正月とカブ

正月にカブを供する儀礼といえば、七草粥があるのだが、その起源をたどろうとすると、途端に錯綜した渦に翻弄されることになる。

まあ、いろいろとね、諸説あるんだけどね、と言いたく(まとめたく)なるのをこらえつつ、あらためてとらえてみようと思ったときに、『丹波の話』に出てくる「若菜迎え」が鍵になるのではと直感したことが、この書を取り寄せるきっかけである。

磯貝勇『丹波の話』、昭和31年刊行。

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読んだことはなかったが、その名は何度も見ていた。小学館の国語大辞典、そして方言大辞典の項に「若菜迎え」があるのだが、そこに典拠として、丹波・丹後のいくつかの文献、そして島根県方言辞典とが並びあげられている。「若菜迎え」自体は、丹後、山陰以外の地にもあったのだろうとは思う。が、もしかしたら、このふたつの地域にのみ、伝わってきたものなのかもしれない。
ともあれ、失われた習俗として、若菜迎えの姿をとらえていくための入口が、この『丹波の話』なのである。

さて、この書は6つの章からなるが、若菜迎えが出てくるのは「由良川風土記」においてのみであり、その記述もきわめて少ない。

地域は由良川上流部の何鹿郡(いかるがぐん)、船井郡天田郡といった郡部と綾部市であり、現在ほとんど綾部市内に入っている。

1950(昭和25)年の筆記である「正月の行事など」という一節は、「正月にまつられる神様は、由良川沿いの村里でもトシトクサン、あるいはオトシサンなどと呼ばれている」という一文からはじまる。穀物の霊、農耕神の性格をもつ神であることは一般に知られていることだがとして、その特徴がはっきりあらわれているものとして、まつる”場”について一見とりとめもなくあげている。私のほうで整理しなおした箇条書きを以下に記す。

1. 俵の上にまつる(綾部市和木)

2. 一升枡、斗升、升掛など枡を司る神様で枡にまつるものだといっている(綾部市星原)

3. 歳徳神の軸を床にかけ、その前に種モミの俵をおいて祭る(天田郡川合村)

4. 米俵の上に松をさし、ヘヤの中で祭る。松は三段五段のもので松かさの多いものを選ぶ(船井郡和知地方)

◆追記1

七草粥に供される七つの草とはなにか。現代においては、口承も習俗もほぼなくなりながら、買い求め食するものとしてむしろ根強く残る正月の行事として存在感をむしろましている感すらある。そのせいか依拠するところ、三次的孫引き的テキスト、単純複製されたテキストによって七草の種類が定まっているように思う。つまりは全国共通した種類となっているということ。そのルーツを求めていけば、『河海抄(かかいしょう)室町時代初期に成立した『源氏物語』の注釈書にたどりつく。

(せり) なづな 御行(おぎょう) はくべら 仏座ほとけのざ すずな すずしろ これぞ七種

まとめとして、以下が簡便ゆえ参照のこと。

ja.wikipedia.org

www.benricho.org

chusan.info

上記「七草の歌・作者はだれ?」にはこうある。

《和歌を中心とする文化も貴族階級のものになってしまって、萬葉集のころの庶民性は失われ、題材も花鳥風月や恋愛に型が決まり、野菜などの食べ物を描写するのは卑しめられたようです。そのせいか、このころに書かれた竹取物語伊勢物語には野菜はひとつも登場しません。

しかしこの時代でも、若菜だけはめでたいものとして歌に詠まれ物語に現われます。若菜はお正月だけではなく、四十歳からの長寿の祝などにも「若菜まゐる」という祝賀行事が行われました。

この行事の記述はいくつもの古典文学に見られます。源氏物語の「若菜」上下巻はその代表でしょう。でもこの大和物語のお話はそんなお祝い事ではありません》

若菜まゐるとは?

