聞いたことある。あらがみさん?」

「昔、道路の計画で切ろうとしたら、その人が亡くなって。それ以来だれも切らないしどかせないから、道の真ん中にあるままなんだって」

「子どもが、頭ぶつけたり、怪我したりが続くと、まさかあんたあの木にいたずらしたりしとらんかねって、いまでも言うよ〜」

「お祭りの日も決まってるって聞いたよ。いつも掃除してきれいにしておられるし。〇〇と〇〇を供えるんだっけ」

 まさか、である。

 職場をお昼であがり、いてもたってもいられず、場所を確かめ、カメラを手にして行こうとしたそのとき、急にみぞれが降り始めた。はやる気持をおさえる。今日はもう少し周辺をおさえてみよう。地図を年代順に丹念にみなおし、古地図のデータベースから古道との照合をはかってみたり。立原は通ったことすらない地域である。旧加茂町と旧大東町の町境でもある。

 立原(たちばら)は応仁の乱の頃には、所領として文書に表れている。立原氏に由来すると地名辞典の類にあるが、たちばらの地名が先行し、在地の武力団の長が名乗ったものだろうと、推する。

 件の荒神が宿る木は、グーグルでみるとマテバシイのようにみえるが、タブノキにも見えなくはない。常緑広葉樹であることは確かで、1970年代の航空写真をみるといまよりも少し小さな樹影がみえる。それほど古い木ではなさそうだ。

 そして、この木は立原の地とは川をはさんで東岸にある。旧養賀村との境界域である。

 川を渡す橋のたもとでもある。

 橋は昭和9年の地図にはみえる。

 江戸時代にはどうであったかというと、板橋のようなものはあったかもしれない。が、宝永7年・元禄の出雲国絵図からはうかがいしれない。

 南に里山、北に水田が開ける地。

 奈良時代から一帯の開拓がすすんでいたことは、郡家の推定地である仁和寺は北に1キロほどいったところからもうかがいしれる。

 あぁ、もう少し調べてからと思いつつ、まずは記しておくのみ。

 そう。

 木の精は苦しんでいるのかもしれない。

 荒神の木は弱っているようにみえる。そうなる要因はいくつも推することができる。いずれ枯れてしまかもしれないし、そうなるだろう。近い将来、その木を切らねばならないときがくる。その前に、そこに宿る木の精を山に返してあげられたらいいと思ったのだ。

 そう。この荒神の木は養賀村そのものでもあった小さな森の西北の端にある。養賀の鎮守の神※は、千年以上前に、神殺しが在地を蹂躙していった出雲の地にあっては珍しい神である。東国の地では多く見ることができるその神の名はククノチ

 まさか、出雲の雲南ククノチの名を見つけるとは思ってもみなかった。

 久久能智神:くくのちのかみ 

 句句廼馳神:くくのちのかみ

 屋船久久廼遅命:やふねのくくのちのみこと

 屋船神:やふねのかみ

 くくは茎。まっすぐにたつものの意であり、天と地を結ぶものとしての世界樹信仰へとつながる、神というよりは精霊と呼ぶべきものだろうが、古事記以前にその根をもつ、古い古い神であることは否定しがたい。

 記紀神学からしても興味深い存在で、古事記では、風の神の次、山や野の神の前に生まれた神であるが、書記ではその関係が変わっている。自然哲学・生態学の観点からも、少しばかり掘り下げてみたい。

 屋船、すなわち御殿の神とされるのは、木の精霊である久久能智神と、野の神である草野比売神を総称して屋船神としたことによる。(この呼称の場合の「智」は男神。「比売」の女神と対するためのご都合だけは言い切れないものがある)。

※県神社庁への届け出には、祭神は、和加男賀姫命(わかおがひめのみこと)のみあり、この神の名はない。下記由緒に残るものと、雲陽誌にあるものなどから「角川地名辞典」が採ったものだろう。いや、消えゆくものは丹念にみていかねばならぬ。

《創立年代不詳、抑々当社は和加男賀姫命、相殿神屋船句句廼智命、屋船豊受姫命、合祭神(摂神社)大己貴命之儀従来村社境内に有之侯得共格別の社祭神に付明治八年十月二十七日氏子一統協議之上村社へ合祭仕候。》

岩伏の谷の森神〜#1

森と畑と牛と。

森、畑、牛は三位一体ともいえる関係にあるのだが、この営みを森から考えるための断片を今日はここに記す。”森神”はいまどこにいるのか。その答えを求める試行でもある。

◉2017年の8月20日、小さな祭りをはじめた。「岩伏の谷の小さな夏祭り」

いま、祭りとなれの果てがた無数に散らばるなかに、私たちの世界はどっぷりつかっている。「オリジナルの不在こそが大量の模倣者を生み出す」というのでもない。たしかに私たちの記憶や想像の中にある祭りの原型のようなものがオリジナルだとすれば、現実世界に展開されている多くの祭りはその部分を模倣することで祭りと称することが可能になっているように思える。
しかしながら、何が祭りなのか。
この岩伏の谷で、その消失を確かめることで、来るべき祭りを期したい。

