西宮一民『上代祭祀と言語』1990,桜楓社を手がかりに。
わたしたちの霊魂に対する考えは、大きな隔たりをお互いに持たない。だからこその「死んだらどうなるの?」なのだ。わたしたちとは、日本人といってもいいのだろうが、なんだろうそう言ってしまっては駄目、というよりは違う気がしてならない。わたしたちという言い方にとどめ、そこから先、何も付け足さない理由、あるいは言い訳である。
西宮が霊魂の定義づけに、現代の通念と違和なく受け取れるものとして第一にあげる『古事類苑』は明治から大正にかけて刊行されたものであるから、宜なるかなと言えるのだが、だからこそ、西欧の生命霊魂感を受けつつのものではなかろうか。
なんとなれば、件の霊魂の義については、「生命」の項にあるのだから。
《生命ハ、邦語之ヲイノチト云ヒ、霊魂ハ、タマ又はタマシヒと云フ、霊魂ハ不滅と信ゼラレ、其人体ニ存在スル間ヲ生ト云ヒ、其出離シタル後ヲ死ト云フ、因テ又霊魂ニ、生霊、死霊ノ別アリ、上古ハ霊魂ヲ分チテ和魂、荒魂、幸魂、希魂ノ四種ト為シ、其人体ヲ遊離センコトヲ恐レテ、為ニ鎮魂、招魂等の法ヲ修セシコトアリ》
(つづく)