カブと小麦

 11月2日。裏の畑に、8日ばかり前であったろうか、ひとうねぶんほど蒔いた小麦が、小さな芽を出し始めている。昨秋40粒ほどからふやしたスペルト小麦。どうするどうなるなんて考えず、まずは育ててみたい、その姿を見てみたいと思う一心だったのが1年前だとすると、今年はその行く末に心を砕かねばならない。まずひとつの思案は、どうやって食べるか、ということだ。
 ひいて粉にするよりは粒のまま食せないのだろうか。製粉の労を略したい動機によるのだが、脱穀、籾摺りまでが、それなりに苦難の道となりそうなので、ゴールを少しでも手前にひいておきたいのだ。
 それにしても。
 焼畑ではじめて栽培したのはカブであった。そして今年の秋、蕎麦とカブの焼畑後作に、裏の畑にもまいた小麦を試みている。カブと小麦はおともだちだと知ったのは、1年目の焼畑でできたカブをなんとおいしいカブなんだと食した後であったし、仁多の正月カブに誘われたのはそのさらに後のことだ。

《わが国には野生に近い状態で生育しているツケナやカブが各地にる。……(略)……正月カブ 島根県仁多郡横田町には正月蕪と呼ぶ自生カブがある。葉は開張性で欠刻があり、有毛で根はある程度肥大する。土地の人は年末から正月にかけて採り食用にし、このことから正月カブと呼んでいる》青葉高,2000『日本の野菜』

 栽培蕪の起源には諸説あるが、地中海に自生するアブラナ類であるとすれば、小麦・大麦にまじって、中国大陸を経由し、いつの頃か日本に渡来したものには違いない。仁多の正月カブは、栽培種からの逸出や交配もあったやもしれないが、雑草として渡来し、今のいままで生存をつづけていると考えるのも一興であろう。三沢の地に残るそれと、海を越え、時を超え、シチリア島の麦と蕪とオリーブを思うのは、与太話としてはできのよすぎる物語だろう。

和名抄_菜


 青葉高が先の『日本の野菜』でも指摘しているとおり、『和名抄』には、蕪菁(カブ)、莱菔(ライフク・ダイコン)は園菜の項にある。一方  は蕨と同じく野菜の項にあるのだ。この関係は大変興味深い。正月カブ(年とりかぶ)のこと、この線からもっと掘っていかねば、と、思う。はい。
 なにはともあれ。古代小麦と三沢のカブの菜をオリーブオイルであえてサラダで食べることを来年の夢としよう。※まとまりがないので、のちほど書き換える予定です。すみません。
 以下に関連記事をあげておく。
●「まかぶ」とは!?  三沢のUさんは、地カブのことをまかぶと呼んでいたようだ。私は逆だと勘違いしていた。まかぶという標準的(平均的・全国的)カブがあり、地元にかねてからある特徴の高い自給性の高いカブが地カブだと。どうなんだろ。
●林原の焼畑でつくられていたカブとは 『尾原の民俗』の中には「地カブ」という名で出てくる。このあたり再度図書館で閲覧しよう。『志津見の民俗』は古書で購入することにした。『尾原の民俗』も手元におきたいが、市立図書館にもあるので自重。
●大根は縁起物か? 加筆がまだできていない。ここらについては、伊藤信博のいくつかの論文を参照しつつ。
●みざわの館前の「地カブ」  そう。「地カブ」はいまの世代でも通りがよい。じゃあ「まかぶ」はどうか、「年取りかぶ」はどうかというのが聞くべきポイントなのかも。
●年取りカブの種取り
●都賀村の地カブについて

●しゃえんば  

エノコログサの食べ方〜その2

 台風ランが列島に荒ぶる威を3日ほどたち、今日は久しぶりに太陽が山の地にも降り注ぐ日和となりました。エノコログサの採集は昨日から再開しましたが、もう時期が終わりなのかなと少々意気消沈。