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/2074/1/0050_014_001.pdf

中秋節に火を入れて

今日は仲秋節。月に願いを。地には平和を。…というわけで焼畑の近況をば。
・今日のお昼すぎに、昨年春に残った竹積み箇所を焼きました。カブを蒔く予定。
・春焼き地のホンリー、アワ、ツル小豆等混植区はそれぞれ色づいてきました。収穫準備。鳥たちも虎視眈々と狙っているようですが、ホンリーのカラフルな色が迷彩のように効果を発揮しますかどうか。
・大豆はまあまあの出来具合。枝豆が楽しみです。
陸稲はようやく出穂。実が入ってくれるかな。
・ナスはわずかですが、ぼちぼちとっています。
・トマトは収穫に入ってます(加工食向きですが、生でも甘み酸味ともにいい感じ)。量は少ないですが、美味。
・サツマイモは茎とって喰うべし。猪に先を越される前に、と思っていますがどうなりますか。

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9月8日の草刈り雑感

この日の最高気温は35℃ほど。日差しの強さは8月のそれと比べればやわらかで、また時折雲がさえぎることもあり、「やってできなくはないか」と、草刈りをはじめたのでした。
はじめて数十分で、汗の流れが尋常でないことに気づきます。なぜだろう。体調の問題なのか。いつもより休みの頻度も長さもとって、水分補給もこまめにしたものの、消耗ははげしく、2時間弱で切り上げることになりました。刈った場所はここと、2年畑を少々。

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写真中ほどに残っているクズのからんだ竹は、このあと、ばっさりと切り倒しています。
さて、作物の様子です。 ホンリーは穂が鮮やかに色づいてきました。

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オカボはいまだ出穂みられず。菜園畑ではではじめているので、来週にはみられると思います。出穂から収穫まで60日として、11月上旬の刈り入れかあと。

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トマトはようやく勢いづいてきました。実は小さくとも真っ赤になるほどに熟したものだと酸味がしっかりあって、加工食用として「使える」ものになってます。

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タカキビは10月初旬から収穫できるかなあと。柵を補修しておかねば。

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農書『家業考』〜年中勝手心得の事 からの示唆

木次図書館の郷土資料の棚に農文協の農書全集第9巻がある。「神門出雲楯縫郡反新田出情仕様書」や「農作自得集 」をおさめているからだろうか。あるいは広島県高田郡吉田町に豪農が記した「家業考」を、雲南市吉田町のものと勘違いしたということも考えられる。  なにはともあれ、ざっとではあるが、目を通してみるに、ほかの農書に比してもそうとうおもしろい。肥料としての焼土の利用が仕込みも含め年間通じてかなりのボリュームをしめているのも興味深い。焚き木にもならない小さな小枝を使うのだとか、田植の馳走に鯖を手配しているのだとか、ふるまわれるのがどぶろくではなく清酒であることだとか。郷土史編纂の折、偶然にも「発見」された丸屋甚七著とある農書。再読していねいに記しておきたいが、今日のところは4つをとりあげておく。

●正月一日の食事のことなど。

《正月一日。家来ぞふに(こぶ、ごほふ、大こん、ぶり)。中飯米のめしつけもの。夕はん米めし、平(ぶりのあら、大こん、いも、みそ汁、酒かんどく一つ。》

まず、一日が三食であることを記憶しておきたい。この書は明和年間(1764〜71)にしたためられたと推定されている。市中ではない、農村での食制である。ぶりのあらなんてものまであるのだから、おどろくことでもないのかもしれない。

昼食が「米の飯」に漬物。翻刻・解題の小都勇二は、米の飯が多いことに意外感をもたれているようだ。かぞえてみれば、三食とも米飯の日が年間14日、昼夜二食が4日、夜だけでも米の飯という日が14日。もっとも、この豪農家がとりわけ多かったのかもしれないわけで、しかし比較しうる資料もなかなかあるものではないだろう。

ふと、農家はもっと米の飯を食べていたという資料の読みを書いている有薗 正一郎の論考を思い出した。書棚の奥に引っ込んだままなので、また紐解いてみよう。検索をかけたら、「家業考」についての論文があった。 〈「家業考」にみる中国山地西部の水田耕作法の地域的性格〉愛知大学大学論叢72号1983年/愛知大学文学界(p.312〜291)  国会図書館のデジタルアーカイブにおさまっているようなので、折をみて図書館でみてみよう。

