年取りのタカキビ餅

 タカキビ餅の仕込み~平成30年12月のその後。
 タカキビは最終的に4合ほどを調製し、昨年のもの半合ほどを材料に。
 うち今年のもの2合ほどはミキサーにかけてひき割りに。4分の3ほどが割れたと思う。粉状になったものは今回は使わず。半合弱ほどか。
 よって、というか、つまりというか、材料は以下となった。製法とあわせて記す。

【材料】
・モチ米…一升6合。仁多のモチ米。無肥料減農薬栽培と聞く縁故米的なもの。
・タカキビ…計4合。2合が今年の粒。3合半が今年の挽き割りと粒のミックス(割合は5:1か)。半合ほどが昨年の粒。
・水…700cc弱
【製法】
●下準備
・タカキビは2日半ほど水につけておいた。1日おきに水かえ。早めに腐敗っぽい膜が浮いてきた。昨年はこうではなかった。成育不十分なまま収穫したため、表面が白っぽい。もっと紅茶のような色に染まっている状態ならばこうはならないのではと思われた。ただそれがゆえに水につけるのが3日弱でもよかったのだろう。通常7日つけると、参考にした匹見の聞き書きにはあった。昨年は5日つけている。
・モチ米は通常どおり前日に水につけておき、朝方ざるにあけたもの
・昨年はモチアワも含めていた。今年は不作のため混入せず。
●搗き
タイガーの餅つき機を使用。「蒸す→搗く&こねる」。
雑穀を搗くときには上に軽いものをおいてこねてから搗くというが、餅つき機の場合は関係ないだろう……とはいえ、下にモチ米、上にタカキビをおいて蒸し始めた。より強く蒸されるのが鍋の下部であるならば、逆あるいはタカキビを挟むほうがよいのかもしれない。来年はそうしてみよう。
蒸し終わりまでは2升で40分〜50分ほどだろうか。蒸しきったところで機械が教えてくれる。それから搗き、捏ねに入る。10分ほど。
●丸餅に
打ち粉として売られている米粉と片栗粉を8対2くらいに混ぜたものを打ち粉として使用。2升分でおよそ80ほどをつくった。
【味見】
昨年よりもタカキビの割合が多く、より美味しくなった、つまりタカキビ餅らしくなったと思う。搗きたてをほおばってみたときの、つぶつぶを噛む食感とねばりと香ばしさのバランスがなんともよい。自画自賛
そして、お配りした方からの感想で「思ったよりねばりがあっておいしかった」と。そういえばつきたてのモチを取り出すときにも、「のびるね〜」という声があった。なぜモチ米だけのものよりのびがあるのかといえば、質の異なるタカキビのモチ性が影響しているのでは。次回食べて気づくことがあれば、追記することとしよう。

タカキビ餅の仕込み〜平成30年12月

 我が家の年取り餅に使うタカキビの仕込みは夜なべ仕事。トーミで選別すれば早いのだが、いかんせん雨が続いて出番待ちする間にせっぱつまってしまったのだ。ゆえに夜なべ。昼に小さな土間の勝手で脱穀をはじめた。先ごろ手に入れた足踏み脱穀機でやってみたかった。これも雨のせいにしておく。
 風選は夜。勝手口のドアをあけ、ボウルに小分けしたキビを暗闇に向かってふーふー吹き、殻やゴミをとっていく。
 最初のうち、脱ぷ(殻をとること)は、すりこぎでやっていた。これも先ごろ購入した循環式精米機の出番のはずなのだが、こちらはまだ一度も試運転していないので、せっぱつまった状況では使えない。で、1合ほどを進めたところで、家庭用精米機を使うことにした。以前使ったときには、粒がくだけてしまい、大変歩留まりが悪く、もったないことになった。すりこぎを使うのは「もったいない」からだが、もちに使うぶんにはよいのではと考え直した次第。
 結果、コツのようなものを会得できた。
 くだける手前でとめる。そんな当たり前のことなのだが、見ていて、荒かった殻の粒子がすーっと細かくなるポイントでとめる。忘れてしまいそう。だから、こうやって書き留めるのだ。
 あの感じ、忘れぬよう。