◉祭りには始まりがあって終わりがある。日常を区切る非日常であり、常態であれば、それは祭りとは呼ばない。「〇〇祭り開催中」という幟がつねにあがっている店舗のそれを祭りと呼ぶことは、認知する側にとっては極めて難しくものだ。

◉森の木は倒れることに意義がある。倒木がなければ、若い木は育たない。天然林というものはそうなっている。倒れた木は微生物が分解して土となり、他の生物がそこに生きる糧となる。
この話を最初に聞いたのは、ソシオ・メディア論の水越伸からであった。著書『メディア・ビオトープ』は、再読してみたい。

◉現代がかかえる「問題」の核心には、倒木の価値を位置づけられないがゆえのもどかしさがある。

◉岩伏周辺に残る信仰には山伏のような流浪の民間宗教者の影響があったようだ。

・岩伏山を女人禁制としたこと。
・牛馬信仰を荒神信仰と結びつけたこと。
・大山信仰、縄久利信仰、ふたつが相争った形跡があること。
・岩伏山と素戔嗚尊の降臨伝承は「出雲中世神話」の影響を受けたものであるとすれば、この地に伝承をもたらしたのはいかなる人物であったか。
・隣地に伝承と痕跡の残る妙見信仰との関連は不明。

こうしたことどもを糸の口として、たどれるものをたどっていきたい。

◉ダム建設による集落移転の際、かつての山道のあとに合祀されてものと聞く碑。脇にある地蔵尊らしきものは不明。※1

◉碑のある場所から、ダムの見える牧場をのぞむ。

◉塚神をまつる痕跡があることはこの地にあっては珍しい(これまで聞かない)。この三神について聞き取りをしておきたい。※2

三宝荒神は、ここでは地主神としての性格を色濃く有するものであったろうと推測する。
地主神。とこ=大地の主である。

・とこぬしのかみ
・じぬしがみ
・じしゅのかみ

映画「もののけ姫」に登場するおっとこぬしは、乙事主ではなく、おおとこぬしのかみ=大地主神ととらえてみると、宮崎駿が求めていたものにも近づけるのではなかろうか。

◉この地から数キロ西にある佐白の志学荒神社は、三宝荒神を親神とする。

「今日の雑読断片」 に、柳田國男「山民の生活」に三宝荒神を「山神と同じく山野の神」と言っている箇所を引用しており、ここに再掲。

全国を通じて最も単純でかつ最も由緒を知りにくいのは「荒神」「サイノ神」「山ノ神」であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引き入れようとはしますが。いまだ十分なる根拠はありませぬ。「山ノ神」は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必ずまず祀る神で、村によってはその持山内に数十の祠がある。思うにこれは山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地といまだに占有しぬ土地との境に立てて祀ったものでありましょう。…荒神も三宝荒神などといって今は竈の神のように思われておりますが、地方では山神と同じく山野の神で。神道の盛んな出雲国などにも村々にたくさんあります。
(大塚 英志・編『柳田国男山人論集成』(2013,角川ソフィア文庫)p.88〜)

◉塚神も意味あるようで不明なり
柳田國男「石神問答」より

《姥神もまた山中の神なり
姥神の名には三種の起源混同せるがごとし
山姥は伝説的の畏怖なり
巫女居住の痕跡諸国の山中にあり
姥神はすなわちオボ神に非ざるか
姥石という石多し》

「巫女居住の痕跡諸国の山中にあり」から思うに、岩伏山の麓にあった比丘尼の寺というのは、巫女の居た庵ではなかったか。

※1)2022/01/26追記:地蔵らしきものとは、尾白峠にあった才の神ではないかと思う。
島根県教育委員会,   『尾原の民俗―  』〜信仰伝承―4路傍の神々3,才の神には、法印、下布施とともに、山方と尾白の才の神を次のようにあげている。
《尾白地区の才の神は、尾白ダワという佐白に通じる峠道の傍の石祠に双代像で祀られている。近くに杉と榊の木や地蔵仏がある。年末にこの地の所有者である近くの藤原さんがお供えをするほか、シシネガン(神)さんともいって、シシネという皮膚の隆起物の病気のときこの才の神に願をかけて祈る人もある》と。
山方のものは耳の神であること、石であって像はないようであるから、この双体像は尾白の才の神を移したものだと思われる。

※3 塚神は見聞することこそ少ないが『尾原の民俗』はじめ、記録記載は多い。

ホウソウ神(疱瘡神)とホトホト

 元旦に古代出雲歴史博物館へ寄った際、書棚にあった、文化財保護委員会編,昭和42年刊「正月の行事2・島根県岡山県」(平凡社)を開いてみた。「被差別(という意味の表現だったと記憶)の村から来る人が……」という記述があり、貴重なものだと思いをはせた。いまやそうした記載はできなくなっているだろうし、そうした地区にこそ、もっとも古いその地の古層を形成してきた文化が、人知れず保持されていただろうことは容易に想像できる。