夕はんにある平とはおひらのこと。平椀のことだが、知らなかった。妻にきいてみれば、「おひら」のことでしょうと。お盆のときなどに供える膳にのる椀としてよく知られているだろうとのこと。口絵に写真があって、膳に四椀が並ぶ左上からお平、坪、飯碗、吸物椀となっている。

酒かんどく一つとは銚子に一本ということのようだ。
ほかに、牛にてんこ10、よき餅10とある。てんことはてんこもちのこと。小都氏の注釈には「くず米や小米、籾殻まじりの米をこねてつくる粗末な団子もち」とあるが、石見山間部では粟や黍など穀類などが主ではなかったか。これも事典類をひいたところでは、広島・島根など中国地方に多い方言のようだ。「てんこ」の語彙を知りたい。

●とろへいのこと

《正月十四日。よなべさせぬこと。とろへいハそうべつてもち壱つツゝ、尤此谷のこどもちさきいわひ一つツゝ》
とろへいが明和年間にはあったということがここから知れる。大正時代前後に編纂された郡史には、とろへいを乞食として扱っていたのではと思い起こしてみるがよくわからん。要確認のこと。
よなべをさせないのは、15日からみやげをもたせて家に帰させるからということもある。

●年越と年取りは違う!?
これが主題といっていいのだが、よくわからない。原文をあげておきながら宿題とする。

《としごへのばんニハよなべなし。としとりのばんニハなをさらよなべハなし。まやいあらば木こり、木わり、わらしごとハ時の考ニてさしてよし》

作業仮説としては、年越の晩が大晦日、年取りの晩が元日の夜であろうか。大晦日であっても暇があれば仕事をさせてもよいと追記しているので、年越しの夜からが休業という意味合いもあるのかもしらん。  家業考では休日のことを「あそび日」としている。

《正月三ケ日ハ朝より家来下女ともあそぶ。其外の年中のあそび日ハ朝飯迄しごとして朝飯よりあそばしてよし。》

年越しについては、国史大辞典における田中宣一の文をあげておく。

年越(としこし) 新年を迎えようとする夜の時間、およびその間の行事。一般に年越といえば大晦日の夜を指すが、立春七日正月小正月を控えた夜をも年越ということがある。古い考えでは日没時を一日の境としていたとされるが、この場合、夜は前夜ではなく、もう朝に続く一日のはじまりとみなされていたのである。したがって、新年を控えた年越という夜は、年の最後の時ではなく、新年に含まれる時間であった。一方、神霊の出現は夜とされ、祭は夜に開始されるのが普通である。だから年越にはすでに正月の神が訪れてきているのであり、この神を祭るいろいろな行事が執り行われるのである。大晦日夕方までには正月飾りを完了し、そのあとハレの着物に着替えて、一家揃って年神棚の前でハレの食事をいただく地方があった。このハレの食事をオセチ料理という所もあるが、一般化した年越そばもこの一種かと思われる。また、この夜は囲炉裏で浄かな大火を焚きながら起き明かすべきだと考えられており、もし早く寝ると皺がよるとか白髪になると信じられ、その上「寝る」という言葉さえ忌んで、代りに「稲を積む」といっていた所は多い。これらは来臨した年神に一夜侍坐していることを意味し、夜が明けると神への供饌を下ろして神人共食するのが、雑煮を祝うことのもともとの意味であったとされる。節分・六日年越・十四日年越の場合にも、同じく神の来臨を想定して各種の行事が行われ、明けて七草粥や小豆粥が祝われるのである。》

夜が一日のはじまりというのは世界共通の「原始」認識であることは、学的には定説といっていいだろうが、ひろく常識とはならない。クリスマス・イブについてもそうであるように、前夜祭という意識・観念を払拭するには至らない。
この認識・感覚のズレは、掘り下げてみるとおもしろいものが出てきそうだ。
あぁ、そして思いついたことを最後に。
神人共食がセチの料理であり、年越しの料理であるのに対して、雑煮は異なる。
それはプレゼント。贈与なのである。年玉がそうであるように。 年取りカブは、神が食したものの下賜なのであり、と同時に身分の違うものが同じものを食するというそういう世界を顕現させるものとして、もちとは異なる何かなのだ、と、まずは想定して、進んでみよう。

