人がものをつくる過程において、さまざまな制約が、つくる人にのしかかる。時間、空間、材料、天候、などなど。時代によってそれらの比重は変化するが、本質は変わらない。制約要素そのものの数は計量可能であり、書籍の目次のように列挙はできる。だが、組み合わせは無限ともいえるほど存在し、少なくとも人間ひとりの処理能力の限界を超えている。だからこそ究極において「勘」による決定が、つくるものの質を左右するのだ。
勘と経験が混同されるようになった。いや経験という言葉の意味が変質したのだろう。経験値、経験知といわれるように、それは計量可能なものとしていまや多くの人が認識している。経験は「積む」ことで蓄積されるのだと。あるいは体験という言葉もそうであって、○○体験なるものが泡のように世間に溢れ出している。
よしあしでもなく、憂えているわけでもない。
そうした世の趨勢にあって、「ものそのもの」に向かう職から受ける示唆を大事にしたいなと思った土日の2日間であった。
また加筆したい。酒蔵で杜氏の話を伺う機会をへて、考えたこと、考えてみたいことについて。