熊子(クマゴ)のこと〜その2

森と土と水と火の記憶を探す旅。

2016年3月17日のこと。以下はウェブの記録から発掘し整理し直して記すものです。

西へ南へ、そして県境にほど近いとある山村へ。

奥出雲町の三沢から、車を飛ばして1時間半ほどして着いたその家では、「だいたい家にいるよ」と紹介していただいたお年寄りの方が不在。しょうがないなと、周辺の家々を飛び込みで訪問してみるも、どこもお留守。犬も歩けば何かにあたるかと散策開始です。家の跡に残る扉の壊れた小さな小屋と雨水のたまった鍋と狂い咲きの芳香を放つ椿に頭をくらくらさせながら1時間ほどもうろついていました。そうして、やっと見つけたトラクターをいじるおじさんひとり。

訳を話すと、「あぁ、何某さんならあそこのゲートボール場だよ」。あぁなんという好機。十数人の爺さん婆さんが揃っておられる。

お茶とぜんざいをいただきながら、聞き取りをはじめると、知っている人と知らない人が半々くらい。そして、また、記憶を呼び戻すのは、なかなか大儀なところもあって、思い出そうにも思い出しづらそうなところもある。

「……だっと思う」「……じゃなかったかな」「ほら、このくらいの太さで、穂が垂れてる……」

そんな、言葉が行き交うなかで、私のとなりでずーっと黙って聞いていた婆ちゃんが、突然こうおっしゃいました。

「私、見たことある。○×谷で」
ただひとつの断言。
それはいつ頃のことですか?とたずねると、ぽつりと一言。
「……乙女の頃」

みなさん、爆笑で、わいわいと場が盛り上がります。しかし、隣にいた私には、わかりました。一生懸命に記憶をたどっていたそのお婆ちゃんの心は確かに乙女の時までをさかのぼっていた。戦後間もない頃、その谷で風にゆれる、失われた穀物「熊子」の姿が、瞼にあったのだと。確かに。
その谷はさらに川の上へさかのぼったところにあるといいます。
4月に入ったらまた出かけようと思います。※2

20160317-P113081402

※1. 写真は話を聞いた場所から5分ほども歩いたところにある石組み。

※2. この後一度出かけはしたものの、通り過ぎる程度であって、取材はすすめておらず。2018年か2019年の春、地カブが黄色い花をいっせいに咲かせるころには何軒か飛び込みで聞いてもみ、道行く人や草刈りをしている人などに聞いてみるが、わからなかった。古くから住んでおられる方は少ないようであり、「知らないなあ」というくらいには問いを受けてくださった方も遠くから墓の掃除にいらしていた方であった。

◉追記1

文字に記されたものを追いながらですが、「もうその人は認知で施設に入られているから」「あぁ、半年前になくなったよ」というような言葉を、この地でたくさん聞きました。跡形もなく消え去ってしまう前に、継いでいけるものがあればと、それだけです。

さて熊子が「アワ」らしきものかどうかですか。
お婆ちゃんもですし、みなさん記憶に異同があります。
が、聞くところからはモチアワのことを単にアワと呼び、ウルチアワのことを熊子と呼んでいたのではないかと推定できます。

・アワとクマゴはちがう→これはかなり強く言う人が1名と同意する人が過半。「アワはモチで食べるでしょ。クマゴは違う」「アワは白い。クマゴは黄色い。クマゴはアワより粒が大きかったような気がする」

・クマゴの味をはっきり覚えて語る方はなしでした。どうだったかなあ。と。粟餅はクマゴを食べなくなってからもかなり長く食されていたようで、甘くておいしかったと。

・形状は「粟」のそれですが、人によって曖昧です。確かなのは、、キビとは違うという認識。

・電話で聞いたこの村(旧村)の66歳男性は5歳頃の記憶で「クマゴめし(クマゴとただ米(うるち米)をまぜたご飯)」を食べた記憶があると。昭和30年代頃までつくっていたのだと思うと。

また、これらの証言を得た地域では、山裾の草地・藪を焼いてカブをつくったという聞き書きがあります。『聞き書き島根の食事』農文協

◉追記2(2020/09/06)
初稿の際は地名を載せなかった。その後4年が経過するが、取材も重ねられず残せるものは残すべきと考え、出しておく。現美郷町の都賀行である。

◉石組追記

大和村誌編纂委員会,昭和56『大和村誌(下巻)』には、「村のそここに残っている石垣にも古人の汗と血のにじむ苦難のあとを偲ぶことが出来る」という一文ではじまる石垣の項がある。積み方を3つに大別し、野面(のづら)積、打込ハギ積、切込ハギ積をあげている。写真の石垣は小なれど打込ハギ積である。

つづく。。

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