◆追記注1―はじまりとおわりの感覚
 はじまりがあっておわりがあること。私たちはそれを当たり前のこととして、常識として、生きている。別な言い方をすれば、1日にはじまりがあることを疑うことはないし、はじまりとはなにか、一日とはなにかということを、「考える」「吟味する」ことはない。が、少しだけ、ほんの少しだけでも、疑いをはさむことはじつに容易であることにむしろ驚く。感覚的には、一日にしろ一月にしろ一年にしろ、そこにはじまりもなければおわりがないというのが、「感覚」がひとりひとりに示すことだからだ。そう、はじまりもおわりも、きわめて言語に依存した概念・観念なのだ。
 さらにすすめていえば、単位、区切りというもの自体がそうだ。一個二個という単位は同じものがふたつ以上存在することが条件となるが、二進法があればロゴスが生まれのとは異なるレベルで、数には秘められたロゴスが宿ると信じられてきた。
日本における六曜が数百年にわたって、「迷信だからよせ」「禁止する」などの弾圧をものともせず、生き延びているこの強さとはなんなのかということについて、それは「数」がつねにたちあがりつづける契機として機能しているからだと仮説づけてみよう。ここから、はじまりとおわりの「感覚」がなんなのかが見えてくるはずだ。

2018年8月31日、焼畑に猪

イノシシにモロコシを食われてしもうた。

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タカキビも数本倒されていたが、まったくといっていいほど食べてはいない。が、モロコシは口にあうのか、ガシガシとやっている。最初、牛がここまであがって、食べたのかと思ったが、いやイノシシだと。 まず、牛であれば、タカキビの茎や葉を倒すことなく上からがぶりと食べる。かじって放置ということはない。モロコシはわからないが、タカキビと同様だろう。
そして、もう実をつけているとはいえ、牛が大好きなヒエがまったく手つかずだったのだ。あわせて、サツマイモを掘ったあともある。

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焼畑でモロコシはつくれんということがわかった。こうも選好されてしまってはね。  イノシシは牛が苦手なのか、牛が入るところには入ってこない。

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今年焼いたここの急斜面は礫土が多くもあり、牛もとりつくことすらしていないようだ。
ここ(下写真)のアマランサス。いつか食われるだろうなあと思っているがまだ手つかずだった。
もっとも下方にみえる、ちょうど道の横にあるアマランサスは茎を残して葉をすべて食われてしまっていた。どちらも一週間前にヨウシュヤマゴボウに覆いかぶさるようにしてあったものを露呈させたものだ。

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その様子を、竹藪からのぞいていたウリ坊。「よし」と鼻息をあげたかどうかはわからないが、思い切って畑に踏み込んだのだろう。やり放題とわかれば、ほかのものにも手を出すだろう。 うむ。どうしたものか。 牛の糞をおいてみようか。

出雲の山墾り〜2019年の8月24日

8月の振り返りをと思い、記録をみたら、4日しか動いておらず、意外な感に打たれる。
やったことはほぼ草刈り、ひたすら草刈り。1日3時間までが活動限界なのは、ともかく暑かったことによる。どんなに水分を補給しても足りない。体重にして2kgほど毎回消耗する。そんなことを延々と毎週やっていたような感覚だったのだがと、記録を見直してみれば、あぁ、そうだったねと。今年は梅雨の時分も雨が少なく、7月初旬から結構うごいていて、草刈りロードともいえる、毎週草刈りをする状態に突入したのは7月7日からだった。そこから数をかぞえてみれば、今日で10回目である。納得。
なんでこんなに草を刈っているのだろうと思えば、そう、今年は収穫量をふやさんとして、ケタ地にも火を入れているし、2年目の畑にも手を入れているのだった。
さて、何はともあれ、畑の状況を。

