正確さを期する、あるいはよけいなことを考えず誤解や混乱を避けるのであれば、「土地の記録、風景の記憶」と標すべきなのだろう。いたずらにそうしてみたという向きもなくはないのだが、確信とまではいえないまでも、こうすることで、なにかを発することができればいい、はかない望みであることを承知したうえで、浪漫主義的との謗りや、あれやこれやを引き受けつつ。
いや、それは、一顧だにされないことへの不安の一形態に過ぎない、ともいえよう。複雑さをよそおった欺瞞であると。
閑話休題(といってみよう)。
風景の記憶は、一枚の写真へと還元されうる。一方、土地の記憶とはそう足り得ない、重層的なものだ。だからこそ「記憶」という表現は不適切だとふつうは考える。そして、風景の記録と言い換えたくもなるし、実際のところ、土地=地域の「履歴」「歴史」「記録」といったことでくくられることどもは「記録」という固定的であるがゆえに、複雑さを許容内包しうる概念へと集約可能だ。
しかし、ここで私が「記憶」という一枚のイメージに還元されうる概念を使ったのは、ひとりの個人の記憶がもつ普遍性あるいは可能性へと世界をつないでみたかったからに他ならない。
to be continued.