大山あがり雑感その1

 大山さん、大山祭り、大山あがり。歴史好きの年配者は、信仰の対象に関心が向きがちで、そういう話になるのだが、私が興味を寄せるのは、移ろいがちな神や仏や権現さまではなく、人々の「行為」なのである。聖よりも俗のほう。祭りのご馳走ではなく日常の食生活というような。
 先日も記したことだが、奥出雲町佐白で、他の話からふと大山さんの祭りがあると聞いて驚いた。いや、あるとは思わなかった。3年間も過ごしてきて一度も聞かなかったし、地誌・郷土史・町史への記載など一切ない(はずなのだけど見落としているだけという可能性もある。これは要確認である)。
 大山さんへはこの溜池の脇を通ってあがるのだときいた。なんという透き通った水面だろう。なんという芽吹きの麗しさだろう。山あがりは、やはり春、生命の息吹を感じることがその核心にあったと思うのだ。
 名称も「大山(だいせん)さん」である。まず、雲南・奥出雲と県境を越えたいくつかのエリアで、地理的にこの分布を確かめていきたい。

 それにしても、何をやろうとしているのか、私は。調べようと思っているのだから、その目的と方法を整理しておいてもよさそうではないか。……というわけでさくっと書いてみた。あくまで雑に。
名称:大山あがり再び
 春に山へあがり飲食遊興を行う「大山あがり・大山祭り」と呼ばれる民俗祭事がある。牛馬の神への信仰がうたわれているが、その基層は古代の歌垣にまで連なることが民俗学歴史学から考察されている。注目すべきは「滅びない」ことであり、昨今復活を目論む「講」が雲南に実在する。その構造を分析してみることと、復活に向けての提言を目論む。
 雑感その1はここまで。その10くらいまでは続くだろう。思い出し思い出し断続的に。

佐白の大山さん

 4月29日(金)に奥出雲町佐白の志学荒神社の祭礼に参列した折、大山あがりと粟のことで新たな見識を得たので記しておく。

●大山あがりについて

 めかださんに酒席でお聞きした。

・「大山さん」と皆は呼んでいる。

・8月24日に祭礼を行う。お寺から方角をみて拝むだけ(般若心経)。愛宕神社の祭礼と(都合上)同じ日にやるのだ。

・昔はみんなで山頂まであがって飲食をした(当時も8月だったのか、春だったのかは、わからない模様)。

・いまでも8月のはじめに何人かで山頂をきれいにする。ため池のところから上にあがっていく。

・牛馬をどこでも飼っていたので。大山さんは牛馬の神さまである。

●粟のこと

 以前より赤名さんに「種が残っているのならほしい」とお話はしていた。2回ほどか。改めて聞いてみた。

・十年からはたっている種だ。発芽するかどうかはわからない。

・品種名は虎の尾※。阿井の安部嘉吉(あべかきち)さんが中心となって献上用(宮内庁へか?)につくったもので、種が地元のものなのかどうかはわからない。

→課題:米はよく伝聞するが粟でもあったのか。その際の決まりとして種子は地元のものという規定があるのか、それとも配布されるものなのか、とくに規定はないのか、どうか。また、献上された粟はどのように使われているのか(祭礼などの内容含め)。

・食べた記憶はない。あったかもしれないが。少なくともその虎の尾に関しては。うるちである。

・探してみるよ

→資料(出雲国産物名疏)の複写を差し上げるので、交換かなあ。

 虎の尾は、出雲国産物名疏にも記載がある。地場で継がれてきた粟である可能性は高い。

 写真はこの日の志学荒神社。祝詞三宝荒神を親神とするとあった。佐白周辺では「三宝荒神」と呼ばれるが、出雲地方における荒神とさほど相違があるわけではなさそうだ。荒神については本当に浅学のため、しっかりおさえ直しておく必要を感じた。

 

山あがり雑感その1

山あがりについて。テーマを絞り込みたいのですが、どこにというところで、足踏みしています。4月12日の取材メモをと思っているのですが、そこですね、問題は。

4月2日にfacebookに書き記したことを再掲してみます。

ーーー

わたしは、その目の前の桜より、木次の山あがりが気になってしょうがなく、縁側の机に伏して、あれこれ文献をめくっておるのですが、そこらのお話を、ひとつ。

山あがり(のぼりではなく、あがりというのがみそ)あるいは大山まつりと呼ばれるものがあります。昭和40年代にはついえたものだとばかり思っておりましたら、つい先日、86歳の方から、いまでも毎年4月24日にやっているよと聞き、驚きました。「のやま」(野山=入会地)のいちばん髙いところに祀った大山さんの祭りであり、牛を連れてあがりごちそうをたべたといいます。春に山にのぼる習俗は日本各地にあばかんほどありますが、大山さん=地蔵信仰との習合で残存した古代の春の市の姿でしょう。場所を教えてもらいましたので、写真であげておきます。大山智明大権現とあります。