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春に焼いた山。向かって右手から広がる緑、その大半はヨウシュヤマゴボウ。白い花を咲かせ始めていて、実になる前に刈り取ってしまおうかどうか、少々きめかねている。火入れ後のパイオアプランツとして優勢な種ではあったが、ここまで群生したのは今年の春焼きがはじめてだ。行く末を観てみたいという好奇心と、放牧牛の侵入防止に多少は寄与するのではないかという期待と、急斜面の礫質土壌にとって、被覆効果も一定あるだろうという効能、などなど。これら期待面に抗するのは、「ひろがるとやっかいだ」という先入観だろうか。その生態についてよく知っているわけではないが、実も葉も根も「食えない毒」で、強健な外来植物ということからも、つべこべ考えずに「駆除」というわけだ。
だからこそだろうか。問答無用で駆除されるものにシンパシーを抱きがちな心性をもつ我が身には、まあ、ちょっと様子をみてみようやという気持ちもそこそこある。宙ぶらりんでの状況放置なのだが、実際刈り取る時間がないということがそうさせているのだ。
また、毒だの食えないだのという言説が過剰に流布する昨今の事情に鑑みれば、ひょっとして食えるかもしれない、試してみようかというのもある。食えたらいいだろうなと。
岡山理科大波田善夫教授はこう書いている。

「有毒植物に分類されており、若葉をおひたしにして食べたりすると下痢・嘔吐・ジンマシンなどの軽度の中毒症状が出るという(硝酸カリやサポニン)。有毒であることは知っていたが、先般イタリアの植生学者が果実を食べたことがあるといって実を口にした。みんなで止めたが食べてしまった。調べてみると果実は毒ではないとのこと、納得である」

岡山理科大学・旧植物生態研究室(波田研)〜「植物学事典」   また、こういうのもある。 ざざむし_有毒なヨウシュヤマゴボウを上から下まで食べ尽くしてみる  ざざむし氏はこう書いている。

「毒がどうのこうの以前に、味見程度の5粒でもう結構です。ほんのり甘いが僅かな青臭い風味があり、喉越しからじわじわとエグ味を感じ後を引く。……中略……実10粒くらいは問題ないという話なので5粒くらいは平気だろうと噛み砕いて飲んでしまったが、とりあえず問題はなかった。 しかし度々比較に挙げるウナギのレクチンがO型の赤血球を特異的に凝集するように、特殊な成分は誰にでも同じ症状が出るとは限らない。人によっては少量でも酷い症状になる可能性があるから生食は避けたほうが無難だろう。逆に、ウナギを白焼きする程度で無毒化できるのと同レベルの植物レクチンなら加熱するだけで問題ないはずなのだが果たして?」

さて、当方はといえば……。 1週間ばかり前だったろうか、鳥が熟したヨウシュヤマゴボウの実をついばんでいるのを観た。「へえ、鳥は食べれるんだ」と。人は豆を生食できないが、鳥は食べるのと同じ理屈かとも思ったが、調べてはいない。人は体内にそうしたものの分解酵素や抵抗性をもたなくても、加熱という手段で無毒化をひろく行える。つくづく人間にとって火とは大きな存在だなあと思う。そんなことなどもこのヨウシュヤマゴボウ群落の行く末とともに考えてみよう。2年目からは他の種に圧倒され、小さく埋もれていくだろうことを予想しながら。
このへんで次へ。ヨウシュヤマゴボウについてはまた改めて。

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おわかりだろうか。アマランサスである。種を撒いた記憶はないが、牛が持ってきたとも思われない。鳥は食べないはずだが、何かをついばんだ拍子にここにこぼれていたのか。
斜面を登るために、ヨウシュヤマゴボウを倒した陰から出てきたのだ。本当に偶然。この後、ちょくちょくとのぞいてみたのだが、ここだけのようだ。
夏の終わりにこの伸長ぐあいだと、収穫できるほどの結実までいくかは微妙。赤穂と黄穂がまじっている。生育具合をみて間引きが必要であれば、赤穂を残すことにして要観察とする。

