令和2年、ホウコ雑記

冷蔵庫の片隅に冷凍したままのホウコが眠っている。たしか2年前のものだと思う。搗く機会を頭のなかであれこれと浮かべながら、いくつかの記録を整理しておきたい。
思いつくままの箇条書きをまず。
1. 阿井の山野で食べたものの中でのホウコ
2. ホウコの方言分布
3. ホウコの記憶を語る木次のばあさんら
4. ホウコモチをつくる
5. ヤマボウコをまだ見たことがない
6. ホウコはなぜ木次で見なくなったのか
7. ジュンさんの歌、ハハコグサを聴いてみたい
8. ハハコグサ、ホウコについて言及しているもの
9.  農文協の食生活シリーズにおけるホウコ
10.  「モチ」と「ホウコ」
これらのついては、簡単に加筆しながら、資料のリンク先などを追記していきたい。いずれもかつて一度はブログなどに書いたことがあるものだ。

そして、かようなことを思い立ったのは、篠原徹の昭和48年の論文の中にホウコについてふれたところがあったため、それを引っ張っておくためでもある。
「Ethnobotanyから見た山村生活」より

中国山地のどんな谷に行っても、そこには30戸前後の小さな部落が必ずある》
論文はこの一文からはじまる。昭和48年9月30日受理というからかれこれ47年前。いま、令和2年の西暦2020年、中国山地の片隅に生きる身にとっては切ないような美しさを湛えている一文だ。「必ず」という言葉からは、なにか意思のようなもの、確かなもの、尊いもの、そういったものが受け取られる。いまの私たちは、必ずという言葉を使うべくもないどころか、いまにもなくなりそうな集落をあそこにもここにも抱えている。すでになくなった谷の姿などいくつでもあげられそうだ。
つい一月ほど前に訪れた匹見の小原集落。その奥の谷にあった十数戸は、篠原が「必ずある」と記した五年後には消滅し、いまその跡形がまさに山に戻ろうとしている。それをどんな感慨と未来へのどんな意思をもって、私たちは後世に継いでいったらいいのだろう。

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篠原を読むということは、単に一論文からパーツとして「利用」可能なものを取り出すという処し方に終わるものではない。そう断りつつ、ここでは、ホウコについての一節をとりだしておく。調査取材した岡山県湯原町粟谷(旧二川村)七人家族、そして広島県東城町帝釈の二人家族の例として、家族が利用する植物があげられ、「粟谷の家族の例について、以下具体的に述べてみたい」と説明が入るところである。

《ただ、この家族には現在82歳になる媼がいて、ケンザキホウコウ(ヤマボクチ)・ヨモギ・チチボウコウ(ホウコグサ)を春先採取して乾燥保存している。これは<シロミテ>(田植後の祝事)の餅搗に湯にもどして米と一緒に搗込み、餅の粘性を高めるのに使われるもので、でき上った餅は<ホウコウモチ>と称され、<カブウチ>(血縁集団)に配られる。しかし粟谷40戸のうちで<ホウコウモチ>を作るのはわずか2〜3戸で、もはやこれも消滅するのは時間の問題であろう。》

篠原がここで「消滅するのも時間の問題であろう」と述べているのは、ホウコモチに限らず、この50年ばかり前の山村で、山野から草木を採取し多種多様に活かす生活の衰退と、利用する植物の利用と植生、双方の減少を前提にしたものである。
とはいえ、まだまだここであげられた82歳の媼は、村々にひとりはいらっしゃった時代であり、「そういうことを知っとるばあさんらはみんないなくなった」という言葉を古老からきく現代とは明らかな線がひかれている。
現実のものとして目の前にあるものとはちがい、私たちが見聞するのは彼岸のものだ。そのことを忘れずにことにあたりたい。ことにいま、こうしてやっているような断片を抜き出しつつ並べることに対して。そう自らを戒めたうえで、ホウコから離れて、いくつかの断片を拾っておく。忘れてはいけないが、忘れぬように。備忘という。
篠原が昭和48年9月に行った調査、すなわち、粟谷を構成している40戸の家から年代別に13人を選び、調査したものの解説中から得たものだ。調査は「実用価値を既に失った野生植物の利用実態」について、調査表を用いて行っている。その数だけはあげておこう。食物関係121種、民間薬73種、農具・繊維・結束・籠・建材36種、神社・寺・祭用9種、炭・薪19種、その他56種である。下に図を掲げるが、およそ半分が利用しなくなったもので、おそらく今同様の調査をすれば、数%となるのではないか(やってみたいなと思う※)。

