スリランカカリーと焼畑と複雑な系

スリランカカリーの美味しい食べ方」が簡単にわかるペーパーをつくった。「簡単に」が簡単でないことが身にしみた。

 紙に文字を書くという行為。それは、相手=読み手がその場にいないというその不在に条件づけられながら、言葉が普遍へと向かって放たれるがごとく、意味空間が形づくられていく。

 一方、口から出る言葉、言葉を話すという行為。こちらは、話そうとする者と聞こうとする者、2者が同一の空間にいることに条件づけられている。話す者は、相手=聞き手と向き合い、うなずきや応答を行いながら、あらかじめ存在している空間の中で意味が共有されていく。

 言葉をふたつに似て非なるものへとわかつのは、時間、空間、「人」、それぞれの関係である。

 白い平面の上に共時的に著されたパターン、書き言葉。

 音の振動パターンとして、時間の流れの中に現出する話し言葉

 普遍性へ向かうベクトルをもつ書き言葉。道具としては、より多くの読手とへ広がること、広がる可能性をもつことが求められるもの。

 具体性へ向かうベクトルをもつ話し言葉。道具としては、2者の間で深まり、蓄積や文脈をもって深化することが求められるもの。 

 

 ふたつの対比は、短い短観ではあるが、互いの出自の独自性を伺い知ることができはしまいか。

 あたりまえのように同じものとして認識している私たちであるが、それは両方が、近代以降の時代を生きるものにとって、相互補完の関係をもちながら維持=保全されているからだと、ここまでのところでは整理しておこう。

 しかるに私たちが、あたかも同一の「コトバ」であることを自明のことと感じてしまえるのには、言葉を情報と置き換えて何の違和も覚えない環境が現出していることによる。

 ……などと考え始めてしまうくらいには、このペーパー作成には、多少頭を使ったのである。

 さて、カリー混ぜ合わせること。

 料理において、それがどんなに精妙にして複雑きわまりないものであるのかは、誰しも覚えのひとつふたつはあるだろう。

 そう。スリランカカリーは、料理の最終段階を食べる本人に委ねるものであるところに、その本質がある。

 ……(次回へつづく)。

 

9月26日の焼畑〜カブの状況とタカキビ、アマランサス取り込み

9月26日。明日から雨が降るようなので、焼畑の雑穀を取り込めるものは収穫した。また、カブの状況と追い蒔きについて。
◉カブの状況
†. 中山裾の火入れ地
前回(1週間前か)よりも、発芽がみられる。ただ、ところどころに虫食いあり。
発芽が見られないところに追い蒔きする。5ml×5程度。
なんとなくよくない感じがする。なんだろう。この感じは。
虫食いについては、面積が少ないことで、周囲の草むらに生息する虫たちの生息数が多いことが影響しているのではないか。過去2年とくらべて、裾の最下部であることからも虫の害は多かろう。面積も最小である。(※正確な面積:のちほど記入のこと)
†. 蕎麦栽培地の下部と上部
前回(1週間前か)追い蒔きしたものは発芽していないようだ。時期からして播く時期の限界として最期の追い蒔きを行った。15ml×10。
発芽しているところも虫食いがひどい状態である。前述の中山裾よりは虫の影響は少ないはず。これは時期の問題か。コオロギの姿は相変わらず目立つ。黒炭の地面がひろがっていていることで、目視しやすいこともあるにしろ。
†. 今後の追い蒔き
日曜日に発芽の確認と、春焼地のアワを刈り取った後に、草を取り去って撒いてみようと思った。
1. 牛が食うかもしれないので、アワが立ち並ぶその中心部にまず種蒔き。→アワ畑の外側は2週間後にはすべて刈り取り柵をもうける。
2. 蕎麦地については、牛がまだ入っていないことから、これから冬にかけても登りきらないのではと思われる。蕎麦地のさらに竹に近い箇所については、ソバも含め発芽が見られない。ここに鍬を入れてから蒔いてみることをためそう。
◉中山のアマランサス、大豆の状況
大豆はあらかた花の段階で牛にぱっくり全部平らげられていた、、、はずだったが、多少は残っていたのか、小さなさやに豆ができはじめている。種として残そうか食べてしまおうか、経過観察。
中山東のアマランサスは倒伏が多い。茎が細いのは中山西裾もそうだが、東の方が日照はより悪い。日照が得られていないことが原因だろう。茎が細ければ実のふさも小さく、倒伏の度合いは太いものとさほどは変わらないかと思っていたが、さにあらず。9月に入ってからの雨は次々と倒すのだなあ。倒れた状態からでも上に上にと穂を出し続けている。
今年の収穫は小なりといえども、小さな穂をひろいあつめていこう。
この日は大きなものを集めた。
種取り用のものをどうしようか。来年どうしようかと紙の上と頭の中で思案を重ねている。
◉春焼地のタカキビ、アワ、ヒエの状況