さてはて問題は、ここでフォーカスすべきは、祭祀でも民俗でもないということ。市の本質とは何か、来たるべき経済とはどんなものであるのか。わたしく、この春からそこらにせまっていきます。その先で熊子も竹も紙も亀カラも焼畑も待っているはずなので。あ、私こと、去る3月末日をもちまして特定非営利活動法人さくらおろち事務局長の職を卒業いたしました。ただ、ウェブ上でみるぶんには、やっていることはあまり変わらないと思います。来週頭には1日4時間以内で焼畑の事業申請書類をあげなくてはなりませんし。

さて、市とは。。。。。

《この語源説がのさばりすぎたために、市に対する私たちの認識に大きな曇りが生じた点さえあるように思う。不確かな語源から天下って考えるより、イチ(市)、ミチ(道)、マチ(町)等が語構成を同じうし、「チ」を共有している言語上の事実に注目することこそ肝心である。その「チ」はみな道に関連しているはずである》西郷信綱,1995『古代の声・増補』〔朝日新聞社

《中世の貴族などにの日記にしばしば見られる市と虹の関係を解くことにより一層明瞭となる。……虹の立つところには市を立てなければならないという強い考えをもち、この意識は平安時代から戦国時代まで一貫して継承された。……おそらくその源も古く原始社会にまでさかのぼるものであったことが予想される。またなぜ虹のたつところに市が立てられなくてはならないと考えられたかという問題も、一〇三〇年(長元三)七月、藤原頼道の家に虹が立った際、「世俗の説によりて売買のこと有り」(日本紀略)とあることから、虹の立つところでは人々は売買をおこなうべきで、そのために市が立てられなければならないという論理より成り立っていたことがわかる。そしてこの虹が立つところで交換が行われるべきであるという観念は、マリノフスキーが紹介したトロブリアンド諸島のクラとよばれる部族間の原始的交換儀式さい、呪術師により次のような虹を呼び出す呪詞が唱えられる事例からも、きわめて古いものであったことがわかる》勝俣鎮夫,1986 「売買・質入れと所有観念」『日本の社会史』第4巻(岩波書店

ここらあたりの知見を前提に、足下の木次、寺領、宇山を歩き、天が淵、三沢=三津を洗い直しつつ、古老の聞き書きにいそしみます。※「津」は「沢」の誤写ではない説(本居宣長等)と、をち水の線。さしずめ「ヤマタノオロチの経済学」(仮題)としておきますか。

ーーー

そうです。思い出しました。私がフォーカスしたかったのは「市」。

その前景のようなものとして2つ3つの要素が浮かび上がってこなくてはなりません。

A.山の神信仰……祖先崇拝あるいは超越存在への感受性

B.交易交流……若者たちが集う祭り

C.農耕の祭り……循環の節目としての

ま、要するに少し行き詰まっているので、ローカルから離れたところて、諸文献を渉猟しているのが現状。

白石昭臣『畑の民俗』を精読してまとめる作業をちょい集中して仕上げたいと思います。

神在祭りを調べるきっかけなどのメモ

facebookのノートにまとめていたのだが、編集のしづらさにしびれをきらし、移転することにした。

 

・きっかけ1)「6年続けて同じお客さんを案内していて、もう行くところがない。どこかない?」と聞かれたが、こたえる間がなかった。→例)神名火山(野)をめぐればどうでしょう。万九千神社の古地である斐伊川河川の中から仏教山を仰ぎみつつ、山麓の古社を訪れるということか。雲南市であれば神原神社。松江であれば大庭の神魂神社、雑賀の売豆神社紀神社、朝酌の多賀神社。それぞれ本殿ではなく、その周辺をあたるのがよろしいかと。出雲大社でも佐田神社でも神迎祭りの斎場は本殿ではない。むしろ関係を絶っているとでもみたほうが、おもしろくなります。

 

