物乞いと神人と森人〜雑考:わからないものへ向かう仕方

 私たちはいつの頃からか、日々の暮らしのなかにあった、繊細な思考を失った。それがどんなものであったかさえ、想像はおろか妄想すらできはしない。これは悲嘆ではない。希望をもたないところから見える光であるならば、あるいは真実のかけらなりとも、落としてくれるかもしれない。

 私は何を繊細な思考と呼ぼうとしているのか。どのような思考が繊細さと結びつくのか。浮かんでは消えていくイメージの連鎖に頼っている思考をそう呼ぶだけではないのか……。

 繊細な感受性、ではない、繊細な思考。

 たとえば、次の一文をよんだとき、あぁ、これは感性というよりは思考だ、と、思った。

《そして実践家であった。……(中略)……(乳牛の)搾乳が終わって夜遅く二時や三時になっても、車をとばして村の病人の相談にのる、悩む人の相談にのる。しかも生まれたときの姿のまま、自分を自分以上に大きく見せようともしない、小さくも見せない。……(中略)……大坂君の「牛が落ちつかないのは化学肥料を使う田の畦の草を食べているのが原因ではないですか」という言葉は大変なヒントになりました。硝酸塩中毒になっているというわけです。それほど彼は感性のよい、感受性のつよい男で、一九六五(昭和四十)年、隣りの農家の農薬によって汚染された田の畦の草を牛に与えたところ、瞳孔の異常、視野狭窄が起こることに気がついて私に教えてくれた。》

森まゆみ,2007『自主独立農民という仕事』)

 まとまらない迷想のなかで、藁をつかむような感はあるが、こう言ってみる。

 「わからないもの」を考え、とらえようとするときに、思考は繊細なものとなる。

 ここから、はじめてみようと思い立った。

 先の大坂君は、繊細というより科学的なのでは? そう思う人もいるだろうし、無理もないのだが、それは科学の本質に対する誤解に起因する。科学の思考は繊細なものなのだ。

 記事カテゴリの中で、「ホトホト・カラサデ」に入れている一連のもののなかに、それはたちあらわれる。

 あるいは、「岩伏の谷の森神」でふれようとしているものに、それはある。

 荒神も石神も森神も、果たしてなんであったかについて、知ることは不可能であると、すでに何十年も前に柳田國男が記している。

 私たちの時代には、「わかる」ことが当たり前となった世界である。

 わからないことも、わかる人から教えてもらえれば、わかったことになってしまう時代。「わかる」こと、それは人であれウェブであれ、情報のデータベースとして存在し、その場所から「ダウンロード=複写」してくることでしかない。

 そのような知とは異なる相貌をもっているのが、凋落と落日を嘆かれている日本の民俗学である。

 河出文庫宮本常一『生きていく民俗』。その解説を「無数の風景」と題して寄せている鶴見太郎は、こうときはじめる。

民俗学とはすぐれて経験的な学問である。民俗事象が無数の人間によって積み重ねられた経験の堆積である一方、民俗学に従事する側にもまた、旅先その他における無数の出会いがある。》

 さて、本題はここからなのだが、もはや夜も明け方に向かいはじめた。睡魔にひとまずは降伏するとして、ここで、いくつかの断片をあわてて記し、自らの道しるべとしておく。

・経験的であるということは、国家的なものに抗する知を志向する。

・日本の乞食の源流に聖性あり。

・仏教のサンガ組織が物乞いによる組織運営を選び取ったことの後世的意義

・乞食する僧も職人も、山を拠点にした。そういう山とはなんであったのか

 そして、もうひとつ、宮本常一『生きていく民俗』からの引用をもって、この記事のタイトルとの関連を示しておこう。

p.40「物乞いと商売」〜

《(白山では)山地を焼いて焼畑耕作を行なっても、そこから得られる食糧だけでは半年食いつなぐのが精いっぱいで、食物がなくなると地内子たちは椀を持って牛首まで出かけたのである。牛首の親方たちの家ではヒエの粥をたいて飢えた農民にふるまった。しかし山に仕事のある間はよいが、雪が降って仕事ができなくなると、この人たちはいよいよ窮して、山を下って平野地方に出て物乞に歩きはじめる。……(中略)……雇われて働けばよさそうなものであるが、そうする者は少なく、ただ家々の門口にたって物を乞うたのは、もともとそのまえに白山の御師または強力として働いていたころの名残であったとも考えられる。そのころは白山信仰者の家をお札配りなどして歩いて金や食物を得ていたに違いない。

