社会関係資本をパパッと捉えるために

 社会関係資本(Socail Capital)がわからないといわれてたじろいだ。プログラマーの会話のなかで、ルビーってなんのことかよくわからないといわれるようなものだ。

 ふたつの意味がある。ひとつは、言った本人が「知らない」ことを意味している場合。もうひとつは「存在意義がないのでは」という問題提起的な意味の場合。そして、社会関係資本がわからないということには両者が入り混じっているように思える。私がたじろいだのもそのせいだ。

 自分自身、社会関係資本という言葉をなんとなく使っていることに気付かされた。いかんいかん。反省反省。たちどまって反省してみれば、乱用されて語義も錯綜しているように思える。かといって、古びておかしくなった言葉として捨ててしまうのは惜しい。この概念がもたらした視座はいまでも有効だ。

 私にとっては、実務上の問題として、どうしようかというのがここでの問題。説明するか言い換えるか、う〜む。そこで、判断材料に、ぱぱっとかいつまんでわかるものを探していたら、これ(下記リンク)がありましたのでみなさまにもご推薦。よいです。2008年の勉強会資料とありますが、公開されていますので、よいでしょう。

「 援助と社会関係資本 」~ ソーシャルキャピタル論の可能性 ~佐藤 寛 編

http://intl.civil.t.u-tokyo.ac.jp/docs/08THStudy_080619.pdf

◉たとえば、第4章のまとめとしてのここ。

1. 補助金には適正規模がある。

(地域住民の自助努力によらない所得増加、効用増加は、社会関係資本を通常よりも早い速度で減価させる)

2. 既存組織との調整に配慮しなければ新プロジェクトがよい循環を生み出さない。

(重要なのが、誰を排除しての組織づくりが行われているかという点である)

3. 域内活動に参加するときに、自主性が高いほどよい循環が生み出される。

(自主的な運営がされればされるほど、同じ生産量でも得られる満足感が大きくなる)

4. 循環の構造を理解して行動するリーダーの存在が重要。

…この四つの命題が実際に観察できるかどうかを調べることによって、社会関係資本の循環構造モデルの妥当性を調べる。

◉あるいは、3章の4節。

 縦の社会関係資本は、ある場所に「よそ者」のロジックが持ち込まれるときに新たに形成されたり、破壊されたりしやすい。それは「よそ者」それ自身の存在に起因するというよりは、よそ者が持ち込む資源に誘発されて変化する社会関係によるものである。そこで、縦の視点を視野に収めるには、異なる場所同士の関係を同じスコープの中に含める必要がある。

 いやあ、いわゆる「わかる人にはわかる」問題として、ビンビン伝わってきませんか? 

 こうしたことを踏まえた「地域の課題解決」でないと、「やらないよりまし」な事業でなく、「やればやるだけ有害」なものになりかねませんよね。

エノコログサを食す慣行

 味の素食の文化センターのライブラリーでたまたま見つけた書(郷土食慣行調査報告書1976)の中に、昭和18年に広島・山口を取材したものがあった。調査地は以下の通り。

 廣島縣山縣郡戸河内町、高田郡吉田町、蘆品郡廣谷村、神石郡油木町、

 山口縣大島郡小松町、平郡村

 調査は「現地調査及び文書に依る問合せ調査の結果知り得た郷土食を次の如く分類配列し之を取纏めた」とある。

 複写をとり、一点一点検討していきたいのだが、エノコログサの記載には驚きました、というか盲点でした。アワの原種とはいえ、実際に食していたとは! 食べられるということ、食べている(た)ということ、ふたつは似ているようでちがう。ウェブを検索してみると、「食べてみた・うまかった」という記事まである始末。

 ここですが、脱ぷせずに炒ってます。むぅ、そうか、アワも完全にむかずともよいのかもしらん。早速炒ってみようと台所に向かう前に記事を整理しておきます。

 まずは、先述の調査報告から。

 果実の項目に「きからすうり」と並んであります。

えのころぐさ

(調理方法)九月頃えのころぐさの穂を採取し、揉んで種子を採り、臼で搗いて粥又は飯に炊く外、揉んで採った種子を石臼で碾いて粉末となし団子にして食す。

(採取方法)米麦の補助食として用ふ。

(普及度)縣下一円。

 wikiの記載の中で出所の明記されているものの中からめぼしい項目をひろってみました。

縄文時代前半まではなく、日本にはアワ作とともにアワの雑草として伝わったものと推測される」。〜2003,9『雑穀の自然史 その起源と文化を求めて』(北海道大学図書刊行会)内収「雑穀の祖先、イネ科雑草の種子を食べる:採集・調整と調理・栄養」河合初子,山口裕文 p31-33