・きっかけ2)「江戸時代に大社の御師がひろめたデマだろうに」という方がいらしたが、これも、ちょっと一言はさむ間もなかった。→気持はわかりますけどね。江戸のベストセラー「広益俗説弁」にも「地元出雲では神有月なんてだれも言ってませんよ」と一刀両断ですものね。とはいえ、ほつれた糸をほぐすのは骨が折れます。まずは基本をおさらい。

 

1.神無月の語源

藤原清輔『奥義抄』〔1135〜44頃〕上「十月 神無月 天の下のもろもろの神、出雲国にゆきてこの国に神なき故に、かみなし月といふをあやまれり」

…………これを第一にとる場合が多いのであるが、ほかに以下あり。大日本国語辞典より

(2)諸社に祭のない月であるからか〔徒然草・白石先生紳書〕。

(3)陰神崩御の月であるから〔世諺問答・類聚名物考〕。

(4)カミナヅキ(雷無月)の意〔語意考・類聚名物考・年山紀聞〕。

(5)カミナヅキ(上無月)の義〔和爾雅・類聚名物考・滑稽雑談・北窓瑣談・古今要覧稿〕。

(6)カミナヅキ(神甞月)の義〔南留別志・黄昏随筆・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(7)新穀で酒を醸すことから、カミナシヅキ(醸成月)の義〔嚶々筆語・大言海〕。

(8)カリネヅキ(刈稲月)の義〔兎園小説外集〕。

(9)カはキハ(黄葉)の反。ミナは皆の意。黄葉皆月の義〔名語記〕。

(10)ナにはナ(無)の意はない。神ノ月の意〔万葉集類林・東雅〕。

(11)一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された〔霜及び霜月=折口信夫〕。

「陰神崩御の月」というのは、なかなかにおもしろく、クリスマスのルーツともかかわってくるところか。古事類苑の中では、もっとも字数をさいている説である。

 

◉1,056ページ冒頭部。ここをきちんとふまえておかないといけない。すなわち、

他国でも「神が村を出て行く」ということはいつの頃からかあったことだが、「出雲へ行く」ということになったのは、文献上では鎌倉時代以降のこと。地元出雲で「おいでになる」となったのは、昭和に入ってからか?

平安時代後期〜鎌倉時代……藤原清輔『奥義抄』の時代がほぼ初出といえるようだが、時代とともにふえる。出雲大社へ行くとはまったく出てこない。「出雲へ」である。

南北朝の中頃から……はじめて具体的な社名が出てくる。出雲大社ではなく佐太神社

 

・戦国時代に突如、「出雲大社へ行く」となる。。

参照『日本紀 神代抄』

 

・以降、佐太神社より出雲大社へという記述が多くなる。が、しかし、地元伝承は別。

さて、他国でどうであったかであるけれど、餅つきや村境での葬送儀礼があった。これについては、また改めて。

 

 

◉参考資料……大日本国語辞典【解説・用例】より

〔名〕(「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという)

陰暦一〇月のこと。かんなづき。かみなしづき。かみなかりづき。《季・冬》

万葉集〔8C後〕八・一五九〇「十月(かみなづき)しぐれにあへる黄葉(もみちば)の吹かば散りなむ風のまにまに〈大伴池主〉」

古今和歌集〔905〜914〕雑体・一〇一〇「きみがさすみかさの山のもみぢばのいろ かみな月しぐれの雨のそめるなりけり〈紀貫之〉」

蜻蛉日記〔974頃〕下・天祿三年「かみな月、例の年よりもしぐれがちなる心なり」

*曾丹集〔11C初か〕「なにごともゆきていのらんと思ひしを社(やしろ)はありてかみな月かな」

*色葉字類抄〔1177〜81〕「十月 カミナツキ」

*名語記〔1275〕一〇「十月をかみな月となづく、如何。これは、日本国の諸神たち、御まつりごとのために、出雲のいつきの宮へあつまり給て、都城には、かみいませずとて、公家にも御神事を、をこなはれざれば、神無月といふと、ふるく尺しをける也。この説、勿論歟」

徒然草〔1331頃〕二〇二「十月を神無月と云ひて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし」

*日葡辞書〔1603〜04〕「Caminazzuqi (カミナヅキ)。歌語。ジュウガチ」

 

 