……(中略)……

 山奥で生活をたてることはまったく容易ではなかった。山中の者が里へ乞食に出る風習は実は白山山麓ばかりではなかった。中国地方の山中からも里の方へ乞食に出る風習があった。

……(中略)……

 (中国地方ではたたら製鉄に要する膨大な炭焼き需要があったことに言及したうえで)

 米をつくるだけではとうてい生活のたてようのない山中でも、こうして炭焼のもうけがあるということによって、山中にも人が住んだ。しかし炭焼で得られる金もたいしたことはないから、雪が深くて炭焼もろくにできないころには箕や簔をつくり、また篩などもつくって、春さきにになると里の村々へ売りに出たのである。なかなか器用につくってあって、里の人には喜ばれたが、だからといって、毎年買ってばかりはいられない。しかし、売りにくれば義理にでも買わなければならないとされた。また売る方も、相手はきっと買ってくれるものと信じていた。今日の商法からすると不合理なようであるが、山人は里人がその製品を買ってくれなければ生活をたてることができないので、ただ品物を買ってもらうというのでなく、助けてもらうような心持があった。だから買うことを拒否するようなことがあると、放火されたり、物をぬすまれたりする場合すらあった。》

(つづく)

摘み草の記憶〜#001

 野山のものを採取し食す。この行為を促すマインドセット※1は、食文化・食習慣の変容にさらされてなお、その原基のようなものを保持するのではないか。そう推するに足るいくつかの出来事があったので、まとまりなくも綴ってみる。
 かめんがら(cf.2016年のガマズミ)について、子どもの頃にはよく山で取って食べていたと、いま60代の方々から聞くことがあった。ここでいう「子どもの頃」という時代を、現在65歳の人が10歳だった頃とすると、昭和38年(1963年)のことだ。
 昭和38年といえば、東京オリンピックの前年である。農村には牛に代わり、トラクターをはじめとした機械が入り、トラック輸送が食品流通をかえ、日清のチキンラーメンをはじめとした食のインスタント化が進行していた。「鉄腕アトム」の放映がはじまった年でもある。ちなみに当時にあっては原子力は未来の夢のエネルギーと見られており、資本主義を打倒し民衆を解放するものとして共産主義が推するものでもあった。  この時代、家庭で味噌をつくることが「恥ずかしい」「遅れた」ことだと見られる地域もあった。味噌や醤油は「買う」ことが進歩的だと。
 小さな経済循環を解体し大きな経済循環のなかで、社会を再形成することが「是」とされた時代である。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしていた。ベビーブームの谷間の世代でもある。

日本の出生数と出生率1900-2010.jpg
By Mc681投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

この項、つづく(のちに加筆)。
●2017年12月の年の瀬に、とある40代女性の会話の渦にちょっと驚いたことについて。 「今の子達でも、〇〇の実をとって食べたりするから、びっくりしたのよ。いつ覚えたんだろうと」 「へえ。そうなんだ。私たちが子どものころは、△△はよくとって食べたよね〜」 「あぁ、□□は吸うと美味しかったわ〜」
 そうした行動や嗜好が発動するのは10歳前後であって、長じるに従って失せていく。ただ、いずれは消えてなくなるかもしれない。なにより、消そう消そうとする力は強く作用しているのだから。
 ここで注目したいのは3つのことである。
1.民俗文化の断片が子どもたちの「遊び」の中に残存するということ……柳田國男が「小さき者の声」で言及していたように、それらは大きな変形を起こしながらも残る。柳田はそれを「大人の行為を真似する」ということに因を求めているが、《模倣》ではない何かがそうさせるのだと考えると、ひとつの理がそこに見いだせる。
2.採集草木の利用が社会の中で失せても、子どもの「おやつ」「遊び」の中に残存するということ……よくわからない。あえて予断をはっきりさせることで、自らの認知に注意を促そう。たとえばガマズミの実を子どもが取って食べるのは、おやつとしてであって、大型の果樹の品種導入などによって食用としての利用が駆逐されていった後でも残るのだと。
3.子どもは大人よりはるかに非合理の世界に生きているということ… 子どもは「感覚の世界(養老孟司)」で生きている。子どもの存在そのものの価値を近代社会は否定しつづける。老人の存在も同様。
 こうしたことを念頭におきながら、いま40代の母にあたる人たちに残る「摘み草」の記憶をたどってみようと思う。時代でいえば、今から30年〜40年ほど前、1970年〜80年代である。
島根県雲南市在住・Aさんの言
 島根県川本町で生まれ育ち、小学生の頃に同県頓原へ移住。母は昭和20年生まれ。道の草をとって、こうやって食べるのだと教えられたり、むかごの取り方などを教わった。が、本人は山菜とりなどにあまり興味はない。
〇母のこと
・母は9人兄弟の下から2番目。上の人たちが働きに出るため、10歳頃からご飯をつくる炊事の係をしていた。まわりの人たちから、食べるものについていろんなことを教わった。
・山菜採りが好きだった。春が来るとうれしかったようだ。春になると、車にのせて連れて行ってといわれ、よく出かけた。車を運転していると、ずーっと外を見ていて、「あ、とめて」と言っては、草をとってきていた。
〇教えてもらった草のこと
・道ばたにあったイネ科っぽい、シューっとした葉がある。茎を折るようにしてしゅーっと引き抜くと白い綿みたいなものが出てきて、食べられるということを教えられた。
・味は覚えていない。おいしいとは思わなかったが、まずいとも思わなかった。
〇注:上記の草はおそらくチガヤであろう