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タカキビは出穂。茎の直径も、高さも、例年より低いものだが、焼いているとはいえ、礫土の場所なので、むしろ上出来ともいえようか。いや、上出来というのは間違い。今年は栽培量をふやそうとして失敗している。ここにしても播いたもののうち1〜2割程度の発芽だったかと思う。発芽率がなぜに落ちているのか、2つ3つ考えられる。昨年の種子、未熟なものが多かった。牛に食われたものの再生茎からなんとか実をつけたものと、菜園畑で数本からとったものを播いている。
来年は苗からの移植もまじえて、種子を絶やさぬようなやり方をとることとする。3段構えくらいかな。実生、苗植え、古い種からの種子群と、栽培地を2ヶ所で。昨年の反省から、条件として日照を重視することを忘れずに。

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焼畑のトマト。種継ぎ三年目。加工食用のサンティオ。実のつきが少なく、果実も小さく、どうなんだろう。根がつきにくいのだろう。昨年(2018年)の火入れ地では藪を形成するように地を這って根をつかせがら大きくなっていったのだが、そうした状態にはほど遠い。1〜2週間前までは葉が枯れそうにやせ細っていた。
八月の終わりにしてこの茎の太さでは、よう実をつけんだろう。

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陸稲(ネリカ)。こちらも生育は遅い。がんばれよ。

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その横には茄子の黒小町。思ったよりもよくできている。

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もう一方の区画のヘミツルアズキ。

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アワが熟してきた。

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火入れ直後の同じアングル。

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上から。

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ヒエが悪条件(日陰)ながら、なんとか実をつけてきた。

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里芋。

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パープルサルシファイ。

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白大豆。

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キクイモ。

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7月13日、21回目の活動セクションです。
 去年より火入れは1週間ばかり早かったはずですが、気候のめぐりあわせが悪く(高温下で梅雨入り遅く降雨少なく、梅雨入りしてからは気温が低い)、播種したものたちの生育は、遅い=よくないと感じます。 こちらは昨年2017年7月15日の陸稲。これとてずいぶん定植が遅れ、やきもきしたことを覚えていますが、こんな具合。
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そして、昨日の陸稲の様子。

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次。上の写真よりおそらく7日ばかり前に定植したものがこちら。

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 ところかわって、ケタ地のアマランサス。ほとんどダメかと思っていたのですが、他の草をよりわけ「救出」したもの。

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 昨年、2018年7月28日のが下の写真。あと10日でここまではとうてい無理ですが、10日遅れとして、8月7日にはここまでいきたいものです。

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安曇野ちひろ美術家でみた、シビル・ウェッタシンハ『かさどろぼう』

7月5日の「本とスパイス」、テーマは「雨が滴り落ちるその場所について」。 雨が滴り落ちるその場所について〜シビル・ウェッタシンハ『かさどろぼう』はじめ.(本の話#0019) 先月、安曇野ちひろ美術館で出会ったいくつかの〈もの〉〈光景〉をきっかけ、あるいは足がかりとして論じてみたい、誰かに伝えてみたいと思ったのだ。 今日からまとめていくのだが、そのきっかけを思い起こすために、雑想として記しておく。 まずは写真のみのせておき、テキストはのちほど加筆。

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(つづく)

●主な図書等 †. シビル・ウェッタシンハ作&絵、いのくまようこ訳『かさどろぼう』(徳間書店) †. 『雨と生きる住まい―環境を調節する日本の知恵』(LIXIL出版) †. 下山眞司〈縁側考―「謂れ」について考える〉新しいウィンドウで開きます〜建築をめぐる話…つくることの原点を考える(web)