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 さて、搗く日は30日の午前。1週間は水につけておかねばならぬと自分でも書いていたのだが(タカキビ餅のぜんざい)、はや4日しかない。ま、いろいろ考えてやる。  畑もちを搗く〜その2  では、出来上がったときにまた。

ウバユリ備忘

ウバユリのことをまとめておこうと書き記すもの。
記憶が散逸する前に、下書き段階からアップしはじめる。

◉宮本巌『摘み草手帖』
《早春、山野の藪や暗い谷間をのぞくと、色つやのよい放射状をした数枚の葉があちこちで顔を出している。この威勢のよい葉を見る限り、ウバユリの名は当たらない》
この名文ともいえる描写と簡潔なイラストが素晴らしい。なにが名文かって、植物の種類がとんとわからない私でさえ、この一文だけ読んでいた記憶が山の中でよみがえって、「これ、ウバユリじゃないか」と発見することが容易にできたこと。
そして、この記事があったからこそ、食べてみることを躊躇なく試みたわけだ。
油で揚げて、ほくほくのものを食した。

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◉日原町史の記述
のちほど。
地域名が記されていた。牛が食べたとも。人間は根を葛根と同様食用にしたと。

○今年になってからの観察(写真)
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○奥出雲町阿井の山中にてみたもの

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○椎葉クニ子
オスとメスが年によって交互にでる。
オスは茎をのばして花を咲かせるが、メスは茎を伸ばさない。根を食べるのはメスのみだと。これはどこにもそう書かれていたのをみたことがない。

○牧野富太郎の著述
のちほど。

ずんべらはチガヤのことなのか〜食べる草

 春がきた。「春は喰える草の季節」とは清少納言枕草子ではなく、川上卓也の『貧乏神髄』の名句であるが、心して迎えたい。平成も終わろうかという時代、子どもたちに草を食べる楽しみを伝えていきたいものだ。

 草を食べるといえば、野山の果実であれ草であれ「あれをたべた、こんなものをたべた」と語る女性は一様に美食家である。母親に教えられた、兄に教えられた、おじいさんに教わった…、その伝承のかたちはさまざまなれど。さもありなん。酸いも甘いも辛いも苦いも、化学調味のそれではなく、野生のそれを幼少の頃に摂取した体験がタネとなり、長じてなにが美味しいものなのかを分別する力能をしっかり保持する人となるのである。

 さて、一昨日に聞いた幼少の頃に食べた草の話。
 広島出身で松江在住のその女性は、思いつくままに3つをあげられた。備忘にのせておく。

 

◉ずんべら

「白い穂が出て甘い」

 チガヤであろう。しかるに、ずんべらと呼ぶというのははじめて聞いた。八坂書房『日本植物方言集成』をのちほど要確認であるが、手元でひける小学館の『日本方言大辞典』にある「すいば」「ずんばら」のバリエーションか。以下に全方言をあげておく。

《あまかや/あまた/あまちか/あまちこ/あまちゃ/あまちゅー/あまね/あまみ/あまめ/おーの/おなごがや/おばな/かにすかし/かや/かやご/かやぼ/こーじ/ささね/ささみ/ささみぐさ/ささめ/しば/しばはな/しばめ/じょーめぐさ/しらがや/しろつばな/すいすい/すいば/ずいば/ずいぼー/ずば/ずばな/ずぶな/ずぼ/すぼー/ずぼー/ずぼーな/ずぼーなー/ずぼな/ずむな/ずわ/すんば/ずんば/ずんばい/ずんばら/ずんばらこ/ずんぼ/ずんぼー/ずんぼな/ぜにこ/ちぐさ/ちぶく/つあのみ/つぃばな/ついばな/つば/つばくろ/つばころ/つばなこ/つばね/つばねこ/つばのこ/つばめ/つばんこ/つばんこー/つぶな/つぼ/つぼー/つぼーばな/つぼな/つぼみ/つんつんば/つんつんばな/つんば/つんばな/つんばね/つんばら/つんぼ/つんぼー/つんぼば/とまがや/とまぐさ/とますげ/とわば/なつし/のぎ のとと/のぶし/のぼし/のぼせ/のまぎ/ぴーぴーくさ/ひがや/ひるぬき/へびしば/まかや/まがや/まくさ/まはや/まひや/みのかや/みのがや/みのくさ/みのげ/めがや/めんがや/やまわら/わらいぐさ》

