出雲の山墾りをぼちぼちと

 ひっそり今年も始動します。活動ページを設けました。
冬の準備がものをいうのです。冬の間に、春焼き予定地の竹を半分くらいまでは焼いておきたいということもあります。
雪がたっぷり積もっていれば、延焼(つまるところの山火事)対策を大幅に減じることができます。人員でいえば、最低10人はいるところが、2人でもいけるというように。
s-orochi.org

しかしながら、ちょっと積りすぎているようです。
奥出雲の横田では観測上、10年ぶりくらいの1mごえだったようですし、焼畑フィールドである佐白でも60センチほどはいっただろうと思います。明後日、現地確認の予定ですので、レポートはそのときに。
下の写真は数日前のご近所。

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本の記録〜令和3年1月5日

久しぶりに記録する。年末年始に目を通す時間くらいはと思っていたが、結局のところ出来ず。再読のために覚えとしてここに置くものである。

†. 『豊穣と再生 宗教学概論2;エリアーデ著作集第二巻』M.エリアーデ,1968;久米博訳,1981,せりか書房/県立中央図書館より借
日本の民俗信仰のなかで見られる樹木信仰との類比をどう捉えていけるかを確かめてみたく。また、メイポールをまつりの後に焼くという記述の確認のため。出雲大社境内で平成○年に発掘された柱の先端が焼かれていたことと、メイポールでのそれを同じ理由に基づくものとしている論文を瞥見し、いま少し掘り下げてみるべく。

†. 宮本常一『旅人たちの歴史1・野田泉光院』1980,未来社/松江工業高専より借。
木次図書館にて取寄。資料として。

†. 『日本思想体系46・佐藤一斎,大塩中斎 』校訂:相良 亨, 溝口 雄三, 福永 光司,1980, 岩波書店/木次図書館より借。
佐藤一斎については、言志録、言志後録、言志晩録、言志耋録の四録を所収。
大塩中斎では、洗心洞箚記。

†. 大室幹雄『正名と狂言――古代中国知識人の言語世界』1975,せりか書房/島根県立図書館より借
古書の札が残っている。所蔵は禁帯出が別に一冊あり。貸出用に求めたのだろうか。県内公共図書館の蔵書は、県立に2冊、島根大付属に1冊。古書を求めて再読を期すことに。

†. 『民衆史の遺産・第八巻 海の民』2015,大和書房/島根県立図書館より借
内海延吉「海鳥の嘆き」所収。この1編と編者として大和岩雄とともに名を表にしている谷川健一の序論が、『日本民俗文化資料集成』第五巻の「渚の民俗誌」と同一(1990年、三一書房刊)。

†. 山内志朗『湯殿山の哲学――修験と花と存在と』2017,ぷねうま舎/島根県立図書館より借
冬に読んで春を迎えたい。「存在が花咲く」

†. 末木文美士『近世の仏教――華ひらく思想と文化』2010,吉川弘文館/島根県立図書館より借
ほとんど目を通せず。以下目次。
近世仏教を見なおす―プロローグ
中世から近世へ
開かれた近世
思想と実践
信仰の広がり
近世から近代へ―エピローグ

†. 藤野 裕子『民衆暴力――一揆・暴動・虐殺の日本近代』2020, 中公新書/島根県立図書館より借
序章のみ読。こうしたまとめ方は求められているものなのだろう。で、それでいいのかと思いをいだきつつ、謙虚に1章以下を読む機を次回に。
序章 近世日本の民衆暴力
第1章 新政反対一揆―近代化政策への反発
第2章 秩父事件
第3章 都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム
第4章 関東大震災時の朝鮮人虐殺
第5章 民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理