その昔、どんなヤキモチ、オヤキが食べられていたのか

 どこかで読んだのだが思い出せない。「へえ〜。仁多にもあったのか。そりゃあっただろうけれど」という記憶のみ。そう、仁多に、かつてオヤキ=ヤキモチがあっても不思議でもなんでもない。全国どこでもそうだろう。しかし仁多では早くから米食の比率が高まり、麦・雑穀の食制が他の山陰地方より早くなくなっているだろうから、「オヤキをよく食べた」と語る人が昨今まで存命だったというのは驚きではある。たとえ、いらしたとしても、それが活字になって残るためには、「そう語ってもよい」という、発語者と受話者、そして活字となってひろまる地域の受容性がなくてはならない。※1)訂正後述  その前提からすると、郷土食ブームが過ぎさった後、昨今の「商品開発」の流れのなかで、浮かんできたもののようにも思える。「オヤキ」はいまや売れ筋なのだ。流れとしては中に入る具の種類がふえ、サイズが小さくなり、といったところ。小麦粉にベーキングパウダーをまぜふっくらとした生地となっていることもある。  
 安曇野チヒロ美術館で食べたオヤキ。小さなふたつだが、大人のお腹を満たすのに十分。「具」は野沢菜とキンピラ。生地は薄め(かな)。

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 小学館デジタル大辞泉プラス」では2017年12月更新として、オヤキを次のように説いている。 《長野県の北信地方発祥の郷土料理。炒めて味噌で味付けしたナスなどの野菜の餡(具材)を小麦粉の皮で包み、蒸し上げたもの。古くは囲炉裏の灰で焼いて仕上げたことから「お焼き」の名がついた。「焼餅」とも。現代では県内全域に見られるが、北部ではお盆に食べ、南部では11月のえびす講で小豆餡のおやきを供えるなど、地域により異なる風習もある。近年では野沢菜、カボチャ餡、キノコ、切り干し大根など餡のバリエーションも増え、カレー味などの変わりおやきも作られる。》
 古い事典の類には、「長野発祥」という記述は管見の及ぶかぎり見られず、おそらく郷土食の商品化の流れのなかで全国的に「おやき」という名称が一般化したものだろう。それというのも、ここでも北信地方発祥とする「おやき」は北信地方ではかつて「おやき」ではなく「やきもち」という名称が一般的であったからだ。
 昭和59年発行の「長野県史・民俗編 第四巻(一)北信地方 日々の生活」では、一般名を「ヤキモチ」とし、別名として以下のものをあげている。
・おやき ・こねつけ ・ちゃのま

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 皮の材料も北信地方のなかで多種、食制も朝に、昼に、夕に、おやつにといろいろ。ともかく、「焼く」食料の代表ともいえる存在だろう。小麦粉が主ではあるが、クズ米の粉と他の粉との組み合わせの類型も多い。ひろいあげてみよう。
・小麦粉 ・米粉(くず米) ・そば ・あわ ・ひえ ・きび ・とち ・もろこし
  瀬川清子,1968『食生活の歴史』(講談社)には、新潟の小林存翁が取材した食生活をひいて当時の主食がなんであったかを問うている箇所がある。そこでは、カテメシ、雑炊より「ひどい」ものとしてヤクモチがあげられている。

《魚沼郡・頸城郡の山村にゆくともっとひどい、粃米に雑穀の粉をまぜた団子の中には餡の代わりに葉っぱの油煎に味噌あじをつけたものを入れた人頭大の焼餅をつくって、藁火・柴火でじかに焼き、手で灰を払って食う、これをアンプ又はヤクモチといったが、それで茶を飲めば朝飯は終わりだから、朝に人に逢えば必ず”茶あがらしたか”という。昼飯に山にもっていくのもそれである》

さて、※1の訂正について。
 仁多にヤキモチ、なかったよねと、農文協の『聞き書 島根の食事』を開いてみれば、奥出雲にしっかり見出しつきで掲載。もし島根にあるのだとしたら、石見山間部だろうという思い込みが見事に外れたわけで、ほんとに愚考・愚見だなと反省する。  石見地方よりむしろ出雲地方にみられるのだ、ヤキモチは。
 まず奥出雲のヤキモチについては、米の項目のうち「米の粉でつくるもの」として4つあげられるもののなかのひとつ。

ヤキモチ  米の粉二合にそば粉八合と熟柿一〇個を加えてぬるま湯でこね、だんごにする。これを浅い鉄なべで焼いて味噌をつけて食べる。十一月から十二月に食べるもちで、年によっては針供養のとき、このpもちに針をさして川に流すこともある。》