ーー以上

変若水

和田萃の「出雲国造と変若水」をやっと入手しました。 これから読みますが、その前に、問題を整理しておきます。

変若水はヲチミズと訓み、石田英一郎の見解を次にひきましょう。

万葉集に見える変若水は渡来の神仙思想より古く列島に伝えられていた月の変若水の思想によるもので、次の中に水を汲む人間の形や菟の形をみることから生じたが、その根底には月の満ち欠けを人間の復活、若返りに結びつける考え方があった

そして、主題たる「出雲国造神賀詞」の一文がこれです。

彼方の古川岸、此方の古川岸に生い立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、すすぎ振るをどみの水の、いやをちに御をちまし

和田萃氏は要旨のなかで「この部分の詞章を変若水の事例とする解釈はほとんどないが、出雲国造が天皇に変若水を奉献したと理解しうる」と述べています。 「解釈がほとんどない」のは、出雲国造の奉献のことであって、変若水とする訓みは本居宣長、そして折口信夫の功績によるのでは?と素人は思っておりました。どうなんでしょ。当該本文を読んでみるに氷解。そのとおりでした。他に脱字(旧河道とすべきところが旧道)も見つけておりますので、校閲校正ミスでしょう。 ・をちは万葉集では変若なる字があてられていて、変若水の字もある。沖縄の古いシデ水の伝説に触発されて、おちみずと訓じたのは折口。 ・宣長は『出雲国造神寿後釈』の中で、ここに仁多郡三澤郷条にみえる変若水が含まれているとしている。→県立図書館の開架所蔵を確認したので、またの折にみてみます ・神仙思想が夢見るのは「不老不死」、そして変若水が夢見るのは「若返り」です。 ・変若水は月にあるもの、常世にあるもの、……遠くにあるものであったのですが、どこかで「この世」のとある場所に実在するものとして、語られはじめます。そのひとつが、三澤の水でだったと。  ……和田氏の論考中、「おろちの水を探せ」として気になるところの結論を抜き出しておきましょう。

斐伊川旧河道に残る自然堤防崖面の湧水を指す可能性があるだろう。出雲国造は神賀詞奏上に際して、三津池や刀研ぎ池ではなく、三澤郷内の斐伊川旧河道の三澤で禊したのである」

つづく。

初詣に斐伊神社と木次神社へ〜その1

 あけましておめでとうございます。
 今日は仕事はじめ。初詣からをふりかってみましょう。 大晦日はカフェオリゼの年越しで深夜まで仕事のお手伝い。元旦は朝遅くにめざめまして、お雑煮つくって食べました。午後に、大原郡の郡家跡に停めている車を動かして斐伊神社と来次神社へ初詣。
 斐伊神社(月の光)  斐伊神社wikipedia 
 自宅から徒歩3分のところに郡家があったという由緒ある土地であることに改めて感心します。表示もなにもおかれていないのですが、山と川に想像をめぐらせて千年の歴史へダイブしていけるような、気持ちよい場所です。
 さて、そこから車で1分のところにあるのが、斐伊神社。
 斐伊神社は遠い昔、樋(Hi)社と呼ばれ、大宮の氷川神社はこの樋社から分霊されたというのです。が、その時代は孝照天皇三年。神武天皇からかぞえて三代目の天皇にあたるのですが、歴史の闇にあって、年代すらさだかではありません。後代の作文の可能性もありますが、埼玉には出雲系の氏族の色が認められるだけに、そのルーツがここ斐伊であると言いつのることも、荒唐無稽ではない。

 

 祭神はスサノオ命として現在、祀られていますが、はて、かの時代には、いかがであったか。埼玉の大宮神社では、アラハバキ神がもともとの祭神であったという説もあります。アラハバキスサノオ、2神の系譜と関係をみてみるとこから交差するものをひろってみるとおもしろいのかもしれません。 …つづく。

天が淵の西岸の集落の雪景色

 今朝の雲南市木次町はふたたび雪。

 通勤途中の天が淵付近、国道314号脇に車をとめて、撮りました。

 斐伊川の西岸の集落です。確か地名は「川手」。
 天が淵にまつわる伝承について、神陵や神社や、淵の底がお寺の井戸(だったかな)とつながっているとか、そのような話はすべて東岸に由来地があります。

 そして、この写真に見える西岸にはまったくない。

 そのあたり、もう少し知りたいところです。なぜなのかを。

 

