「女が卯月に山に入るのは…」折口を拾う

 孫引きですが、折口信夫全集15巻に「女の山ごもり」の記述があったので、拾っておく。

《女が卯月に山に入るのは(中略)、機内では諸処に行われてゐることである。その年に早乙女になるものが、一日山で暮らして来る慣わしも、山籠りといふ。一日山に籠った帰りには躑躅の花を頭髪に挿して降りて来て、自分の家や田や、神棚に其花を立てて置く(中略)。とにかく女が山籠りをして其年に、早処女になる行事をする。昔は女が山へ登ることなど殆、せなかったが、年に一度だけ登山して、はじめて田の神に事える資格を得て、頭に躑躅を挿して下りて来て、女になるのである。女になるものには、初めて娘から女になるものと、幾度も女になるものとがある。女になる為に、山の中で何か秘密の行事が行われたと思われるが、どんなことが行われたのか、今からは訣らなくなってしまって、表面の花摘みだけが信仰を忘れた年中行事の一つとして残っている》

 「山籠り」の話は、折口の『花の話』『盆踊りの話』『水の女』にも出ており、青空文庫で読むことができる。   以下を参照

izumo.hatenablog.jp

阿井村の大正7年

 島根県立図書館に、駒原邦一郎,S35.1「私の村のはなし(下)」を確認してきた。〈阿井の山野に自生している草木で〉で載せた草木の名が間違っていないかと。なにせ乱暴な写筆だったのだ。いちばん気になっていた「ゴロビナ」はコロビナでなく、ゴロビナで間違いなかった。

 そして、そこで大正7年という年を明らかにしてある重要なことが記されていたのだ。

 阿井で食料として何が栽培されてきたかが記されているのだが、そこには大正はじめに種子ものの通販によって白菜やほうれん草が栽培されるようになったとある。そして、大正7年にタマネギとトマトが入ってきたのだと。

 そもそもである。

 あくまでも私の作業仮説なのだが、阿井、三沢、馬木については、在来種は戦前まで他地域とくらべてもかなりあったと思われる。しかし戦後他地域よりはるかに急速に潰えてしまう。

 諸要因が整理できてはいないのだが、ひとつの典型例として、サツマイモの栽培がある。阿井では又蔵芋と呼ばれていた。明治14年に大吉の又蔵さんが栽培をはじめたという(年号までわかっているのはなぜか。これも調べてみたい)。ひろく普及するのは戦中戦後のことだ。

 全国どこでも戦中戦後にサツマイモ栽培が広まるということは見られるようだが、入るのが遅かったのは、救荒作物としてさまざまなものがあったということが大きいのではないか。多品種多品目によるリスクヘッジが働いていたということ。それがために江戸時代にあった何度かの飢饉においても、サツマイモあるいは琉球イモが入り込む余地がなかったのだとはいえる。

 飢饉や災害による収獲減に対する松江藩の統治の柔軟性というか独自性もあったといわれるが、栽培品の多品目多品種という側面が大きかった。捜して求めている出雲地方と広島北部・岡山北部にのみ見られる(おそらくある特徴をそなえた)アワの呼称である「クマゴ」の謎にもかかわるかもしれない。

 しかし、資料がそろいきれていない。とりあえず以下のものをあげておく。

岸崎佐久治

『免法記』

『田法記』

櫻木保1967『松江藩の地方役岸崎佐久治ー免法記・田法記』

黒沢石斎(三右衛門弘忠) 『懐橘談』(前編1653,後編1661)

黒沢長顕・斎藤豊仙『雲陽誌』⇒大東図書館・県立図書館で貸出可

『雲陽秘事記』

渡部彝

『出雲神社巡拝記』

『雲陽大数録』

『雲陽郷方古今覚書』

桃好裕『出雲私史』

『出雲鍬』

『懐中万宝記』

地誌等

『大日本地誌大系』

『島根縣史』

島根県人名鑑』

出雲国人物誌』

松江市誌』

林原の焼畑でつくられていたカブとは

 昨年、年取りカブの存在を語ってくれたのは三沢の山田さんであった。『尾原の民俗』の中に「年取りカブ」「正月カブ」という名称はみられないが、「地カブ」という名で幾度か出てくる。地カブがあるからには地でない(地元のものでない)カブもあるはずだが、それがなんだったのかはわからない。江戸中期に名称採集された諸国産物帳をみると、出雲地内の《一菜類 蕪》の項目には14ほどがある。

・近江蕪

・白かぶ

・空穂蕪(うつぼかぶ)

・壺蕪(つぼかぶ)