 こういう状態。10日ばかり前の時期であれば、実が黒茶のものの割合がもっと高く、手でしごくかたたけば、ボロボロと実がとれたのですが、そうはいかない穂が9割以上なのです。
 採取した奥出雲町佐白ですが、豪雨に見舞われた、その影響もあるかもしれません。考えたことをいくつか。あげてみます。
・アワも発育不良のものは脱粒性が高い。別面からいえば、実の熟し方がひとつの穂の中でもばらついてしまうということ。たとえばこんなふうに(下写真)。
20170921-P126096602
 エノコログサはもともとばらつきがさらにあるもの。そのばらつき加減・偏差がよりひろがる傾向にあるのかもしれません。登熟時期の遅れや天候不順といった要因によって。
・今日から3〜4日は気温が高く快晴が続きます。
20171025yoho
 この間、登熟が遅かった群落の実がうまく熟してくれれば、1日あたりにどさっと収穫できるかも、しれません。うまく晴れてくれれば乾燥に3〜4日。
「エノコログサを食べてみよう」の会に間に合う!? という展開を期待しつつ、観察とほかの仕事にいそしみましょうぞ。
参照
●エノコログサを食べてみよう〜その1
 

石臼と鰹節削器

 鰹節は削りたてがよい。ただ一般家庭でもっているところは少ない。鰹節削り器を使っての削りたての鰹節を味わう機会は、割烹料亭や蕎麦屋でのそれをのぞけばそうはないということだ。

 コーヒーも挽き立てがよい。コーヒーミルは一般家庭にも鰹節削り器よりはずっと多い比率で備わっている。いちどミルを使い始めれば、手間をいとわず豆を挽いてコーヒーをいれて飲むという習慣をかえてしまうことはそうそうはない。

 そして、スパイスもひきたてがよい。スリランカカリーをつくりはじめて一年がたつが、すり鉢を使ったり、ミルサーを使ったり、小さな大理石の臼を使っているのだが、既成の粉末を購入しようとは思わない。

 しかし、先日、テレビ番組で家庭で使われている石臼をみて、あぁ、これだー!と合点したのだった。高さ30センチ、直径20センチほどであったろう。マレーシアの中流以上の家庭のようだったが、インド系と中華系の若い夫婦の台所にあったものだ。これくらいの大きさがあれば、10分かかっているモルディブフィッシュの粉砕が2分程度ですみそうだ。

 それよりなにより、刺激的かつ問題提起であるのは、石臼が現役で現代の台所に生きているというリアルな映像である。私は見てしまった。あぁ、どうしようと。

 どうしようのひとつは、どこかで買わねばということ。

 そして、もうひとつは、日本の家庭料理の問題を端的にあらわしているということ。

 石臼はもっともふるい調理器具のひとつである。石器時代からその機能はかわっていない。土器よりもふるいのだから、最古といってもよいだろう。その形態と機能を台所で保持できているという食文化の深度は強いなあと思うのだ。鰹節はモルディブフィッシュよりも洗練されているし、鰹節削り器もその洗練にあわせて洗練され、両者とも高価な品である。

 日本の料理の洗練が陥った退廃への道は、石臼のような存在を排除してしまったことにあるのではないか。削り器もそうだが、包丁使いへの依存というのか特化というのか。

 そんなことを、原田 信男『歴史のなかの米と肉』『江戸の料理史』を読みながら考えている。

 

料理の中の文化と野生〜『江戸の料理史』(本の話#0009)

告知案内文を書きました。原田信男『江戸の料理史』をとりあげてお話するトークライブです。

◉内 容

「一日ニ玄米4合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と謳った宮沢賢治は、農民の生活を料理を通して芸術にまで高める夢を抱いていました。人が人である限り、食事は腹を満たせば足りるものではありません。

それは、素材を吟味し、求め、ときにつくり、ときに摘み、さばき、蒸す、煮る、炒める、あえる、揚げる…無数のプロセスを内包しています。調味をへて、種々の器に盛り付けられ、卓を囲み共食するという時間をつくります。また、移ろいゆくものと節目とを編み出します。日々の料理、季節の料理、祝いの席で、悲しみの席で、旧交をあたためる席で。また、離乳の食から介護の食、そして最後の食まで、料理は、人の一生とともにあります。同時に歴史とともにある。

