田中梅治の『流汗一滴』に「クサギナ採」の項があるのを見つけた。資料として複写したきりで、これまで落ち着いて読むことはなかった田中翁の文。読むほどに、ある香りがたってくるのがわかった。この匂いは何なのだろう。何とはわからぬ。わからないままに、わからぬがゆえに、誘っているのかもしれない。「ここ」へきてみれと。一度、素読してみたいが、今はかなわぬ。よって、クサギナの件の箇所をひいて備忘としておきたい。
《クサギノ葉ハ、少シ苦味ノアル、甚香ノ高キモノデアル。之ヲ味噌汁ニ炊ケバ、中々馬鹿ニナラヌウマイモノダ。而シ前ニ書イタ女ノアマ手ノ分ガ煮テ呉レネバ、ニガ手ノ分ノ女ガ煮タノデハ苦味ガ多ウ過ギル。之ヲ五月末頃採リテ乾シ置キ、後之ヲ味噌汁ニ、大豆ヲ叩キ潰シテ、之ヲ入レテ炊ケバ、苦味ガナク中々うまい。》
思うに、島根県邑智郡に在する田中翁がこれを記した頃、すなわち昭和一桁年代において、クサギを採って食する風は消え入る門にたっていたのかもしれない。同じように、翁自身も霧消していく存在であることを自覚されていたであろう。だからこそ、消えてなるものかと、老いてなお張り詰めた、それでいて優しさとも達観ともいえる眼差しのこもった匂いのようなものが、一つ一つの言葉から、立ち上がってくるのを、それが幻だとしても、私は受け止めてみたい。