タカキビが今年は一定の収穫を得られたというのは救いである。昨年、カブの跡地斜面で育てたものよりはずっと状態がよい。一度は牛にがぶりと食われたあとからの再生であるのにね。
アワは、ほんとにどうしたものか。
下の写真は9月21日、すなわち1週間ほど前のものだが、状態はあまり変わりはない。
優先順位を後にまわしつつ、とれるだけでもとっておこうと心を落ち着かせる。


それにしても。
牧場のエノコロ草がすごい。一面の”エノコログサ”の草原。
これ、全部とって干して、取り出したら、そこそこの量にはなる。
やってみようか。
夕陽を受けてきらめきながら、風にゆれる穂の群れをみながら、夢想がかすかにうごめくのであった。

美しい畦焼き

 秋らしいおだやかで過ごしやすい日が続いている。たいがいの田の稲刈りもおわり、干されていたはでぎの稲もおろしはじめの頃である。忙しさも一息ついて、運動会と、草刈りと野焼き(畦焼き)の季節。そんななかで、奥出雲のとある田圃の畦で美しい畦焼きを見たので記しておく。

 小さなけたではあったが、きれいに草をおろしながら、焼き漏れやむらが見られない。火の動きも、ちょうど斜面を斜め上から下にむかっていた。先端はかまぼこ型。つまり両端の火が先行し中央部が後攻している形。

 日本の焼畑の技術でもよく見聞する、延焼のリスクをおさえながら、よく焼けるための火回しである。火を見ながら、無駄のない動きで草をならしている動作も美しいものだった。煙もほとんどたっておらず、いいかげんに燃えており、そこから1キロも離れていないケタの焼きはもうもうと煙をたてていたのとは対照的だった。

 野焼の風景は出雲市(旧斐川町)ではまったく見られなくなったと、数年前にきいた。奥出雲でもずいぶん少なくなったという。斐川町では除草剤の使用がふえるのと同じ流れなのだろう。まきたくない人もまわりの目があるから、まかざるを得ないというほどだ(ただし伝聞)。そうそう。商品名ラウンドアップで知られる除草剤が数年前に特許がきれて、安価で大量に売られるようになったことと同じ「動向」なのだ。

 除草剤ラウンドアップの環境への影響について、調べたことはなく、ただ、土壌系の農化学にも詳しい元大学教員に質問したことがある。「荒廃地で適量を一回だけ使うのなら、効果のほうがうわまわるのでは」という見解であった。どんな薬であれ、適量を使うことは当然であると、ふつうの人は思うだろうが、実際に現場に入れば、そうはなっていない。またどんな薬であれ、10年20年続けて使用した場合の帰結など予測はできない。スーパーコンピュータを駆使しようが台風の進路も天気予報も「当たらない」ようなものか。自然とひとことでいうが、そこで働く諸要因の数はあまりに膨大だ。

 焼畑も野焼も日本では上越・信州・東北に伝わるもののほうが得るものが大きいのではないか。農にまつわる技術もそうではないのか。そんなことを最近考え始めている。

 畦焼の話に戻せば、竹内孝功さんが、春の風物詩【田んぼの春起こし&野焼き(畦焼き)】と題して、畦焼を「師匠について野焼きを仕込まれている」と書かれている。

 出雲地方には野焼きを仕込んでくれるような師匠はもはや0であろう。だが、その断片はDNAの断片のようにあちこちに散らばっているのだと思う。

 「最近の若いもんは、火の扱いを知らんからのお。遊びからやればいいが、遊びもできんし」という言葉の意味をやりながら探ることであったり、数日前に目にした美しい畦焼きの動作を焼き付けておくことであったり、ということから拾い集めておくことが、いまできることである。