2017年、ガストロノミーが世界を席巻するなかで、貧食と飽食が競いあいながら、大地は疲弊し資源は枯渇し地球生命史上最大の絶滅シーンに突入している現代に、私たちは確かに生きていて、日々働き汗を流し、そして料理を楽しみ食べています。

今回とりあげる原田信男『江戸の料理史』は、一見専門性の高い歴史文化の書にみえますが、そうした歴史と文化と人の生活とのダイナミズムをくみ取るには格好の良書です。

いま、私たちが和食として享受しているものの大半は、江戸時代に形づくられたものです。すし、そば、天ぷら、豆腐、味噌、醤油、砂糖はもちろんのこと、玄米ではなく白米が普及するのも江戸中期以降のこと。初鰹をはじめ旬よりも初物をありがたがるのも江戸時代からですし、土用のウナギ(夏のウナギはまずいからどうやって売るかの策として)、美味しさよりも演出に走る料理店など、文化的爛熟と農村での飢饉が同時進行しながら社会が崩壊へと向かい明治維新を迎えるという流れは、なんだか今の世と似たものを感じますねえ。

お話は多くの現代的な話題をもちりばめながら、料理の中にある野生と文化をよみといていこうと思います。

ここでさわりをひとつ、江戸料理本の嚆矢『料理物語』について。

『料理物語』では巻頭に海の魚があげられます。なんでもないようでいて、大きな転換がここにあらわれているのです。それまで魚といえば鯉が横綱的存在でした。江戸時代に至って鯉から鯛へと横綱が交代するのです。それだけではありません。川魚の地位が低下し海の魚が尊ばれるようになるのです。そして川魚から海魚へという転換は、山の肉から海の魚へという変化でもあり、タンパク質摂取と発酵食の転換、塩の利用、それらの技術も担い手もかえていく大転換を引き起こします。そう、江戸時代は、山から平野・海岸へと、経済・文化・価値の移動が起こる時代であり、人口の爆発をともなう新田と都市開発の時代でもありました。ここには寺社の転換もかかわりますし、宗教・道徳・人生観の大転換でもあったと考えられます。夜なべ、勤勉実直が尊ばれるのも江戸時代からです。キリスト教を通して世界に向かって開かれながら閉じていく時代……。

さて、それらはすべて料理へとつながっていきます。お楽しみに〜。

image

料理の中の文化と野生〜『江戸の料理史』(本の話#0009)

◉主 催:ナレッジ・ロフト「本とスパイス」&カフェ・オリゼ

◉日 時:10月27日(金)

 開 場…18:30

 トーク…19:00〜20:20(20:30〜22:00 食事とカフェの時間)

◉場 所:カフェオリゼ(木次町里方)

◉参加費:2,500円(スリランカカレー/ドリンクセット含)

◉定 員:12名

◉申 込:「本とスパイス」参加希望として、カフェオリゼ宛facebookメッセージか下記のメールアドレスまでお名前とご連絡先をお知らせください。返信のメールをもって受付終了とさせていただきます。メールはこちらまで anaomoshiro★gmail.com(★⇒@)

エノコログサの食べ方〜その1

 昨日、仕事打合せ後の茶飲み話。

「今度、江戸の料理について話をするんだけど、江戸時代、とりわけ享保・元禄以降だと想像が働くというかわかりやすいんだよ、現代食生活と地続き感がある」

「そうだね。蕎麦も鰹も寿司だってね」

「ところがだ。室町から前。平安時代にまでいくと、わからないことがおおすぎて、なぞ」

「あぁ、食に限らずだけどね。衣食住に宗教」

「ありきたりなところだと、アワ、ヒエ、キビ、豆といった雑穀、狩猟の比重が高い。魚より獣という時代か」

「野菜もほとんどが室町後期からなんじゃないか。そういえばいま、風土記の仕事やっているんだけど、食に占める野草の頻度が想定以上に高いとしたら、腑に落ちるところが多いよ」

