食事と心と学生の子供化と

みすず書房から中井久夫集全十一巻が出る。
斎藤環の毎日新聞書評をみて知った。
夜の12時を過ぎて学生から電話。
私はケースワーカーか。。。教授も苦言していた通り、大人の行為とはいえないが、知性ある、人間らしい行為である。社会学的側面に寄っていえば、包摂的関係をプラスの価値としてプリンティングされている集団であるのだから、その文脈にそってコミュニケートするのがよいだろう。
これがいわゆるマイルドヤンキー=エグザイルワールドとなると、まったく対処が異なる。具体的には書き記せない今回の「騒動」は、当該学生集団が、アンダークラスとミドルクラスの境界にあることを、感じさせた。
そして中井を読みなおす。
斎藤は全集第1巻の書評を「脆弱性」をキーワードとしてこういう。

《「バルセロナ宣言」にみるとおり、ヨーロッパ的倫理観では「脆弱性」こそが自律性の前提とみなされる。すべての人間は脆弱性を抱えており、それゆえ他者と関わり、時に依存し合う必要があるのだ》

脆弱性という概念がさらりと使われていて、補足をと思い、あたってみるが、なかなか。
中井久夫『つながりの精神病理』を読み直しみようと、思い立ったのでここに記し、加筆をしていこうと思う。
昨晩のトークイベント「ごはんの100年」〜瀬川清子『食生活の歴史』にひきつけた引用をひとつ。
 人と人とのきずなは、「刷り込み」や「取り入れ」といったサブリミナル(意識下・意識外・無意識)のもとで生まれることには、容易に同意できる。中井はその例として、女子学生の寄宿舎では月経が同期化すること、商社や銀行マンが初対面でもどこの会社かがわかることなどをとりあげた後、そうした「きずな」も年齢に従って消長するほうへ話しをもっていく。
 そして、精神科医がよくいう「定説」というよりは「常識」の類にあるものとして、次のように述べ始める。

精神科医は、三十歳くらいで人間の人格が固まるとよくいうが、食事習慣の固まりと人格の固まりとは深い関係があるだろう。食事は味覚だけでなく視覚や嗅覚、触覚、さらに香辛料の一部には三叉神経を介する痛覚が参与し、重量感、内蔵感覚、食卓の対人感覚、過去の個人的・集団的体験、知識、雰囲気、儀式も大きな意味を持って参加する対人的な事象である。。文化人類学者が異文化と接触してまず行うことは、共同の食事である》

 食事と文化の重要性とは、人と人との関係性を、その社会がどう築いているかに係ることなのだと。とりあえずここでは考えておこう。
(つづく)

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