出雲びとのみぬは〜折口『水の女』

山あがりの文献渉猟の途上、折口の『水の女』に、1年以上寝かせたままの宿題を再発見。これも記しておく。
《神賀詞を唱えた国造の国の出雲では、みぬまの神名であることを知ってもいた。みぬはとしてである。風土記には、二社を登録している。二つながら、現に国造のいる杵築にあったのである》
みぬはの神をまつる社が杵築に2社あるといわれても、なかなかすぐには出てこない。杵築の地とひろくとらえて旧出雲郡のなかでみてみると風土記に「彌努婆社」とあるのがそのひとつ。
延喜式神名帳では、美努麻神社である。現在の奥宇賀神社として大正2年に社殿造営して遷合祀。江戸期には和田大明神として、和田灘に社があったようだ。 現在の祭神は経津主神。また、奥宇賀神社には時を同じくして合祀された『風土記』記載の「布世社」があり、江戸期は「籠守明神」と称されていたことは興味深い。旧くは奥宇賀布施宮床鎮座。旧三沢郷内の旧平田村に鎮座する籠守明神との符合やいかに、というところだろうか。飛びすぎてはいるが。現在の祭神は息長足姫命・伏雷命・武内宿禰命大己貴命

参照:変若水

変若水

 和田萃の「出雲国造と変若水」をやっと入手しました。  これから読みますが、その前に、問題を整理しておきます。 image

 変若水はヲチミズと訓み、石田英一郎の見解を次にひきましょう。

万葉集に見える変若水は渡来の神仙思想より古く列島に伝えられていた月の変若水の思想によるもので、次の中に水を汲む人間の形や菟の形をみることから生じたが、その根底には月の満ち欠けを人間の復活、若返りに結びつける考え方があった

 そして、主題たる「出雲国造神賀詞」の一文がこれです。

彼方の古川岸、此方の古川岸に生い立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、すすぎ振るをどみの水の、いやをちに御をちまし

 和田萃氏は要旨のなかで「この部分の詞章を変若水の事例とする解釈はほとんどないが、出雲国造天皇に変若水を奉献したと理解しうる」と述べています。 「解釈がほとんどない」のは、出雲国造の奉献のことであって、変若水とする訓みは本居宣長、そして折口信夫の功績によるのでは?と素人は思っておりました。どうなんでしょ。当該本文を読んでみるに氷解。そのとおりでした。他に脱字(旧河道とすべきところが旧道)も見つけておりますので、校閲校正ミスでしょう。 ・をちは万葉集では変若なる字があてられていて、変若水の字もある。沖縄の古いシデ水の伝説に触発されて、おちみずと訓じたのは折口。 ・宣長は『出雲国造神寿後釈』の中で、ここに仁多郡三澤郷条にみえる変若水が含まれているとしている。→県立図書館の開架所蔵を確認したので、またの折にみてみます ・神仙思想が夢見るのは「不老不死」、そして変若水が夢見るのは「若返り」です。 ・変若水は月にあるもの、常世にあるもの、……遠くにあるものであったのですが、どこかで「この世」のとある場所に実在するものとして、語られはじめます。そのひとつが、三澤の水でだったと。  ……和田氏の論考中、「おろちの水を探せ」として気になるところの結論を抜き出しておきましょう。

斐伊川旧河道に残る自然堤防崖面の湧水を指す可能性があるだろう。出雲国造は神賀詞奏上に際して、三津池や刀研ぎ池ではなく、三澤郷内の斐伊川旧河道の三澤で禊したのである」

つづく。

初詣に斐伊神社と木次神社へ〜その1

 あけましておめでとうございます。
 今日は仕事はじめ。初詣からをふりかってみましょう。 大晦日はカフェオリゼの年越しで深夜まで仕事のお手伝い。元旦は朝遅くにめざめまして、お雑煮つくって食べました。午後に、大原郡の郡家跡に停めている車を動かして斐伊神社と来次神社へ初詣。
 斐伊神社(月の光)  斐伊神社wikipedia 
 自宅から徒歩3分のところに郡家があったという由緒ある土地であることに改めて感心します。表示もなにもおかれていないのですが、山と川に想像をめぐらせて千年の歴史へダイブしていけるような、気持ちよい場所です。
 さて、そこから車で1分のところにあるのが、斐伊神社。
 斐伊神社は遠い昔、樋(Hi)社と呼ばれ、大宮の氷川神社はこの樋社から分霊されたというのです。が、その時代は孝照天皇三年。神武天皇からかぞえて三代目の天皇にあたるのですが、歴史の闇にあって、年代すらさだかではありません。後代の作文の可能性もありますが、埼玉には出雲系の氏族の色が認められるだけに、そのルーツがここ斐伊であると言いつのることも、荒唐無稽ではない。

