〜#2_Book 7 days

本の顔の7日間、その2。

中井久夫『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫,2011

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いま、自分の手元にある本の中から、一冊だけを過去の自分に贈れるのだとしたら。
これを二十歳くらいの自分へ届けてやりたい。
その理由について……。
日本語の文章として究極のお手本。よくよく分析してよくよく学べと。天賦の才がなせる技芸とはちがい、正しくわかりやすくおもしろく伝える何かをもって記されている。だから、学べる。
論点の明示と理路の明晰さ。伝え方のリズム、文体と内容の一致、鍵となる言葉の選び方、素晴らしい。そして、なにより読みやすい。かなり抽象度の高い内容であっても。これは、読む側の身になって書かれているからであろう。精神科医の基本的な構えから鍛錬されたものだろうか。

日本では、病院でも官庁でも中で一般人が迷うようにできている。日本の組織は自分の活動がしやすいように仕組みをつくり、相手の身になる発想がないからだ。中井はそう述べているが、多くの日本語テキストもそれが当たり前になっているのがわかる。いかんいかん。

あらゆる職業人、実務家、プロフェッショナルを自負するあるいは目指す人にとって、直接間接に大変重要な示唆を与えてくれる箇所が頻出する。ほとんどはそれと意識しないと読み取れないが。わかりやすいところもある。医学研修生に向けて書かれた短いテキストもそのひとつ。
「医学はなぜ独習できないか。技能的行為ー熟練行動ーは言語よりも多分情報密度が一次元高いからである」
ことは医学に限らない。あぁ、そうだ、そうなのだと、もちろんわかっていても、こういう総括の表現があるのだと、声をあげるなり膝を叩くなりする人は私ひとりではないだろう。
「読むよりも語るほうが、語るよりも示すほうが正確な伝達という場合が確かにある。…中略…書かれたものは、いわば音符に過ぎない」
読み物として流し読みしても残るかもしれないが、意識的に読むといい。

世界の複雑さと深遠さは「at home」の中に凝縮されてある
「一つの家族を精神科医が理解することは、ひょっとすると、文化人類学者が一つの文化を理解することに相当するほどの事柄なのではあるまいか」
1日目で紹介した『家族のように暮らしたい』とのつながりでもあるのだが、このヒントを三十年前に得て、進んでいたら、ずいぶんといまより先に進めていただろうにと。

 余談ではあるが、コロナ禍ついでに。
中井は1960年に京大ウィルス研究所でそのキャリアをスタートさせる。入所直後から「しまった」と気づき、転身をはかるのだが、このときに残した「遺産」のひとつが助手のためのマニュアルであった。試験管を洗う洗剤の選定から溶かし方、くしゃみが出そうになった時の対処法などをガリ版でつくったのだ。そのマニュアルは他の研究所にも複写が伝わり改訂を重ねていったのだという。その現物に、二十年後に再会する逸話がある。おそらく、そのかけらは、今日も、PCR検査の現場で、生きて使われているのだと、思う。
最後に。
中井がウィルス学の世界にいたのは「しまった」と気づいてから六年間ほど。その間の主な仕事は、細胞とウィルスの相互作用だった。ウィルスとレセプターとの反応を時系列的な分類にまとめ、それぞれの標識を見つけようとした研究だ。成果のひとつが、初期の反応は一見感染が成立しない細胞からとったレセプターでも起こることのようだが……。
あぁ、「つながり」とはウィルス感染の原理(でもあった)か。

 ついでに。中井の京大ウィルス研時代の上司は川出由己である。川出の一高時代の親友が南方熊楠研究で知られる長谷川興蔵。川出は長谷川の死に際して寄せた一文にこう記している。「どうやら彼の魂の一部が、ぼくのなかに入りこんで生きつづけているのに違いない」と。
これもまた「つながり」であるが、ではつながりとは何かをここでまとめるのなら、生物が、それはヒトだろうがゾウリムシだろうが桜の樹だろうが、ウィルスだって、生きるという目的を持つことから生まれるものだと、そういうことになろう。

