焼畑の終わりと始まり

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 日本における焼畑は稲作以前、縄文時代から行われていた可能性が唱えられてきた。空間的にも北海道から八重山諸島にまで広がっている。その形態や特質は多くの変貌を時間的にも空間的にもとげながら、野山に火をいれるというその一点は近代まで連綿と続けられてきたことに間違いはない。

 少なくとも数千年におよぶ焼畑という営みも、昭和三十年代に入り急速に衰退し、確実に終焉を迎えたと、野本寛一は言う。現在の80代世代が、その最期を見届けたことになり、私たちにその探求の道は閉ざされた。

 一方で、平成も終わろうとするこの時代に、焼畑の火は消えそうで消えず、もはや歴史の進みの淀みとはいえないだろう。むしろ、数千年のときをへて、やっと、私たちは焼畑の真実にたどりつけるのかもしれない。黄昏に飛び立つミネルヴァの梟をとらえるがごとく。

 繰り返し同じようなことを言う。焼畑のイメージはつねに焼畑そのものから遠ざかろうとする。裏切り、間違い、幻像。「灰が肥料になるのですか」「究極の循環農法ですね」「環境破壊では」……すべてイエスでありノーである。

 奥出雲・佐白の地で「焼畑」を試行して三年。焼畑は農法や伝統や文化というよりは、生命現象に近いなにかであると予感する。

 焼畑は通常、Slash and burnで通用するが、Shifting cultivationも捨てがたい通念だ。むしろ「移動」することが「焼く」ことよりも本質をついているだろう。通説では、焼畑が場所を移動=Shiftingするのは、地力の衰えあるいは除草の手間が増大するためだとされる。が、本当にそうなのだろうか。

 別な言い方をしてみよう。焼畑が移動をその核にすえるのは、管理から逃れるためであり、定住と集団の大規模化に抗するためであると。anti-cultivation、すなわち反文化としての焼畑

 山の利用をめぐって、明治政府はまず自由放牧を、つぎに焼畑をしめだした。間接的にではあるが。抑圧する側としては、制御したいのであって、抑圧そのものが目的ではない。

 反文化は、文化に抗するわけだが、それは文化の側からの視点であることをことわっておく。

 

 野山に管理を徹底することで、結果としてなにが起こったのか。国は富を拡大できただろうか。人は豊かさを享受できただろうか。幼子を飢えや病気でなくす悲しみを総体として減らすことができただろうか。これもイエスでありノーである。

 「森が荒れ」「鳥がいなくなり」「山にはもう入れない」と土地の老人たちはいう。

 嘆きだろうか。いやそうではない。これは託されているのだ、まだ動ける私たちに。

 もうやらなくてもいいのだと。

 だが、やるなではなく、やってもいいというメッセージがそこにはある。

 やるなら覚悟をもっておやりなさいよ。そうやさしくはいわないだけであって。

 

 そう勝手に受け取って、私たちははじめたのだ。

 荒れた森を切り開き、火を入れ、畑をつくる。花が咲き、虫が集まり、鳥が少しずつふえ、荒地のキク科雑草の繁茂も二年目でずいぶんとおさまり、見ることのなかったスミレや柔らかな草、眠っていたチャノキが背をのばしはじめている。新しい森が成熟するにつれて、これらの生命はまた次第に消えていくだろう。

 作物の種はあつくまき、その多くは死に、生き残りもどんどん間引いていく。それでもできたりできなかったりする。

 まあ、なんとかつくりたいという一心なのだが、生と死が等価であるような生命の流れに同化することでなんとか私も生きたいと願う。

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