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閑話休題。山村で実用価値をほぼ失っている野生植物について、である。

《食物関係の植物でB・C項に属するものが非常に多いことは、山村の食生活が以前と大幅に変化したことを明瞭に示して居る。特にC項(名称、使用法は聞いたことがある)に属する野生植物は、いわゆる飢饉の備荒食として知られている植物が多く、30代から60代では料理法・処理法を全く知らない人が多い。クズボウラ(クズ)、シズラ(ワラビ)の根を掘って澱粉をとった人は既におらず、わずかに70代の人がヤーヤー(ウバユリ)の根から澱粉を採ったことを記憶しているにすぎない。》
《ヤーヤーは、五月頃葉のまだあまり出ていない鱗茎のよく発達したオンナヤーヤーと呼ぶものを採取し、唐臼で搗くか、石の上で叩いた後、桶の中に入れて漉す。その水を何回もとり変えて、上澄を捨て、最後に沈殿したものを乾燥することにより、カタクリを採った。》

ウバユリについては、椎葉村の話、日原の話、そして阿井の山野にあったかなかったか。大事なことは、ウバユリの根がおいしく、ふえてくれれば自家で食したいということによる。どうやって山野でふやしていくか、ということだ。これは奥出雲山村塾、森と畑と牛と、で行うことでもある。

ウバユリが、澱粉を採取する植物として、クズやワラビから採らなくなった後にも利用されていたのは、採取時期の違いとそこにかける労力の大きさの違いによるだろう。ウバユリは量を採るのが大変とはいえ、クズやワラビに比べれば素手でも掘れなくはないのだから。

さて、次にひとつ、年取りのことで例があるので、ひいておく。

《今は忘れられている年中行事にも、ずいぶん多く野生植物が利用されていた。正月前の12月13日を<キシクサン>と呼び、どの家でもシラハシ(ウリハダカエデ)→「松江の花図鑑」参照で正月用の箸を作る行事があったし、<オオドシ>(大晦日)にはミノサイジョウやフクナリという品種の柿を<年取柿>と称して必ず食べたものである。11月の初め頃、この柿を採り蔵に自然状態で放置しておくと<オオドシ>には渋がとれて食べられるようになっており、これを<ムシ柿>と呼んでいた。……中略……また正月の期間中、竈で燃す薪はヌリダ(ヌルデ)でなければならないとされ、正月前にこの木が大量に準備された。》

ヌルデ→「松江の花図鑑」参照は負い木でもあって、美保神社の祭礼に用いられたのであったか(要確認)。正月に子供の玩具としてアワボッター、ヒエボッター(アワやヒエに似せて、ヌルデの木でつくったもの)があるのは、あれはどうだったろうか、など記憶の曖昧なものを改めて確かめておきたい。

ほか、蓑の材料となった植物のこと、キノコのことなど、書き留めておくべきことが多いが、それらはまたのちの機会に。とくに蓑については書きかけのものもあるので、近々に。

残暑きびしくも森の中はすずしく、山ウツギの花かおる

「今日は山へは行かれますか」
「いやあ行けません。倒れますわ」
と、言ってはみるものの、じつは行っている。山というと、眺めのよい景色のある登山でのぼるような山をみなさん、イメージされるようだ。が、山もいろいろ。標高250〜400mくらいのところでも、少し中に入ってしまえば、猛暑日でもすずしいものだ。たいがい。標高600m超の山を背後にもつところや、水を保持しているような水源の山の水脈があるところ、などが条件だろうと思う。