 興味深いのは「米の粉でつくるもの」として挙げられている他の3つ、すなわち「八日焼き」「笹巻き」「あこ見だんご」はともに儀礼食であり米粉を主原料としてつくられるものであるのに対して、「焼きもち」だけが、そば粉を主としてつくられる「日常食」として挙げられていること。
 ここには、何か、ありそうだ。
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追記1 太田直行『出雲新風土記』に焼餅の記述がある。

《…弁当にはエンドウ飯に塩さばをそえてお昼ごろ主婦が山へ届けまたオヤツ用に夏豆餡(そらまめあん)の石糠餅(いしぬかもち)も作る。》

 この石糠餅が「焼餅」なのである。  なぜ石糠なのか。つづけてみてみよう。出雲地方における、焼餅=オヤキの古態を、肝要にまとめている。

《石糠餅は、死米や青米の混った屑米を石臼でひき、よくこねたものを拳大にまるめてホウロクにかける。従って「焼餅」ともいうが、腹もちがよいので農繁期には不可欠の間食、いな主食でもある。しかし御馳走ぶりに作る時は季節のもの、即ちサツマイモ、ソラマメなどを餡に入れたり、また粉によもぎや柿をまぜたりする。柿は渋い生マ柿をつきまぜるのだが、焼くと不思議に渋味が去って甘くなる。これをカキゴという》

太田は明治23年の生まれ。緒に「自分の体験から幾分かでも血の通った記録を残す」ものとして、年代を明治中期から大正初期にかけての一部落のものだとしている。すなわち大田の郷里たる能義郡飯梨村。 ==== 大

陸稲苗の定植

 6月29日の土曜日、陸稲苗・ネリカの定植をした。育苗箱2つぶんである。6月5日前後に播種した同じネリカの種の様子はといえば、かなり成育が悪い。裏の畑の隅の日陰に植えた種と比べても、高さにして半分以下である。荒れ地では根が張るまではこんなものなのかもしれない……というレベルを超えているようだ。今日、定植をその成育の悪い場所の上方でやり始めたところ、あぁ、と今更ながら気づいたことがあった。
 これまで、牧場地内の焼畑も春に夏にいくつかの場所でやっており、それぞれ土質が異なっていたものだが、今回はどことも一線を画するような違いがある。通称でナラヤマと称している場所の北東傾斜部は礫が目立つ。目立つどころが礫しかないようなところさえある。火入れの前は一面、孟宗竹だったはずなのだが、同じ北東傾斜部でも上部にはかなり多様な植生が竹林下層部にあり、伐開後に続々と再生していたものだ。それに比して、下層の礫が多いところについては、再生竹と葛が出始めているのみ。火入れ前もそうだったろうか。  そう、表面部だけみれば北東傾斜部はそうなのだが、冒頭にあげたネリカの成育が悪い場所も、今回、苗を定植しようと鍬をいれてみれば、真砂になる前のような砂粒が多かったのだ。植物の成育にはきびしいだろう、これは。
 てなことを考えつつ、定植予定の場所を変更して、東部の上方へ。こちらは赤っぽい、やや粘土質の土壌だ。陸稲にはいいかもしれない。ただ、この場所は9月をまわると日照が悪くなる。  あぁ、そうそう。この場所、もともとは半分やけになりながら稗を鍬入れして条蒔きし、モチアワをダメ元でバラマキしたところでもある。
 稗はいまだ発芽せず、モチアワも同様。  ダメ元はやはりダメであったことがわかったのだが、1本も芽が出ていないというのは、こたえる(た)なあ。
 雨が降り始めたので、13時40分できりあげた。

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▲直播のネリカ(陸稲)。なんとか生きてくれ。結実したとしても粃が多くなるだろうなあと思いながら。

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▲高知のモロコシもがんばれ〜。

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▲島大で播種したモチアワは、ホンリーよりも出芽がよいようだ。こちらの斜面はもともと土の条件もよい。ここはホンリー、モチアワ、ツルアズキ、ハタササゲ、サツマイモの混植。

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▲礫の多いナラヤマ北東部斜面