※1私たちの脳と心はいまだに、定住農耕よりも、狩猟採集生活への適応をいまだ強く保持している。俗説のようにきこえるが、進化心理学の定見でもある(らしい)。

冬至当夜の日に〜豆腐をつくる・食べる文化の奥にあるもの

「いまでもあそこでは草刈りの後の直会ではひとり豆腐一丁は必ず出すんだそうよ」

「あー、うちもつい最近まではそうだったみたいだよ。さすがに夏の暑い時期に、豆腐一丁はようたべんということでやめになったらしいけど」

 今日の茶飲話より。

 豆腐はハレの日の食であったことを知らない人もふえてきました。私自身、小さな頃から豆腐は日常の食事でありました。ここ島根県雲南地域に越してきてから、ハレの日の食として豆腐があったことを知ったのです、遅ればせながら。そして、とりわけこの地域では豆腐をよく食べるし、木綿豆腐の割合が大変に高い。かつてそれぞれの家でつくっていた豆腐の名残が、そういうことをしなくなってからも色濃く残っているからなのでしょう。

 そういえばこんな話も80歳を超えたおばあちゃんから聞いたのでした。

「味噌も醤油もつくらんし、こんにゃくもつくらん。豆腐くらいは今でもつくるけど」

 全国的にみれば……、どうだろう、味噌をつくる家庭よりははるかに少ないと思いますが。こんにゃくとはいい勝負なくらいでしょうか。一度、可能であれば、悉皆調査をしてみたいものです。漬物や梅干しなどとあわせて。

 

 そして、冒頭にあげた話がでたときに、漂っていた疑問にひとつにちょっとした仮説を出してみたので、今日、はなはだ不備不完全ながら備忘的にあげてみるのです。

《木次ではなぜ豆腐をハレの食とする文化が今に至るまで残存しているのか》

  豆腐づくり必要なものを3つあげてみます。

・大豆
・にがり
・石臼(碾き臼)

 大豆は日本の食にとってなくてはならないものですし、どこでも栽培できるものですが、牛を飼っていたこの地域では、かなりの量を生産していたのではないかと思います。そう。ここで第1仮説です。

牛の放牧地で栽培するものとして、最後まで残っていたのが大豆なのではないか仮説

 わかりますでしょうか?ひとつの長い引用をもって、つづきは、またあらためて加筆します。(なんと、今日は冬至だった! 出雲から伯耆にかけて冬至当夜(トージトヤ)と呼ぶ習俗があります)

 石田寛1960,「放牧と垣内」(人文地理12巻2号)より

仁多郡鳥上地区では垣内すなわち放牧場内に畑(牧畑)があり、夏まや期間中のみに大小豆をつくり、それ以外のときは放牧場となる。

(中略)

