その昔、どんなヤキモチ、オヤキが食べられていたのか

 どこかで読んだのだが思い出せない。「へえ〜。仁多にもあったのか。そりゃあっただろうけれど」という記憶のみ。そう、仁多に、かつてオヤキ=ヤキモチがあっても不思議でもなんでもない。全国どこでもそうだろう。しかし仁多では早くから米食の比率が高まり、麦・雑穀の食制が他の山陰地方より早くなくなっているだろうから、「オヤキをよく食べた」と語る人が昨今まで存命だったというのは驚きではある。たとえ、いらしたとしても、それが活字になって残るためには、「そう語ってもよい」という、発語者と受話者、そして活字となってひろまる地域の受容性がなくてはならない。※1)訂正後述  その前提からすると、郷土食ブームが過ぎさった後、昨今の「商品開発」の流れのなかで、浮かんできたもののようにも思える。「オヤキ」はいまや売れ筋なのだ。流れとしては中に入る具の種類がふえ、サイズが小さくなり、といったところ。小麦粉にベーキングパウダーをまぜふっくらとした生地となっていることもある。  
 安曇野チヒロ美術館で食べたオヤキ。小さなふたつだが、大人のお腹を満たすのに十分。「具」は野沢菜とキンピラ。生地は薄め(かな)。

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 小学館デジタル大辞泉プラス」では2017年12月更新として、オヤキを次のように説いている。 《長野県の北信地方発祥の郷土料理。炒めて味噌で味付けしたナスなどの野菜の餡(具材)を小麦粉の皮で包み、蒸し上げたもの。古くは囲炉裏の灰で焼いて仕上げたことから「お焼き」の名がついた。「焼餅」とも。現代では県内全域に見られるが、北部ではお盆に食べ、南部では11月のえびす講で小豆餡のおやきを供えるなど、地域により異なる風習もある。近年では野沢菜、カボチャ餡、キノコ、切り干し大根など餡のバリエーションも増え、カレー味などの変わりおやきも作られる。》
 古い事典の類には、「長野発祥」という記述は管見の及ぶかぎり見られず、おそらく郷土食の商品化の流れのなかで全国的に「おやき」という名称が一般化したものだろう。それというのも、ここでも北信地方発祥とする「おやき」は北信地方ではかつて「おやき」ではなく「やきもち」という名称が一般的であったからだ。
 昭和59年発行の「長野県史・民俗編 第四巻(一)北信地方 日々の生活」では、一般名を「ヤキモチ」とし、別名として以下のものをあげている。
・おやき ・こねつけ ・ちゃのま

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 皮の材料も北信地方のなかで多種、食制も朝に、昼に、夕に、おやつにといろいろ。ともかく、「焼く」食料の代表ともいえる存在だろう。小麦粉が主ではあるが、クズ米の粉と他の粉との組み合わせの類型も多い。ひろいあげてみよう。
・小麦粉 ・米粉(くず米) ・そば ・あわ ・ひえ ・きび ・とち ・もろこし
  瀬川清子,1968『食生活の歴史』(講談社)には、新潟の小林存翁が取材した食生活をひいて当時の主食がなんであったかを問うている箇所がある。そこでは、カテメシ、雑炊より「ひどい」ものとしてヤクモチがあげられている。

《魚沼郡・頸城郡の山村にゆくともっとひどい、粃米に雑穀の粉をまぜた団子の中には餡の代わりに葉っぱの油煎に味噌あじをつけたものを入れた人頭大の焼餅をつくって、藁火・柴火でじかに焼き、手で灰を払って食う、これをアンプ又はヤクモチといったが、それで茶を飲めば朝飯は終わりだから、朝に人に逢えば必ず”茶あがらしたか”という。昼飯に山にもっていくのもそれである》

さて、※1の訂正について。
 仁多にヤキモチ、なかったよねと、農文協の『聞き書 島根の食事』を開いてみれば、奥出雲にしっかり見出しつきで掲載。もし島根にあるのだとしたら、石見山間部だろうという思い込みが見事に外れたわけで、ほんとに愚考・愚見だなと反省する。  石見地方よりむしろ出雲地方にみられるのだ、ヤキモチは。
 まず奥出雲のヤキモチについては、米の項目のうち「米の粉でつくるもの」として4つあげられるもののなかのひとつ。

ヤキモチ  米の粉二合にそば粉八合と熟柿一〇個を加えてぬるま湯でこね、だんごにする。これを浅い鉄なべで焼いて味噌をつけて食べる。十一月から十二月に食べるもちで、年によっては針供養のとき、このpもちに針をさして川に流すこともある。》

 興味深いのは「米の粉でつくるもの」として挙げられている他の3つ、すなわち「八日焼き」「笹巻き」「あこ見だんご」はともに儀礼食であり米粉を主原料としてつくられるものであるのに対して、「焼きもち」だけが、そば粉を主としてつくられる「日常食」として挙げられていること。
 ここには、何か、ありそうだ。
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追記1 太田直行『出雲新風土記』に焼餅の記述がある。

《…弁当にはエンドウ飯に塩さばをそえてお昼ごろ主婦が山へ届けまたオヤツ用に夏豆餡(そらまめあん)の石糠餅(いしぬかもち)も作る。》

 この石糠餅が「焼餅」なのである。  なぜ石糠なのか。つづけてみてみよう。出雲地方における、焼餅=オヤキの古態を、肝要にまとめている。

《石糠餅は、死米や青米の混った屑米を石臼でひき、よくこねたものを拳大にまるめてホウロクにかける。従って「焼餅」ともいうが、腹もちがよいので農繁期には不可欠の間食、いな主食でもある。しかし御馳走ぶりに作る時は季節のもの、即ちサツマイモ、ソラマメなどを餡に入れたり、また粉によもぎや柿をまぜたりする。柿は渋い生マ柿をつきまぜるのだが、焼くと不思議に渋味が去って甘くなる。これをカキゴという》

太田は明治23年の生まれ。緒に「自分の体験から幾分かでも血の通った記録を残す」ものとして、年代を明治中期から大正初期にかけての一部落のものだとしている。すなわち大田の郷里たる能義郡飯梨村。 ==== 大

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