「そういえば、アワをつくっていると、エノコログサが周囲にふえるんだよ。目に飛び込むようになるという錯覚とは思えないほどに」

「アワが不作だったその横に一面のエノコログサがひろがっているわけ。夕陽に輝いてキラキラと」

ナウシカのように?」

「そうそう。いや、それよりも。食えたらいいなあと。食えるんだけどね」

「ええ! あれ食えるの?」

「アワの祖先だし、食ってたという記録さえしっかりある」

「野生のツルアズキが見つからなかったら、記事はそれだね」

……というわけです。

エノコログサを食す慣行を書いたときから、食べようと思いながら実践できてません。そして、野生アズキ探しも、なにやかにやで棚上げ中。じゃ、やるか。問題は時期がもう10月半ばであり、エノコログサあるかなあということ。秋雨前線が停滞して雨がつづいています。

 明後日、ナウシカの草原のようなエノコログサ畑があった場所へ行って確認しますので、実行するかどうかはそのときに決めるとして、です。

 昨年12月に調べた際の宿題だった「脱穀したのちすり鉢ですりつぶし、水選する。食べるときはアワと同様、粒のままでも製粉しても食べられる」ということについて。

 すり鉢を使うのは、粉化しやすいからのようです。

 水選は穎(殻)が水に浮くため、選別しやすいということと、風選がしにくいということか。

 エノコログサの場合、野草だけあって、どんどん脱粒するようで、たたいて収穫するのがよいとある。こりゃ手間かも。乾燥させるのにハウスがあったらなあってやつだ。

【2003,9『雑穀の自然史 その起源と文化を求めて』(北海道大学図書刊行会)内収「雑穀の祖先、イネ科雑草の種子を食べる:採集・調整と調理・栄養」河合初子,山口裕文】

 まあ、よい。やってみよう。

 ちなみに穂づみできるイネ科雑草はといえば、カモジグサ、イヌムギとある。

 カモジグサ、イヌムギかあ。カモジグサは確かにみていて食べられそうだ。

 そしてしごいてとれるイネ科として、チカラシバ

 wikiという安易な検索ではじめて知ったのだが、チカラシバからトウジンビエが生まれたんだ。遠い昔に。道ばたにあるあれ、手でするするとしごきとってパラパラと道路にまいて遊んだ記憶がよみがえるのだが、あのパラパラとクスクスのパラパラがつながった。クスクスは一度粉化したものなんだけどね。よし、チカラシバは粉にしてクスクスをつくってみよう!

 冷たい視線を背中に感じないではないけれど、楽しくやるとしよう。

 

秋、野生のあずきを探しに、6000年前の記憶を探しに

焼畑で2年目となるヘミツルアズキの収穫が進んでおります。焼畑地でのそれは島根大学里山管理研究会におまかせ。私めは、自宅の庭と裏の畑でいたずらまじりにまいておりましたが、ぼちぼちととれています。
今日あらためて、焼畑地(2年目)のものと菜園畑地のものとをくらべてみました。焼畑地の方が鞘も実も大きいですね。

