加藤歓一郎の国家主義とはなんだったのか

「灯台もとくらし。加藤歓一郎は日中戦争頃より強烈な国家主義者となり戦時教育の第一線にたっていた。図書館で見つけたこの記述でようやく見えなかったものが見えてきた。霧の中から。宮澤賢治と加藤をつなぐ線を探してみよう。政治と宗教と文学と農学がひとつものであったその時代に」

そうつぶやいた2017年の夏だったが、なかなかすすまぬ。ともかく「魂の点火者」を図書館で借りてくることからか、などと思っていた矢先のことだった。

一昨日、森まゆみの『自主独立農民という仕事』の中に、加藤歓一郎の記載をみつけ、あぁと思ったことがある。はたからは「強力な国家主義者」とみえたそれは、外面でしかない。「日中戦争頃より」というのもあやしい。少なくとも森まゆみは、おそらく『魂の点火者者』を頼りにこう記している。

《大正十五(一九二六)年、屋裏小学校に赴任。教育勅語と国家教科書(原文ママ:国定教科書)でがんじがらめになっている現場に、「白樺」「赤い鳥」などに影響を受けた自由主義教育運動を紹介していく。

加藤は『死線を越えて』の著者賀川豊彦に共鳴し、彼がキリスト教の社会運動家として、その舞台となった神戸の貧民窟で着ていたと同じ「賀川服」を着、小作人の子たちと同様、素足で四里の道を歩いて学校に通い、校長に注意される。

(中略)

加藤歓一郎は上久野小学校の児童を引率して村の氏神様に参拝して皇軍の無事を祈ることを拒否し、西日登小学校に左遷された。さらに昭和八(一九三三)年、大原郡教会全総会の席上、郡の教育を批判したことから、特別高等警察が西日登小に来るなどの思想調査が行われた。神社参拝にしたがわず、キリスト教の伝道をするなら教師をやめてもらいたいという。これに対し、加藤は憲法二十八条「日本臣民に安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りに於て信教の自由を有す」を示して断固ゆずらなかった。》

加藤は、日中戦争の端緒たる昭和12年(1937)・盧溝橋事件の四年前には、特高の調査を受けている。太平洋戦争の激化を昭和16年(1941)からとするならば、8年で「転向」したのか、それとも加藤の国家主義と彼の信仰とは矛盾せず同居していのか。

そこらは、『魂の点火者』を読むところからの話となるだろう。

ここで、論点ではないが注意を向けておくべきは、日本戦時下の思想統制のありようだろう。昭和六年といえば、満州事変が起こり、治安維持法をもって思想統制がきびしくなっていく時代であったと、思われている。あくまでイメージとして、だが。

しかるにその昭和六年の木次において、キリスト教の伝道、神社参拝の拒絶、政治批判、これらをもってしても、加藤は「注意」や「指導」を受けたのみ。検挙もされてはいない。

ただ、戦争が激化する前のことではあるが、私たちがドラマや映画などでイメージをすり込まれている戦時下の思想統制の姿はかなりのゆがみがあることはいくつかの書が明らかにしている。たとえば、佐藤卓己『言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)

さて、つづきは必ず書く予定だが、いつになるかはわからない。

「感性は宮沢賢治に。行動は田中正造に学べ」というのが加藤の口癖だったというが、その二人から、加藤自身は何を感得・会得していたのだろうか。

(つづく)

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