◆頓原交流センターにて、小正月行事トロヘイの藁馬をつくる機会を得たことは、前回少し述べた通り。その時、講師の方から昔はどういうつくりをしていたのかはわからないと。
はてどこかに…あったよう……な、で、あった。勝部正郊の撮影したものを酒井董美が『中国の歳時習俗』(1976,明玄書房)中、島根編のなかに入れたもの。細部は微妙に違うけど、現存する一番古い親馬のつくりに近いのかなと思う。
ついでに同書にある鳥取県智頭町の記録写真をのせる。
記録用に撮影されたものなのだろうか。お行儀のよさはさておき、蓑笠が浮いて見えるのは、この時点ですでにその装束の意味が薄れ消えていく過程にあることを物語っているようだ。近年、少なくとも2000年代に入ってからの記録をみると、みな雨具を身につけている。蓑笠がかけられる水をよける用としてしかとらえられなくなっていたからだろう。
だがしかし、少なくとも縁側に座している老人の記憶には、蓑笠がまとい続けてきた、人々に与えてきた心象が、残存していたのではないか。そんな空想をめぐらせてくれる一枚の写真である。すなわち、異人・法外者・富・死であると同時に、超越的権能・正義・抵抗者・生を表象した存在。まあ複雑、複雑なんだけれど、「おそれ」がそこにあったことは確か。そう、いくつかの地誌に散見される「こわいものだった」という記録は傍証たりえるやいなや。
次に、少し変わった事例をふたつ。
◆岡山県勝田郡奈義町……トロヘンと同じ日に、子どもたちが「今日は嫁さんの尻叩き」といいながら、正月のゴミを集め丸めて縄でくくり、新嫁さんの尻を叩いてまわり、子どもたちはそこで餅をもらう。そうして叩かれると強い子どもを産む。同系のものは梶並にもあり、こちらは多産ということと、小さな鏡餅をもらうのだという。※上掲書より
◆木次の村方・斐伊……若者が頬被りをして藁馬を「ほとほと」と唱えながら門口の戸をあけて投げ込む。楽しみに用意していた餅や祝儀を馬についた袋に入れる。隠れていた若者は綱をたぐって馬を引き出す。家人は桶か柄杓で水をかける。その家は一年、菜の虫がわかない。餅を牛に喰わせると牛が繁盛する。藁馬は荒神におさめる。古くはトシジイサン(歳神?)に扮した若者が白髪の老神の面をつけ、子どものいる家を訪れ、餅やお年玉を与えたもの。(木次町誌,1972)
◆1970年代に編まれた史誌記載の民俗は明治40年代から大正年間にあったものが多く、明治30年より前の姿が伺いしれるものは少ない。参考に現山口県錦町向峠のトロヘエについて下記をあげる。若者がやめたのは明治27、28年とあるが、中国山地のほかでもほぼ同時期にやめているところが多いように推察される。明治32年、養蚕の飼育法が安定し、全国くまなく盛んになり、入会地や山畑が桑畑に転換され、日本が世界最大の生糸輸出国になる。また、農村から都市へ若者が出ていくのもこの頃である。
《入口でトロトロというと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分来たもので、深須村のある女の如きは大正年代までやって来たという。》
しかし、それでもこの時代には、申年の飢饉の記憶が家々で語られていたことを想い起こしておくべし。
◆トロヘイの消失は農村から若者が都市へ出ていくことと軌を同じくして進行した事態である以上、その再生復活は民俗行事の保全にとどまらず、農村の再生への足がかりなのだ。だからこそ、ひろくおおくの地域で記録にも残らない復活と頓挫が繰り返されてきたのだろう。