〜#1_Book 7 days

◉大河原宏二著『家族のように暮らしたい』2002年太田出版

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絶版にはなっていますが、古書はそこそこ流通しているようです。
著者がなくなったのは、2010年12月31日。
読まれ続け、残っていてほしいと願う本。
疲れすぎた夜も、なんだかイライラするときも、やるせないときも、やる気がでないときだって、この本を開くと、不思議に落ち着いた時間が訪れます。
あとがきには、こう記されてます。
「思想もない、理念もない。では、こだわりもなかったかと問われれば、ひとつだけあったと、答えることができます。それは無名であり続けることのこだわりでした。わたし達の運営してきたケアハウスは、無名の老人がその余生を送るところです。ここは、どのような意味においても特別な場所ではなく、また、特別な場所であってはならない。……(略)……老人がどこに、どのように暮らそうとも、そもそも生活というものが複雑で猥雑なものなのですから、いろんなことがあるでしょう。それを誰かが、いちいち取り上げて記述し、公表するなどということはありません」
こだわりという言葉が好きではない私ですが、ここで使われた「こだわり」の、その反抗性に、ひどく揺さぶられるのです。

心について三題

まず、昨年7月くらいの投稿から。

心がわれわれに属するというよりも、われわれが心に属しているのである

昨晩の「本とスパイス」では、絵本『かさどろぼう』をとりあげましたが、トーク後のカフェ・タイムに「傘・能・心」ってなんですか?と、、、これ、端折ったけれど、まとめでもあるので、少しばかり蛇尾を重ねてみます。

拙者が心はなまらねど左言ふ貴殿の御胸中まことに以て心許なしーー「なまる」の江戸後期の用例で、決心がにぶる、貫徹しようとする意志が弱まるの意。もともとの「なまる」は、わざの冴えがにぶる、技量が落ちるの意をもって用いる言葉ですが、刀剣の切れ味を一義としながらその刀剣の用が頻ならざる時代において、人口に膾炙していったようで、それは「傘」が日用の具として普及していく過程と軌を一にしているのではと。
さて、心と傘の関係。これをとくのに「能」の世界をかいま見ていくのですが、その舞台となるのが「軒端」という場所、「雨が滴り落ちるその場所」なわけです。
そして、作業仮説なのですが、江戸時代を通して「決心」のあり方が大きく変わってしまったということを検じていくのに、ふたつの項をみます。
ひとつは「どろぼう」観。一銭でも盗めば死罪を常とする民の論理と、動機や金額による量刑化(合理化)をはかろうとするお上の論理のせめぎあい。
もうひとつは、記号論。パースを参照してみようと……。すなわち、
「決心とは閉じた個の作用ではなく、集合的集団的かつ公共的な現前である」
パースは心についてこう述べています。「われわれはその表面に浮いているものであり、心がわれわれに属するというよりも、われわれが心に属しているのである」
Thus, all knowledge comes to us by observation, part of it forced upon us from without from Nature’s mind and part coming from the depths of that inward aspect of mind, which we egotistically call ours; though in truth it is we who float upon its surface and belong to it more than it belongs to us.

……と、いうわけで、次回の「本とスパイス」は、日本人の「こころ」が大きな変わり目に直面していた元禄時代に記されたとある日記をとりあげます。

 ここまでの一文が本とスパイスの前口上でありました。パースの記号論については、補助線とみてもらえればと。

アリストテレスとダマシオについてはのちほど加筆の予定です。

アリストテレス

ダマシオ

本の記録〜2019年11月20日

県立図書館

†. 1 高取正男,昭和47『民俗のこころ』(朝日新聞社
†. 2 阿部謹也,1995『「世間」とは何か』(講談社現代新書
†. 3 香月洋一郎,2002『記憶すること・記録すること―聞き書き論ノート』(吉川弘文館

出雲市立中央図書館

†. 4 レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(2018訳;奥野克巳,近藤祉秋,古川不可/亜紀書房
†. 5 小川真, 『「マツタケ」の生物学・補訂版』(1978初版,1991補訂版/築地書館
†. 6 木嶋利男,『伝承農法を活かす家庭菜園の科学―自然のしくみを利用した栽培術』(講談社ブルーバックス
†. 7 角田公正ほか,1998『栽培環境入門』(実教出版
†. 8 木嶋シャルル・フレジェ,2013『WILDER MANN 欧州の獣人ー仮装する原始の名残』(青幻社)

†. 1は再読。繰り返し読みこむものとして。
第4章神をみる場所から「食器に結びつけられる霊的関係」をみてみる。

《私たちは古くから、食器とか食糧分配の用具には、異常といってよいほどの関心と執着心を示してきた。「固めの盃」といった言葉があるとおり、人間の信頼関係は、酒盃の献酬の習慣に代表されるように、食器を共用し、同席しておなじものを食べることで確認されてきた。このことは、家族員がめいめい個人用の食器を持ち、たがいにそれを尊重しあうことで所持者の「ワタクシ」を確認しあってきた習俗と、対応関係にある。》