 数分で立ち去るつもりが、つい読み進めるうち、岡山県真庭郡新城村の正月行事の中に「ホトホト」の記載を見つけた。そして驚いた。以下に引用する。

《(13)十四日 ・ホトホト 厄年の青年たちが厄落としのためにやっていた。十四日夕刻、蓑と笠をきて、盆(神のお椀)に綯い初め(ないぞめ)で用意した一尺(九〇センチメートル)程度のゼニツナギに一厘銭をさして載せ、細目に開いた雨戸の内側に置いて、ホトホトといって戸をたたき、物陰に潜む。家内の人が、ゼニツナギをとり、箕に供えていたオイワイ餅(ほうそうの餅)ととりかえ、祝ってやる。物陰から出て餅を取りにくると、用意していた杓で水をかけていた。これを厄落としと呼び、もらった餅を食べて「厄をまぬかれる」といっていた(図120)。〔大所部落〕では、この餅を四隅に必ず一個置いていた。〔下町〕では、一厘銭を四隅に落として「厄を落とす」といった。厄のないものにはオカチンや豆を与えていた。その見分けは、ゼニツナギに銭をさしているかどうかであった。〔茅見部落〕では、厄年の者は必ず三軒以上まわり、橋を渡ってはならぬといっていた。〔美甘村三谷部落〕では、男が女装をして行っていた。こうして青年たちは何軒もまわり、たくさんの餅を集め、またドブ(濁り酒)をつくっている家に若水たごを持ってもらいにいき、翌日氏神で酒宴を開いていた。このホトホトも信仰心が薄くなり、ヘイトウ(こじき)だという観念が強くなって、三十年ほど前から行われなくなった。》

 疱瘡神との習合が大変興味深い。疱瘡神を年越しに迎える事例は、東北地方にいくつかあって、真庭のホトホト=疱瘡神の祭事と共通するポイントが若干ある。

・供物は床の間とは別な場所におかれる

・来訪は一時であり、すぐに退散を願う

・年越しの前後に行われる

 

 ただ、ことの本質は「よからぬもの」の来訪であることが肝要なところであろう。

 

 今年は仕事の都合でどうしても頓原のトロヘンを取材することかなわなかった。来年へ向けて、来訪する神の姿を追っていきたい。

雲南地域におけるダイシコ(大師講)の断片

「ホトホトと餅とダイシコの関係」のつづきとして記します。

 今日、島根県立図書館で、『仁多町民俗調査 昭和55年度報告書』なるものが書棚にあるのを見つけて驚きました。どこから出てきたのか、もとからそこにあったのか……。なんどもその棚には目を通していたはずなのに、この日に限って背丁が目に飛び込んできたのだから、なんというか、contingency(本来的偶有性)とはこういうことなのかと、ちょっとした衝撃と喜びでありました。
 その報告書は北九州大学民俗研究会が、昭和55年7月下旬の10日間、30人あまりで行った本調査と、先行調査、文献調査をもとに編纂されたものです。町史などの中に北九州大学の調査に基づくものであることの表記を散見したことはありましたが、こうしてまとまったものとして存するとは思いませんでした。岩伏山の由緒について、これまで耳目にすることのなかった異説※1が採取されているなど、大変貴重な資料であるといえましょう。
 さて、しかしながら、大師講(太子講)について、正面切った報告はありません。それがまた不思議でもあり、興味深いのです。まず、見出し項目としては、私が現在追究している大師講ではなく、亀嵩の算盤職人が「講」として聖徳太子をまつるという太子講をあげています。まぎらわしいのですが、大師講(ダイシコ)と太子講(タイシコ)、ふたつの違いは事典の類をひけばはっきりとしています。たとえば、小学館の国語大辞典では、太子講をタイシコウとして、聖徳太子と結んだ「講」として解説しています。
聖徳太子を祖として奉讚する大工の講中。また、太子の忌日二月二二日にその講中で行なう法要と宴会》
 一方の大師講はダイシコウと読ませ、天台宗の開祖、中国の智者大師の命日を11月24日(旧暦)としてその法会を第一義としていますが、伝教大師最澄弘法大師空海、それぞれにちなんだ法会を第二、第三の義としています。そして、問題は第四義。
《旧暦一一月二三日から二四日にかけての年中行事。家々で粥や団子汁などを作って食べる。智者大師・弘法大師聖徳太子などにまつわる伝説を各地に伝えているが、お大師様は、すりこ木のような一本足の神様だとする地方が多く、また多くの子どもをもつ貧しい神で、盗みに来るその足跡をかくすために当夜必ず雪を降らせると伝えるところも多い。この二三日の雪を「すりこぎかくし」「あとかくしゆき」などという。講とはいうものの、講は作らず各家々でまつる。この夜お大師様が身なりをかえて、こっそり訪れるので、家に迎え入れ歓待するのだともいわれている》
 私が追いかけているのはこちらの「ダイシコ」であり、雲南地域で広く行われていた(らしき)ものです。その断片は、『仁多町民俗調査 昭和55年報告書』の中にもあります。これまで雲南地域の地誌では見ることのなかったものですが、おそらく見落としているのでしょう。地誌のリストに印をつけての閲覧を要します。
 さて、問題のダイシコの断片は、前布施で取材されたもの。前布施は、竹の焼畑実践地の水源の峰たる岩内山から南へ下り、八代川をはさんだ谷向こうの集落にあたる地です。
 手早く筆写したので、字句は異なるかもしれませんが、以下の記述がありました。
《前布施に弘法大師がこられた時、あるあばあさんがエンドウ豆をむいていた。大師がエンドウをくれるように頼んだが、おばあさんは与えなかったので、エンドウに虫がつくようになった》
 また、この同型パターンでトウモロコシがあり。「先の曲がったトウモロコシができるようになった」というもの。調査班は下阿井にも入っていて、他の事項ではよく出てくるのですが、下阿井で私が聞いたタイシコウのことは、出てこなかったのでしょう。おそらくやっていた家とそうでない家があったからではないかと思う。
 ここで3つの引用をもって、のちほど加筆する際の材としておきます。
 1972年刊の『木次町誌』、温泉村の項から(p.268) 《十一月二十四日 大師講・太子講 大師講は前夜大師講だんごをつくる。大判形で、平年は一二個、閏年は十三個を仏壇に供え、それをあずきで煮ていただく》
→課題:餅をつくという事象、神が家を来訪するという事象を他で見つけること。
 野本寛一,2005『栃と餅』にはこうあります。(少々長くなるが)