 

 祭神はスサノオ命として現在、祀られていますが、はて、かの時代には、いかがであったか。埼玉の大宮神社では、アラハバキ神がもともとの祭神であったという説もあります。アラハバキスサノオ、2神の系譜と関係をみてみるとこから交差するものをひろってみるとおもしろいのかもしれません。 …つづく。

天が淵の西岸の集落の雪景色

 今朝の雲南市木次町はふたたび雪。

 通勤途中の天が淵付近、国道314号脇に車をとめて、撮りました。

 斐伊川の西岸の集落です。確か地名は「川手」。
 天が淵にまつわる伝承について、神陵や神社や、淵の底がお寺の井戸(だったかな)とつながっているとか、そのような話はすべて東岸に由来地があります。

 そして、この写真に見える西岸にはまったくない。

 そのあたり、もう少し知りたいところです。なぜなのかを。

 

20141222天が淵

天が淵の今

 斐伊川の八岐大蛇伝説は右岸(東側)に著しく偏っているようです。左岸は皆無にひとしい。また、「伝説」とはいいますが、ルーツは曖昧でかつその言説をたどってみれば近年、「観光推進」の文脈から発しているものであり、ふわふわと軽いものに思えます。
 ひとつひとつのルーツには興味をそそられるものもあります。パワースポット狂想曲や、ご縁の国などという言葉に惑わされることなく、足をはこんでみられたし。

 群書類従の神祇部におさめられた『雲州樋河上天淵記』に由来する天が淵周辺は、もう少し文字の記録などあってもよさそうです。これは宿題。

 また、天が淵の他に、オロチ伝承を表している地について、参照できるサイトをあげておきます。
    *1 追記改訂済み。初稿時から7年ほどが経過して、随分と充実している。

◆印瀬の壺神・八口神社

…現在壺神を祀る地は八口神社の境内となっているが、この神社と壺神との関係は明確ではない(壺神と神社とでは例大祭の日取りも全く異なるため関連性は薄いと考えられる)。旧6月晦日の夕刻には、壺神祭として8本の幣と8品の供物を献上する習わしが続けられている。

・出雲の伝承/印瀬の壺神・八口神社(島根・雲南市)

 …いま地元では、小中学校の生徒に地元に残る伝承などを教えているそうで、当地も伝承地の一つとして、道路・駐車場の整備などが行われている。*注)写真を前掲「日本伝承大鑑」が掲載しているものと比較してみると整備ぶりが明らか。

…壺に触れた途端、天はかき曇り、山は鳴動して止まず、八本の幣と八品の供物を献じて神に祈ったところ、ようやく鎮まった。それ以来再び壺に触れることが無いように、多くの石で壺を覆い、玉垣で囲み、しめ縄をめぐらした。

 

◆八本杉、斐伊神社

・出雲の伝承/八本杉

低い木柵に囲まれた中に8本の杉の木が聳え、その中央に「神代□(神か)蹟 八本杉」と刻した自然石の碑が立っている(大正6年建立)

 

 天が淵は雲南市の公園にもなっていて、訪問者もあるし、「行きたい」とおっしゃる方も多いのです。10月末に行ったときの写真がこちら。通勤路として毎日そばを通っておりますが、車をとめておりてみるのは久しぶりでした。

 

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 ずいぶんと漂着物が多いです。また流されていくべきものなのか、清掃すべきものなのか。目の前にあるものくらいは拾っておこうと思います。

 

関連記事

天が淵へ至る道 序 – 樟の森の研究室

 