夏菜

・平田蕪

・地蕪

京菜

・三月菜

・高菜

・青蕪

・水蕪

・芥菜(からしな)

・赤蕪

 はて、林原でつくられていたのは、どんな蕪だったのか。白石昭臣氏が担当した『尾原の民俗』の項よりひいておく。

《この林原ではトシトリの晩(大晦日)のオセチは女性がつくるが、この中にサイナマスという大根を小さく切って煮たものと、大根なますは欠かせない。また、正月には二又大根と地カブをするめやジンバ(海藻)などともにぶらさげて床マエの上に飾る(稲穂はない)。》

《この地区ではカリヤマという焼畑が近年までみられ、そこでは1年目に大根、2年目に小豆などをつくり、山の畑には小麦などの麦類も多く栽培していた》

《山方、前布施や下布施地区でもカリヤマで大根やかぶをつくり、床マエには林原と同じ様に大根やカブを下げる》

 林原の正月に二又大根やジンバとともに床前に供えたのは「地カブ」である。これを年とりカブと呼んだのかどうかはわからないが、地カブが年とりの行事になくてはならないものであったのは確かだろう。

 大根が二又であるのは、収獲儀礼豊穣儀礼の断片なのか。

 なぜカブかということについては、次年度の夏焼で大根を試してみればなにかわかるかもしれない。焼畑でなくとも、春植えの大根を竹の根が残る場所に植えてみたい。

 どこまでなにができるのか。自問をつづけながら冬が深まる霜月の日。

 そうそう。平田蕪の取材、おそらく篠竹の薮を焼いてつくっていたそれについて、また聞きにいかねば。旧平田村にひとり住むその方は蕪香煎にして食べていたという。香煎という言葉が生きた人の口から発せられてるのをはじめて聞いたそのお宅へ。

 

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月19日

作業日報。
11月19日(土)。
参加者は島根大から13名と地元1名の計14名。
しかし、活動はお昼前まで。雨が降りはじめ雷雨の可能性もあって引き上げとあいなりました。
曇のち時々雨。気温?℃。
◉経過
10時15分~11時40分 8月夏焼地の伐倒竹整理・運搬/カブ地間引き収獲
11時40分~13時10分 昼食準備と会食
13時10分~13時30分 片付け、撤収



卯月八日の山あがりについて

 柳田国男の「先祖の話」を読み直していて出くわした一文がある。”帰る山”から”卯月八日”にかけてみられる記述であるのだが、やや錯綜している。まるで野山に無数に走る獣道のように。いや、錯綜は、「先祖の話」全般にわたってのことだ。本土空襲の惨禍にあった太平洋戦争の末期に筆をはしらせていた文である。いやいや。そうではない。錯綜しているのは私か。戦争がここでどう関係しているかは瑣末なことだ。柳田が民俗学を通して求め続けていたものがここに表出している。学問ではない、生きることそのものへの問いがここにはある。それがゆえの錯綜(と見えてしまうもの)なのだ。

《四月に先祖の祭りをするという習わしは、捜して見つけるほどの珍しい古いものであった。それが大昔の新年であったという、私の考証の正しいか否かは別として、ともかくも今ある年の暮れのみたまの飯よりも、また一つ前の慣例だったのである。それがただ多くの山宮の大祭の日となり、もしくは、苗代の労作を前に控えた、若い農民たちの行楽の一日となって、どうして卯月の八日であるかの説明は不可能であるかのように思われていた。……(中略)……そうして赤城山麓の二村のような事実が、たったひとつでも確かめ得られるとなると、たとえ断定は下すことができなくとも、これでまたふたたび若い新しい問題として、学者に取り上げられてよいことになるのである。》

 このテキストに先行する、柳田がその価値を「発見」した赤城山麓の二村の事例の件はこうである。

《関西方面と比べると、東国は一体に四月八日の行事は希薄なように思っていたが、赤城山にはなおこの日の山登りが行われていた。そうしてその東麓の黒保根(くろほね)・東(あずま)の二村だけでは、過去1年の間に死者のあった家々から、必ず登山する慣習があって、それを亡くなった人に逢いに行くといっているそうである。……(中略)……ともかくも山中には六道の辻や賽の川原、血の池地獄などという地名が残っているというのは、多分はそれが路筋でありまた巡拝の地だったことを意味するのであろう。》