 昨日も、この林のなかで、古竹や倒れかけた杉を片付けたりしたりしていた。時刻は11時から13時ごろ。外の気温は35℃前後だったが、汗だくにまではならない。ここは林縁に近く、ふつうは涼しくはないのだが、この竹林のおかげだろうか。そして水源地からの水脈がこの下を通っているはずで、そうしたことも大きいのだと思う。荒れてはいるが、気持ちよさがある場所だ。

 そして、この竹林が果てるところに咲いていて、気になっていた、ジャスミンの香りがする木の花。調べてみると、クサギの花だ。木の野菜としてかつては食されていたらしい。佃煮がうまいともある。木の実は青の染料になる。媒染剤なしでも染まるのだとか。秋に春にためしてみたい。

出雲国産物帳でみてみれば、おそらく「山ウツギ」がクサギに相当する。なぜ山のウツギと呼ばれていたのか。境界木としての徴をおびていたのか。気になることいろいろ。なにごとも、少しゆとりをもってすすめると、風景の映り方が豊かになるものだな。

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「コリーニ事件」を観て

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昨日、映画「コリーニ事件」を観た。しかも出雲で。これは劇場貸切かと思ったが、妻とあわせて3人の観客だった。T.ジョイ出雲で9/10まで。行ける人はぜひと思う。理由と見方などいくつか。

◆予告編など一切目にいれずにふらりといくのがいい。この映画の最大の特徴、それは誰もが少なからず当事者として「現場」に立ち会えること、だと思うから。舞台は法廷。法は正義を実現できるか。正義とはなにか。……そう問いかけてくる。リアルに、ひとりひとりに。ドイツでは現実に、この映画(の原作の反響)が発端となって、立法府が委員会を立ち上げたという。
◆真実が解き明かされる。正義が悪を粉砕する。そういうものではまったくない。真実はどこにあるのか。ーー公文書館の中に眠る膨大な記録の中の平凡な事実、発言すらない評議会の出席者名簿、墓碑銘の生没年……?。しかし、法廷で資料として提出されるそれらは糸口でしかない。問われているのは、人の心、悲しみも喜びも慈しみも、それらをすべる何が許されないことなのかという正義の感情。そこにぐいぐいとせまってくる。
◆ありがちだが、日本のポスター、予告編はちょっと。なので、ドイツのそれを。原作は邦訳の文庫もあり。作者フェルディナント・フォン・シーラッハは弁護士、そして……。
「コリーニ事件」フェルディナント フォン シーラッハ著、酒寄 進一訳、2017,東京創元社
トスカーナの美しい風景やドイツの建築、街や調度、服飾、さまざまな意匠を「観る」楽しみもある。
◆殺害シーンや法医学のシーンなど、ショックの強いシーンがいくつかあるので弱い方は目を伏せるか、おやめになったほうがいいとは思う。ただ目を凝らしてしっかりみることが、読解・解釈の深化につながっており、はずせないものでもある。「よく見るんだよ」と。
◆黙秘を続けたコリーニは、映画の中では、その心を開いて語ることができた。しかし、本当に語られるべきこと=言葉にされるべきだったことはもうひとつある、と思う。それは観る人によって、その当事者性によってそれぞれにもまたあるものだろう。
◆総じていうなら、あぁ、よかった、で、終わる。そうした浄化感のある映画であるにもかかわらず、問いがいつまでもぐるぐると頭のなかをめぐる。いわゆる重いテーマとか、考えさせられる、といったものではない。つまりは本気で正面からぶつかっていて、逃げていない。それが生きている現実の希望につながりえている。帰りの車中、月をみながら妻がつぶやいた。「映画じゃなかったみたい」。そう、いい映画である。

