冷蔵庫の片隅に冷凍したままのホウコが眠っている。たしか2年前のものだと思う。搗く機会を頭のなかであれこれと浮かべながら、いくつかの記録を整理しておきたい。
思いつくままの箇条書きをまず。
1. 阿井の山野で食べたものの中でのホウコ
2. ホウコの方言分布
3. ホウコの記憶を語る木次のばあさんら
4. ホウコモチをつくる
5. ヤマボウコをまだ見たことがない
6. ホウコはなぜ木次で見なくなったのか
7. ジュンさんの歌、ハハコグサを聴いてみたい
8. ハハコグサ、ホウコについて言及しているもの
9. 農文協の食生活シリーズにおけるホウコ
10. 「モチ」と「ホウコ」
これらのついては、簡単に加筆しながら、資料のリンク先などを追記していきたい。いずれもかつて一度はブログなどに書いたことがあるものだ。
そして、かようなことを思い立ったのは、篠原徹の昭和48年の論文の中にホウコについてふれたところがあったため、それを引っ張っておくためでもある。
「Ethnobotanyから見た山村生活」より
《中国山地のどんな谷に行っても、そこには30戸前後の小さな部落が必ずある》
論文はこの一文からはじまる。昭和48年9月30日受理というからかれこれ47年前。いま、令和2年の西暦2020年、中国山地の片隅に生きる身にとっては切ないような美しさを湛えている一文だ。「必ず」という言葉からは、なにか意思のようなもの、確かなもの、尊いもの、そういったものが受け取られる。いまの私たちは、必ずという言葉を使うべくもないどころか、いまにもなくなりそうな集落をあそこにもここにも抱えている。すでになくなった谷の姿などいくつでもあげられそうだ。
つい一月ほど前に訪れた匹見の小原集落。その奥の谷にあった十数戸は、篠原が「必ずある」と記した五年後には消滅し、いまその跡形がまさに山に戻ろうとしている。それをどんな感慨と未来へのどんな意思をもって、私たちは後世に継いでいったらいいのだろう。
篠原を読むということは、単に一論文からパーツとして「利用」可能なものを取り出すという処し方に終わるものではない。そう断りつつ、ここでは、ホウコについての一節をとりだしておく。調査取材した岡山県湯原町粟谷(旧二川村)七人家族、そして広島県東城町帝釈の二人家族の例として、家族が利用する植物があげられ、「粟谷の家族の例について、以下具体的に述べてみたい」と説明が入るところである。
《ただ、この家族には現在82歳になる媼がいて、ケンザキホウコウ(ヤマボクチ)・ヨモギ・チチボウコウ(ホウコグサ)を春先採取して乾燥保存している。これは<シロミテ>(田植後の祝事)の餅搗に湯にもどして米と一緒に搗込み、餅の粘性を高めるのに使われるもので、でき上った餅は<ホウコウモチ>と称され、<カブウチ>(血縁集団)に配られる。しかし粟谷40戸のうちで<ホウコウモチ>を作るのはわずか2〜3戸で、もはやこれも消滅するのは時間の問題であろう。》
篠原がここで「消滅するのも時間の問題であろう」と述べているのは、ホウコモチに限らず、この50年ばかり前の山村で、山野から草木を採取し多種多様に活かす生活の衰退と、利用する植物の利用と植生、双方の減少を前提にしたものである。
とはいえ、まだまだここであげられた82歳の媼は、村々にひとりはいらっしゃった時代であり、「そういうことを知っとるばあさんらはみんないなくなった」という言葉を古老からきく現代とは明らかな線がひかれている。
現実のものとして目の前にあるものとはちがい、私たちが見聞するのは彼岸のものだ。そのことを忘れずにことにあたりたい。ことにいま、こうしてやっているような断片を抜き出しつつ並べることに対して。そう自らを戒めたうえで、ホウコから離れて、いくつかの断片を拾っておく。忘れてはいけないが、忘れぬように。備忘という。
篠原が昭和48年9月に行った調査、すなわち、粟谷を構成している40戸の家から年代別に13人を選び、調査したものの解説中から得たものだ。調査は「実用価値を既に失った野生植物の利用実態」について、調査表を用いて行っている。その数だけはあげておこう。食物関係121種、民間薬73種、農具・繊維・結束・籠・建材36種、神社・寺・祭用9種、炭・薪19種、その他56種である。下に図を掲げるが、およそ半分が利用しなくなったもので、おそらく今同様の調査をすれば、数%となるのではないか(やってみたいなと思う※)。
閑話休題。山村で実用価値をほぼ失っている野生植物について、である。
《食物関係の植物でB・C項に属するものが非常に多いことは、山村の食生活が以前と大幅に変化したことを明瞭に示して居る。特にC項(名称、使用法は聞いたことがある)に属する野生植物は、いわゆる飢饉の備荒食として知られている植物が多く、30代から60代では料理法・処理法を全く知らない人が多い。クズボウラ(クズ)、シズラ(ワラビ)の根を掘って澱粉をとった人は既におらず、わずかに70代の人がヤーヤー(ウバユリ)の根から澱粉を採ったことを記憶しているにすぎない。》
《ヤーヤーは、五月頃葉のまだあまり出ていない鱗茎のよく発達したオンナヤーヤーと呼ぶものを採取し、唐臼で搗くか、石の上で叩いた後、桶の中に入れて漉す。その水を何回もとり変えて、上澄を捨て、最後に沈殿したものを乾燥することにより、カタクリを採った。》
ウバユリについては、椎葉村の話、日原の話、そして阿井の山野にあったかなかったか。大事なことは、ウバユリの根がおいしく、ふえてくれれば自家で食したいということによる。どうやって山野でふやしていくか、ということだ。これは奥出雲山村塾、森と畑と牛と、で行うことでもある。
ウバユリが、澱粉を採取する植物として、クズやワラビから採らなくなった後にも利用されていたのは、採取時期の違いとそこにかける労力の大きさの違いによるだろう。ウバユリは量を採るのが大変とはいえ、クズやワラビに比べれば素手でも掘れなくはないのだから。
さて、次にひとつ、年取りのことで例があるので、ひいておく。
《今は忘れられている年中行事にも、ずいぶん多く野生植物が利用されていた。正月前の12月13日を<キシクサン>と呼び、どの家でもシラハシ(ウリハダカエデ)→「松江の花図鑑」参照で正月用の箸を作る行事があったし、<オオドシ>(大晦日)にはミノサイジョウやフクナリという品種の柿を<年取柿>と称して必ず食べたものである。11月の初め頃、この柿を採り蔵に自然状態で放置しておくと<オオドシ>には渋がとれて食べられるようになっており、これを<ムシ柿>と呼んでいた。……中略……また正月の期間中、竈で燃す薪はヌリダ(ヌルデ)でなければならないとされ、正月前にこの木が大量に準備された。》
ヌルデ→「松江の花図鑑」参照は負い木でもあって、美保神社の祭礼に用いられたのであったか(要確認)。正月に子供の玩具としてアワボッター、ヒエボッター(アワやヒエに似せて、ヌルデの木でつくったもの)があるのは、あれはどうだったろうか、など記憶の曖昧なものを改めて確かめておきたい。
ほか、蓑の材料となった植物のこと、キノコのことなど、書き留めておくべきことが多いが、それらはまたのちの機会に。とくに蓑については書きかけのものもあるので、近々に。