 現在、それはこの文が書かれた終戦間際の時代から50年以上が経過した2016年の現在にあって、「卯月八日」とはなんなのかといえば、「花祭り」、釈迦の生誕を祝う祭り、灌仏会(かんぶつえ)である。灌仏会花祭りと称したのは大正時代以降であるらしい。四月八日という期日がグレゴリオ暦で桜の開花時期と重なることによることから、蓮窓寺(東京市浅草区花川戸・真宗大谷派)の僧侶安藤嶺丸が「花まつり」の呼称を提唱して世俗化させたようだ。安藤が、大正時代初めに「花さかじいさんお釈迦さま」というキャッチコピーで、最初は日比谷公園を会場に、釈尊の生誕をたたえる運動として展開したのが嚆矢である(全青協発行『ぴっぱら』四月号)。

 しかるに、柳田の一文に「花祭り」は出てこない。本来・原始の四月八日の行事に折り重なるようにして古態を覆い隠しているのは、山宮の大祭の日であり、苗代の労作を前に控えた若い農民たちの行楽の一日であるとしている。現代を生きる我々には、このふたつのほうこそが異例であろう。

 そして、ここで柳田がふれなかったものとして、『花』がある。当時花祭りは今ほど盛んで庶民が享受する祭りではなかったのかもしれない。しかし、花を山からとってきて庭先や木の枝に高く掲げる習俗は西日本で多く見られていたはずである。伊藤唯真の「卯月八日」の説明を世界大百科から以下にひく。

《4月8日を中心とした民間の年中行事。この日は花祭,灌仏会の行われる日であるが,民間では,釈迦降誕とは関係のない行事が多い。この日を野山に出て飲食をする遊び日としているところは全国的にみられ,東日本では山神の祭日や山開きの日にあてている例が多い。近畿以東の霊山にある神社では,この日を祭日とする所がかなりある。西日本では〈高花〉〈天道花(てんとうばな)〉〈夏花(げばな)〉などと称して,竹ざおの先にシャクナゲツツジ,シキミ,ウノハナなどを束ね,庭先や木の枝に高く掲げる習俗が卓越している。》

 そう「花」である。

 花を象徴として持ち出すことで、民俗行事としてあった「山あがり」と「灌仏会」が習合している。

A:花(咲き散るもの)に宿るのは、山の神、田の神、祖先の霊であるとしよう。

B:木(榊、ミドリギ)に宿るのは、神であるとしよう。

 

 ここで《四月に先祖の祭りをする=大昔の新年》を持ち出す前に、今もそうである12月の大晦日から1月の新年にあたる先祖祭りを文献で見るときに、それは「先祖」でない「死者」でもあったのではないか。

「雲陽誌」にもあるあの話。

そして、有名なこの話。

 ……えーっと、ここらはあとで加筆します。すみません。

 以下、伊藤唯真の「卯月八日」(世界大百科)から再度続きをひく。※なお伊藤は1992『日本史大事典 1』(平凡社)の中でも解説しているが未見である。

兵庫県氷上郡では〈花折り始め〉といって,死者があった家では他家に嫁いだ子女が墓参りをする日となっている。また同県宝塚市三田市では〈花施餓鬼〉といって,施餓鬼が行われ,死者を供養する(現行では5月8日)。卯月八日の民俗では,とくに春山入り,花立て,死者ないし祖先供養が目立つが,本来は家々で死霊・祖霊を迎え,まつる行事が重要なポイントを占めていたようである。兵庫県氷上郡では〈花折り始め〉といって,死者があった家では他家に嫁いだ子女が墓参りをする日となっている。また同県宝塚市三田市では〈花施餓鬼〉といって,施餓鬼が行われ,死者を供養する(現行では5月8日)。卯月八日の民俗では,とくに春山入り,花立て,死者ないし祖先供養が目立つが,本来は家々で死霊・祖霊を迎え,まつる行事が重要なポイントを占めていたようである。

 さて、ここで宿題。白石昭臣が解く「卯月八日」を、2001『日本歴史大事典 1』(小学館)で確かめること。斐川の図書館なら貸出もしているようだが、ちょっとあやしい。雲南の図書館にはないので、出雲か松江に行ったときに確認しよう。和歌森 太郎の1972『神ごとの中の日本人』は県内に蔵書がないこともあって、古書を注文済み。楽しみです。

 