《一一月二三日は新嘗祭、じつは、民間ではこの日を大師講と呼んでいるのだが、その大師講は収穫祭なのである。この夜は、ダイシサマ、デシコガミサマ、オデシコサマなどと呼ばれる神がイエイエを訪うとされる。元三大師、智者大師といった大師だとする地もあるが弘法大師を想定する地が多い。しかし、青森県秋田県などには、デシコガミサマは女で子だくさんの神様だとする、山の神に近い神を伝承する地も少なくない。この日こうした神が来訪するという伝承を持つ地は、東北・関東北部・北陸・中部・中国山地、鹿児島県大隅地方と広域に及ぶ。そして、この日、大師粥と称して小豆粥を煮る地が多い。小豆粥のほかに小豆のボタモチ・しるこを作る地もある。さらに、大根にこだわる地もある。(中略)冬期に入る直前に、その年の収穫の様子をたしかめにくる、大師に収斂されたマレビトに、その年収穫した米と小豆で作った小豆粥やボタモチ、一部には冬期に重要な大根を加え、それらを供え、家族も食べて収穫を祝ったのである。》

 そして、また、以下にある「スリコギの先につけた餅米」を板戸に塗りつけるという所作と意味は、「大」という文字によって示されているメッセージとして表象されているようですが、雲南のカラサデ餅との対比で考えるとどうなるのか。この探求課題にとってヒントのひとつです。

静岡県遠州地方から駿河西部にかけてはこの日、小豆のボタモチを作って家族で食べる。そしてボタモチを作ったスリコギの先にボタモチのモチ米を塗りつけ、それで玄関の大戸(板戸)の目通りの位置に「大」という文字を書いた。戦前、板戸のある家はどこの家の板戸にも「大」の字の跡があった。私は育った家にもそれがあった。これは大師講の神に対するボタモチの手向けであり、この家は、お蔭で、秋の収穫を終え、収穫祭を終えることができましたというメッセージを大師講の神様に伝える表示なのである》

 野本があげる大師講の神の特性のなかで、来訪神と正月(小正月)の関係をとらえる鍵となりそうなふたつの事項があります。
・不可視であること……「足が悪い」「足跡を隠す」
・小豆の赤色……「生命の色、血の色、太陽の色とみてさしつかえなかろう」(野本)

 後者については、冬至当夜における豆腐・大根の「白」、大黒をまつる一二月九日前後の大根=白と黒豆=黒との対照考察を要すると考えます。

 最後に『尾原の民俗』 p.272の民俗行事から。ダイシコさん、さんづけになっているところに着目です。隣接する23項のカラサデは、さんがついていない。

《11月24日 ダイシコ(大師講)さん
「お大師の跡隠しの雪」といって雪が降ることが多かった(山方1)。
前夜、米粉で小判状(長径15cm×短径約8cm)のダイシコ団子を作った。閏年には13個、普通は12個作った(大原・尾白・山方1・林原1・2・前布施1)。
作ったままの団子を枡の中に井げたに組んで入れ、床の間か神棚に一晩供える(尾白・林原1・前布施1)。
この団子が寒くて凍みているほどよい(大原)、来年は豊作になる(林原1・前布施1)といった。
団子は翌朝、小豆で煮て食べた。ダイシコ団子は岩船山にある大山さんにも牛の神様だから、といって供えた(尾白)。》

