本気でやるとはどういうことか。
端的には生死がかかっているということ。ことの軽重にかかわらず。それは、個が、身体的なもの、感覚的なものを通して、世界との接続がある場合である。
ただ、生死を賭する経験など21世紀の日本社会ではのぞむべくもないし、それどころか、さらに、ますます、どうしようもなく、そうした経験を削ぎ続けようとするのが「時代の流れ」である。わかりやすく、この流れを、安心・安全至上主義社会と呼んでみる。
道路の側溝におちて誰かが怪我をしたとしよう。さて、こうした場合、本人の落ち度はともかく、誰かの責任が追究・計量されねばならない。なぜなら、側溝に落ちて怪我をするということは「あってはならない」ことだからだ。交通事故とくらべるとその対象性がよくわかるだろう。交通事故は道路のせいでも車のせいでもない。事故にあってしまった当事者の双方がその責任を分担して担うということに「都合上」なっている。この都合は社会の仕組みに深く組み込まれているので、ふだん自覚することはない。社会内に発生する件数が膨大であることからもそうしてしまっている。
いっぽうで、側溝に落ちるという事故は件数もすくなければ問題となることもない。いやなかった。問題となりはじめたのは近年のことである。つまり、たとえば、ガードレールを設置しろという陳情が管轄部署に入るのだそうだ。さすがにそれはおかしいという意見が今現在においては多数をしめるうようで、見聞したニュースの構成もそういう展開になっていた。「おかしいよね」と。
さて、日本の風景の特徴のひとつが、どこまでいっても道路にガードレールがあるということだ。しばしば思う。人の少なくなる田舎に特区をつくるとしたら、ガードレールを撤去すればよい。それだけでずいぶんと景色がよくなるはずだし、見えなかったものが見えてくると思う。それだけではない。心理が変わるはずだ。不安だ危険だと感じるのであれば、車のスピードを落とせばいいだけのことだ。ゆっくり走ることで、そこでの出会いが豊かになるはず、と夢想してしまう。
さて、ここまででおわかりになるだろうか。唐突ではあるが。そう。「安心・安全」は、人から本気を奪っていく。そう思いませんか? 整理軸その1を展開するとこうなる。
安心・安全 | 本気
人工 | 自然
安心・安全と対になるのは、不安・危険ではないかという向きもあるだろうが、ここで整理した二項は対立軸ではない。整理軸その2として補訂を以下に。
安心・安全 | 本気
人工 | 自然
同一性 | 異質性
経験知 | 経験
電脳空間 | 現実世界
あらゆる道にガードレールがめぐらされた世界 | そうでない世界
さて、ここでなぜ都市農村交流が出てくるのか。
都市農村交流とは、その本質において、上の左と右の世界が交流するということだからだ。しかるに、いまのニッポンでは農村がかぎりなく左の世界に傾いている。これじゃ都市農村交流にならんという事例にみちみちている。
だから、である。「本気」で都市農村交流を目論むのであれば、もはや、海外を視野にいれる必要がでてきていると、そう訴えたいのだ。
たとえば、獣害。
獣害対策がジビエにしろなんにしろ、じつはうまくいきそうもないということを最近耳目にすることが多い。ならば、ミャンマー、タイから狩猟民族を呼ぶべきである、いまこそ。交流なので、こちらからも出向く。
とどのつまりが、焼畑と狩猟を本気でやってみようじゃないか。ということです。はい。
なぜか。彼らは本気だから。
本気というのがどういうもの・ことなのか。
学ぶことがあまりに多すぎて目眩がするだろう。どうです。
で き る か な。