 「藩政時代には、この一帯の奥山山地を鉄山と呼び、人家に近い山野を腰林といって、2つを区分して利用していたのである。鉄山は鉄山師の支配する山であり、腰林は農民の私的支配下に置かれた柴草山であった。田付山による採草、薪炭諸資材の採取などが自由になされていたのだる。この口鉄山では鉄師の支配権と農民の支配権とが重畳していた。

(中略)

鉄山は林間放牧地であり、それゆえにそれ(畑)は口鉄山でのみ行われるのである。牧野の中にある畑は1年1作であるわけであるが、作物は大豆または小豆に限られる。作付期間は放牧牛のこない時期に限られている。地盤所有者は自己の畑に耕作しながら、その所有権行使は放牧権を侵害しない限りでのみ許されるにすぎない》

(つづく)

 詳細ははぶきますが、大豆をつくる山(の畑)だけはたくさんあったということです。

 なぜ大豆・小豆に限られるか。

 それは牛が夏の暑い間、まや(小屋)にひきあげられるとき(約2ヶ月)をのぞいて栽培できるという条件にみあうものです。それが大豆であったということです。

 いや、大豆は60日じゃ無理だろうと。そうなのですが、それなるがゆえに仮説なのですが、牛は大豆が実をつければ口をつけないのです、おそらく。

 下の写真は冬至をむかえた我が家の夕食メイン。揚げ出し豆腐でござる。

 

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【雑感と備忘】2017年12月10日〜山を生かす竹林整備研修

2017年12月10日(日)曇りのち雨/10時の気温5℃ 一般1名、学生3名の参加でした。講師は響繁則さん。

◉伐倒講習について
●チェーンソーの目立て

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今回あくまで1時間強ほどの簡易なものです。通常の講習ならば午前いっぱいはかかるといいますから、3時間ほどは要するということ。参加人数が少ないこともあり、私自分少し受けてみて、修正の仕方をひとつ覚えられたかと思います。もう使えないだろうなあと見ていたチェーンも、「まだまだ使えるよ」と言われて直す気になりました。ただ、「1時間はかかるんじゃないか」ということ。こんど、じっくり向き合って直します。今週日曜に柵をつくるときにでも。
このような実習を人が出入りするところでやっていると、のぞきにくる人がいます。大変よいことです。チェーンソーを使ったことがある人、使いたい人がのぞきにくるわけです。
1〜2分ほどでも、「ここをこうするんですよ」「昔はこう斜めにと言われていたけど、いまは水平で」「〜〜になっているから」。  こうしたやりとりがあるのはなによりです。

●伐倒実習

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チェーンソーもノコギリも基本は同じです。
とくに、斜面では受け口、追い口をつくり、倒す方向を斜面に対して斜めにもっていくこと。そうすることで、危険を回避することと、もうひとつ。その後の作業、すなわち玉切りや移動にかける手数が少なくなります。
やってみてわかるのは、口をつくるときに、重力に対して水平にもっていくことは、ノコギリの場合、とくに難しいということ。この日は用意していませんでしたが、チョークなりで線をひくのがいいということです。こりゃ早速導入です。
口をつくる方向と同時に、つるの幅を左右で変えることでさらに向きをコントロールすることも教わりました。これも加減であって、差がつきすぎると裂けを生じてしまう。

●ロープを使った伐倒
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ロープワークはあくまで補助であり、保険であって、ロープの力だけで向きを変えるのではないということが肝要です。

◉雑話について
むしろ、ここのところが、時間をさいて足を運ぶ最大の価値があるところなのですよ、みなさん。
モチキビの話をしたらば、響さんが、いまでもつくっている人を知っていると。  な、な、なんと!
今度おしえてくださいとお願いしました。

竹の焼畑2017-sec.36

12月3日(日)晴れのち曇り 最低気温0℃ 最高気温10℃  竹の焼畑2017も、なんと、今日で36回目の活動日です。島大里山理研究会から3名、教員1名+OB1名(午後より)、そして地元の私1名(11時30分〜15時)、計6名での作業でした。
これくらいの気温がいちばん動きやすいので、夏にやるよりははるかにはかどります。今年は雨の日が多い11月でしたが、それでも雨天で中止にする日はありませんでした(小雨の中、やや強行という日はあったにせよ)。それもこれも12月までか。1月に入ると雪で動けなくなる日が出てきますのでね。
◉次年度火入れ地の伐開作業  伐採は進んでいますが、竹の置き方(倒し方・進め方)に難ありで、やはりこの後苦労しそうです。今日の作業ではその点徹底して、成り行きで斜面下に倒すのではなく、横に倒して並べていくという方法で進めています。