 

 

セイタカアワダチソウとソバの花

9月24日のソバなのだが、写したかったのは黒い炭の部分。2度くらいはソバを追い蒔きした。カブも2度は蒔いている。やけくそまじりにホウレンソウやニンジンの種をばらまいたりもした。
しかし、一向に芽が出ない。なんでだろう。
今度、ビートかなにかを土中に入れてみようと思う。


昨年のセイタカアワダチソウの写真をみると、10月中旬に花を咲かせている。
今年は心してみていこう。
下の写真についていえば、ここ、こんなに繁茂していましたっけ?
人の手が再三入っているところで、おもしろい。
向かって右手奥には民家があったところだ。建設残土が埋められているのだが、この谷間には山の水が流れ込んでいたはずのところだ。3面水路が見事なまでにその水の流れをとめているので、湿地化していた。が、その上に更に土を盛る工事がされたのかな。そしてセイタカアワダチソウと。

20170923-P126098302
参照:2016年10月22日ススキとセイタカアワダチソウの棲み分け?

竹の焼畑2017-sec.30

9月21日(木)晴れ。最高気温26℃(朝方の最低気温は12℃,朝露多し)

火入れ後最初の活動報告です。

○参加者:島大から3名、教員1名、地元1名(午後〜)の計5名。

○時間:10時~16時

○内容

・次年度火入れ予定地の竹林伐採作業

・春焼地草刈り、雑穀生育確認と一部収穫

・夏焼の蕎麦、カブの生育確認

色づいたホンリーも徐々に立ち枯れがはじまっています。収穫の準備すなわち、干す場所を探すかつくるかせねばなりません。ホンリーに関してはつくります。

アワ、アマランサスなどをどうするか、、、ですね。同じようにつくるか。

台風と先日の豪雨で倒伏したタカキビが5本程度あり。

食害にあっていないヒエ(ごく一部ですが)を収穫しました。

台風到来前の焼畑にて

 平成29年の9月15日。台風の暴風域圏内に奥出雲が入る模様。ここ数年間はなかったことで、焼畑をはじめてからは初。刈るにはまだ早い時期のものが大半だが、刈れるものだけでもと少々作業した。
 食害にあったモチアワとヒエは登熟こそしたものの、脱粒がひどく、1割以下、いや、あっさり放棄したほうがよいと判断した。数本を刈り取り。


タカキビはまだ早い。迷うところ。うれしかったのは、タカキビの後ろにこぼれたヒエとホンリー1株が実をおおきくつけていること。

 今年の夏焼きで蒔いた小そばが花をつけている。実はない。倒伏はするだろうけれど、天にまかせるよりほかない。

 2つの地点のアマランサスのうち、日照が劣るほうは熟し方が足りず、こちらはなりゆきとしよう。台風通過後の早朝、倒れたものを救い出す予定で。
 
 小そばが発芽しなかった地に蒔いたカブの発芽はその後もよくない。出ているところはコオロギの類にかなり食されている。発芽しているところは斜面下部だが、中部と上部については発芽は認められなかった。小さじ5杯ぶんの種を追い蒔きした。
 風はふわりともしないおだやかな日。嵐の前の静けさというものなのだろうか。明日、またきてみよう。

竹の焼畑2017ー夏焼9月火入れ

9月13日(水)。おかげさまで今夏2回目の火入れを終了いたしました。
次回活動日は9月21日。ボランティア参加歓迎。
竹の焼畑2017夏
ーー記録(速報)ーー
9月13日(水)
ダムの見える牧場林地(通称中山の裾、仁多郡奥出雲町佐白)
気温26℃、晴れ、北西からの微風。
14時15分着火、1530分延焼終了、15時45分鎮火、16時40分消火確認。
16時45分播種(2016年6月佐白採種温海カブ/15mg)。
焼面積約0.2a
従事者:7名

