「いまでもあそこでは草刈りの後の直会ではひとり豆腐一丁は必ず出すんだそうよ」
「あー、うちもつい最近まではそうだったみたいだよ。さすがに夏の暑い時期に、豆腐一丁はようたべんということでやめになったらしいけど」
今日の茶飲話より。
豆腐はハレの日の食であったことを知らない人もふえてきました。私自身、小さな頃から豆腐は日常の食事でありました。ここ島根県は雲南地域に越してきてから、ハレの日の食として豆腐があったことを知ったのです、遅ればせながら。そして、とりわけこの地域では豆腐をよく食べるし、木綿豆腐の割合が大変に高い。かつてそれぞれの家でつくっていた豆腐の名残が、そういうことをしなくなってからも色濃く残っているからなのでしょう。
そういえばこんな話も80歳を超えたおばあちゃんから聞いたのでした。
「味噌も醤油もつくらんし、こんにゃくもつくらん。豆腐くらいは今でもつくるけど」
全国的にみれば……、どうだろう、味噌をつくる家庭よりははるかに少ないと思いますが。こんにゃくとはいい勝負なくらいでしょうか。一度、可能であれば、悉皆調査をしてみたいものです。漬物や梅干しなどとあわせて。
そして、冒頭にあげた話がでたときに、漂っていた疑問にひとつにちょっとした仮説を出してみたので、今日、はなはだ不備不完全ながら備忘的にあげてみるのです。
《木次ではなぜ豆腐をハレの食とする文化が今に至るまで残存しているのか》
豆腐づくり必要なものを3つあげてみます。
・大豆
・にがり
・石臼(碾き臼)
大豆は日本の食にとってなくてはならないものですし、どこでも栽培できるものですが、牛を飼っていたこの地域では、かなりの量を生産していたのではないかと思います。そう。ここで第1仮説です。
牛の放牧地で栽培するものとして、最後まで残っていたのが大豆なのではないか仮説
わかりますでしょうか?ひとつの長い引用をもって、つづきは、またあらためて加筆します。(なんと、今日は冬至だった! 出雲から伯耆にかけて冬至当夜(トージトヤ)と呼ぶ習俗があります)
石田寛1960,「放牧と垣内」(人文地理12巻2号)より
《仁多郡鳥上地区では垣内すなわち放牧場内に畑(牧畑)があり、夏まや期間中のみに大小豆をつくり、それ以外のときは放牧場となる。
(中略)
「藩政時代には、この一帯の奥山山地を鉄山と呼び、人家に近い山野を腰林といって、2つを区分して利用していたのである。鉄山は鉄山師の支配する山であり、腰林は農民の私的支配下に置かれた柴草山であった。田付山による採草、薪炭諸資材の採取などが自由になされていたのだる。この口鉄山では鉄師の支配権と農民の支配権とが重畳していた。
(中略)
鉄山は林間放牧地であり、それゆえにそれ(畑)は口鉄山でのみ行われるのである。牧野の中にある畑は1年1作であるわけであるが、作物は大豆または小豆に限られる。作付期間は放牧牛のこない時期に限られている。地盤所有者は自己の畑に耕作しながら、その所有権行使は放牧権を侵害しない限りでのみ許されるにすぎない》
(つづく)
詳細ははぶきますが、大豆をつくる山(の畑)だけはたくさんあったということです。
なぜ大豆・小豆に限られるか。
それは牛が夏の暑い間、まや(小屋)にひきあげられるとき(約2ヶ月)をのぞいて栽培できるという条件にみあうものです。それが大豆であったということです。
いや、大豆は60日じゃ無理だろうと。そうなのですが、それなるがゆえに仮説なのですが、牛は大豆が実をつければ口をつけないのです、おそらく。
下の写真は冬至をむかえた我が家の夕食メイン。揚げ出し豆腐でござる。
わたしたちの自治会の草刈り後の直会も豆腐半丁、追加自由です。金山要害山、南宍道駅のある金山下自治会です。
追加(おかわり?)自由! 追加される方もいらっしゃるということですね。
なぜ草刈りの直会で豆腐なのか。調べていきたいと思っています。