20141222天が淵

天が淵の今

 斐伊川の八岐大蛇伝説は右岸(東側)に著しく偏っているようです。左岸は皆無にひとしい。また、「伝説」とはいいますが、ルーツは曖昧でかつその言説をたどってみれば近年、「観光推進」の文脈から発しているものであり、ふわふわと軽いものに思えます。
 ひとつひとつのルーツには興味をそそられるものもあります。パワースポット狂想曲や、ご縁の国などという言葉に惑わされることなく、足をはこんでみられたし。

 群書類従の神祇部におさめられた『雲州樋河上天淵記』に由来する天が淵周辺は、もう少し文字の記録などあってもよさそうです。これは宿題。

 また、天が淵の他に、オロチ伝承を表している地について、参照できるサイトをあげておきます。
    *1 追記改訂済み。初稿時から7年ほどが経過して、随分と充実している。

◆印瀬の壺神・八口神社

…現在壺神を祀る地は八口神社の境内となっているが、この神社と壺神との関係は明確ではない(壺神と神社とでは例大祭の日取りも全く異なるため関連性は薄いと考えられる)。旧6月晦日の夕刻には、壺神祭として8本の幣と8品の供物を献上する習わしが続けられている。

・出雲の伝承/印瀬の壺神・八口神社(島根・雲南市)

 …いま地元では、小中学校の生徒に地元に残る伝承などを教えているそうで、当地も伝承地の一つとして、道路・駐車場の整備などが行われている。*注)写真を前掲「日本伝承大鑑」が掲載しているものと比較してみると整備ぶりが明らか。

…壺に触れた途端、天はかき曇り、山は鳴動して止まず、八本の幣と八品の供物を献じて神に祈ったところ、ようやく鎮まった。それ以来再び壺に触れることが無いように、多くの石で壺を覆い、玉垣で囲み、しめ縄をめぐらした。

 

◆八本杉、斐伊神社

・出雲の伝承/八本杉

低い木柵に囲まれた中に8本の杉の木が聳え、その中央に「神代□(神か)蹟 八本杉」と刻した自然石の碑が立っている(大正6年建立)

 

 天が淵は雲南市の公園にもなっていて、訪問者もあるし、「行きたい」とおっしゃる方も多いのです。10月末に行ったときの写真がこちら。通勤路として毎日そばを通っておりますが、車をとめておりてみるのは久しぶりでした。

 

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 ずいぶんと漂着物が多いです。また流されていくべきものなのか、清掃すべきものなのか。目の前にあるものくらいは拾っておこうと思います。

 

関連記事

天が淵へ至る道 序 – 樟の森の研究室

 

*1 追記改訂…元記事を以下に残す。リンク切れ。

 ・印瀬の壺神、八口神社 ・八本杉、斐伊神社  どういう伝承地があるかについては、雲南市の観光情報サイトが複数あるのですがそのひとつを。

 ・ヤマタノオロチ伝説/うんなん旅ネット  そして、個人で地図におとされている方がこちら ・ヤマタノオロチ伝説伝承地 

居去神社

 奥出雲町上三所に座す。
 スガヒ山の北麓。スガヒ山の頂に祀られていた神霊が分祀され、ここにひとつ。あともう2つはいま失念。また調べて補足しよう。
 中世の国人領主、三沢氏が山城を設けるに際して、里へ下ろされたような記録が残っている。
 現在、その山は城山と呼ばれている。頂上には電波塔がたち、車で登れる道がついているらしい。秋晴れの日に行ってみようぞな、もし。

久多見神社のこと

 尾原ダムから松江へ向かう際には、忌部をいつも通るのですが、いかなる地なのかが気になっていました。松江の郊外にあたり、上水道の水源地でもあり、また一方で拡大した竹林や耕作放棄地が幹線道から垣間見えていてのこと。

 そんな折、久多見神社のことを知りました。玄小子のHPによれば、「式内社調査報告」に次の記述があるのです。

「明治四十四年悲劇の合祀後、大正十二年平口部落民十五世帯は、山林を拓き、残っていた社殿を地引し、奉斎した」

 悲劇の合祀です。

 あぁ、いったい何があったのでしょう。明治44年から大正12年の間、15世帯という小さな集落が共有した物語を知りたくて、県立図書館で忌部村史(復刻)を閲覧しましたが、斯様な記載はありません。雪のふるある日にそばまで行ってみました。

 春が来たら、参詣して、昔日を問うてみたいです。

 文献については、U氏に一度きいてみましょうかな。

 あわせて、概論としてこちらを閲読すべきかな。

「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈」安西水丸著 岩波新書 1971年