荒れた森にこそ未来は開けている

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◆数日前に、奥出雲のいくつかの「山」をみてまわりました。参加者の多くは自分で自分の山を手入れしているきこりさんたちだったのですが、みなさんの心を強くひきつけていたたのは、見ても入っても心地のよい、美しい森ではなく、見捨てられ荒れ果てて見える森でした。ここ数日、そのことをつらつらと考えるに、ふたりの言葉を思い出しながら反芻しています。
◆ひとりは徳島の林家、橋本光治さんがレクチャーの中でおっしゃっていたこと。
「間伐も枝打ちもしないで放棄されたこういう山ですけど、まんざら悪いものじゃないんです」
「(師匠に教えを求めたときに)道をつけるのは、この葉っぱを見習えといわれました。葉脈があるでしょ、ここから学べといわれ最初、途方にくれました」
「(仕事を息子を任せるときに、好きなようにやれと、ただしひとつだけ守れと言ったことがあります)。(山に)道をつけるときには、虫一匹殺すな」
◆もうひとりは、フランスの作庭家、ジル・クレマン。
「(この庭の植栽は)虫から教わるのです。虫は弱い存在です。だから、植物と動物との間にたっている」
「荒れ地。それは閃く秩序の美的なうつろいであり、時間のかけらを照らす束の間の出会いなのだ」
「人間がそう感じるのとは逆に、荒れ地は滅びゆくこととは無縁であり、生物はそれぞれの場所で一心不乱に生みだし続けていく。荒れ地を散策していると、たえずものごとを考え直さないといけなくなる。なぜならそこではあらゆることが起こり、もっとも大胆な推測でさえも覆されてしまうから」
オリゼの庭も、森と畑と牛との森も、そこに命を吹き込む生物の流れに、人として入り込み方向づけることを狙いとしているのですが……。はてさて。

 

奥出雲における「わに」の刺身について

それは先週、8月8日のことでした。立ち寄った隣町奥出雲町のスーパーで、目的の品をかごに入れ、そそくさとレジに向かう途中、どどんとばかりに「わに」肉が陳列されているのを見つけてしまったのです。刺身用の新鮮なものです。「わに」ことサメの刺身は、これまでも何回か目にしたことはありましたが、棚の一角を大きく占める光景は、はじめて遭遇するものでした。買ったことも食べたことも一度もなく、今がそのときとばかりに一番安く小さなものを入手したのです。
サメのことをワニと呼ぶ地域圏がどの程度ひろがっているのかは定かではありませんが、少なくとも関東、東海、近畿地方では通用しないと思われます。乏しい経験からの臆見ではありますが。
わにの肉は、島根県から広島県にかかる江の川の上流域では郷土料理、とりわけ正月には欠かせないものでした(過去形)。その名残は今でもあって、食べることはなくとも、ワニといえばサメということで、この地域のほとんどの人に通じます。
江の川流域とは少しずれますが、隣接する現飯南町、現奥出雲町でもワニはそういうもの、すなわち正月、そしてお盆の行事の食べ物として、そして日常的にも食卓に並んでおかしくはないものです。
それにしても、安いなあとこの時には思ったわけですが、本日すなわち8月14日、またも思わぬところで同じわに肉に出会ってしまいました。
現場はわにの刺身を、行事はおろか日常的にも食することはない斐川町のスーパーです。実家の墓参りの帰路立ち寄ったのですが、山陰沖でとれたものであることは先の奥出雲と同様。
そして、実家の墓参りに行った際に「今年は(COVID-19のこともあり)お盆は皆さん控えるということにうちもした」と聞いたことを思い出したのです。
そう。お盆になれば売れるはずのものが、今年は売れない。だからたたき売りと、ワニを食べないところでもダメ元で並べてみようと。そういうことなのでしょうか。
私が見た斐川のスーパーでの売値は奥出雲のおよそ半額でした。
また、それらに加えてとれすぎたということもありえます。今後、注視していきたいと思ってます。
味のほうはといえば、昔と違って新鮮な刺身ですから、くせもなく食べやすいものでしょう。サメといっても幾種類かあって、部位などによっても味わいは異なると聞きますが、私が食べたこのサメ肉はさっぱりとした、しかしこれといった癖がなさすぎて、またほしいかといわれれば微妙です。
一方で、うまいうまいと行って昔の人が食べていた、とろけるようないい意味での臭みの強いものを、一度食してみたいとは思うのです。今日もふとその衝動にかられはしたものの、夏だし、やるんなら冬のほうが、と、思いとどまったのでした。