「お大師の跡隠しの雪」がどう語られていたかは、ここからはわかりません。これを機会に、民話採録からたどってみようと思います。 一般に、というより柳田のまとめにより、跡隠しの雪とは、こういうものとして語られています。

《旧暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろそろ雪が降りますが、この二十三日の晩はたとえ少しでも必ず降るものだといって、それをでんぼ隠しの雪といいます。そうしてこれにもやはりお婆さんの話がついておりました。信州などの方言では、でんぼとは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師様に差し上げたい一心から、人の畠にはいって芋や大根を盗んで来た。その婆さんがでんぼであって、足跡を残せば誰にでも見つかるので、あんまりかわいそうだといって、大師が雪を降らせて隠して下さった。その雪が今でも降るのだという者があります(南安曇郡誌その他)》

(「日本の伝説」より) 柳田はこの話がのちに「間違った」という言い方をしていますが、方便であって、跡隠しの雪は山の神の示現であると、そう見ていたのではないかと、言いたげです。同じ「日本の伝説」にこうああります。

《それからこの晩雪が降ると跡隠しの雪といって、大師が里から里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬように隠すのだといい伝えておりました。(越後風俗問状答) そうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかったことがわかって来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思っていた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造って、山の神様に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、おりおりは下りて来られることもあるといって、雪は却ってその足跡を見せたものでありました。後に仏教がはいってからこれを信ずる者が少くなり、ただ子供たちのおそろしがる神になった末に、だんだんにおちぶれてお化けの中に算えられるようになりましたが、もとはギリシャやスカンジナビヤの、古い尊い神々も同じように、われわれの山の神も足一つで、また眼一つであったのであります。》

 なお、『志津見の民俗』には大師講さんとして12月21日に、「この日はオハギを作る」とだけ記載されています。

※1)素戔嗚尊が船にのって天下ったという類ではない。採取地は尾白で、素戔嗚尊に紐付けるパターンをbとして、aの項に以下の説をあてている。《昔津波があって、岩伏山の頂上に流れ着いた舟が岩になってしまったという。そこでこの山を舟山、または岩舟山というようになった》。

野山と山あがり雑感

コモンズというものの向かうべき方向について、70年ほど前を振り返ることの大切さを思い知る。

「森林整備、地方へ数百億円 新税に先行、19年度から」https://t.co/9oBIHVt82なる新聞記事を見ながら鬱々とする気を払いのけるために、まとまらない断片を記す。

昨日の取材で聞いたいくつもの言葉が頭の中をめぐっているが、とりわけこのふたつ。

《「野山(のやま)」※1には、町からも芝木を拾いに来た人がいたが、だれもそれをとがめはしなかった。おおらかというか、そういうものというか……》

《山あがり(大山さん)には、牛をもっていない人、それは農家じゃない人もおられたから、そういう人もみんな家族であがった。祭りの場所の木は切らないものだった。大きな木があるものだった。まわりの草はきれいに刈ったが。草といっても木みたいなもの※2》

山とはなんであったのか。

かつて「野山」と呼ばれていた山林には不法投棄禁止の看板、さもなくば、山菜採取禁止の看板かを見ることができる。

いま、山はどうなっていくのか。

思いは千々に乱れる。

※1)野山:出雲地方、旧松江藩領では共有地を野山(ヤサン、ノヤマ)と称していた。出雲地方では早くから消失していったが、残るところには残っていて、このお話を聞いたところでは、戦後まで存在し、小学⑤年生の時に終戦を迎えたこの話者(役人でも学者でもないごくふつうの市井のひとり)から、あたりまえのように「ノヤマ」という言葉を耳にしたときには、驚いた。父の記憶がほとんどないままに戦争で失い、明治4年生まれの祖父に育てられた経歴によるのかもしれない。

※2)草という言葉のなかには、鎌・鉈でとれるような低木・灌木も含まれるのだということは、今後気をつけて検分していきたい。

●追記

田中淳夫氏のblogに「東京新聞に森林環境税のコメント」なる記事。

二重課税も無駄遣いもいい、無駄遣いと言い切れるものは実はそれほど多くはないのだし。

森林をどう管理・保全していくかの定見もなにもないままに、お金だけつっこめばどうなるか。自明であろうと誰しも思うだろうに。山も森も川も海も、関心のうすい分野になってしまった。いまにしておもえばもとからそうだったのかもしれない。

あぁ。

カラサデさんがくるよ〜カラサデさんの「実際の言い伝え」その2

「カラサデさんがくるぞ」という子供への脅しが効果的であるのは、カラサデさんが「さん」づけで呼ばれる「神的」存在であること、そして子供を連れ去る場所(異界)があることが想像の中であれ、具体的な地であれ、生きてあることが前提としてある。