左が庭と畑のもの、右が焼畑(山畑)のもの。
なぜこんなにもちがうのか。興味深いところです。

いろいろと考え、古い資料をひっくり返したりしてみました。そう。もともとアズキはとてもおもしろい豆ですし、日本で研究・調査する価値の高い生物資源でもある。
素人の疑問として、栽培アズキが日本起源であるという説はDNA解析の進展とともに有力さをましているようですが、他の多くの作物、イネ・ムギ・アワ・キビ・が中国大陸からもたらされたものであるのに対し、なぜアズキは日本から大陸(東アジア)へ伝播していったのか。
日本思想の特質とも重なるようで、これ、大変刺激的なヒントをはらんでいると思うのですが、いかがでしょうか。
●ツルアズキを植えてみるその準備メモに追加する参照資料として、《山口裕文「照葉樹林文化が育んだ雑豆”あずき”と祖先種」2003,〜『雑穀の自然史』北海道大学図書刊行会所収》をあげつつ。
日本でもっとも古いアズキ出土は滋賀県の粟津湖底遺跡(6000年前)ですが、他をみても軒並み日本海側、山陰〜北陸に分布しているのはこれまた興味深いことです。鳥取県の桂見遺跡では、4000年〜5000年前の炭化したアズキが出ています。桂見遺跡といえば、6mをこえる長さの丸木舟2槽が出たことで知られますが、人とともに種や豆が海を越えて行き来したことを夢想せずにはいられませんね。
さて、これから10月にかけて、野のあずきを探しにでかけてみませんか。5000万年の記憶を探しに、秋の野に。

種子を残す意思と摂理と

 温海かぶの種を蒔いてから1週間。昨日確認したところでは、なんと発芽は0。炭で黒くなっている地面なのでどんなに小さくとも緑色を見過ごすことはない。どれだけ出ているか、雨の中、期待を胸にすべる山の斜面をのぼっての0。落胆と同時になぜだろうと「?」が脳内を行きつ戻りつした。

 火入れから25日ほどたった蕎麦が発芽しなかったところに蒔いているので、条件はよくない。とはいえ、過去2年ほどは火入れした2〜5日後には発芽が確認できていたものだ。ちょっいと原因を整理してみよう。

・島根大の冷蔵庫で保管してきた2年前の種子である。冷蔵庫から出したのはおそらく数日前か。

→常温の方がよいのかもしらん。あるいはもう少し早く冷蔵庫から出しておくべきか。種子にとっては冬から春に変わったという認識となる。

・発芽しにくい土である

→蕎麦が発芽しなかった地であるからして。蕎麦よりは条件悪くても発芽はしそうなのがカブなのだが、どうでしょう。

・降雨が少なかった

→一時的に降ることはあったが、まとまった降雨は8月30日〜9月5日までない。これが要因として大かもしらん。山の斜面でかつ水もちの悪いところであると思われるので。

 最寄り気象台データである大東の降雨記録をあげておこう。

大東気象台降雨記録

 さて、書きおくべきこと、本題はこれからなのだ。

 落胆を胸に、?マークを頭にのせて、山を降りようとしたとき、ふと目がとまった。

 ん?? これはカブじゃあないか。

 おそらくこぼれ種と思われるカブである。種を蒔いた周辺部、すなわち火入れした地面と草が生えている境界部で発芽しているではないか。けっこう成長している。双葉から3つ葉を出しひろげている。おやおや。要点をば以下に。

・種は2年前のものと推定される。

・8月5日に火入れした際、蒔かれて眠っていた種子の大半は死んでしまったが、温度が死ぬほど高くならず、しかも休眠を打破するくらいには高くあがった地点で発芽したもの。発芽から2週間くらい経過したものか。

 種子の生存にかかる摂理を感じる。

 

モチアワ、タカキビ、ヒエの現状

 春焼き地のモチアワが出穂です。勢いはありませんし稔りは薄いでしょうが、7月13日(下の写真)の惨状からすればよくぞここまでという感があります。シカにもウシにも食べられました。出穂前というのは、茎が美味しいのでしょうか。
20170713-P126023202
 そして、本日、すなわち2017年7月31日のモチアワが下の写真です。

 ちなみに昨年、2016年8月3日のモチアワはこちら。稔り方の違いがわかるかと思います。
20160803-DSC_007502
 続きましてタカキビです。
 まず7月13日。こりゃダメだわと思いました。
20170713-P126023902
 が、ここまで回復はしています。
20170731-P126035602
 そして、ヒエ。
 7月13日のこの食害のさまはひどいものだと思いました。
 20170713-P126023602
 約20日後の7月31日の状況がこちら。
 モチアワ、タカキビより状態は悪いのですが、この勢いがどこまで続くか、ですねえ。
20170731-P126035702
 これから夏の盛りの1ヶ月は光合成能力をいかんなく発揮できるときであります。
 見守っていきますよ。
 応急処置の草刈りを約15分実施しました。
 水曜日にまた少しやっておこうと思います。