20170913-P126089602
20170913-P126089902
20170913-P126090002

◉小考1
これまででもっとも小面積の火入れです。燃材は3年前に伐った竹。前日までの雨天で地表はまだ湿っている状態でしたが、乾ききった竹が過半をしめていました。着火から延焼開始まで30分ほどかかりましたが、その後は順調に推移しました。
→3年経過すると枝部分は腐朽が進んでいますが、モウソウチクのような肉厚のあるものの本幹だと燃材として有効でことがわかります。
竹の焼畑の進め方のバージョンアップにつなげていきましょう。伐って半年からはじめ、3年まで火を入れるのであれば、竹を柵や蔓の支柱&横わたしに利用するなどを、うまくサイクルに組み込めそうです。
◉小考2
草を燃やすことも試みまして3点。
1. 雨の後なのでさすがに燃えない(延焼までしない)。
2. 山ですから蔓性のものも多く、刈りきるのが難。今回準備も含めて実感したのは、山の草焼きは笹や茅のような単一植生を優先させている場所でないと「刈る→伏せる(乾燥)→火入れ」までうまくまわらないのだと。
3. 牛の嗜好が高い草をうまくおりまぜて経過を観察してみよう。カブは大好きになってしまったようなので、柵を頑丈につくらねばならんのですけれど。

焼畑はつくられた世界の中にはない

「焼畑ってどういうことなんですか? 灰が肥料になるの? 毎年焼くの?」

1日のうちに10回ほども、そんな問いを受けただろうか。

いつもならやや飽きてくるのが、今日はそうはならなかった。客層が下の写真にみる会場から少しは伺いしれるのだが、変態的ともいえるほどに、おもしろかったのだ。別な言葉でいえば個性的。トラックに積んで帰ろうかという間際にアマランサスをみて(え、あれは何? 待って〜と)追っかけてきた親子はわかりやすい例だが、みなそんな異質性を心地よく発揮していらしたように思える。

とはいえ、焼畑とは何かという答えの厄介さを感じた人はさすがにいないだろう。それはひとえに私の修行の至らなさでしかないのだが。このもどかしさを如何ともしがたいので、断片を箇条書きしてみよう。

1. 焼畑とは何かという問は、自ずとある完成された世界を前提にしている。時と状況がそのものの意味すらも変えてしまうというふうには「もの」や「こと」を捉えない。すなわち、問は知っている者や体系から知らない者へとおりてくる知識によって答えられる。

焼畑のそうした関係性とは異なる世界にあって意味と価値をつくっているので、問いがあったとしても答えという形で応答することは「正しく」ない。

「違う」のが通常であり、経験とは単一の知識をさすのではなく、固有性をさすものである。

これがわかりはじめると、民俗や自然を知る古老がしばしば、こちらが問うたこととはまったく筋の違言葉を発する瞬間ときに、心踊るようになる。

2. 作物を栽培する、育てるということは、収穫のためになされるものであると我々は考える。つまり時間の経過の後のことが目的となる。よい栽培方法があって、よい収穫がある。原因があって結果がある。目的があって手段がある。

……そうした対とは異なるあり方や考え方、世界観が焼畑の中には宿っている。

種のまき方、種のとり方ひとつひとつをとっても、そうだ。

通説的説明では、焼畑の栽培が場所を移動する=Shiftingするのは、地力の衰えによる(あるいは除草の手間が増大するため)のだとされる。が、本当にそうなのだろうか。

こう考えみよう。私が火を入れた後に種をまくことは「結果」ではないのか、成果ではないのか、と。そしてそこから、因果ではない種と私と自然と世界の関係性が開けてくる。

つくられた世界ではない。脳化=硬化した世界とは異なる身体性がその基層といえるものにはあろう。

3. 我々が知る日本の焼畑像は、さかのぼっても江戸中期以降のものであると仮説づけて考えたほうがよい。少なくともそうすることで焼畑の可能性が大きく開けてくる。空間的にも時間的にも。