平成29年の冬。昭和20年代に生まれた現在60代の世代にとって、カラサデさんがなんであったかという記憶はすでにない。しかしその母や父、すなわち大正から昭和にかけて生まれた世代は、「カラサデさんがくるぞ」という言葉を発していた。それが届く(効果を有した)か、届かないかは、境界線上にあり、カラサデさんという存在のアイデンティティは失われていも、異界の存在する空間はまだいきていた時代である。時期も旧暦10月末とは限らない。年中いつでも「カラサデさん」は来るべきものとして想像の中にあった。

一方で、浮遊するカラサデさんのアイデンティティは、婆さん・爺さんと結合することで時代の流れに多少なりとも抗ってみせた。神であるカラサデさんはカラサデ婆さんという妖怪へと身をやつしてしまっている。吉賀町のごんごんじー※2)と同様、幼児・児童に対する世界でのみ生きるものとして。そして、おもしろいのは、かような妖怪の話は、世代をひとつまたいで伝えられるものであったということだ。「カラサデさんがくるよ」と戒めの言葉を発するのは、親であるよりは祖父や祖母であることが多かった。

子どもにとって、カラサデさんは怖いものではあったが、それは旧暦10月の末にあるカラサデ餅をつく日に限定されていることであった。実は、家でカラサデ餅をついたことの記憶をもつ人に、今日はじめて話をきけたので、それを記すためにこれを書いているのである。

その方は昭和9年生まれである。カラサデ餅をついて、杵についた餅で戸をふさぐようにしたものだという。戸を叩くのだという民俗記録を読むことはあるが、意味としてはふさぐものであったのだろう。この日の夜だけは、便所に行くのがこわく、祖父についてきてもらったということをきいた。また、子どもがうたうようなものがあったというが、どうしても節回しも思い出せないということだった。

(カラサデ餅の話へつづく)

※1)大黒さん、恵比寿さん、お伊勢さん、などの用例に連なるものとしての「カラサデさん」。この用例のなかでの「さん」がそうであるように、対象そのものの明示をさける婉曲的な使い方でもある。

※2)吉賀町のごんごんじーは行政のゆるキャラとしてマスコット化している。出身者(40代)に聞いたところでも、それがなんなのかはわからないが、ごんごんじーがくるといわれると、なにかおそろしいものであるやに感じられたという。

ごんごんじーのルーツは、奈良の元興寺である。世界遺産ともなっている奈良の元興寺を訪れれば、そこかしこに小さな鬼の石像を見ることができる。かつてこの寺の鐘楼に鬼が住んでいたという伝説から、がんごうじを縮めた「がごじ」が室町時代後期以降全国に流布するなかで、さまざまなバリアントを生み、現在にまで至っている。

方言辞典などをみると、西日本に多いようだが、北陸や北関東にもある。東北では確認できないが、これは他に代わる存在があったからなのかどうか。

島根県では、隠岐で両目の大きな化物として「ががまじ」、簸川郡で「ががも」となる。

これが石見では「ごんごんじ」となり、山口県玖珂郡では「がんごー」、広島県高田郡では「ごんごじー」、同じ石見でも那賀郡では「こんごんじー」「こんとんじー」となる。

注目すべきは、益田市(美濃郡)の用例であり、こじきをあらわした「ごんごーじー」「こんこんじー」である。乞食がかつて聖性をおびたもの、来訪する神の一形態であったこととともに、妖怪・化物となった「ごんごんじー」がなぜここまで広く分布しているのかということのこたえをしてしているようだ。

また、出雲地方では頭髪がもじゃもじゃとしていて汚いことを「ががま」と呼ぶことから、吉賀のゆるキャラの像はつくられているのではと思われる。

政治思想としての「出雲」〜雑考#001

 まとまりがつかないまま、数年が過ぎ、忘却の波に洗われることで、跡形もなく消え失せるよりは、意味のない小石くらいのものを置いておくようなつもりで、書き記してみようと思う。

●PI-z001

テーゼ:「出雲」は神話の国ではない。

1. 記紀出雲神話は出雲という地理的実在とは無関係なものとして読まねばならない。出雲という土地を牽強付会することで、記紀を「読む」ことが大きく損なわれてしまうことを恐れるべき。

2. 出雲大社の壮大な神殿はどうなんだといわれよう。そう、そこに錯綜しもつれたものをとく鍵があるのだ。cf.西郷信綱古事記注釈』第3巻(ちくま文庫: p285〜294)

2-1. 順序の転倒がある。現実があり神話として残されたわけではないことに注目すべきであるのに、なぜそう考えないのか。記紀が書かれ、記紀に書かれているのだから、そこになくてはならない。この論理はあやうい。