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さて、もうひとつ、気になっていることがあります。
このワニを年取り魚として食するようになったのはいつ頃からかということ。
いくつか論文・論説もありますので、ファイルを引きずりだせばある程度はっきりするはず。たしかそう古くはないはずなのです。江戸後期ではなかったか。どなただったか研究者の方が、宿帳を調べて指摘しておられた最初の頃の年代がそうではなかったかと。曖昧ですので、これは宿題。
や、そもそも年取魚そのものが新しいはずで、奥出雲、掛合、飯南あたりだと、やはり鰤の記述が多く、塩鱒、鯨も出てくるのですが、和邇のことは史誌では見た記憶がありません。
このあたり、年取り蕪とも関わることなので、注視すべきこととして備忘とします。

スペルト小麦と夏野菜のマリネ

カフェ・オリゼの裏にある「オリゼ畑」で育てているスペルト小麦。
夏野菜のマリネとしてランチにお出ししています。
玄麦。
スペルト小麦は、古来つくりつづけている地域では粒で食することが多いという論説をみたことがあります。そうでなくても、粒でとれるのなら粒でとったほうが歩留まりはいいものです。粒食・粉食の違いと変遷についてはもろもろあるものの、いま、ここでは技術的にも経済的にも粉にはできないので、選択の余地なく粒食なわけです。
なにより大事なことは、これ、うまいということ。くせになりそうです。
来年は作付けをふやそうかと思います。土地はないのですけれど。なので畑以外でどう育てるか、それをいろいろ模索しています。

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令和2年7月下旬の山墾り

梅雨のあいまにひとしごと。
◉夏に花を咲かせる樹々をたしかめる〜7月22日
 あれ、こんなところにもと。夏に花を咲かせる木が、山墾りをしている岩内地の谷にはたくさんみられます。現在、頭のなかに入れ込むだけですが、子供向けの体験が本格化したら、マッピングしていきたいものとして記しておきます。
まず、ネムノキとカラスザンショウ。今年はずいぶんと長く咲いている気がします。陽樹、先駆種ですが、アラして若い山なので、多く見られるのでしょうか。これが道隔てて古い山になると、がくんと減るところもおもしろくわかりやすいです。
 下のはリョウブでしょうか。藪に隔てられ近くにまで寄れず、次回あらためてたしかめます。f:id:omojiro:20200725111446j:plain
茗荷畑をたしかめる〜7月22日
 竹藪を伐開した山は、日の光の入り方のみならず、風の通り方、土中の水の流れもかわり、周辺の植生が大きく変わっていくことを、体感することができます。明るくなった、地面のかたさが違うといった、わかりやすいレベルから、精妙とも気の所為ともいえないものまで。
高木が竹にまじって残っていた場合、たくさんの実生が春から背をのばしはじめます。小さな小人が森から出てくる感じ。
 そんななかで、今年めだったのは、ミョウガがどどんと出現したこと。もともとあったのでしょうが、なぜ目に入らなかったのか不思議。多少間引いたほうがよいのでしょうが、まずはこのまま。
◉ことしの焼畑アマランサス〜7月22日
 6月23日に火入れして、翌日にヒエとまぜて播種。ヒエもわずかですが、この中にまじっています。6月下旬播種は発芽も早く、梅雨に入っていれば初期成長も早いので、秋の長雨や台風にぶつからなければ理想的ではあります。以下、予定(予想)と基本情報。
6月24日播種…播種量不明。0.5aほどに20gほどはまいたでしょうか。通常の畑地栽培の場合、10aあたり20〜24gが適量のようです。発芽適温27℃〜29℃。要地温17℃以上。
7月中旬〜下旬に間引き…すればよかったのでしょうがほぼやってませんで、8月1日にやりました。
8月4日〜10日…柵づくり(牛侵入防止)
8月20日開花…発芽から50〜60日後に開花する。
9月30日〜熟期…開花から40〜50日で収穫。
10月10日までには収穫といったところ。秋雨にぶつかりそうなので、実の入り方などをみながら、順次収穫とみておきましょう。
収量は通常の畑地栽培の場合で、200kg/10aというのが基準のようだ。5kgとれれば上出来かと思う。f:id:omojiro:20200722153747j:plainAmaranthus cruentus