2017年アマランサス(赤穂)の成長を振り返る

島根県仁多郡奥出雲町佐白における竹の焼畑。アマランサスの焼畑栽培については2年目にあたる。赤い立穂を有する種を優先的に栽培すべく、新たな種を入手し育成することにした。長野県松本地方で自然栽培による育成を重ねている種である。
これを火入れ後、蕎麦と蕪を栽培した後にまくものとして試してみた今年。途上であるが振り返りつつ課題をもう一度整理してみようと思う。
◉5月18日
通称「中山」。播前にはオオアレチノギク(おそらく)が背を伸ばし始めている。中山ではオオアレチノギクが焼畑後のパイオニアプランツとして優先している。この日、そのキクを根こそぎ抜いて種を蒔いた。
20170518-P125087702

20170518-P125088002

◉6月4日
なかなか発芽しないこともあり何度かにわけて種を蒔いているのだが、この段階でも発芽は認められなかった。
20170604-P125095402
◉6月10日
待ちに待った発芽。ひとあんしん。
20170610-P126004002

20170610-P126004302

20170610-P126004502

◉6月23日
20170623-P126008002

◉7月6日
地形上、日照にめぐまれておらず、また間引きが大きく遅れたこともあるのだが、成育はよくないうようだ。
20170706-P126019102

20170706-P126019402
◉7月24日
夏、ぐんぐんと成育してほしい〜。
20170724-P126031502

スリランカにおける混ぜる料理と多様性、そして焼畑

 スリランカのカリー料理をつくっていく中でふと気がづいた。

 あぁ、そういうことなのかと。

 文にはなりにくい。

 まとまりがつかず、何を書いているのか、わからなくなってしまうことをおそれる。

 が、まずはあげてみよう、10カ条にて。おいおい整理すればよい。

スリランカ家庭では都市にあっても薪で火を炊く場所をつくろうとする。いくつかの理由があるが、アーユルヴァーダに昇華されている家庭医学でガスの火でなく燃やす木で煮るようにという指示がなされる調理がある。思うに。それは焚きムラを要するからではないか。成分が抽出されるその過程において。

②とあるレンズ豆のカレーのレシピにおいて、材料を「まぜずに」煮込むこと、それがコツだというものがある。豆料理において比較的よくあるのではないか。これも①と同様、均一でなくすることが味とともになんらかの多様性をもたらす効果がある。熱が通って焦げるくらいの箇所からやや生煮えに近いもの、など。

③同じカリーを食べるにしても、混ぜ方、口への運び方、咀嚼から飲み込み方によって、味わいが異なることは理屈でもわかろう。手で食べるのか、スプーンで食べるのかによっても、それは大きく異る。

④日本のカレー、それはスリランカ(インド)から英国にもたらされたものからの独自進化でもあろうが、最大の違いは、すでに混ざりきっているものが日本式カレーであることだろう。

⑤多様性に価値を見出すことのできる文化は、死を単なる無とはとらえていないだろう。死こそが豊穣=多様性をもたらす。

⑥聖人にも悪人にも等しくもたらされるのが「死」である。なんと素晴らしいこと。すなわち人の世の価値とは異なるもの。

⑦秩序と混沌。この対比を「光と闇」というイメージに集約させようとするものは何か。

⑧夜は闇ではなく無秩序ではなおさらない。むしろ昼の太陽よりははるかに「秩序」に近い側にあるものが夜(の時間)である。月は規則正しく満ち欠けを繰り返し、星座とその位置の変化は季節とともに方位を導き、遠い航海を可能にするものだった。

⑨食べることは、土を知ることと深いつながりをもっている。

焼畑の本質は、土に多様性をもたらすこと、すなわち「死」をそこに生じせしめることにあるのではないか。焼畑を単なる生産手段としてとらえているのではわからない、そこは。そしてスリランカ焼畑の伝統にはその智慧が残されている。