 『雑穀の自然史』はこの前、県立図書館で借りてきたものだが、「イネ科」というところでスルーしていた。次回、もう一度借りてこよう。確かめたいことのひとつが「脱穀したのちすり鉢ですりつぶし、水選する。食べるときはアワと同様、粒のままでも製粉しても食べられる」という箇所。水選という工程はあまり見たことがないのだ。調理する直前にするのだろう。

 「食べる」はつくづく奥が深い。

革新の工芸に革新はありやなしやの巻

12月4日、東京国立近代美術館工芸館へ行ってきた。企画展「革新の工芸 ―“伝統と前衛”、そして現代ー」の最終日を観るために。結論からいえばInnovationを感取することはできなかった。「現代」がいかに暗い時代かということを再認識した次第。銀杏の黄葉が美しく、大気は暖かく、あぁ東京はまだ秋だったのだなあと、のんびりと北の丸を歩けており、気持は明るかったのだが。

それにしても展示の最終一室にまとめられた「工芸の時代の先駆者」は圧巻だった。これを先駆というのだろうか、先駆と位置づけうるのだろうか。

生野祥雲斎の竹華器「怒濤」

http://blog.goo.ne.jp/shiotetsu_2015/e/8b6582194260b47bbd78bf2b955ffa06

山脇洋二の蜥蜴文硯箱

浜田庄司の掛分釉壺

富本憲吉の色絵金銀彩四弁花文飾壺

河井寬次郎の色絵筒描花鳥文扁壷

北大路魯山人織部俎板盤

以上。

大正7年8月20日(1918)―松江の米騒動

阿井村には大正はじめに種子ものの通販が入り、白菜・ほうれん草・かんらん栽培が広まったという記録があることを以前記した。同じく阿井村で、トロヘイ(ホトホト)が風紀紊乱を理由に禁止されたという記録があるのも(要確認)この頃である。以来、出雲地域の大正前期の社会変化を、少し整理しておかねばと考え、ちょびちょび集めている。

引っかかったのは松江市米騒動。wikiからの孫引きだが、井上清、渡部徹編1959『米騒動の研究』によれば、大正7年8月20日(1918)に松江市で米騒動ありと。ただ県のホームページには、浜田、益田があげられているのみ。ちょっとこのあたり掘ってみないとわからん。

大正の米騒動については、従来

《1918年の大米騒動を引き起こした米価騰貴は凶作を原因とせず,直接的にはシベリア出兵を見越した地主と米商人の投機によるものである。また,その根底には第1次大戦中の資本主義の発展による非農業人口の増大に米の増産がともなわず,地主保護政策をとる寺内正毅内閣が外米輸入税の撤廃などの適切な処置をとらなかったという事情がある。》平凡社『世界大百科事典』文・松尾尊兊

という観点が原因のまとめとして流布し、多くの人はそう理解している。私もかつてはそうだった。が、しかし、近年、食生活の変化という観点が語られることも多い。それが私の追っているテーマだから耳目にひっかかるということでもあるにせよ、だ。そして、米騒動に現れた何かであって米騒動そのものの原因じゃないよともいえるのだが。

というわけで!? 時間がないので、とりあえず、メモをひくのと引用を以下に。また考えましょう。

ウィキより

《背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。また明治以降都市部の中流階級では大量の白米を少ない副食で食べるという食習慣が定着してきていた。一方で農業界からの人材流出のために米の生産量は伸び悩んでいた。大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり[12]、米価暴騰の原因となった。》

〈日本長期統計総覧〉をどこかから孫引き

◉日本の輸入米の推移

明治元(1868)……1万2000t

明治3(1871)……32万t

★3年で27倍!(統計数値に問題ありかもだが、急増には間違いない。)

明治23年〜明治末にかけて、10万t⇒88万t(これは近隣諸国を支配下においたことによる)