◉たきんぽ
「竹に似ている」
これはイタドリだろうと思う。

◉名称不明 赤い茎 すっぱい
筋をとって食べるという。たきんぽと同じ?

タカキビ餅のぜんざい

 うまし。

 タカキビ餅と名乗っているものの、原料の8割5分ほどは餅米である。若干のモチアワも含まれている。1割2分ほどだろうかタカキビの入っている割合は。されど、しっかりとタカキビらしい味わいというか野性味というか深みというかそんなものがある。

 タカキビは今年の焼畑で収穫したもの。ミキサーで軽く挽き割って使っているが、粒のままのものが6〜7割はあるだろう。つきたてのときはほんのり紅がさしたようなきれいな色を出していた。

 タカキビ10割でつくのであれば、粉状にまで挽き割って、搗くといううよりはこねるのではなかろうか。以前、つくりかたは記したので繰り返しになるが、タカキビは水にひたすこと1週間、水は最初は毎日かえるのがよい。温度があがりすぎると腐敗するので、冬期なら土間など冷えたところに静置すること。

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 さて、小豆である。

 これは、自然栽培の小豆なのだ。

 じつは小豆を作らないかという話があって、種子もくれるし、栽培法も指導してくれるのだと。虫がつきやすいので駆除するための農薬はいろいろあるらしい。

 新しく土地を借りるのであれば、まずは雑穀でならして、土のバランスがとれたところで豆類だろうなあと考える。放棄地であっても火はいれてスタートしたい。小さな納屋がそばにあればなおよし。竹がはびこってしまった山もあるとよい。

 そんなことを、食べながら考えていたのだった。

 

牛乳からバターをつくる

 When was the last time you made your own butter?

 あなたが、最後に自分でバターをつくったのはいつのことですか?

 

 大変興味深い台詞なのだ、これは。

 ”バターづくり体験”は、日本でもありふれたものになりつつあって、子供あるいは親子で体験するものとして、ひろく知られてもいる。そのルーツが知りたいと思い、調べてみたのだが、いまひとつわからないのだ。

 どうしたもんじゃろのおー、と投げやり気分でぼんやりとウェブの画面をながめていたら、冒頭の英文が飛び込んできて、はたと何かがひらめいたのだ。

 おそらくという括弧づきではあるが、いえるのはこういうことだろう。

◉バターづくり体験はどこからきたのか

1. ありがちな話であるが、欧米からの輸入。ウェブの検索に限るがアメリカ生まれかと思われる。冒頭の英文も、幼稚園の頃、先生からミルクをわけられて、みんなで瓶を振った記憶が……と続く。また、アメリカの民俗資料動画のなかに、チャーンでバターをつくっている子供の姿があった。

2. ヨーロッパにはない文化かもしらん。バターをホームメイドでつくるというのは。乳製品の代表はバターではなくチーズ。しかもアルプス以北に限られる。むしろバターをよく使うのはインドの食文化ではないか、と。

3. 牛乳をたくさん飲むというのはアメリカの食文化では(だと思う)? ガロン単位で売られていて、添加されるものも含めていくつもの種類があり、大きな冷蔵庫があり、という土台があってこそか。