 富の分配は社会的関係に基づいたルールに基づいて執行される。ルールが順調に機能している限り、霊とのかかわりは薄いように、今の私たちは思ってしまう。そこ、どうだろうか。引用した高取の記述中にも、霊性の出番はないかのようだ。

本の記録〜2019年9月14日

県立図書館にて借りる。
†1. 宮田登ほか 『日本民俗文化大系第9巻 暦と祭事―日本人の季節感覚』(昭和59,小学館)
†2. 高取正男,昭和47『民俗のこころ』(朝日新聞社)
†3. 藤木久志,2008『戦う村の民俗を行く』(朝日新聞出版)
†4. 赤江達也,2017『矢内原忠雄ー戦争と知識人の運命』(岩波新書)
†5. 塚本学,福田アジオ編,平成5『日本歴史民俗論集第4巻 村の生活文化』(吉川弘文館)
†6. 山折哲雄,宮田登編,平成6『日本歴史民俗論集第8巻 漂白の民俗文化』(吉川弘文館)

†2.†4.をのぞき、すべて年取りカブの参考文献として。

安曇野ちひろ美術家でみた、シビル・ウェッタシンハ『かさどろぼう』

7月5日の「本とスパイス」、テーマは「雨が滴り落ちるその場所について」。 雨が滴り落ちるその場所について〜シビル・ウェッタシンハ『かさどろぼう』はじめ.(本の話#0019) 先月、安曇野ちひろ美術館で出会ったいくつかの〈もの〉〈光景〉をきっかけ、あるいは足がかりとして論じてみたい、誰かに伝えてみたいと思ったのだ。 今日からまとめていくのだが、そのきっかけを思い起こすために、雑想として記しておく。 まずは写真のみのせておき、テキストはのちほど加筆。

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P1290472

(つづく)

●主な図書等 †. シビル・ウェッタシンハ作&絵、いのくまようこ訳『かさどろぼう』(徳間書店) †. 『雨と生きる住まい―環境を調節する日本の知恵』(LIXIL出版) †. 下山眞司〈縁側考―「謂れ」について考える〉新しいウィンドウで開きます〜建築をめぐる話…つくることの原点を考える(web)

本の記録〜2019年3月22日

島根県立中央図書館にて
いくつかの市町村誌を複写。また、年取りカブ(正月カブ)についてリファレンスを願う。3日後であったか、電話で連絡があり、やはり見当たらないとのことだった。

◆借りたもの
†. 野本寛一,1989『軒端の民俗学』(白水社)
読むたびに示唆を受けるものだし、資料としても常に手元においておきたいし、読むのが心地よい書。ゆえに古書を求めて注文済み。「浜焼き」については、木次の焼き鯖のルーツを探るうえで、もっておきたいもの。わずか数行とはいえ。
†. 『聞書き 山形の食事』(農文協)
†. 『現代思想2017年12月号 特集 人新世ー地質年代が示す人類と地球の未来』(青土社)
「解体者」の概念をめぐって藤原辰史氏の連載をひろっておきたく。

◆複写したもの・閲覧したもの等

松江市立図書館にて
◆借りたもの
†. 張憲生,2002『岡熊臣 転換期を生きた郷村知識人ー一幕末国学者の兵制論と「淫祀」観』(三元社)
†. 白石昭臣,1998『農耕文化の民俗学的研究』(岩田書院)
†. 古川貞雄,2003『増補 村の遊び日ー自治の源流を探る』(農文協)

