出雲地方の冬。それは晴天日数の極度の減少をもって特徴づけられる。…と言ってみたものの、気象庁など実際のデータにあたったわけではなく、あくまで印象と経験によるものだ。他の地方もおおよそそうであろうが、少なくとも太平洋側とは明らかに違うことに異議を唱える向きは、一般にも専門にもいないと言えるだろう。
雲が全天を覆うだけならまだしも、今年は雪が少ない。ただ、雨は多いのではなかろうか。降水量くらいは平年と比較してみたいものだ。そして気温も高い。不安を募らせるそうした状況のなかで、今日のような晴れ間が訪れ、青空と太陽が湿った雪のない土、地を這うロゼッタ状の草類を中心とした緑がみずみずしく輝く光景は、安堵の空気をきびしさの中に注ぎこむかのようだ。かすかなのぞみというものを具現化するとしたら、この光と匂いなのだろうなと思う。
しかしかような感傷にひたるのはほんの十数秒のことであって、あぁ、野良仕事ができる、という段取り思考である。せめて日曜日も天気がもってくれれば山仕事に行けるのにと。豆の脱穀もすませたいし、あれこれ片付けねばならぬことはいつも満載である。
近頃はどうでもよいと、なるようにしかならんと、そういう気持ちの占める割合がふえて、気は楽になった。そのぶん、少しは前に進めるのではないか。そう希望しておこう。
さて、そうした思いの中で、焼畑のこと。ふと思ったのだ。焼かない焼畑を試すのはどうだろうかと。焼かずに山に畑をつくる、しかも数年間という短期間での移動耕作的な仕方で。焼かない焼畑。文字の意味通りにはおかしいのだが、世界的にみれば、slash and burnであるよりは、shifting cultivationの耕作法であることにその特徴があるとみたほうが対象を捉えるのにはよさそうだ。そうした見解もいくつかの論文等でみるし、shifting cultivation を焼畑と訳すことも多い。
林田農業の見直しでもある。聞き慣れない用語であるが、日本史の中では焼畑からの発展形態として論じられることもあった。畑井弘曰く。
《林田農法というのは、簡単にいうと、伐採したあとの火入れをしないで、切株を徐々に取りのぞきながら畑地とし、一〇年ぐらい作物を栽培し、また林にもどす農法である。林地と畑地の切り替え輪作という点では、焼畑農業と同じであるが、火入れをしないという点と、およそ一〇年閲ほど畑地として用益できるという点で、大きな違いがある。宮本常一によれば、この農法は、関東地方ではつい二〇年ほど前まで、たくさん残っていたということである》
(八〜一〇世紀の林田農業と家地経営 : 中世的土地 所有成立の一前提:史林1976,59(3)
畑井はこの農法の特徴を地力回復力が通常の焼畑よりも高いことみている。ハンノキを用いることで、大豆小豆よりも地力の回復と持続が長いことをもってのことだが、それだけではないだろう。アグロフォレストリーの特徴として、林影が生じる場と期間など考慮にいれるべきことが多々ある。何を栽培したのかも。
散見したいくつかの例が浮かぶ。バリ島の高原地帯におけるシコクビエは林間の栽培だった。
もうひとつはインドネシア・ジャワ島の竹林を利用したそれ。なんといっただろうか。のちほど資料を追記しよう(★)。ひとつは奥出雲でもそれらは多かったのではなかろうかと。佐白で焼畑を実験しはじめて5年がたつが、向き不向きが地形、土質、元の植生等々によって大きく異る。栽培する作物にもよるだろうし、時期にもよる。そうした背景に加えて、昨年春の桁焼きによる雑穀栽培がみごとなまでに失敗であったことは、そこから何を学んで活かすかを考えざるをえない。桁焼きをやっている自然栽培農家のブログ等にもある通り、桁焼きのいくつかの効用はあるが、下手にやると「焼畑効果によって」雑草の勢いがますというものがある。種子は死滅し、地下茎、株が弱るのであればともかく、温存してしまえば他の植生を受け入れる余地はかえって減るものだ。それは草原の火入れ効果を考えれば必然でもある。
ことは単純な話だ。燃やすのに適さない「荒地」があるのなら、燃やさずにやってみようと。そういうこと。チラチラと土壌の化学や微生物やの知識を漁ってはみるものの、まずはやってみるところからだろう。春の失敗もよくやったといえよう。下手に作物が育っていたら、この道を選ぼうともしなかっただろう、まあよしとして次の「頁」をめくる。もともと昨年から活動名も「焼畑」ではなく「山墾り」としたのだから。
どうでもよいことがふえたと、それはトシをとったということで、いよいよもってやるべきことをやるとしになったということだ。死ぬまで自分のできることをやらねばと自分を鼓舞してくれるのが現代の年取りであってほしい。