コモンズというものの向かうべき方向について、70年ほど前を振り返ることの大切さを思い知る。
「森林整備、地方へ数百億円 新税に先行、19年度から」https://t.co/9oBIHVt82なる新聞記事を見ながら鬱々とする気を払いのけるために、まとまらない断片を記す。
昨日の取材で聞いたいくつもの言葉が頭の中をめぐっているが、とりわけこのふたつ。
《「野山(のやま)」※1には、町からも芝木を拾いに来た人がいたが、だれもそれをとがめはしなかった。おおらかというか、そういうものというか……》
《山あがり(大山さん)には、牛をもっていない人、それは農家じゃない人もおられたから、そういう人もみんな家族であがった。祭りの場所の木は切らないものだった。大きな木があるものだった。まわりの草はきれいに刈ったが。草といっても木みたいなもの※2》
山とはなんであったのか。
かつて「野山」と呼ばれていた山林には不法投棄禁止の看板、さもなくば、山菜採取禁止の看板かを見ることができる。
いま、山はどうなっていくのか。
思いは千々に乱れる。
※1)野山:出雲地方、旧松江藩領では共有地を野山(ヤサン、ノヤマ)と称していた。出雲地方では早くから消失していったが、残るところには残っていて、このお話を聞いたところでは、戦後まで存在し、小学⑤年生の時に終戦を迎えたこの話者(役人でも学者でもないごくふつうの市井のひとり)から、あたりまえのように「ノヤマ」という言葉を耳にしたときには、驚いた。父の記憶がほとんどないままに戦争で失い、明治4年生まれの祖父に育てられた経歴によるのかもしれない。
※2)草という言葉のなかには、鎌・鉈でとれるような低木・灌木も含まれるのだということは、今後気をつけて検分していきたい。
田中淳夫氏のblogに「東京新聞に森林環境税のコメント」なる記事。
二重課税も無駄遣いもいい、無駄遣いと言い切れるものは実はそれほど多くはないのだし。
森林をどう管理・保全していくかの定見もなにもないままに、お金だけつっこめばどうなるか。自明であろうと誰しも思うだろうに。山も森も川も海も、関心のうすい分野になってしまった。いまにしておもえばもとからそうだったのかもしれない。
あぁ。