温泉村(現雲南市)の安永10年(1781)の検地に際して、村三役が役人を接待した記録の一部をみるに、「大根牛蒡など、醤油にて煮〆をつくりもてなしたる」とある。「醤油にて」つくる煮しめがもてなし料理であるなら、醤油をつかわない煮しめがあったということだろうか。
瀬川清子『食生活の歴史』には、「醤油の自家製造は非常に新しい流行で、味噌のたまりをとって使用した時代を入れても、ここ二、三世紀をさかのぼれない」とある。
藩政時代から醤油の自家製造は許可制だったというのだが、そこで制限されている「醤油」と、タマリ、スマシと呼ばれた、味噌からとるものやなんやとはちがうわけだろうし、どうもいろいろごっちゃになっててようわからん。
とはいえ、明治はじめの島根県の場合、醤油の自家製造の制限とは「1年一人につき七升ずつであった」というから、けっこうな量である。
こんなことを思い出し、記してみたのにはわけがある。
「醤油絞り機、いりませんか?」
先日、そんな電話がかかってきた。解体する家から出てきたという。古いものらしいが、100年はたっていないだろうと思われる。
……
もらって、どうする?
そりゃ、つくるさ、醤油を。
えええ、どうやって?
つくりたい人が現れたのさ、これは何かの縁だよ。
……
さて、どうなりますか。
下のは、2年前、とある醤油屋さんの蔵を特別に(本当に)見学させていただいた折の写真です。
多種の膨大な菌が共生したある種の平衡状態、プラトーとでも呼ぶべき状態にあるらしい。
少々の雑菌、たとえば大腸菌が入ってきたとしても、殲滅されてしまうのだという。
近代以降の滅菌・殺菌の方法とは異なるやり方、というよりも思想ではないか。生命の思想ともいえよう。そうした話をふまえて、社長さんは、ここはひとつの宇宙だと言っておられた。
醤油蔵はひとつの宇宙。
しかし、ここ数十年の間、目の前で次々と消滅していくのをみてきたという。
なんともやるせない。