購った図書について2019

少しずつ加筆のつもりでおいておくもの

†. 川島宙次,昭和53『日本の民家―その伝統美』(講談社現代新書)
†. 昭和61『聞き書 静岡の食事』(農文協)
†. 根本正之,2014『雑草社会がつくる日本らしい自然』(築地書館)
†. 広戸惇,平成2『出雲方言とその周辺』(出雲市民文庫:出雲市教育委員会)
†. 青葉高,1981『野菜―在来品種の系譜』(法政大学出版局)
†. 1997『祖父母から孫に伝えたい 焼畑の暮らし―静岡市井川の老人たちが語る山の人生』(静岡市立登呂博物館)
†. 土橋 寛,1965『古代歌謡と儀礼の研究』(岩波書店)
†. アリストテレス,1999『アリストテレス 心とは何か』(桑子敏雄・訳,講談社学術文庫)
†. 坪内洋文,『イモと日本人』(未来社)
†. 野本寛一,1989『軒端の民俗学』(白水社)
†. 朝尾直弘,網野善彦,山口啓二,吉田孝,1987『日本の社会史〈第8巻〉生活感覚と社会』(岩波書店)
†. ●●,『物語の中世 神話・説話・民話の歴史学』
†. ●●,『摘録鸚鵡篭中記 元禄武士の日記』(上下巻;岩波文庫)
†. 村井 淳志,2007『勘定奉行 荻原重秀の生涯』(集英社新書)
†. 早川 孝太郎,2017『猪・鹿・狸』(角川ソフィア文庫)
†. ヴィスワヴァ・シンボルスカ著,沼野 充義 訳,1997『終わりと始まり』(未知谷)
†. 宮田登, 網野善彦ほか編著,1984『日本民俗文化大系〈9〉暦と祭事―日本人の季節感覚』(小学館)
†. 矢内原忠雄著,若林正丈編,2001『「帝国主義下の台湾」精読』(岩波現代文庫)
†. T.A. シービオク 著, 池上嘉彦訳,1985『自然と文化の記号論』(勁草書房)
†. エドゥアルド・コーン著,奥野克己,近藤宏監訳,2016 『森は考える 人間的なるものを超えた人類学』(亜紀書房)
†. 『猫はなぜ突然姿を消すのか』(  )
†. 高取正男,1982『高取正男著作集〈5〉女の歳時記』(法蔵館)

 

 

本の記録〜2019年2月28日

島根県立図書館へ。16時〜18時。
正月習俗のなかに奥出雲の「正月カブ」について何かわかることがないかと『出雲民俗』からピックアップしておいた記事を観る。出雲民俗の会による『出雲民俗』は1949年から53年まで1号〜21号までが刊行されている。原本の所蔵はあるようだが、閲覧は複写簡易製本されたもののみ。請求したなかで「痛みがひどいので、お見せできません」というものもあり。原本はあるはずなので、《平成25年4月から施行された「島根県教育委員会が管理する歴史資料の利用に関する規則」に基づく利用の手続きが必要です》ということで事前申請となるのか。仕方あるまい。いや、嘆いているのではない。この有り様を所与の現実として、どう振る舞うかを心にとめおかねばならぬ。

さて『出雲民俗』。次回ていねいに読むとして、今回は斜め読みしながらメモ書きしたのみ。
※メモ書きはのちほど加筆
†. 石塚尊俊「歳神とその祭儀ー出雲を中心に山陰における」(14号,年頭行事特集,昭和27年2月)
†. 松崎清「年頭習俗語彙ー仁多郡横田町一」(14号,年頭行事特集,昭和27年2月)

次に『山陰民俗研究』。
†. 山崎亮「石見地方の「森神」をめぐって−明治初年「神社書上帳」を手がかりに」(15号,2010年3月)…これについては島根大学のトポリジニにPDFがあった。
http://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/list/journalarticles/001002/item/37917

今回借りた図書は5冊。
†. 野本寛一,2010『地霊の復権ー自然と結ぶ民俗をさぐる』(岩波書店)
†. 梅原猛,昭和55『空海の思想について』(講談社学術文庫)
†. トマス・カスリス,2016『インティマシーあるいはインテグリティー』(法政大学出版局)
†. 青葉高,1981『野菜―在来品種の系譜』(法政大学出版局)
†. 高取正男,昭和48『仏教土着―その歴史と民俗』(NHKブックス)

本の記録〜2019年2月4日

出雲市立中央図書館へ。
今週来週のところで雨の日があれば、半日くらいかけて地誌を総あたりして山あがりを調べていく(のだ)。

†. 稗原郷土史編集委員会,昭和60『稗原郷土史』(稗原自治協会)
生活編〜村の年中行事中より
四月
八日の花祭りと大山さんが挙げられている。
《大山さん(だいせんさん)、これは牛馬の守り神として村内各所にまつられている。祭日は一定しないが、春か秋に祭を行って、牛馬を連れて参ったり、参拝者が受けたお札を厩舎に張ったり、供物を牛馬に与えるなどして厩の繁盛を祈った》
※年中行事の項に関して特筆すべきは3点。
・藩政期に続いて明治初期に行われた年中行事について、野尻牛尾家の古文書によって記述したものであること。
・正月につく餅について、粟餅祝を雪隠の神に供えたとあること。
・6月(旧暦)の1日に、麦の御初穂を神棚に供えて麦神祭りを行う、と。

†. 浜田信夫,2013『人類とカビの歴史 闘いと共生と』(朝日選書)
†. 矢野 憲一,1979『鮫 』(法政大学出版局)
†. 一島英治,1989『発酵食品への招待―食文明から新展開まで 』(裳華房)
†. 内田樹,2012『街場の文体論』(ミシマ社)