◉畑の草刈り〜7月25日f:id:omojiro:20200725120921j:plain草刈りはそのときどきで、少しずつやっています。

野老を見つけた日に

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おそらく鬼野老だと思う。一昨日やっと見つけた。探しているときには見つからず、忘れた頃に、こんなところにあったのかと驚くのはいつものこと。そして、7月下旬の今頃が目立つということでもあろう。花をつけるのもこれからだ。トコロを食べる会として、蔓延って困っているというところからは根こそぎ持ち去りますので、ご一報ください。
令和2年現在、ウェブで散見するに、数年前の記事では青森、山形では、道の駅でも売られているとか。山陰ではまず見ないし、聞くこともない。山陰での地方名については不明。出雲国産物帳にもそれらしい記載はない。
トコロと名のつくものはいくつかある。
・アマドコロ(甘野老)
・ヤマアマドコロ(山甘野老)
・ウチワドコロ(団扇野老)
・カエデドコロ(楓野老)
・キクバドコロ(菊葉野老)
・ヒメドコロ(姫野老)
・タチドコロ(立野老)
が、通常、トコロといえば、オニドコロ(鬼野老)、すなわちヤマノイモ科のDioscorea tokoro Makinoをさす。いつのころからなのか。仮に江戸時代中期以降と見立て、その嚆矢を元禄時代とみてみよう。『本朝食艦』を著した人見必大とて、トコロという呼称の由来については不詳としている。漢名は山萆薢、生薬名は「萆薢(ヒカイ)」というのは誤用のようだが、よくあることで、気をつけたい。また、必大は野老の栽培も多いということにふれ、栽培したものの毒性についてふれている。言及こそないものの、山野の自生したものが用いやすいということか。さらに、栽培は食用ではなく、生薬にするためのものであったであろうと。さらに進めて、元禄の頃よりトコロを日常に食することが減っていったのだろうと、今は見ておこう。元禄の『本朝食艦』から五十年ほど時代をくだって弘化の『重訂本草綱目啓蒙』になると「味ニガク食フベカラズ」と記され、干して春盤の具(正月の供物)とすることや奥州、阿州では上巳の節句に用いるのだ等、文字の知識と儀礼に残るだけのものとなっていく。
僅かな文を手がかりに、時代を室町、鎌倉、平安にまで遡れば、いま少し違う風景も見えてくるようで、そうしたことからの臆見に過ぎないが、トコロを食べてみようという向きにはそれでも有用なのだ。
蛇足ながらの付言をふたつ。
日常の食とはいっても、嗜好食である(あった)ことは、野本寛一が『栃と餅』2005,岩波書店で記していることからも推し量れる。野本氏が口にしたその食味とあわせて平成15年3月2日に新潟県岩船郡山北町山熊田での出来事をその書からひいておこう。

《こうして仲間が集って手仕事をする時や、家族がイロリやストーブの回りに集まって団欒する時、煮あげて笊に盛ってあるトコロの皮を小刀や果物ナイフでむいて楽しみながら食べるのだという。ーーキヨ子さん(大正12年生まれ)は包丁で手際よく皮をむき、食べてみろと勧めてくれた。
色は薄い飴色に鬱金色を混ぜたような色である。口もとへ運んだ瞬間、微かな芳香が鼻孔を刺激した。口に入れて噛む。ねっちりとした歯応えがあってホロ苦い。苦いけれども口が涼しい。歯応え、舌ざわりは山芋を輪切りにして煮たものに近いがそれよりも弾力性がある。爽やかな香気がある。苦いが抵抗感は湧いてこない。》