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この日ははじめてくる3回生が2名いました。来年に向けての希望です。
◉中山の状況その1  さて、私の方では中山の柵づくりと脱穀などを進めました。伐倒した竹を木にかけたりしたために、ひっぱりだすのに息切れ。。。3本ほどを倒して、整理するので1時間ほどかかってしまい、柵の杭をたてるところまでもいたらず。あがった息を整えながら、1月いっぱいにはひとつめの囲いをしあげておきたいなあと、斜面を眺めていました。
温海カブのほうですが、この時期はほんとに日があたらない場所です。とはいえ、2〜3時間ほどは光が入るのではないかと。昨年までの成長ぶりとは趣がことなります。12月に入ったくらいには大きなものができていたのにと。要因は多々ありますが、発芽の悪さが大きい。この場所のカブは火入れ直後にまいていません。蕎麦のために火入れして蕎麦をまいたあと、まったく発芽しなかったところにカブの種をまいているところです。
発芽が悪かったので、なんどか追いまきしています。
くわえて、発芽したものは、かなり虫に葉をくわれています。それも発育の遅さにつながっているでしょう。虫については、9月に火入れしてカブをまいたところでは、さほどみられなかったため、火入れによるなんらかの防虫効果があったのかもしれません。この写真の箇所も火入れをしてはいますが、播種の時期が火入れから数週間たっている。今年のものでいま写真にみえているところは、12月下旬に間引き的にぬいたあとは、すべて種取り用に残す予定です。1年目、2年目がたまたまうまくいったので、気を抜いていましたが、ゆるめてはいかんですね。

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◉中山の状況その2  草刈りが入りました。みつけた(復活した)茶の木がばっさり切られていたのは少し残念ですが、下部は残っていて、蕾を新しくつけていました。来年以降、残してふやし、茶摘みをしてみたいものです。冬イチゴもかなり刈り取られましたが、まだ残っており、とっては食べとっては食べして、昼食がわりにしました。
◉蕎麦の脱穀  残りをようやく終えました。結局収量はいくらだっけ? メモが紛失したようで不確かな記憶ですが、1.4kgほどになるのではないかな。1kgはこえているはずで、2kgはありません。さて、蒔いたのはいくらだったのか。量だけでみると蕎麦をつくる意欲をそがれます。
なぜ、焼畑には蕎麦なのか。曖昧なものとはいえ、明治以降の日本の焼畑における作物として、蕎麦はその筆頭にあったことはほぼ確実。出雲地方にあってもそうでありましょうし、出雲蕎麦のルーツにかかわることでもあるので、ここは意欲を駆り立てるものを見つけていきたいものです。

【案内】山を生かす竹林整備研修〜はじめて編

 12月10日(日)開催です。

 案内文は下段におくとして。なぜやるのかということのメモを自身にあてて置いておくものです。

1. 竹の焼畑事業における伐採技術の向上

 大事なことは3つあると思っています。

・道具を大事にする心……手入れを通じて道具を知ること〜モノの特性を知ること〜竹の特性・木それぞれの特性を知ること

・技術を向上させる意思……早く・楽に・なにかのために〜できることがひろがる〜数字(も)大事〜面積・本数

・頭に働いてもらう条件づけ……頭を使わない社会の中、山を生かすのは人を生かすこと〜「頭使って!」といっても使ってもらえない〜自分と家族(仲間)に対してどう言葉を発するか

2. 竹の焼畑事業における賛同者・協力者・自分の山でやってみたい人を募る

【案内〜山を生かす竹林整備研修_2017年12月10日】

これからはじめたい! どうしたらいいの? そんな初心者向けの実践的研修会です。響繁則さん(国土緑化推進機構選定 森の名手・名人)を講師に、荒廃竹林整備の基本的な考え方と注意点。伐倒講習・搬出等作業の実際を行います。また、チェーンソー使用者には別途講習を行います(※注1)。天候や参加人数の状況に応じて消し炭づくりなどもあり。

はじめての理論編は希望者あれば1月に開催予定。

◉お申込・お問い合わせ先

 面代真樹

 森と畑と牛とホームページのフォームをご利用ください。

【要項】

◉日時

12月12日(日)