†. 『葬儀と墓の現在――民俗の変容』国立歴史民俗博物館編,2002,吉川弘文館/島根県立図書館より借
再読を願いつつ、目次を置く。書誌データとして目次を表示するウェブサイトは、東販系のe-honのみか。いくつかの版元サイトでもそう。いやはや。ここもe-honからひいているのだが、肝心の著者名がなかったため加筆している。購書空間から人が消えていく。
第1部 葬儀と墓の変容
赤嶺政信,奄美・沖縄の葬送文化―その伝統と変容
金田久璋,樹木葬とニソの杜―樹下の死・森神・他界観
武田正,東北地方の葬送儀礼―山形県米沢地方を中心として
福澤昭司,葬儀社の進出と葬儀の変容―松本市を事例として
米田実,大型公営斎場の登場と地域の変容
太郎良裕子,清めの作法―明治から平成へ
板橋春夫,葬儀と食物―赤飯から饅頭へ
関沢あゆみ,葬送儀礼の変容―その意味するもの
第2部 討論 葬儀と墓の行く方
沖縄の洗骨改葬,葬祭業者と葬祭場,葬儀のかたち,葬送の新しい兆し,赤飯と清め,お骨の行く方,私の霊魂観
新谷尚紀,フォーラムを終えて―変化を読み取る民俗学へ

†. 村上重良『国家神道』1970,岩波新書/島根県立図書館より借

聞書細片〜お弁当もって美容院へ

聞いたそのとき、いきいきとした像を結んだ話を、記しておく。断片はしだいに朽ちていく。1年以上まえの聞きかじりもある。

◉お弁当をもって美容院へ
木次のまちにある美容院へ、お弁当をもって一日がかりで行った記憶。いまでは車で15分ほどの距離だろうか。その記憶を語る人は、いま90歳をこえている。
よその町にすみ、ときおり訪ねてくる、木次のまち。その人のなかでは生き生きとまぶしいものとしてあるのではないか。よみがえるのではない、いまもあって、その人が語るたびに、現像されるものをおもう。

菊芋堀り雑感

雪の下から芋を掘る。
一般的には遅いのだろう。サツマイモはもちろん里芋だってもとは南国の芋なのだから、零下の気温ではたちまちにだめになる。が、しかし、だ。菊芋は雪の下のをとってくるものだと不確かながら聞いたことがある。そういう芋なのだと。
ならば、まさにいまが旬。
ここ数日、雪も溶けてきた山の畑でためしに掘り上げてきた。
感触はかなりいい。食べての報告はまた。

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昭和26年12月25日、木次のクリスマス

木次に引越してきて何回目かの年越しと、クリスマスがやってくる。今年も持越しの宿題を棚にあげつつ、手がかりくらいはつかんでおきたいと思う。つかみたいのは、かれこれ75年前のこと、昭和26年の木次のクリスマス、そして年取りとカブについてである。
昭和26年、1951年の12月の歴史的事件。クリスマスを前に、フランスの地方都市ディジョンで、サンタクロースが火炙りの刑に処せられた。C.レヴィストロースの『サンタクロースの秘密』に詳細がある。問題は同じ日に、日本の木次では市長がサンタクロースの衣装と子どもたちへのプレゼントを用意していたこと。C.レヴィストロースの著書を読めばわかるように、ディジョンと木次は、つながっている。そんなこんなを考えながら、年の瀬をなんとか乗り切りたい。

*写真は昭和27年2月刊?の広報きすき(だったかな)。つながり?と首をかしげる方へ。その深淵の入口は、なぜ、ディジョンでも木次でも市長(町長)のサンタなのか、というところでどうでしょう。あるいはマーシャルプラン、サンフランシスコ講和条約。ディジョンの事件では、市長が”復活”したサンタクロースとなってプレゼントを配るのだという新聞記事で論争が終焉したかのようだ。サンフランシスコ講話条約は昭和26年9月8日に締結。もはや知らない人も多いのではないか。が、小さな町でもこの年の話題はこれが筆頭であったのだ。縮刷ではなく、できれば当時の紙で、それを味わってみたいと思うがどこかにあるのだろうか。
占領統治すなわち戦争状態が終わり、日本は主権を回復した。その年の年越しはいかなものであったのだろう。と同時に、市長サンタの政治と子どもたちの夢とみなそれぞれの不安と希望と、なんともいえない渦を感じないだろうか、みなさん。