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 そもそも。

 こうしたことを考えてみたのは、去る半年ほど前に、サンデーマーケット・チーボで、このバターづくり体験をやったことに由来することだ。

 そもそも。

 参加者のひとりが言われた。

「クリームからつくるものだと思っていた。牛乳からとあるので変だなあとは思ったが」。

 そう。ふつうは生クリームからつくる。理由は「それがふつう。工場でつくる場合の手順も、手作りの場合でもそう」ということと、「そのほうが早くてかんたん。牛乳からつくることに比べたら」という2点。

 じゃあ、なぜ生クリームを使わなかったのか。その理由は3つだ。

理由1)ダムの見える牧場での活動をプレゼンする場でもあるのに、大山蒜山高原のクリームは使えないだろう。ただ自前の生クリームはない。集荷され他の牧場の乳も入ったものも可だろうとした場合には、木次乳業で販売されている生クリームが12月限定であることから、それは不可能。

理由2)以下にも記載するが、木次乳業のノンホモ牛乳から生クリームに近いものを取り出すことはそれほど難しくはない。しかし、気温もまだ高い9月の時期に、開封した牛乳をもとに原材料をつくり、それを持ち込むというのは、注意を払ったとしても少々こわい。マーケットという場ではなく、たとえばカフェ・オリゼでやるのなら、理由2がクリアーできて、やれただろう。

理由3)上記のふたつが消極的理由であるが、3つめは積極的理由だ。

 牛乳からバターをつくるということ。それは手間のかかること。手間がかかるということはなんなのか。食べることに手間をかけないでどうするんだという、そういう主張を込めたかったのだ。

 ホームメイドDIY方式で、牛乳からクリームを取り出すのに手間はいらない。冷蔵庫に1〜2日静置するのみ。なにが起こっているのかを時の経過とともに見て知って感じなければ、この意味はない。

まあ、それくらいはやろうよということでもある。さらに一歩進むのなら、牛の乳を搾って飲むというのもいいだろうし、その絞った乳を原料にバターをつくるのならさらにいい。

 乳搾りは体験として実践するならば、一瞬でしかない。

 そういうものは体験とはなりえない。

(つづく)

醤油の歴史雑考〜旧松江藩領・温泉村の安永十年(1781)

 温泉村(現雲南市)の安永10年(1781)の検地に際して、村三役が役人を接待した記録の一部をみるに、「大根牛蒡など、醤油にて煮〆をつくりもてなしたる」とある。「醤油にて」つくる煮しめがもてなし料理であるなら、醤油をつかわない煮しめがあったということだろうか。

 瀬川清子『食生活の歴史』には、「醤油の自家製造は非常に新しい流行で、味噌のたまりをとって使用した時代を入れても、ここ二、三世紀をさかのぼれない」とある。

 藩政時代から醤油の自家製造は許可制だったというのだが、そこで制限されている「醤油」と、タマリ、スマシと呼ばれた、味噌からとるものやなんやとはちがうわけだろうし、どうもいろいろごっちゃになっててようわからん。

 とはいえ、明治はじめの島根県の場合、醤油の自家製造の制限とは「1年一人につき七升ずつであった」というから、けっこうな量である。

 こんなことを思い出し、記してみたのにはわけがある。

「醤油絞り機、いりませんか?」

 先日、そんな電話がかかってきた。解体する家から出てきたという。古いものらしいが、100年はたっていないだろうと思われる。

……

 もらって、どうする?

 そりゃ、つくるさ、醤油を。

 えええ、どうやって?

 つくりたい人が現れたのさ、これは何かの縁だよ。

……

 さて、どうなりますか。

 下のは、2年前、とある醤油屋さんの蔵を特別に(本当に)見学させていただいた折の写真です。

 多種の膨大な菌が共生したある種の平衡状態、プラトーとでも呼ぶべき状態にあるらしい。

 少々の雑菌、たとえば大腸菌が入ってきたとしても、殲滅されてしまうのだという。

 近代以降の滅菌・殺菌の方法とは異なるやり方、というよりも思想ではないか。生命の思想ともいえよう。そうした話をふまえて、社長さんは、ここはひとつの宇宙だと言っておられた。