9:00〜14:30

※午前のみ参加も可

※遠方からこられる方、チェーンソーを使わない方は、10時からの参加でも可(9時〜10時はチェーンソー講習か、のこぎり・鉈の使い方講習等を実施)

◉実施場所:奥出雲町布勢地区内竹林

 ダムの見える牧場の牛舎前に9:00集合

◉定員:15名までを予定

◉参加費:700円(保険・資料代として)

 ※島根大学学生は無料(ただし条件があります。お問合せください)

◉持ち物

・のこぎりとなた(お貸しすることもできます)

・作業用手袋(革手袋推奨。厚手の軍手等でも可)

・山に入れる服装と靴で(斜面ですべらないスパイクかミゾのある作業靴等)

・防寒のための服装

・昼食弁当、飲み物

※注1. チェーンソー使用者はチャップス(お持ちでない場合はお問い合わせください)

◉荒天(大雪等)の場合中止とします。

◉以下3団体の共催です

島根大学里山理研究会

奥出雲山村塾

森と畑と牛と

竹の焼畑2017―sec.35

11月25日(土)曇り 気温10℃(11時頃)
島根大学里山理研究会。停滞していた竹林伐開活動が10月に入ってから活発化しています。この日は5名が参加。複数回参加するメンバーが少なく、熟練がすすまないのが、変わらぬ悩みです。
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人海パワーで突破ということですね。
伐倒する人は、これを斜面に並べて積む人とは別な人になります。無駄とはいえないまでも、これでは切ったものを下に移動した後に玉切りし、また上にあげるしかありません。
1〜3本切るごとに積むようにしたほうが、数倍効率的であるはず。あるいはこうして切り倒すのであれば、斜面では焼かずに下ろした竹材は下で焼いて炭にしてしまうというのも一計か。
ここは口出し無用と心得、中山での柵作りを少しでも前に進めておきましょうぞ。  とはいえ、この日は麦踏みだけして引き上げました。
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山を下りる途中、なんと、茶の木を発見。
栽培していたものから、種がこぼれて、ここで生き続けいたのか。種をとってひろげてみるのも一興と思いついた次第。
次回の活動日は、12月3日(日)です。

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来年はシホウチク(カンチク)を食べるのだ〜出雲国産物帳にみる竹類

 10月のよく晴れたとある日、仕事でよく通る道路脇で筍をみた。観光客の来訪も多く、草刈りもていねいにされているところである。再生竹かなと最初は思ったのだが、いやまてまて、しっかり皮をつけていてあきらかに筍だ。温帯地域で秋に出る筍なんて相当限られていたはず、と、事典の類をひいてみれば、カンチク・四方竹であろうと見当をつけた。

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 それから1ヶ月あまりたち、通るたびに気にして、数回立ち入ってみた。節から気根が出ていること。稈にイボイボがあること。稈が方形であること。秋にタケノコが出ること。ほか高さなどから、シホウチク(カンチク)である。タケノコはたいそう美味であるとの評が多いので、来年の秋には食べてやるのだ。

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  さて、考えるべきことは、このシホウチク、いったいいつからどうしてここにあるのかということだ。日本国内に自生していたようだが、「ようだが」との言い方であらわしているように、用向きも地域についても、その仮説すらないようである。
 密生し、高さも3mほどまでのびるようで、境界の垣として植えたともいうが、その向きであれば、篠竹の類が防御性は高いようにも思える。
 そもそも、モウソウチクマダケ、ハチクなどとくらべれば、出雲地域ではふつうには見かけないもので、私自身、今秋はじめて目にしたものだ。
 女竹、篠竹については、リサーチ中の竹の焼畑の燃材であったことから、その植生と利用の関係を調べているさなかであって、ここにシホウチクの存在が入ってくることで、また新たな展望が得られるかもしれない。