明28(1895)台湾領有

明43     日韓併合

⇒明30から米価は次第に高騰。大正7の米騒動に至る。

大東町老人クラブ連合会『大東の食文化』1999.10にある唐米の記録

《唐米(とう米)

大正一五年〜昭和元年の頃、小学校で北川福正先生が昼食時に、とう米入りの弁当だから見にこいといわれ、校長先生の弁当を見学に行きました。

我が家でも麦の代わりに混ぜて食べましたが、粘りの足りない感じでした。黒い油の玉のようなものが混じっていたりして嫌でした。米不足を補うというより、安い唐米という経済からでドンゴロスの袋(唐米袋)に入っていました。【佐世地区】》

甘味の変遷―備忘録001〜砂糖はどのように普及したのか

 石見のほうから奥出雲に引っ越してきて、煮しめを筆頭にありとあらゆるものが甘いのに驚いた。砂糖の使い方が半端ないのである。いつからどのようにこうなってきたのかを知りたく思って3年あまりが経過した。「いつごろから」の端的なこたえは「戦後から」。明治の終わりから大正のはじめにかけての変化とともにある。前にも記したが、種の通販が村々にも入るのが同じ時代だ。ただ、石見の山奥もそれは同様。出雲(奥出雲)と石見の砂糖使用の差異はどこから生じているのか。吉賀町蔵木をまず見てみよう。

 

 吉賀奥”蔵木村”民族誌という章が、石塚尊俊2005『暮らしの歴史』(ワンライン)の中にある。氏の旧稿から拾遺してきたもので、軽い読み物ふうの体裁だったのだが、さらっと読もうとぺーじをあけたら、びっくり。なかなかに貴重な記録が含まれている。

 石塚は津和野・日原の古老がこう語るのを聞いてしまう。

「同じ鹿足郡でも吉賀の奥は里部とだいぶ違う、ことに蔵木の奥となると、まるで原始時代そのままだというような話も出てくる」

 そこで、どうしても一番奥まであがってみたいと訪ねていくお話である。昭和20年代はじめのことだ。古老の言う「一番奥」とは、吉賀の金山谷と河津のことである。金山谷は4年前か、近世史研究者で茶道家の高山氏をお招きしフィールドワークと講演会を主催したときに訪れた土地である。髙山氏は大変昂奮しながら、ここは古い、文書や伝承でしかふれたことのない隠れ里がまさに今目の前にあるようだと、おっしゃっておられた。石塚氏も蔵木の村役場で取材するうち、「この二地区(金山谷・河津)が西中国山地では最も古い土地であるやに思われてきた」と残している。

 そうかもしれない。ただ、その古い地層のようなものが、いまどこにどのように残っているか、そこまでたどれるかが問われる。預かっている『吉賀記』を開き直し、行ってみたいなあ、また。

 閑話休題

 さて、本題の砂糖。

 蔵木村の民俗調査からの抜書であろうか、山陰民俗9,昭和31年2月からのものとして、項目別に記述があるところから砂糖の項がある。

《[砂糖]調味料として、味噌・醤油はすべて自家製、砂糖は金毘羅まいりの土産などに少しずつ買ってきて配るくらいのものだったが、大正四、五年ごろから一般化した》

 ほかにおもしろい記述をいくつかあげておく。砂糖から脱線し続けるけれど。

《[食器]昔は羽釜はなく、全部鍋だった。それが漸次羽釜にかわったのは、羽釜そのものの普及もさることながら、そこにはまた、雑穀を主とした炊事から、米を主とした炊事への飛躍もありはしないか。茶碗や皿も昔は木のゴギで、塗ってはいなかった。膳は丸い盆で、箸はコウゾの芯でつくった。焼物はカガツ(唐鉢)でもドビンでもほとんど素焼きだった。摩棒のことをデンギという》

 そして、なぞの山芋、モメラのこと。なんだろう。《雑穀時代によく摂られたものにモメラがある。牛モメラという大きい方のは食えないが、普通の小指の先ぐらいのものを四月ごろ採り、えぐいから一日中煮、それに醤油をつけて食う》と。