*1 追記改訂…元記事を以下に残す。リンク切れ。

 ・印瀬の壺神、八口神社 ・八本杉、斐伊神社  どういう伝承地があるかについては、雲南市の観光情報サイトが複数あるのですがそのひとつを。

 ・ヤマタノオロチ伝説/うんなん旅ネット  そして、個人で地図におとされている方がこちら ・ヤマタノオロチ伝説伝承地 

居去神社

 奥出雲町上三所に座す。
 スガヒ山の北麓。スガヒ山の頂に祀られていた神霊が分祀され、ここにひとつ。あともう2つはいま失念。また調べて補足しよう。
 中世の国人領主、三沢氏が山城を設けるに際して、里へ下ろされたような記録が残っている。
 現在、その山は城山と呼ばれている。頂上には電波塔がたち、車で登れる道がついているらしい。秋晴れの日に行ってみようぞな、もし。

久多見神社のこと

 尾原ダムから松江へ向かう際には、忌部をいつも通るのですが、いかなる地なのかが気になっていました。松江の郊外にあたり、上水道の水源地でもあり、また一方で拡大した竹林や耕作放棄地が幹線道から垣間見えていてのこと。

 そんな折、久多見神社のことを知りました。玄小子のHPによれば、「式内社調査報告」に次の記述があるのです。

「明治四十四年悲劇の合祀後、大正十二年平口部落民十五世帯は、山林を拓き、残っていた社殿を地引し、奉斎した」

 悲劇の合祀です。

 あぁ、いったい何があったのでしょう。明治44年から大正12年の間、15世帯という小さな集落が共有した物語を知りたくて、県立図書館で忌部村史(復刻)を閲覧しましたが、斯様な記載はありません。雪のふるある日にそばまで行ってみました。

 春が来たら、参詣して、昔日を問うてみたいです。

 文献については、U氏に一度きいてみましょうかな。

 あわせて、概論としてこちらを閲読すべきかな。

「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈」安西水丸著 岩波新書 1971年

天が淵へ至る道 序

 ここは私がつい1週間前まで住んでいたところから徒歩10分ばかりの地点です。斐伊川の上流域にあたり、天が淵と呼ばれる伝承地です。いまでも毎朝この景色を横目に通勤しています。

 

淵のあたりを撮ったのがこちらです。公園として整備されていて、水辺までちかよることもできます。

 

川沿いには国道314号線。この幹線道路建設について、調べてみたいと思っています。このルートを策定するにあたっての諸事を掘り起こしてみたい。この斐伊川中流域を街道が通ったのは明治に入ってからであり、長い間、街道筋からは外れていたようです。写真にみえる右手の集落は川手。和名抄には、川手郷との記載があります。

 さて、この天が淵、八岐大蛇が棲んでいた(いる)ところとして、ネット上にたくさんの記事があがっています。しかるに、ほとんどがコピー&ペーストされたもので、いったいオリジナルはどこにあるのかと、不審に思われる方も少なくないでしょう。

 通常、スサノオノミコトが龍の怪物を退治する神話は、古事記日本書紀で物語られています。戦前には国語の教科書への掲載から年配の方々にとって馴染み深い神話です。しかし、記紀から推し量れる地は、雲南市にはないのです。

 雲南をオロチ伝説の地として浮かびあがらせる文献は、いくつかあるようですが、「土地の古老が伝えるところによると」という取材記のようなものです。代表的なものとして「雲州樋河上天淵記(うんしゅうひのかわかみあまがふちき)」(「群書類従(ぐんじょるいじゅう)」神祇部巻28所収)があります。

 群書類従とは塙保己一はなわ ほきいち)が古書の散逸を危惧し、寺社・大名・公家に伝わる古書を蒐集編纂した一大資料で、寛政5年(1793年)から文政2年(1819年)にかけて刊行されているものです。そして、なんと!国会図書館でデータが公開され、ダウンロードできるようになっています。すごっ! 皆の衆、どんどん使いましょう。

 この書、ながらく、作者不詳であったのですが、数年前、松江市大垣町の内神社(高野宮。家原家)所蔵の「天淵八叉大蛇記」大永3年(1523年)が発見され、こちらが原典(のひとつ?)ではないかと言われています。こちらの作者ははっきりしていて、京都東福寺の僧で河内国出身の李庵光通です。奥出雲の古老に取材して記したものらしい。 (つづく)