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蔦のからまる森で

 人間が放置した土地。いま、そこやあそこ、かしこで、当然という顔をして普通にみられる大地の断片。小さな裂目のような場所から自然による「奪還」がはじまる。
はじまりの場所は「荒廃地」と呼ばれ、人をますます寄せ付けず、荒廃の勢いはます。 さて、そうした場所でこそ、人間が「切札」(なんの?)になるのだと言っていた庭師の言葉を思い出しながら、蔓のからまった小さな雑木山に入る。下層は背丈以上もある笹におおわれ、これまた放置された杉の植林地がわずかに笹の侵入をとめているほかは、荒れた森である。
秋から少しずつ伐開をはじめた。その日は、笹のヤブをこいで(迷いながら)森を寸断する塗装の道にでた。
頭上で巨大な蔦のからまった樹林は、見た目にも実際(落下、倒木)にも恐ろしい。が、こんな太い蔦が豊富にとれる時代は数百年ぶりではないのだろうかと思いいたった。 この蔦、なにかに使えないのだろうか。直径10センチをこえるような大物も見たことがある。キヅタ。春にかけて荒れた雑木山からそれなりにとっていくのだが、燃やしてしまうのは惜しい、気がして、まずは小さなものを座右に。

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令和2年のタカキビ

5月17日の妻のつぶやきからひろう。

ダムの見える牧場の山の畑を耕しに。
たかきびを撒く。
牛は今日はのんびり。

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そう。5月17日に蒔いたのだった。孟宗竹の地下茎が残っていて、再生竹を毎年ほそぼそと出していたところである。根は分解過程にあり、土はところどころふかふかなれど、茎はがっしりと張っているので、掘り起こすのには難儀した。

写真右手の切れ目から2mくらい先に昨年は同じくタカキビを植えている。土も日当たりも良好でよく育ったので、今年は同じようにここでということ。昨年もそうだったのが、竹の根が分解過程にあり、土がしまっていないので、タカキビはすぐに傾く。そしてもうひとつ、草のほうが強く、負けてしまうので、除草必須だろうということ。

まして、昨年より20日ばかり早く蒔いているので、草が先行して丈をのばし、それにうもれるようにしてタカキビがあった。草を抜くときにいっしょにぬけてしまったりで、いろいろ試行錯誤しながら、ようやくにして8月2日の姿がこんな具合。

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夏本番にどこまで成長できるか。見守っていくのであるが、どこかで土寄せしないと後半の雨風で倒れる。いま生えている草はおそらくいっしょに。

そして8月16日。出穂。

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8月23日になり、ほっと一息。

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9月12日。そろそろ収穫をはじめようと思っていた。

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そして、9月16日を迎える。

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ほかにも、いろいろ。

 

令和2年、ホウコ雑記

冷蔵庫の片隅に冷凍したままのホウコが眠っている。たしか2年前のものだと思う。搗く機会を頭のなかであれこれと浮かべながら、いくつかの記録を整理しておきたい。
思いつくままの箇条書きをまず。
1. 阿井の山野で食べたものの中でのホウコ
2. ホウコの方言分布
3. ホウコの記憶を語る木次のばあさんら
4. ホウコモチをつくる
5. ヤマボウコをまだ見たことがない
6. ホウコはなぜ木次で見なくなったのか
7. ジュンさんの歌、ハハコグサを聴いてみたい
8. ハハコグサ、ホウコについて言及しているもの
9.  農文協の食生活シリーズにおけるホウコ
10.  「モチ」と「ホウコ」
これらのついては、簡単に加筆しながら、資料のリンク先などを追記していきたい。いずれもかつて一度はブログなどに書いたことがあるものだ。

そして、かようなことを思い立ったのは、篠原徹の昭和48年の論文の中にホウコについてふれたところがあったため、それを引っ張っておくためでもある。
「Ethnobotanyから見た山村生活」より