 砂糖のことがすっかり飛んでしまった。改めて加筆することにして、締切3つをとっとと仕上げる。最後に補助線を3つ。

・山間部における甘味として柿の皮を干して粉にしたものはかつて多用されていた。

・山間では甘味よりも塩がとにかく貴重だった。塩による野菜や魚の保存は、塩そのものを備蓄するという意味も大だった。飢饉の年は天候が悪い、天候が悪いとできる塩の量が少ない(海水の天日干しが不調)。

出雲びとのみぬは〜折口『水の女』

山あがりの文献渉猟の途上、折口の『水の女』に、1年以上寝かせたままの宿題を再発見。これも記しておく。

《神賀詞を唱えた国造の国の出雲では、みぬまの神名であることを知ってもいた。みぬはとしてである。風土記には、二社を登録している。二つながら、現に国造のいる杵築にあったのである》

みぬはの神をまつる社が杵築に2社あるといわれても、なかなかすぐには出てこない。杵築の地とひろくとらえて旧出雲郡のなかでみてみると風土記に「彌努婆社」とあるのがそのひとつ。
延喜式神名帳では、美努麻神社である。現在の奥宇賀神社として大正2年に社殿造営して遷合祀。江戸期には和田大明神として、和田灘に社があったようだ。 現在の祭神は経津主神。また、奥宇賀神社には時を同じくして合祀された『風土記』記載の「布世社」があり、江戸期は「籠守明神」と称されていたことは興味深い。旧くは奥宇賀布施宮床鎮座。旧三沢郷内の旧平田村に鎮座する籠守明神との符合やいかに、というところだろうか。飛びすぎてはいるが。現在の祭神は息長足姫命・伏雷命・武内宿禰命大己貴命

参照:変若水

「女が卯月に山に入るのは…」折口を拾う

 孫引きですが、折口信夫全集15巻に「女の山ごもり」の記述があったので、拾っておく。

《女が卯月に山に入るのは(中略)、機内では諸処に行われてゐることである。その年に早乙女になるものが、一日山で暮らして来る慣わしも、山籠りといふ。一日山に籠った帰りには躑躅の花を頭髪に挿して降りて来て、自分の家や田や、神棚に其花を立てて置く(中略)。とにかく女が山籠りをして其年に、早処女になる行事をする。昔は女が山へ登ることなど殆、せなかったが、年に一度だけ登山して、はじめて田の神に事える資格を得て、頭に躑躅を挿して下りて来て、女になるのである。女になるものには、初めて娘から女になるものと、幾度も女になるものとがある。女になる為に、山の中で何か秘密の行事が行われたと思われるが、どんなことが行われたのか、今からは訣らなくなってしまって、表面の花摘みだけが信仰を忘れた年中行事の一つとして残っている》

 「山籠り」の話は、折口の『花の話』『盆踊りの話』『水の女』にも出ており、青空文庫で読むことができる。   以下を参照

izumo.hatenablog.jp

阿井村の大正7年

 島根県立図書館に、駒原邦一郎,S35.1「私の村のはなし(下)」を確認してきた。〈阿井の山野に自生している草木で〉で載せた草木の名が間違っていないかと。なにせ乱暴な写筆だったのだ。いちばん気になっていた「ゴロビナ」はコロビナでなく、ゴロビナで間違いなかった。

 そして、そこで大正7年という年を明らかにしてある重要なことが記されていたのだ。

 阿井で食料として何が栽培されてきたかが記されているのだが、そこには大正はじめに種子ものの通販によって白菜やほうれん草が栽培されるようになったとある。そして、大正7年にタマネギとトマトが入ってきたのだと。

 そもそもである。

 あくまでも私の作業仮説なのだが、阿井、三沢、馬木については、在来種は戦前まで他地域とくらべてもかなりあったと思われる。しかし戦後他地域よりはるかに急速に潰えてしまう。

 諸要因が整理できてはいないのだが、ひとつの典型例として、サツマイモの栽培がある。阿井では又蔵芋と呼ばれていた。明治14年に大吉の又蔵さんが栽培をはじめたという(年号までわかっているのはなぜか。これも調べてみたい)。ひろく普及するのは戦中戦後のことだ。