竹の焼畑2017-sec.29

9月8日(金)快晴。最高気温27℃。 活動報告です。
○参加者:島大から2名、教員1名(午後〜)、地元1名の計4名。
○時間:10時~16時
○内容
10:00~10:20…作業内容協議、確認。
10:30~12:15…火入れ地草刈り整備
12:20~13:10…昼食・休憩
13:15~14:40…火入れ地草刈り整備、8月夏焼地と中山雑穀地観察&ニンジン播種
14:50~15:50…春焼地のさつまいも救出(草刈)/ホンリー間引き/アワ、ヒエ栽培地観察


▲この草を刈り。見えないですが、草の下に竹がうまってます。 ○課題 年度当初からではあるが、活動参加者の見込が計画より相当に少なく、半分以下ではなかろうか。規模をおさえた計画とあわせて、技能向上を次年度からははかりたい。夏焼は9月に雑草灌木等を燃やすことにして、他地域への研修旅行を企画するのがよかろう。

◉栽培地状況 ○蕎麦は花をつけています。
○カブ、3日ほど続いた降雨で発芽です。一安心。

○中山袖地のアマランサスはまずまずの出来(2年畑)
○中山そば地跡はここにきて牛に食われてしまいました。アマランサスが多少収穫できる程度か。 ・アマランサスは葉を食べます。茎は細ければ食べる。いちばんよく食べるのは大豆。花をつける前にほぼ全滅。モチアワも実は食べないのですが、茎と葉を食べるので踏み倒すなどされており、熟す前に倒伏。もともと発芽・生育ともによくなかったのですが、ここへきてほぼ全滅の様相です。

○春焼地のホンリーが色づいてきました。美しい。

●そして本日のブラウンスイス。涼しくなって食欲も増進中!?

申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ

「この人は、お金がなくても、食えるように、いろいろやってるよ(笑)」

自分のことをそう言われてなるほどなとは思った。そんなつもりはないのだけれど、山を焼き雑穀を育て、野草の食べ方をいろいろと試し……、などなど。研究なのか趣味なのか事業※なのかは判然としないが、実践を積み重ねているのは確かだ。※森と畑と牛と

今日は松江市立中央図書館で、享保の諸国産物帳のうち隠岐、出雲、備前備後のものを草木を中心に通覧して必要箇所を複写し、ほか開架で目についたものをめくっていたら、あっというまの3時間だった。こうした書や資料を読んでいると、飢饉、救荒のことは必ず出てくる。

滅びゆく、用の済んだ、時代に取り残されたものばかりを集めていることは、冷笑されることもしばしばだが、いやそれはそのとおりであると自覚しているが、役に立つことがあるとしたらば、消え行く「食べるための」智慧を集めているということなのかもしらん。

飢饉は多く農村で生じる(てきた)。江戸時代以降、都市での餓死は少ない。食糧は都市に集積されるものだが、現代においてはどうなのだろう。そもそも食糧がどこでストックされ流通し消費されるのかというそのめぐり方において、現代日本の農村と都市の対比は意味が薄い。

農村から作物をつくる知恵や技術が少しずつ失われていくはじまりは江戸時代に入ってからだと推察する。中期・享保年間あたりから、農書や救荒の書が次々と刊行されることがその傍証である。およそ300年も前から、「山に入れば生き延びられる」ことは稀になっていったのだ。あえて悪し様にいえば「ただ言われたままにつくるだけ」の農民は江戸時代に誕生し今日までその栄華をきわめているのだ。とはいえ、山野の知=野生の思考の断片は生きていて、再生も復興も可能な時代に我々はいるのだということを希望としよう。

宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」は昭和14年に宮本が見聞したものが中心で、金山谷や戸河内や匹見のことでへぇー、ほぉー、なんでだろう、とおもしろく読めるところ多出する。

なかでも、山口県玖珂郡高根村向峠(むかたお)のことは、何度か通ったり眺めてきた土地であることと、2〜3の書き留めておくべき項目があったので以下に記す。ひとつは、そう、飢饉のことである。

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。

向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。

銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》

申年の飢饉という言葉は鳥取藩で語り継がれたものとしてよく出てくる。

(以下加筆予定)ホトホトのことなど。