中国山地のどんな谷に行っても、そこには30戸前後の小さな部落が必ずある》
論文はこの一文からはじまる。昭和48年9月30日受理というからかれこれ47年前。いま、令和2年の西暦2020年、中国山地の片隅に生きる身にとっては切ないような美しさを湛えている一文だ。「必ず」という言葉からは、なにか意思のようなもの、確かなもの、尊いもの、そういったものが受け取られる。いまの私たちは、必ずという言葉を使うべくもないどころか、いまにもなくなりそうな集落をあそこにもここにも抱えている。すでになくなった谷の姿などいくつでもあげられそうだ。
つい一月ほど前に訪れた匹見の小原集落。その奥の谷にあった十数戸は、篠原が「必ずある」と記した五年後には消滅し、いまその跡形がまさに山に戻ろうとしている。それをどんな感慨と未来へのどんな意思をもって、私たちは後世に継いでいったらいいのだろう。

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篠原を読むということは、単に一論文からパーツとして「利用」可能なものを取り出すという処し方に終わるものではない。そう断りつつ、ここでは、ホウコについての一節をとりだしておく。調査取材した岡山県湯原町粟谷(旧二川村)七人家族、そして広島県東城町帝釈の二人家族の例として、家族が利用する植物があげられ、「粟谷の家族の例について、以下具体的に述べてみたい」と説明が入るところである。

《ただ、この家族には現在82歳になる媼がいて、ケンザキホウコウ(ヤマボクチ)・ヨモギ・チチボウコウ(ホウコグサ)を春先採取して乾燥保存している。これは<シロミテ>(田植後の祝事)の餅搗に湯にもどして米と一緒に搗込み、餅の粘性を高めるのに使われるもので、でき上った餅は<ホウコウモチ>と称され、<カブウチ>(血縁集団)に配られる。しかし粟谷40戸のうちで<ホウコウモチ>を作るのはわずか2〜3戸で、もはやこれも消滅するのは時間の問題であろう。》

篠原がここで「消滅するのも時間の問題であろう」と述べているのは、ホウコモチに限らず、この50年ばかり前の山村で、山野から草木を採取し多種多様に活かす生活の衰退と、利用する植物の利用と植生、双方の減少を前提にしたものである。
とはいえ、まだまだここであげられた82歳の媼は、村々にひとりはいらっしゃった時代であり、「そういうことを知っとるばあさんらはみんないなくなった」という言葉を古老からきく現代とは明らかな線がひかれている。
現実のものとして目の前にあるものとはちがい、私たちが見聞するのは彼岸のものだ。そのことを忘れずにことにあたりたい。ことにいま、こうしてやっているような断片を抜き出しつつ並べることに対して。そう自らを戒めたうえで、ホウコから離れて、いくつかの断片を拾っておく。忘れてはいけないが、忘れぬように。備忘という。
篠原が昭和48年9月に行った調査、すなわち、粟谷を構成している40戸の家から年代別に13人を選び、調査したものの解説中から得たものだ。調査は「実用価値を既に失った野生植物の利用実態」について、調査表を用いて行っている。その数だけはあげておこう。食物関係121種、民間薬73種、農具・繊維・結束・籠・建材36種、神社・寺・祭用9種、炭・薪19種、その他56種である。下に図を掲げるが、およそ半分が利用しなくなったもので、おそらく今同様の調査をすれば、数%となるのではないか(やってみたいなと思う※)。

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閑話休題。山村で実用価値をほぼ失っている野生植物について、である。

《食物関係の植物でB・C項に属するものが非常に多いことは、山村の食生活が以前と大幅に変化したことを明瞭に示して居る。特にC項(名称、使用法は聞いたことがある)に属する野生植物は、いわゆる飢饉の備荒食として知られている植物が多く、30代から60代では料理法・処理法を全く知らない人が多い。クズボウラ(クズ)、シズラ(ワラビ)の根を掘って澱粉をとった人は既におらず、わずかに70代の人がヤーヤー(ウバユリ)の根から澱粉を採ったことを記憶しているにすぎない。》
《ヤーヤーは、五月頃葉のまだあまり出ていない鱗茎のよく発達したオンナヤーヤーと呼ぶものを採取し、唐臼で搗くか、石の上で叩いた後、桶の中に入れて漉す。その水を何回もとり変えて、上澄を捨て、最後に沈殿したものを乾燥することにより、カタクリを採った。》