山北町村上市)は山形県鶴岡市と接し、新潟よりむしろ山形と言っていい土地であると、住まわれている方から聞いたことがある。山北町焼畑でつくられる赤カブは鶴岡市温海の温海カブと名称こそ違え、ものは同じであるようだ。そうしたこともこの話の糸のひとつ。食べてみるといえば、島根県内で毎年、口にしているところもある。美保神社の青柴垣神事。神事の供物の中でも野老は重要なもので、當屋が供物であるトコロいもを海中で洗う「野老洗い」は欠かせない儀礼となっている。今現在どう調理されているか、野老はどこから取ってくるのか等、確かめるべきことも多い。山形地方から贖っているということを論文で見た記憶があるがすぐに取り出せないので勘違いかもしれない。
この話の糸は山形と島根との縁を赤カブと野老を食す慣習から手繰り寄せようとするものだ。山陰は元来白カブを地カブとする地域なのだが、津田蕪をはじめ、米子蕪、飯島蕪と赤カブが沿岸地域に存在する(してきた)。そして、その北の縁と、里芋・生姜・茗荷とつながる南の縁をつなげることに、意味はある。

もうひとつは、舞狂言の「野老」である。
幽霊となってさまよう鬼野老の霊を僧が供養するのだが、野老の精が延々とその身の上を語るところが主話となる。
法政大学能楽研究所が蔵しウェブ公開されている「天正狂言本」からその冒頭をひく。画像に朱で示したところ。

f:id:omojiro:20200719131555j:plain《そもそも山深きところを
鋤鍬にて掘り起こされて、
三途の川にて振り濯がれて、
地獄の釜に投げ入れられて、
くらくらと煮ゆらかしていませるところを
慈悲深き釈尊(杓子) に救い(掬い)あげられ……》

続きも笑いをこらえるところなのだろうが、目をこらすべきは「山深きところ」。野老は山深いところだけにあるわけではない。これは舞狂言がそうであるように、この夢幻のなかで野老を食していたのも、それを供養しているのも、当時のいわゆる農民や僧ではなく網野善彦いうところの「道々のもの」であることを示している。漂泊するもの、だれにもどこにも属することなく、諸芸職工を懐に道の上に生を全うし歴史から消えていったもの。そうしたものの霊こそが慰められている。
野老は道々のものが、楽味とし、滋養としたのだろう。合歓木の花咲く夏の日、鮮やかに静かに葉を茂らせるその姿に夢想した。
さて、どこまでか、たどれるところまでそれを追い、食べてみよう、というのが、トコロを食べる会の趣意である。

木次線の終電に想う

飲んで終電で帰るなんて何年ぶりだろう。しかもこれが人生最後、かもしれないなと思い記念に撮影。f:id:omojiro:20200712201649j:plain あと30分ばかりは残っていたビアガーデンの宴席を辞し、急ぎ足で橋を渡り、歩道を横切って無人の駅の改札を抜ける。ちょうど一両編成のディーゼル車がホームに入ってきた。ドアが開き、整理券を抜き取って席につく。ほかの乗客はいない。その木次線出雲三成駅から終着である木次駅まで所要35分。

乗車してから、人が乗り込むことも降りることもなく、窓の外は深い闇。意識はさえてきて酔いが遠のいていく。下久野から日登の区間は時折、窓ガラスに木の枝がこすれていく「ざざーっ」という音が、現実の安心感すら与えてくれる。20時50分、終着であった駅につくと、車掌が運転席から出てきた。あぁ人はいたのだ。運賃をその場で渡して、ホームに出ると、そこにも駅にも人影はない。駅前には一台のタクシーのなかで運転手がなにやら見ている姿が見えたが、ほかに人の姿はない。下りの最終便を待っているのだろうか。そこから歩いて家に帰ってきたのだった。

さて、闇の中を通り抜けた帰路と違って行路は夕刻であり、車両も2両編成で、数名の乗客があった。そして車窓からはいつもと違う風景がのぞめて新鮮であった。気づいたことなどいくつか記しておきたい。

下久野に2軒ほどかぶせものをしていない「生の」茅葺き民家が見えた。驚いた。どちらもよい状態には見えなかったが、あぁ、すぐでにも降りて訪ねてみたい衝動にかられる。訪ねてどうなるというものでもことでもないのだが。