2-2. 出雲大社本殿は現在のもの以上に高く壮大なものであったことがほぼ明らかとなっているが、まさにこれこそが、出雲神話における天日隅宮の捏造性を物語っている。

2-3. ※出雲の式内社の多さについて後述

3. 出雲がきわめて政治的土地と意味を付与され続けた場であること。ここを再び掘り出すことで、日本の政治思想を、宗教思想・宗教哲学の視座から見直すこと。これが、この雑考の意図する方向だる。

(つづく)

ホトホトと餅とダイシコの関係

宮本常一が山口県玖珂郡高根村向峠での調査記録を著作集23に残している。●申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ  この続きを今回。
複写したところをふと読み返し、はたと膝を打ったので、思いつきではあるが、記しておくものである。向峠はムカタオと読む。昭和5年時の地図を下に。宮本がこの地、向峠を訪れたのは昭和14年のことであり、ほぼ当時の地理を伝えていると思う。

深谷川の深い谷の上にある様がわかると思うが、写真だとさらに明確。国土地理院のウェブサイトにある1947/09/19(昭22)米軍撮影空中写真の向峠周辺を下におく。まるで谷と山に囲まれた島のように見える。実際、谷底以上に弧立した村であったのではないかと想像する。まとまった平地はあるものの、モノと人とが行き交う道からははずれやすいのではないか。

それだけに、古いものを残していたではないかと想像する。
さて、向峠の「年齢集団と行事」としてまとめられた項のひとつトロヘエ。宮本はこう記している。

トロヘエ 正月十五日の夜、若者達は藁草履を作り、また藁で馬を作り、あるいは竹で茶柄杓などを作って手拭で顔をかくし、家に投げ込んで歩いた。するとその家では餅をくれた。そういうとき「若い衆が来た時にはかまうてやれ」といい水をかけたり、餅をもらうために家の中へ手をさし入れるとかくれていてその手をつかみ、顔を見ようとしたりした。ずるいのになると馬や草鞋に縄をつけて投げ込んでおいて、かえる時にはまたひいてかえるものもあった。  またしみったれた家や村で人気の悪い家へは報復した。たとえばちょうど入口のところへ肥をタゴに汲んでおいたなどという話が残っている。村を一まわりすると適当な家へ集って焼いて食べた。若連中ばかりでなく、ごく貧乏なものは袋をさげて昼やって来た。入口でトロトロというと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。  若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分来たもので、深須村のある女の如きは大正年代までやって来たという。》

以下、5つのポイントをあげつつ、のちほど追記することを前提としたメモであることを断りつつ記す。
トロヘンが来訪神の系譜をもちながら、ナマハゲと違うところは、ふたつの欠如だ。
・そこに「神」はいない。だれも神も鬼も信じていない……かのように見える。しかし、神を持ち出すことで、このパフォーマンスが成り立っている。
・恐怖の出現はそこにはない。恐怖の不在。
ごく貧乏なものは袋をさげて昼やって来た。そこには儀礼はないようでいて、入口で訪問者は「トロトロという」ことで、家のものが餅をやるという。
貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履をもって歩いた。
・これは他の地域での事例を知らない。どういうことなのか。ここで記された老人仲間とはなにか。大変重要なことだと思うのだが、、、。家を訪れるのは、3者である。共通するものは家人が餅を与えるということだ。
来訪する3者がやめた時期は次の順序である
・若連中は明治28年頃にやめた
・貧しい仲間(老人仲間? 若連中のなかで貧しいもの?)は明治35年頃
・深須村のある女は大正年代まできていた→他村からもきていたというということである。うむう。
餅は神に供えるものであると同時に神からの贈り物であると考えたときにこの事象をどうとらえるか。すなわち何と何が交換されるのか。
・若者連中が贈るものは「藁草履」「藁馬」「茶柄杓」。ほかでは聞かない茶柄杓とはなにか。
・老人仲間が贈るものは「藁草履」
・貧しいものは何も贈らない。 ダイシコについては、のちほど加筆するが、柳田國男の引用だけしておく 物忌と精進より

《神巡遊の信仰の今日年中行事になっているものは、旧11月23日を中心としたいわゆる御大師講であるが、この解説には仏法が干与して…………(中略)…土地によって少しずつ話はちがうが、大師の足跡隠しといってこの日は必ずゆきが降るといい、または二股大根を女が洗っている処へ来て、半分貰って食べたという類のおかしい言い伝えばかりが多い。…………(中略)…その結論だけを言ってみると、ダイシは上代に入ってきた漢語で、大子(おおいこ)すなわち神の長子の意かと思われる。大昔以来の民間の信仰では、冬と春との境に特に我々の間を巡ってあるきたまう神があって、それは天つ神の大子であるという信仰があったらしいのである。…………(中略)…日本では二十三夜待ちという信仰がど、どうやらこれと関係があるらしい》

先日、阿井で聞いた「タイシコ」の日は餅をついて食べるのだという。年末であるが、年取りの餅とは違うというのだ。旧暦11月23日のタイシコが、新暦導入のなかで、年末に固定したものではないだろうかと推するが、どうなのだろう。
→つづきは以下 ・「雲南地域におけるダイシコ(大師講)の断片」