 醤油蔵はひとつの宇宙。

 しかし、ここ数十年の間、目の前で次々と消滅していくのをみてきたという。

 なんともやるせない。

味噌をつくる前に~#2

 味噌づくりの主役はカビである。

 一口にカビといっても確か数万種におよぶ。広大な世界がミクロの次元にひらかれている。その膨大なカビ世界のなかのひとつの種類が、味噌をつくってくれる。名前もきちんとある。学名をアスペルギルス・オリゼという。Aspergillus oryzaeと綴るラテン語読みだと、オリゼではなくオリザエなのだが、英語読みのオリゼーが、ことこの菌に限っては一般的だ、国内では。

 それというのも、石川雅之の漫画『もやしもん』の貢献による。アニメ化、ドラマ化もされ、一躍スターダムにあがったカビの中のカビ。スターといってもいいだろう。

 一般には麹菌(コウジキン)と呼ぶことが多いこのカビ、パンやごはんの上にできていることもある、ありふれた菌なのだが、なにがこの菌をして、人をひきつけてきたのか。

 種として同定されたのは明治時代に入ってからなのだが、菌そのものの存在は古く知られ、その起源、すなわち人による利用は少なくとも室町時代にまでさかのぼれるようだ。コウジキンの利用という観点からすれば、さらにルーツを奈良時代弥生時代にまで求めることもできる。

 よく引かれる例として、播磨国風土記にある酒造りの記述がある。奈良時代播磨国とは、江戸時代における播州で、平成の現代では兵庫県南西部にあたる地域。そこに宍禾郡(しさわのこおり)庭音村というところがかつてあり、こういう記述が残っている。

《大神の御粮(みかれい)沾(ぬ)れてかび生えき

 すなわち酒を醸さしめて

 庭酒(にわき)を献(たてまつ)りて宴 (うたげ)しき》

 

 神にお供えした、乾燥ご飯がぬれてしまって、カビがはえてしまった。だったらと、そのカビで酒を醸造しあらためて神に献上し、宴を開いたのだった。

 いまでも、日本酒をつくる原理はこの当時と基本的にはかわならい。コウジキンを使って発酵させる。コウジキンは味噌、醤油の醸造にも使われてきた。

 そんな日本人に欠かせない菌ともいえるコウジキンだが、かつて猛毒を生成する可能性があるという疑いがもたれたことがある。アスペルギリス・オリゼは、ながらくアスペルギリス・フラバスのひとつという分類をされてきた。で、このフラバス、天然では最強ともいわれる毒を生成する。オリゼにもどうやら同じ能力があるようだ。

 この嫌疑に日本の醸造業界は震撼した。これをきっかけにオリゼの研究がすすみ、2006年には全遺伝子配列が解明、嫌疑ははれた。ちょっとわかりにくいのであるが、たしかにオリゼにも毒を生成す遺伝子をもっているのだが、それを働かせないようにする機構が幾重にもしかけられているということだ。

 また、この研究の副産物として、オリゼという菌の精妙にして不思議な特性が明らかになってきた。いや、こんな素晴らしい菌がどうやってできたのだと。

 学会で「国菌」に指定すべきだという声があがり、いまや他の4種とともに日本の国菌として褒称されている。

 そして、室町時代にはじまったことが絵図などから確認されている、このオリゼを培養して売るという仕事、種麹屋。顕微鏡もなく、自然科学も未発達の時代にあって、現代の遺伝子操作顔負けのことをやってのけていたわけで、「世界最古のバイオビジネス」という呼ばれ方をするようにもなった。