 全国どこでも戦中戦後にサツマイモ栽培が広まるということは見られるようだが、入るのが遅かったのは、救荒作物としてさまざまなものがあったということが大きいのではないか。多品種多品目によるリスクヘッジが働いていたということ。それがために江戸時代にあった何度かの飢饉においても、サツマイモあるいは琉球イモが入り込む余地がなかったのだとはいえる。

 飢饉や災害による収獲減に対する松江藩の統治の柔軟性というか独自性もあったといわれるが、栽培品の多品目多品種という側面が大きかった。捜して求めている出雲地方と広島北部・岡山北部にのみ見られる(おそらくある特徴をそなえた)アワの呼称である「クマゴ」の謎にもかかわるかもしれない。

 しかし、資料がそろいきれていない。とりあえず以下のものをあげておく。

岸崎佐久治

『免法記』

『田法記』

櫻木保1967『松江藩の地方役岸崎佐久治ー免法記・田法記』

黒沢石斎(三右衛門弘忠) 『懐橘談』(前編1653,後編1661)

黒沢長顕・斎藤豊仙『雲陽誌』⇒大東図書館・県立図書館で貸出可

『雲陽秘事記』

渡部彝

『出雲神社巡拝記』

『雲陽大数録』

『雲陽郷方古今覚書』

桃好裕『出雲私史』

『出雲鍬』

『懐中万宝記』

地誌等

『大日本地誌大系』

『島根縣史』

島根県人名鑑』

出雲国人物誌』

松江市誌』

林原の焼畑でつくられていたカブとは

 昨年、年取りカブの存在を語ってくれたのは三沢の山田さんであった。『尾原の民俗』の中に「年取りカブ」「正月カブ」という名称はみられないが、「地カブ」という名で幾度か出てくる。地カブがあるからには地でない(地元のものでない)カブもあるはずだが、それがなんだったのかはわからない。江戸中期に名称採集された諸国産物帳をみると、出雲地内の《一菜類 蕪》の項目には14ほどがある。

・近江蕪

・白かぶ

・空穂蕪(うつぼかぶ)

・壺蕪(つぼかぶ)

夏菜

・平田蕪

・地蕪

京菜

・三月菜

・高菜

・青蕪

・水蕪

・芥菜(からしな)

・赤蕪

 はて、林原でつくられていたのは、どんな蕪だったのか。白石昭臣氏が担当した『尾原の民俗』の項よりひいておく。

《この林原ではトシトリの晩(大晦日)のオセチは女性がつくるが、この中にサイナマスという大根を小さく切って煮たものと、大根なますは欠かせない。また、正月には二又大根と地カブをするめやジンバ(海藻)などともにぶらさげて床マエの上に飾る(稲穂はない)。》

《この地区ではカリヤマという焼畑が近年までみられ、そこでは1年目に大根、2年目に小豆などをつくり、山の畑には小麦などの麦類も多く栽培していた》

《山方、前布施や下布施地区でもカリヤマで大根やかぶをつくり、床マエには林原と同じ様に大根やカブを下げる》

 林原の正月に二又大根やジンバとともに床前に供えたのは「地カブ」である。これを年とりカブと呼んだのかどうかはわからないが、地カブが年とりの行事になくてはならないものであったのは確かだろう。

 大根が二又であるのは、収獲儀礼豊穣儀礼の断片なのか。

 なぜカブかということについては、次年度の夏焼で大根を試してみればなにかわかるかもしれない。焼畑でなくとも、春植えの大根を竹の根が残る場所に植えてみたい。

 どこまでなにができるのか。自問をつづけながら冬が深まる霜月の日。

 そうそう。平田蕪の取材、おそらく篠竹の薮を焼いてつくっていたそれについて、また聞きにいかねば。旧平田村にひとり住むその方は蕪香煎にして食べていたという。香煎という言葉が生きた人の口から発せられてるのをはじめて聞いたそのお宅へ。

 

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月19日

作業日報。
11月19日(土)。
参加者は島根大から13名と地元1名の計14名。
しかし、活動はお昼前まで。雨が降りはじめ雷雨の可能性もあって引き上げとあいなりました。
曇のち時々雨。気温?℃。
◉経過
10時15分~11時40分 8月夏焼地の伐倒竹整理・運搬/カブ地間引き収獲
11時40分~13時10分 昼食準備と会食
13時10分~13時30分 片付け、撤収