◆追記 向峠は街道筋にあたった?
向峠が孤立した村落だなんてとんでもなかった、の、かもしれない。番所を通る道筋にあたっていたようなのだ。野田泉光院の「日本九峰修行日記第2巻」。文化11年に岩国から錦町、そしてこの向峠のそばを通った記録がある。石川英輔は『泉光院江戸旅日記』で、こう記している(釈している)。
《十四日、栗栖村を発って安芸と長門(長州・山口県北西部)の境界になる峠(生山峠)を超えて大原(山口県玖珂郡錦町大原)へ出、さらにもう一つの峠(向峠)を登ると、長州と石見国津和野領の境杭があった。少し下ると番所があったが、手形を出す必要はなかった。田原村(島根県鹿足郡六日市町田野原)泊。》
原著ではどうなっているか。
《十四日、晴天。朝辰の刻栗栖村出立。当村より二里の大峠を越え、又一里の峠を越し大原村と云うに下る、又山へ上がれば此所に石州津和野領境杭あり、下に番所あり、手形出すに及ばす津和野領田原村源治と云う宅へ宿す。》
問題は、距離、時間、そして峠の上り下り。地図をひろげつつ、泉光院の足取りを確かめてみたい。原著と地図をみると、向峠を通っていないのようにもとれる。つまり石川が誤っているということ。峠という文字にひっかかったのだろうか? あれ? ムカタオは峠ではなかったか?  大原→宇佐→田野原という道であれば、向峠は通らない。  長州から津和野に入るルートはどうなっていたのか。番所があるくらいだから、古地図を確かめるのが早いのでは、とも思う。 ちょっとあたってみよう。
(つづく)

◆追記2 野田泉光院は向峠を通らず星坂村を通った
古地図をみた。街道は日本輿地路程全図 をみるに、大原から星坂を通るようだ。星坂の文字があるのは意外だったので、角川歴史地名大辞典を参照したところ、あっさり結論がでた。表題の通りである。

《江堂の峠に周防国との境界石がたてられたが、現在は田野原の柏谷に移建されている。津和野藩より萩藩に通じる長崎街道(廿日市街道)筋で、藩主亀井氏の参勤交代の通路にあたるため慶長年間に番所が設けられ、士卒数人が常駐していた》

そう、向峠はやはり孤立した集落であったのだ。

カラサデさんの「実際の言い伝え」

《習俗は理由もなく消えたり生き残ったりしない……

それが生き残り続けているとすれば、機能の永続性の中にこそ”真実の理由”を見いだすことである》

レヴィストロースの言葉に引かれながら、少しずつ読んだり聞いたりしている。きょうは午後から県立図書館。郷土資料室の書庫に小さな封筒に入った冊子がある。はじめて閲覧した。酸化で茶色に風化し、めくればパラパラとくだけてしまうようで、そーっと1枚1枚をめくる。日本がまだGHQ占領統治下にあった昭和23年10月、島根民俗通信第8号(終刊号)である。

巻頭にあるのは柳田國男「ミカハリ考の試み」。

《出雲のカラサデサンなどは土地の人が率先してこれを馬鹿馬鹿しがり、実際の言い伝えを我々に教えてくれない》と嘆いている。また、柳田は祭日考のなかで、出雲の神在祭を痛烈に批判している。「まことにたわいのない俗説」「論破するまでもない」「不道徳である」(「祭日考〜出雲のいわゆる神在祭」)と。それもこれも、柳田がこの頃、もっとも気にかけていたテーマについて、出雲がもっとも多くの資料を持ち伝えているとみていたからだということが、「ミカハリ考の試み」からもわかる。

さて、その柳田の寄稿のあとに、応答ともつかない小さな報告が寄せられている。そこには、私たちがおそらく聞いたことのなかった「実際の言い伝え」が記されていた。柳田はこれを読まなかったか、無視することにしたのだろうか。

その報告は、短くはあるが、そうであったかと膝をたたきたくなる内容だ。

カラサデのサデは掻くこと。それは神が人を殺す日だった。

「この晩…、神様が人間を三人サデられる。それで昔は必ず人間の死体が三つあった」

お忌みさんの頃、冷たい風が戸口をコトコトと叩く。

餅をついて家にまつる神に供え、戸口の外には悪霊に備える餅をぶらさげ、通り過ぎていってくれるのをひたすた静かに待った時代を、いまどうやって想像したものだろう。

冬は幼い命と年をとった命が消えやすい季節である(あった)ことを、思い起こしてみるだけでは、どうもすまなさそうだ。

いまの世に、神にサデられるのは、だれなのか。その神はどこにいるのか。真実の理由を探しもとめる日がつづく。

11月24日開催

カラサデ婆の悲しき真実〜石塚尊俊『神去来』(本の話#0009)