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月13日

作業日報。

11月13日(日)。

参加者1名+軽トラ1台。晴れ。気温?℃(14時)。

疲労がたまってきており、脱穀作業は1時間ほど。

畑などで使う竹切をはじめました。

来年の焼畑2年めの地にはつる性の豆を多播しようかと思って、です。理由はかんたん、雑草にまけないから。場合によっては、雑草にからみついてもよろしい。

◉経過

11時00分~11時50分 三沢内でススキ地探しと産業祭を覗き見

11時50分~12時20分 竹伐採運搬

12時30分~13時00分 昼食

13時00分~14時20分 アマランサス脱穀

14時20分~14時30分 片付け、撤収

晩秋の日に奥出雲の気になる棚田の跡をみて

 11月13日の日曜日のことを振り返りながら、つれづれなるままにつづるの巻。

 季節の変わり目によくある気分と体調のすぐれなさは、秋の終わりの暖かな陽光を浴びることで、ずいぶんとやわらかくなったりもする。この日も曇り空の切れ間から時おり光が降りてくる1日であったと記憶する。

 脱穀作業に向かう途上、大きく寄り道をした。行ってみたいところがあったのだ。気になっている棚田。そこはもうずいぶんと稲を育ててはいない。山ほどもというより山にかえったかような旧田がそこかしこにあるのだろうが、2年ほど前にその場所を見つけてからこの方、いつもていねいに草が刈られ、何か育てているようでもあり、しかし大半は草を刈るだけの手入れをされているように見えた。そして、その棚田は、奥出雲の多くの棚田の古形をいまに残す地でもある。

 大半の棚田は土地改良法による区画整理で1枚1枚が小さな田んぼから大きな田んぼに変わり、機械が入るようにもなり、過疎少子化高齢化に対処できるようにもなった。大幅な省力化・生産性の向上がこれらの区画整理の成果としてあった。

 私が気になり続けているこの棚田はなぜ、そうした区画整理から距離を置くことになったのだろう。知りたい。形も美しい。風景にも溶け込んでいる。奥出雲の米をPRする写真に使われたこともある場所であることを放置されたまま残存するウェブページで見つけたりもした。

 

 

 よくみると、耕地の上には電線がいくつか走っていて、この写真で焼かれた場所にはそれがない。

 この写真の奥のほうはイノシシよけと思われるトタンの壁がつくられ、本来の棚田はその向こうにも続いていたようだが、いまはクズと灌木の類におおわれ薮と化している。

 あぁ、ここを少し切り開いて、使わせてもらえないだろうか。そんなことを考えたりもする。衝動的に。言ったからには続けなければならない。いまはできない。はやる気持をおさえながらも、「焼き払うとしたら電線がどうしてもひっかかる。あぁだからこそ放棄したのか」「日当たりが手前よりも悪いのだろうな」「水田として使っていた時代には水まわりが悪かったのだろうか」などと、その場に数十分か立って考えていた。

 

 あぁ、そして私がひかれるのはこの小さな単位なのだ。1枚1枚が小さな区画であること。

 多様性を打ち捨てて単一性を追い求めてきた”日本の農業”は、大いに勝利したのだから、この小さな田の連なりは遺産として保全されることはあっても、その価値や意味も、単一化を推進してきた社会が要請するものでしかない。多く見聞してきた棚田の保全活動をみて感じつづけてきた違和感のいちばんの正体はそれだ。

 六車由実氏の研究ノートに見つけた一文に、あぁ、そうだ、この多様性こそが、私が追い求めてきた姿だと認識してから、なぜ小さな区画の連なりである棚田に美しさを感じるかに得心したのもそうだ。

 たとえば、昨年の秋にラオス北部、ルアンパバンの周辺で目の当たりにした焼畑の光景は私たちの想像をはるかに超えて豊かで感動的だった。ここでは平地には雄大な水田が広がっているが、そのすぐ先にある山では焼畑が拓かれ、陸稲だけでも10種類近くの稲が育てられ、隙間には、ハトムギ、バナナ、ウリ、キャッサバ、トウモロコシ、ゴマ、オクラ、サトイモなどさまざまな作物が混植されている。

 それはあたかも作物の単一化に抗しているかのようである。しかも面白いことに、ラオスの人たちは、水田でつくった米よりも、焼畑でつくった米の方がうまいという。すなわち一方がもう一方を淘汰するのではなく、むしろ水田と焼畑がそれぞれの存在価値を認められた上で併存しているのが、ラオスで見かける一般的な農村風景であるようだ。

 《焼畑の多様性〜「焼畑研究ノート・焼畑プロジェクトの課題, 東北学vol.10,2004,4》

 

 六車は焼畑の多様な意味を2004西田の『中国・海南島』からもひいている。

 焼畑によって特定の作物に特化しない多様な植物を栽培することで干魃や洪水などの自然環境からの影響によるリスクを最小限におさえるシステムを持続させたり、野生動物や野生植物を利用できる場として焼畑周辺の土地を確保することでもあった。