 まず、たちかえってみるべきところの古書、出雲国産物帳名疏の竹類の項には、以下のものがのっていて、カンチクは最末尾にある。

 真竹 淡竹 女子竹 姫笹 箟竹(ノダケ・ヤノタケ) 篠竹 紫竹 熊笹 大明竹 小竹 シナノ竹 皮竹 カンチク

  なにを指すのか不分明なものもあり、辞書・事典をひきながら少しずつ補足を入れてみようと思う

・真竹
・淡竹
・女子竹(おなご‐だけ)
 女竹(メダケ)の異名として江戸時代における俳諧で用例がある。方言として残るのは以下の地域である(日本方言大辞典)。

福井県今立郡/兵庫県加古郡和歌山県島根県岡山県小田郡/高知県幡多郡長崎県東彼杵郡熊本県玉名郡

 ただし、島根県でも西部(石見)では見られないのでは?(要検証) 隠岐国産物帳の竹類は、3つをあげるのみであり、それは「淡竹・苦竹・女竹」である。女子竹ではなく女竹として記載されている。
・姫笹
・箟竹(ノダケ・ヤノタケ)
・篠竹
・紫竹
熊笹
・大明竹→九州地方には自生し、タケノコの王様とも呼ばれるあの大名竹なのか。
・小竹
・シナノ竹
・皮竹→真竹の異名か? これはわからない。川竹であれば、川にある竹、あるいは真竹という線があるのだが。
・カンチク

●追記2017/12/19
「あれからシホウチクのことを気にしてみてたら、西日登にもありましたよ。畑の隅のほうに」と。大変興味深い。選択的に栽培したあとなのか。比較的近年において。とも思う。 

晩秋山野渉猟

2017年11月14日、旧暦9月26日。朝のうち雨が降ったものの次第に晴れ。午後からは快晴となった。懸案をひとつずつ片付けるべく方々へ。

◉寺田の滝とかめんがら

この奥に寺田の滝がある。手前の平地はダム建設の残土処理場だったところ。かつての面影とはずいぶん異なるものだろう。昔の地形図、あるいは航空写真を重ねてみようと思いついてから半年がたつ。その図をもって、ここを祖母の背中に負われて滝まで登ったという爺さんのところへ、話の続きを聞きにいくのだ。雪が降る前に、と思っていたが、日本気象協会の予報によると、どうやら今週末には初雪らしい。
この近辺の再生緑地にはがまずみ(地方名:かめんがら)が多く植えてある。かつてここの山には、かめんがらがたくさんあったのだろうか。そういうことも聞いてみなければならない。かめんがらがたくさんあったのであれば、地形図の履歴からはうかがいしれないこの地の植生のありようが推測できるからだ。
時は駈けていくものだなあと、鮮やかな紅葉に心おどらされながら、先を急いだ。

★追記)2024/09/08 
・爺さんにはその後、お話を聞けてはいない。昨年スーパーで娘さん夫婦に付き添われて買い物をされていた。入院もされていたらしいが、認知が進まれていて、私のことは覚えていらっしゃらないようだった。記録したものを整理したい。

◉阿井公民館にて駒原邦一郎氏のことを伺う

 家はすでに当地にはなく、子孫の方もどこへ移られたのかもわからないのだという。未刊行の原稿なり資料なりがあれば、検分したかったのだが、かなわぬことはわかった。
ただ、この日、遅ればせながら、『村のはなし』を現在復刻しているのだときく。あぁ、よかった。お手伝いできることを申し出て、ほかいくつかの手がかりをえた。また、公民館に所蔵されている文書がまだ倉庫(公民館の一室)にあることを確かめ、日を改めて閲覧の約束をして、その場を辞した。

★追記)2024/09/08
・公民館の一室が開いているときに閲覧したが、貴重(と思われるもの)はおそらくどこかへ移されているような気がした。江戸後期の古いものもある。江戸時代後期のものも含まれる。

◉ゴロビナはこれではないのか?

 阿井の山野に自生している草木でのなかで、懸案になっていたもののひとつ、ゴロビナ。その後、ギボウシ説が有力となっている(私の小さな脳内では)。だが、自生しているものを阿井で見たことはなかった。なんでないのだろう。植生が変わってしまったからだろうか、などと思っていた。数週間前、木次で昔の食べもの話の会を催した際、みなさんゴロビナはわからないということだったが、ギボウシがどんなものかはおわかりのようだった。「ほら、すーっと長い茎が出て花がさくあれよ」と。その言葉が、阿井のそこでよみがえった。あ、これ、か、と。場所もあるべきところにあった。昔ながらの農法をつづけておられるところ。椎茸の原木がおいてある山の裾野だ。