ウバユリについては、椎葉村の話、日原の話、そして阿井の山野にあったかなかったか。大事なことは、ウバユリの根がおいしく、ふえてくれれば自家で食したいということによる。どうやって山野でふやしていくか、ということだ。これは奥出雲山村塾、森と畑と牛と、で行うことでもある。

ウバユリが、澱粉を採取する植物として、クズやワラビから採らなくなった後にも利用されていたのは、採取時期の違いとそこにかける労力の大きさの違いによるだろう。ウバユリは量を採るのが大変とはいえ、クズやワラビに比べれば素手でも掘れなくはないのだから。

さて、次にひとつ、年取りのことで例があるので、ひいておく。

《今は忘れられている年中行事にも、ずいぶん多く野生植物が利用されていた。正月前の12月13日を<キシクサン>と呼び、どの家でもシラハシ(ウリハダカエデ)→「松江の花図鑑」参照で正月用の箸を作る行事があったし、<オオドシ>(大晦日)にはミノサイジョウやフクナリという品種の柿を<年取柿>と称して必ず食べたものである。11月の初め頃、この柿を採り蔵に自然状態で放置しておくと<オオドシ>には渋がとれて食べられるようになっており、これを<ムシ柿>と呼んでいた。……中略……また正月の期間中、竈で燃す薪はヌリダ(ヌルデ)でなければならないとされ、正月前にこの木が大量に準備された。》

ヌルデ→「松江の花図鑑」参照は負い木でもあって、美保神社の祭礼に用いられたのであったか(要確認)。正月に子供の玩具としてアワボッター、ヒエボッター(アワやヒエに似せて、ヌルデの木でつくったもの)があるのは、あれはどうだったろうか、など記憶の曖昧なものを改めて確かめておきたい。

ほか、蓑の材料となった植物のこと、キノコのことなど、書き留めておくべきことが多いが、それらはまたのちの機会に。とくに蓑については書きかけのものもあるので、近々に。

残暑きびしくも森の中はすずしく、山ウツギの花かおる

「今日は山へは行かれますか」
「いやあ行けません。倒れますわ」
と、言ってはみるものの、じつは行っている。山というと、眺めのよい景色のある登山でのぼるような山をみなさん、イメージされるようだ。が、山もいろいろ。標高250〜400mくらいのところでも、少し中に入ってしまえば、猛暑日でもすずしいものだ。たいがい。標高600m超の山を背後にもつところや、水を保持しているような水源の山の水脈があるところ、などが条件だろうと思う。

 昨日も、この林のなかで、古竹や倒れかけた杉を片付けたりしたりしていた。時刻は11時から13時ごろ。外の気温は35℃前後だったが、汗だくにまではならない。ここは林縁に近く、ふつうは涼しくはないのだが、この竹林のおかげだろうか。そして水源地からの水脈がこの下を通っているはずで、そうしたことも大きいのだと思う。荒れてはいるが、気持ちよさがある場所だ。

 そして、この竹林が果てるところに咲いていて、気になっていた、ジャスミンの香りがする木の花。調べてみると、クサギの花だ。木の野菜としてかつては食されていたらしい。佃煮がうまいともある。木の実は青の染料になる。媒染剤なしでも染まるのだとか。秋に春にためしてみたい。

出雲国産物帳でみてみれば、おそらく「山ウツギ」がクサギに相当する。なぜ山のウツギと呼ばれていたのか。境界木としての徴をおびていたのか。気になることいろいろ。なにごとも、少しゆとりをもってすすめると、風景の映り方が豊かになるものだな。

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