山あがり雑感その1

山あがりについて。テーマを絞り込みたいのですが、どこにというところで、足踏みしています。4月12日の取材メモをと思っているのですが、そこですね、問題は。

4月2日にfacebookに書き記したことを再掲してみます。

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わたしは、その目の前の桜より、木次の山あがりが気になってしょうがなく、縁側の机に伏して、あれこれ文献をめくっておるのですが、そこらのお話を、ひとつ。

山あがり(のぼりではなく、あがりというのがみそ)あるいは大山まつりと呼ばれるものがあります。昭和40年代にはついえたものだとばかり思っておりましたら、つい先日、86歳の方から、いまでも毎年4月24日にやっているよと聞き、驚きました。「のやま」(野山=入会地)のいちばん髙いところに祀った大山さんの祭りであり、牛を連れてあがりごちそうをたべたといいます。春に山にのぼる習俗は日本各地にあばかんほどありますが、大山さん=地蔵信仰との習合で残存した古代の春の市の姿でしょう。場所を教えてもらいましたので、写真であげておきます。大山智明大権現とあります。

さてはて問題は、ここでフォーカスすべきは、祭祀でも民俗でもないということ。市の本質とは何か、来たるべき経済とはどんなものであるのか。わたしく、この春からそこらにせまっていきます。その先で熊子も竹も紙も亀カラも焼畑も待っているはずなので。あ、私こと、去る3月末日をもちまして特定非営利活動法人さくらおろち事務局長の職を卒業いたしました。ただ、ウェブ上でみるぶんには、やっていることはあまり変わらないと思います。来週頭には1日4時間以内で焼畑の事業申請書類をあげなくてはなりませんし。

さて、市とは。。。。。

《この語源説がのさばりすぎたために、市に対する私たちの認識に大きな曇りが生じた点さえあるように思う。不確かな語源から天下って考えるより、イチ(市)、ミチ(道)、マチ(町)等が語構成を同じうし、「チ」を共有している言語上の事実に注目することこそ肝心である。その「チ」はみな道に関連しているはずである》西郷信綱,1995『古代の声・増補』〔朝日新聞社

《中世の貴族などにの日記にしばしば見られる市と虹の関係を解くことにより一層明瞭となる。……虹の立つところには市を立てなければならないという強い考えをもち、この意識は平安時代から戦国時代まで一貫して継承された。……おそらくその源も古く原始社会にまでさかのぼるものであったことが予想される。またなぜ虹のたつところに市が立てられなくてはならないと考えられたかという問題も、一〇三〇年(長元三)七月、藤原頼道の家に虹が立った際、「世俗の説によりて売買のこと有り」(日本紀略)とあることから、虹の立つところでは人々は売買をおこなうべきで、そのために市が立てられなければならないという論理より成り立っていたことがわかる。そしてこの虹が立つところで交換が行われるべきであるという観念は、マリノフスキーが紹介したトロブリアンド諸島のクラとよばれる部族間の原始的交換儀式さい、呪術師により次のような虹を呼び出す呪詞が唱えられる事例からも、きわめて古いものであったことがわかる》勝俣鎮夫,1986 「売買・質入れと所有観念」『日本の社会史』第4巻(岩波書店

ここらあたりの知見を前提に、足下の木次、寺領、宇山を歩き、天が淵、三沢=三津を洗い直しつつ、古老の聞き書きにいそしみます。※「津」は「沢」の誤写ではない説(本居宣長等)と、をち水の線。さしずめ「ヤマタノオロチの経済学」(仮題)としておきますか。

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そうです。思い出しました。私がフォーカスしたかったのは「市」。

その前景のようなものとして2つ3つの要素が浮かび上がってこなくてはなりません。

A.山の神信仰……祖先崇拝あるいは超越存在への感受性

B.交易交流……若者たちが集う祭り

C.農耕の祭り……循環の節目としての

ま、要するに少し行き詰まっているので、ローカルから離れたところて、諸文献を渉猟しているのが現状。

白石昭臣『畑の民俗』を精読してまとめる作業をちょい集中して仕上げたいと思います。

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