そちらのお宅にながらく借りたままだった本を返しにいくところだったのだ。当人は留守であったので、これはまた聞きにいかねばと。ありがたいことだ。


その小さな山の横にひろがる小さな田んぼの風景。美しい。

★追記)2017/11/19、電話で取材した
ギボウシは前からあったものかどうかはわからない。珍しいものなので、刈らないようにしている。
・前から採取していたかどうかはわからないが、最近ではとる人がいる。どこにでもあるものではないし、なかった。
・ゴロビナという名があるかどうかは、私はわからない。

★追記)2024/09/08
・飯南町森の案内人会編『飯南町の植物ガイドブック』平成25年刊に、ゴロビナの記載がある。オオバギボウシの別名として。全文を引用する。

オオバギボウシが見出し。別名(地方名)は以下の4つ。トウギボウシ、うるい、ごろびな、そうたぐさ。ユリ科で花期は7月とある。

《湿り気の多い林縁から草原などに広くはえる多年草です。大きな葉をつけて目立つ草です。春4月下旬ごろから若い葉が筒状になって伸びてきます。これは甘みがありおいしい山菜です。なお、新葉の時はバイケイソウ(有毒植物)に似ていますが、当地にはバイケイソウの自生なく、心配ありません。花の色は白色または薄い紫です。》

◉焼畑のカブその後

「竹の焼畑2017」のことではない。種をおわけし、火入れをお手伝いしたところのその後である。9月の終わり頃だったろうか、夜中に電話がかかってきて、「カブがよぅできとるよ〜」と。「それはよかったですね〜。見に行きますからよろしく〜」。そうお返事してから何度か機会を逸していた。もう収穫を終えられたのではと思っていた。
8月の頭に火入れに行って以来だから、4ヶ月ぶりである。ここは清冽な水が山からおりてくる口にあたる地だ。下の写真、一見しても「畑」には見えないだろう。が、これが、焼畑不毛地帯と言われつづけ(たが、大きな間違い、誤解、誤謬)た島根東部の焼畑の姿だと思う。

フォレストフォロワーではないブッシュフォロワー型の焼畑なのだ。ここでは長い時代にわたって、おそらく。休閑期間・循環も短い。

ただ、ここの場合、ほぼ毎年同じ土地を焼いているようだ。来年は伏せ込みから手伝いつつ、2年休ませて植生を回復させるようにしたらよいだろうと、私はおもう。

◉山中の柿の園

柿を取りにくるかと誘われとある山中へ。かつて柿団地として開かれたところ。放置されてずいぶんたつらしいが、大木となった柿の木にはたくさんの実がすずなりになっていた。
周囲はコナラ系の雑木だが、木々は若く20年生くらいではなかろうか。下層にはいわゆるクマザサが生い茂っている。肥料も薬もつかわず、みごとななりっぷり。小ぶりな実が多いのがまたよい。市場の評価が低いのだろうが、知る人は知っているようで、ナチュラルなこうした柿の需要は少なからずあるようだ。

ちょっとした納屋があれば、干し柿にして、こうしたものを欲する方へ届けることもできるだろうに。なにより、この柿たちが不憫だ。誘ってくれた初老の農夫は、もう年だから高くまで登られん、若いころはひょいひょい取れたのにと、言いながら、ふぅふぅ息を枯らして、きれいに実をとっておられた。頭をたれるとはこういうときなのだな。いい光景でもあるが、きたれ若人と叫びたい気持ちもある。が、ともあれ、希望膨らむ気持ちよい秋の一日であった。

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11月12日(日)の活動記録です。天候は晴れ。10時時点での気温14℃。島根大6名(10時~)、地元1名(10時半~14時半)の計7名が従事しました。

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◉竹林伐開。この下手くそが!と怒鳴られる、のかどうかはわかりませんが、技術向上の意欲をもつように仕向けてはいます。下手くそ=危険ということでもあるのですよ。

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◉冬イチゴです。ミヤマフユイチゴではないと思いますし、アイノコフユイチゴでもないと思う。よってふつうのフユイチゴ。ただ、粒の付き方で2種類にわかれるような。味も違うような。そこらへん、葉の形を次回は確かめてみます。

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◉岩伏山をのぞむ放牧地にて。ことしは紅葉が鮮やかできれいです。落葉が進んで、見晴らしがよくなったところで、のぼってみましょう。雪が降る前に。