森のことの葉〜#7_Book 7 days

◆本の顔の7日間、その7。

ある夜、何を思うわけでもなく書棚から一冊の本を抜き、開いた頁から押し寄せてくる波に、ゆだねながらそれに乗るということができたなら、読むという愉悦とともに、どこまでもいつまでもその時間は延伸できる、ように、そのただなかには感じられる。その全き自由を支えているのも時間なら、ついていたはずの翼がないと気づかせるやいなや、全身を襲う倦怠を墜落の後悔とともに押付けるのも時間だ。

そして、次の3冊の中には時間が欠けている。欠けているがゆえに読むことの永遠性に開かれている。と同時に3冊はスタイルと顔をまったく異にしながら、ひとつの物語のように連続している。……この続きは、森と畑と牛と1号で、たぶんそして必ず。

◉ミッシェル・フーコー、神谷恵美子『臨床医学の誕生』みすず書房

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わたしが、そしてあなたが、考えない(考えられない)ことは何なのか? この問いを抱えて読む書。

「人間の思考のなかで重要なのは、彼らが考えたことよりも、むしろ彼らによって考えられなかったことのほうなのである」序文より

そして、右の英文は、パースのWhat Is A sign?
https://www.marxists.org/reference/subject/philosophy/works/us/peirce1.htm
この本に時間がない、欠けているという言いぐさは、おかしいだろうか。医学史の一冊として読まれているだろう書であろうし、書名からして、歴史=過去の時間の流れを追いながら、生じた出来事をある規則性、構造として可視化するもの、そういうものであろうから、時間が欠けているはずはなかろうと、そういう疑問が浮かぶほうが自然だ。その自然さに対して、こう言ってみよう。時間の本質とは流れと変化であり、そこからして、未来と同義であると。歴史が扱うのは過去でしかないし、過去のすべてがわかったとて、未来を知るのに十分ではない。そして変化こそが知ること、治める、統治することととは異相の世界を開くのである。


さて。
時間とは、ハイデガーの現れを支えるものではないかと、そう捉えることが、この本と顔と顔をつきあわせて対話することを可能にする。

  

エドゥアルド・コーン、奥野克巳、近藤宏『森は考える』亜紀書房

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 「この本の内容は空間、ことばおよび死に関するものである。さらに、まなざしに関するものである。」
先のフーコーの著書において序文冒頭に掲げられた一文は、そのまま、この本の序となりうる。

川の源を同じくするからなのか。
50年ばかりのときを隔てて、フーコーソシュールから、コーンはパースから、記号論の支えを得ている。

そうしたことも理解の支えになるが、なにより強調されるべきは、「まなざし」であろう。
まなざしを支えるのは、姿勢、位置でもあるが、意思でもある。その意思=心とは、個のものではない。individual、分割できない単位とは違い、心とは川の流れ全体に浮かぶ泡のようなものだ。

河井寛次郎『六十年前の今』日本民芸館

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のちほど。

◉ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫

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のちほど。

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