夕刻ということもあるのか、線路脇の道にたつ親子が、楽しげに列車を眺めている姿をみた。なんと言っているのだろう、母の口が動くのが見える。そして列車に、すなわちこちらに向かって笑顔で手を振っている。

鉄道というものの本質がその向こうに見えるような気がしてならない。車が走る道路とは違うなにか、なのだ。その何かについて、また思いついたことを記していきたい。

道をめぐる雑想#1

お米をいただいている奥湯谷の農家から、昨秋収穫ぶん最後の一俵をいただいての帰路でした。おそらく江戸の昔から道幅の変わっていない上阿井の八幡神社の前の通りをすぎて、国道に入る少し手前。路傍に小さな石、といっても一抱えはあるやや丸みをおびたその表に文字が見えました。「右云々、左云々」とあり、車を停めて確かめようと思いながら、薄暮のなか小雨でもあり、ゆるめたアクセルを再び戻し、後ろ髪をするりと梳かしたつもりでした。
それからというもの、道というものが気にかかって仕方がありません。

あの、古い道しるべは、なぜ、あそこに残り続けているのだろう。道路工事にあえば、たちまちにどかせられ、文化財でも神仏でもないために、その石が残ることもないのでしょう。同じように、ひとびとの記憶というものも失せてしまうのでしょうが、ただ、ひとつ言えることがあります。私たちの時代にも道しるべはあって、その多くは国家あるいはその中央集権機構の出先機関としての各自治体の管理下にあり、規格統一化されたそれとして、あるのです。そして考えてみれば興味深いことに、それはすべて車のためにある標識なのです。

私がその日みた道しるべは、日本全国どこでも同じような形態をしていたのでしょうが、それらは幕府や各藩が管理して整えたものだとは考えにくいのです。彼らは領土を点でおさえることにその本義があるようで、関所、宿場、一里塚など、動かない点を動かぬように置くことがそれら機構が共有する思考空間の特質でしょう。少なくとも近世以降の権力機構はそうでしょうし、動きまわるものを自家に抱えていたそれ以前のマイナーな力とは性質を異にするものです。動くものは山のものです。山は動きませんが、山の線はつねに変化し続ける。中世山城が「山」に展開したのに対し、近世は平地に降りてくる、と同時に山を敵視し排除することで成立したものでもある以上、動かぬもの、均質フラットで不動のもの、すなわち点こそが重要であって、線はあくまで点の集合に過ぎないのです。

話は飛びますし、わかりにくいのですが、道しるべ、石に記されたそれは、点ではなく線なのです。分岐をあらわしているから。そして、道の上でもなく、だれかが所有管理する地面の上にあるのでもない、境界上に置かれている、ように見えるから。また、それを「よむ」のは旅の人間であり、「役人」ではあり得ない。なにより、迷い・不安に対する安堵あるいは信頼の気持ちが、その石にいまだ念としてこもっているようで、そこに心ひかれる私の気持ちがあるのです。

それは妄想だろうと。妄想が願望や不安をその生成動因とするのならば、そうしたものはあまり認められないようにも思うのです。ざっと二百年ばかり前の、旅の人間となりかわって、その石の前に立つ自分を仮想してみるための材料を史実その他から集めてみたいものです。

話をもとに戻します。その道しるべ、だれが置いたものでしょう?
これまでいくつか見たそれは寺社の近くにあるものでしたから、その関係ではないかと思います。

今回は、平凡社世界大百科事典の「道しるべ」の項に胡桃沢 勘司が述べたものをひいて、ひとまずしめます。

《日本における道しるべの起源は明確ではないが,現存する遺物の大半は近世,さらには近代以降に設けられたものである。石製のものが多いが,木製のものもある。石製の場合,道しるべとして造られたもののほかに,庚申(こうしん)塔,道祖神,石地蔵,石灯籠,常夜灯等,石神・石仏などの石造物にこれを兼ねさせたものも見られる。前者の設置には為政者が関与することがあるが,後者は民衆が自らの意志で設けたものがほとんどである。旅の安全を願う庶民の素朴な信仰心が,これら石造物のなかにこめられていると言ってよい》