晩秋の日に奥出雲の気になる棚田の跡をみて

 11月13日の日曜日のことを振り返りながら、つれづれなるままにつづるの巻。

 季節の変わり目によくある気分と体調のすぐれなさは、秋の終わりの暖かな陽光を浴びることで、ずいぶんとやわらかくなったりもする。この日も曇り空の切れ間から時おり光が降りてくる1日であったと記憶する。

 脱穀作業に向かう途上、大きく寄り道をした。行ってみたいところがあったのだ。気になっている棚田。そこはもうずいぶんと稲を育ててはいない。山ほどもというより山にかえったかような旧田がそこかしこにあるのだろうが、2年ほど前にその場所を見つけてからこの方、いつもていねいに草が刈られ、何か育てているようでもあり、しかし大半は草を刈るだけの手入れをされているように見えた。そして、その棚田は、奥出雲の多くの棚田の古形をいまに残す地でもある。

 大半の棚田は土地改良法による区画整理で1枚1枚が小さな田んぼから大きな田んぼに変わり、機械が入るようにもなり、過疎少子化高齢化に対処できるようにもなった。大幅な省力化・生産性の向上がこれらの区画整理の成果としてあった。

 私が気になり続けているこの棚田はなぜ、そうした区画整理から距離を置くことになったのだろう。知りたい。形も美しい。風景にも溶け込んでいる。奥出雲の米をPRする写真に使われたこともある場所であることを放置されたまま残存するウェブページで見つけたりもした。

 

 

 よくみると、耕地の上には電線がいくつか走っていて、この写真で焼かれた場所にはそれがない。

 この写真の奥のほうはイノシシよけと思われるトタンの壁がつくられ、本来の棚田はその向こうにも続いていたようだが、いまはクズと灌木の類におおわれ薮と化している。

 あぁ、ここを少し切り開いて、使わせてもらえないだろうか。そんなことを考えたりもする。衝動的に。言ったからには続けなければならない。いまはできない。はやる気持をおさえながらも、「焼き払うとしたら電線がどうしてもひっかかる。あぁだからこそ放棄したのか」「日当たりが手前よりも悪いのだろうな」「水田として使っていた時代には水まわりが悪かったのだろうか」などと、その場に数十分か立って考えていた。

 

 あぁ、そして私がひかれるのはこの小さな単位なのだ。1枚1枚が小さな区画であること。

 多様性を打ち捨てて単一性を追い求めてきた”日本の農業”は、大いに勝利したのだから、この小さな田の連なりは遺産として保全されることはあっても、その価値や意味も、単一化を推進してきた社会が要請するものでしかない。多く見聞してきた棚田の保全活動をみて感じつづけてきた違和感のいちばんの正体はそれだ。

 六車由実氏の研究ノートに見つけた一文に、あぁ、そうだ、この多様性こそが、私が追い求めてきた姿だと認識してから、なぜ小さな区画の連なりである棚田に美しさを感じるかに得心したのもそうだ。

 たとえば、昨年の秋にラオス北部、ルアンパバンの周辺で目の当たりにした焼畑の光景は私たちの想像をはるかに超えて豊かで感動的だった。ここでは平地には雄大な水田が広がっているが、そのすぐ先にある山では焼畑が拓かれ、陸稲だけでも10種類近くの稲が育てられ、隙間には、ハトムギ、バナナ、ウリ、キャッサバ、トウモロコシ、ゴマ、オクラ、サトイモなどさまざまな作物が混植されている。

 それはあたかも作物の単一化に抗しているかのようである。しかも面白いことに、ラオスの人たちは、水田でつくった米よりも、焼畑でつくった米の方がうまいという。すなわち一方がもう一方を淘汰するのではなく、むしろ水田と焼畑がそれぞれの存在価値を認められた上で併存しているのが、ラオスで見かける一般的な農村風景であるようだ。

 《焼畑の多様性〜「焼畑研究ノート・焼畑プロジェクトの課題, 東北学vol.10,2004,4》

 

 六車は焼畑の多様な意味を2004西田の『中国・海南島』からもひいている。

 焼畑によって特定の作物に特化しない多様な植物を栽培することで干魃や洪水などの自然環境からの影響によるリスクを最小限におさえるシステムを持続させたり、野生動物や野生植物を利用できる場として焼畑周辺の土地を確保することでもあった。

 焼畑を選択している民が生態系を管理する視座を有しているということ。

 生態系管理において、多様性の確保が持続可能性にどれだけ寄与するかを知として有しているということだろう。

 そんな視座と知性を、野生の知性をわたしたちはどこまで取り戻せるのだろうか。残された時間はあまりにも少ない。雑穀の調整ひとつに手間取っている我が身がほんとうに嫌になりそうだ。と、こうして書くことで発散させて前にいくのだ。ごめんなさい。

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