 そう。味噌をつくるということは、千年をこえて培われてきたものに、加わるということでもあるのだ。

味噌をつくる前に〜#1

 今年は毎年味噌をつくっている妻を手伝って、…というより自分でもつくれるように見て聞いて手を動かしてみようと思い、少し考えたことを記してみる。

●味噌をつくってみようと思うその心は

・山の畑で大豆をつくり、味噌をつくる……仲間が5人くらい集まるといいななどとも。焼畑倶楽部の会員募集にも資するだろうということ。焼畑というと「焼く」ことにフォーカスされてしまい、畑で作物をつくるのだということを「忘れ」ている方が大変に多いのだ。だから、焼くのはともかく、つくることに関心をもってもらいたいなというその試みでもある。焼いた場所は当然のことながら、2年3年と作物をつくったあとでも、大豆など豆科作物は栽培できるし、むしろそのほうがよく育つ。「奥出雲山村塾」のフィールドでもそこは実証済みであるし、留意点もわかってきた。ただ、草を刈ること・柵をつくること、この手間がひとりでやるにはきつすぎるのだ。だから、仲間でやりたい。そういうことだ。 
 そして山の畑で収穫した大豆を味噌にすることがよいのは、味噌には味噌汁という素晴らしい食し方があるからだ。雑穀は現代の食生活にあわせるための工夫なり知恵・情報が必要だが、味噌汁は、いい意味でも簡単にだれでもつくれる。
 また、大豆は雑穀よりも収穫後の調製の手間がいらない。籾摺りや精白、そして商品として売ろうとおもえば、石抜きも必要になる、その労力がかからないことは大きなメリットだ。相反する面としては、虫に食われやすいということ、長期保存がきかないということくらいか。

・おからで、味噌をつくる……小さな豆腐工房でパート勤めをしていると、毎日大量のおからが出るのを目にする。あぁ、これ全部食べられるものなのになあと。味噌にはできるだろうしすでに商品もある。しかし、おいしさやそのお手軽感が何か違う気もする。どういうおから味噌だったらいいのだろうと。まずはふつうの味噌をしっかりつくってみないと、と。
このふたつを背景にしつつ、思いだけは膨らむのだが、さてどうなることか。ここで「続く」となってもよいのだが、味噌のことをもう少し書いてみる。

●味噌づくりが家の当たり前の仕事だった時代 …味噌はそれぞれの家でつくるのが当たり前だった100年ほど前のことを私たちはどれだけ知っているのだろうか。私たちは、味噌や醤油は買う方が立派な家であるという転換が起こった世代の話をまだ聞くことができる。それは変化どころの騒ぎではなく革命ともいえるできごとである。たとえば雲南市の旧中野村ではおよそ60年前に起こったようだ(調査中)。
 他の日本の農村でもおよそ「買い味噌」は家の恥とされていたと、多くの民俗資料や文献で見ることができる。一家の食料を管理できない、基本的技術である味噌づくりに失敗した、つまりはどんなに貧窮していようと味噌の確保は当然のことであったということ。
 もっとも、味噌が買えるようになった時代になってはじめて「恥」となったわけだし、実際「買う」場合もあったからのことだろうから、比較的短い時代の間の価値観なのかもしれない。

●三年味噌の本来の価値〜おから味噌の方向を探る
 
ここで想像してみたいのは、味噌づくりに必要な計画性というものだろう。各家庭で1年に使う味噌の量は、多少の変動はあるにせよ一定だったろうし、前の年につくった量と同じだけを仕込めばよいともいえ、そこに計算や計画が入り込む余地は少ないようにも思える。
 が、しかし、それは味噌の原料である豆や麦や麹や塩がいつも必要なだけ入手できる現代に生きていればこその想像なのだ。
 ところで、三年味噌とは、いまでは3年間じっくり熟成発酵させてつくられ、2年3年と歳を重ねることで、深みのある芳旨味とコクが生まれる、上等なもの高級なものとして喧伝されている。が、元々の語義としては、三年味噌を食べるように心がけるべきで若い味噌には手をつけないことから使われるものだ。すなわち「古い味噌」の代名詞だった。
 昔から飢饉は3年続くものだった。それを乗り越えて存続するためには、3年の食料備蓄が必要最低限の備えとして戒められていたのだ。味噌・塩・穀類のストックはつねに2〜3年ぶんを保持してはじめて「一家」といえた。
 麦の糠や籾も混じったものも味噌(ぬかみそ)にしたように、熟成が籾屑の分解(とまではいかないまでも食感を柔軟にはしたのでは)をすすめ、食べやすいものにもしただろう。
 おから味噌づくりのレシピをみると豆乳をいれるものが多いのだが、豆腐づくりの場にいるものとしては、それは本末転倒というか、なんでーと思うのだ。分離したものをなんでいっしょにするかというと、それって作り手の手間をはぶいているだけじゃないかと思う。そこまでお手軽にしていいのかと、罪悪感すら感じてしまう。
 だから、豆乳はいれない。それが自然だと思う。
 おからだけの味噌だと、微量ミネラル等に欠け、風味は落ちるかもしれない。味噌汁ではなくなめ味噌、あるいは糠味噌のような使い方がよいのではなかろうか。あるいは雑穀を精白・選別する際に出てしまう籾屑をまぜてみるか。
 まあ、そんなことを考えてみた。
(つづく)
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【参考】 高取正男,昭和51「生活学事始め」(『高取正男著作集4・生活学のすすめ』法蔵館所収)