 焼畑を選択している民が生態系を管理する視座を有しているということ。

 生態系管理において、多様性の確保が持続可能性にどれだけ寄与するかを知として有しているということだろう。

 そんな視座と知性を、野生の知性をわたしたちはどこまで取り戻せるのだろうか。残された時間はあまりにも少ない。雑穀の調整ひとつに手間取っている我が身がほんとうに嫌になりそうだ。と、こうして書くことで発散させて前にいくのだ。ごめんなさい。

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月12日

作業日報。

11月12日(土)。

参加者1名+軽トラ1台。晴れ。気温?℃(14時)。

アマランサスが終わらず、アワは軒下に吊るしたままでした。

雀たちに随分とあげてしまったようで、試しに少しほぐしてみることに。

まずアマランサスと同じように厚い板の上におき、延棒で叩いてみたのですが、そっと叩いても飛び散る飛び散る。動画などでもよく見る光景です。ブルーシートの上でやりあとで集める方式でもよいのすが、なにぶん、ひとりで作業することが大半なので、それも難しい。

採用したのは洗濯板に擦り付ける方式。これが意外によいです。アマランサスとは比べ物にならないほどあっというまに解けます。

こりゃあ楽ちんだわ〜。いやもう来年は全部アワでもいいわと思うほどに気持よいです。ただ少し冷静になってみれば、アワは皮むきの工程がこの後あるのです。精米機をつかってやることも検討していますが、約8万円。法人をたちあげた後に機械を購入し、山村塾に貸し出す形をとるか。それはともかく、後工程もあるので、手間は変わらないのかもしらんです。

そして、裏庭で来年種取りように植えた小麦の芽が出ました。まずはひと安心。来年の常畑と小屋掛け計画へむけて。がんばるおー。

◉経過

12時30分~16時00分 アワ脱穀作業、アマランサス脱穀作業

16時00分~16時10分 片付け・撤収

アジールとしての山あがり

 もうひとつの山あがり。【中世の逃散=山野に入る=アジールとしての山いり】をルーツにもつほうのを司法省版民事慣例類集で確認しました。備中国の慣例。「山に入り、小屋に住み、木の枝等を採り売出し、且つ山中を耕作し以て活路を立つ」と。
 あぁ…。いつまでも脱穀選別が終わらず、ネットで高値の籾摺機や精米機や選別機を眺めては、ナタと鍬だけもって山に入り、生活するばかりか薪を売って蓄財し借金返した先人の姿を思い起こしてもみるのでした。
 我、師走の前に活路を立てん。

奥出雲町鞍掛の「大山さん」

 奥出雲町鞍掛の「大山さん」へあがってきました。里から舗装された林道をあがること5分くらいでしょうか。林道の脇にぽつんと立っておられました。

 もう少し見晴らしがよく、人が集まれる場所かと想像していました。辻にたつ地蔵・観音のようで、これまで見聞きしてきた大山さんとは趣が異なります。そして若いアカマツと細い雑木が目立ちます。草山だったのでしょうか。
 八頭塚横穴墓郡のすぐそばです。

 場所はここ。
https://goo.gl/maps/QtHnKbcCW222
 銘は判読できず。ん〜天保12年4月2日?でしょうか。およそ270年前です。
 糸原Kさんに聞いたお話では、いまでは、誰もここにあがることはなく、糸原さんも小さい頃からここへ祭礼であがった記憶はないとのこと。ただ、集落にある縄久利さんを祀っているところ(要確認)で4月3日に行う祭礼があるのだとか。三沢神社の宮司さんを呼んでくるのだとおっしゃっておられました。桃の節供ですね。
 特徴を少し整理してみましょう。
・祭礼が4月3日。桃の節供。他の大山さんが、伯耆の大山智明権現の祭日である23日を多くとっているのに対して、農事暦との関わりの深い日を選んで続けられていることが大変興味深い。
・縄久利さんとの混交がみられる。大山さんと呼んでおられましたが、祭礼は縄久利さんのところでやるというところ。
・大山さんが地蔵の造形であること。これまで見てきたものは碑に文字を記すのみのものが大半。
・場所がみはらしがよいところ、共有林であるところという点とは少々異なるような気配(地形や植生)。
 そして、大きなポイントがひとつ。ここが峠の境界であった可能性。35°11’28.9″N 132°58’44.7″Eです。この近世の古地図により、鞍掛村から堅田郷へいたる峠にあったのがこの大山さん=地蔵だと推定しました。
 

 昔のフォルダにあったショットで出所がわからず、島根大のライブラリか? この近辺では佐白の峠(多根自然博物館前付近)や上鴨倉の峠と並ぶ主要な峠のポイントでしょう。なんと読むのだろう。