大正7年8月20日(1918)―松江の米騒動

阿井村には大正はじめに種子ものの通販が入り、白菜・ほうれん草・かんらん栽培が広まったという記録があることを以前記した。同じく阿井村で、トロヘイ(ホトホト)が風紀紊乱を理由に禁止されたという記録があるのも(要確認)この頃である。以来、出雲地域の大正前期の社会変化を、少し整理しておかねばと考え、ちょびちょび集めている。

引っかかったのは松江市米騒動。wikiからの孫引きだが、井上清、渡部徹編1959『米騒動の研究』によれば、大正7年8月20日(1918)に松江市で米騒動ありと。ただ県のホームページには、浜田、益田があげられているのみ。ちょっとこのあたり掘ってみないとわからん。

大正の米騒動については、従来

《1918年の大米騒動を引き起こした米価騰貴は凶作を原因とせず,直接的にはシベリア出兵を見越した地主と米商人の投機によるものである。また,その根底には第1次大戦中の資本主義の発展による非農業人口の増大に米の増産がともなわず,地主保護政策をとる寺内正毅内閣が外米輸入税の撤廃などの適切な処置をとらなかったという事情がある。》平凡社『世界大百科事典』文・松尾尊兊

という観点が原因のまとめとして流布し、多くの人はそう理解している。私もかつてはそうだった。が、しかし、近年、食生活の変化という観点が語られることも多い。それが私の追っているテーマだから耳目にひっかかるということでもあるにせよ、だ。そして、米騒動に現れた何かであって米騒動そのものの原因じゃないよともいえるのだが。

というわけで!? 時間がないので、とりあえず、メモをひくのと引用を以下に。また考えましょう。

ウィキより

《背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。また明治以降都市部の中流階級では大量の白米を少ない副食で食べるという食習慣が定着してきていた。一方で農業界からの人材流出のために米の生産量は伸び悩んでいた。大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり[12]、米価暴騰の原因となった。》

〈日本長期統計総覧〉をどこかから孫引き

◉日本の輸入米の推移

明治元(1868)……1万2000t

明治3(1871)……32万t

★3年で27倍!(統計数値に問題ありかもだが、急増には間違いない。)

明治23年〜明治末にかけて、10万t⇒88万t(これは近隣諸国を支配下においたことによる)

明28(1895)台湾領有

明43     日韓併合

⇒明30から米価は次第に高騰。大正7の米騒動に至る。

大東町老人クラブ連合会『大東の食文化』1999.10にある唐米の記録

《唐米(とう米)

大正一五年〜昭和元年の頃、小学校で北川福正先生が昼食時に、とう米入りの弁当だから見にこいといわれ、校長先生の弁当を見学に行きました。

我が家でも麦の代わりに混ぜて食べましたが、粘りの足りない感じでした。黒い油の玉のようなものが混じっていたりして嫌でした。米不足を補うというより、安い唐米という経済からでドンゴロスの袋(唐米袋)に入っていました。【佐世地区】》

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