かち栗飯が美味しかった

 1月8日は、カフェ・オリゼのお手伝い。木次チェリヴァホールで開催の演劇カーニバル&マルシェカーニバルへの出店をサポートしました。

 そのマルシェでお隣だった金山要害山保存会が出しておられたのが、戦さ勝ち栗飯。

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 これが美味しかったのであります。

 まずはこの竹皮がただものではない感があります。まさか自分たちのところで採って乾燥させてのばして、、、という皮じゃないでしょうね。それを確かめたかったのですが、気がついたら撤収されていました。さすが戦上手。

 竹皮についていえば、これ、マダケだとは思うのですが、皮が大きい。これほどのマダケの皮がまだとれるのでしょうか。手入れされた竹林でないと、これはないだろうというほどの上物です。あるいはこれだけ東アジアのどこかからの輸入物なのか。結んだ竹皮のひももいかしています。イラストもデザインも自分たちでつくったものだというアイデンティティを伝えてくれます。外面と中身が乖離したデザインが跋扈する中にあっては、信頼感・安心感があります。

 そして、なにより中身なのであります。これがよかった。

 なんといってもうまい。

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 人工甘味、旨味の類いがありません。塩が必要最低限。栗のほのかなうまみとおこわのおいしさで十分。色づけに使われている黒米のコクのようなものさえ感じられます(気のせいかもしれないが)。よかったよかった。また食べたい。そう思える久々の”新”郷土食でした。

 そう、郷土食ではないのです。新郷土食。要害山保存会らしい戦にちなんだ何かを編み出すべく、自分たちで考えてつくったのだという気概が感じられます。だから「新」。しかるに、この新こそが真の意味でも郷土性をつくりあげていく可能性をもっているのです、今の世にあっては。

 惜しむらくは、この栗、かちぐりではありません。

 勝ち栗とは元来、搗ち栗(かちぐり)をもじったものですが、私がおいしいさに感激しながら、食べたのはふつうの栗でした。冷凍保存されたものを使っておられるのだと思います。

 が、そういう私、かちぐりを食べたことはない!のです。すみません。

 かちぐりとは。。。。

 ひとことでいえば、干した栗です。干して搗いて、殻・甘皮をむいた栗のことを搗ち栗と呼ぶことは和漢三才図会にもあります。そしてこの干して熱を加えて皮をむいて保存するという方法は、古来・縄文時代から数千年にわたって、日本に住む人々が栗を食べてきた歴史とともにあったものです。

 保存・携行性にすぐれ、乾し飯とともに、かじってよし、水にひたして食べてもよし、炊飯してもよしという優れものでしたので、武士団にもよく採用され、また「勝ち」と「搗ち」の同音から武運を呼ぶものとして重宝されたものなのでしょう。

 木次駅前の狼煙(のろし)あげは観るチャンスを逸しましたが、なにかの折にまた、このかち栗飯を食べてみたいですし、搗ち栗を使った勝ち栗飯をつくれるように精進していきましょうぞ。