令和7年のはじまりに

なんとなくぼーっと新年を迎えたようである。
キレ、ケジメ、フシメとは相変わらず縁遠い。なあなあ、テキトウ、よく言って不羈奔放。

3日は初山であった。曇り空の間から時折光が差し込む中、小雪が舞う時間もあった。雪が静まると風が強く吹いた。竹の林はざわざわごろごろびゅうびゅう、うなっているようだった。

昨年夏の焼畑は、旱で発芽せず何度も追い撒き。なんとかできた蕪と春焼畑では全滅となったタカキビは菜園畑でできた穂を供奉し、古代倭人のまつった山水から醸した清酒を注ぎ、伐開のゆるしを請うた。
しばしの間、この地を借り、ここで生きるものと恵みをわけあわんとするものとして。鳥、虫、獣との分配は話し合いで。言葉より大事なのは、態度と姿勢である、たぶん。

 

◆ことわけの論理について、生成AIとやり取りしたのだが、LLM(Large Language Models)の現行モデルとは、根本的なところで相容れないのではとの感。いずれ、擬似的に限りなく真に近づきはするのだろうが。逆説的に「ことわけ」なるものの、非知性を証明してもいるようだ。
◆あえていえば、吉本隆明が『最期の親鸞』で説いた「非知」の側にある概念だと。ゴースト・霊性という言い方もあるだろう。以下一部を引く。
◆「頂きを極め、そのまま寂かに〈否知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向かって韓流するほか仕方がない」

◆ちなみに、ことよせの論理とは何かを生成AIとやり取りする中で、高取正男における記述を質した際のAIの回答を引く。
高取正男氏の著作では、「ことよせ」の概念が頻繁に用いられています。特に顕著に見られるのは、日本人の心のあり方を深く掘り下げている作品です。『民俗のこころ』では、日常の行為や習慣の中に潜む、日本人の心の奥底にあるものを「ことよせ」を用いて解き明かしています。
◆AIはこころをmind=知性=頭脳の枠内で捉えているようだ。日本語を学んでいるのにね。思考フレームは欧米言語のそれがベースにあるのかもしらん。私たちが「こころ」という言葉に託しているものを共有するのにはいま少し。それでも絶対境界線があるような気がする。

◆近世の飢饉文書をぱらぱらとではあるが、紐解いている。記録であるので、些末なところばかりが記憶に残るが、大飢饉においては、古老の知恵が役に立たなかったことを一つ一つ点検している箇所を興味深く読んだ。あぁ、そうであったろうが、知恵とはそういうものでもないのではなかろうかとも。知恵が単に知識としてしか捉えられなくなってしまえばそうかもしらんとも。
◆また、じわじわと波及的重層的に事態が悪化していくさまは、飢饉ではないが、現代と重ね合わせられるものだ。「ひどいな」「なんで手を打たないんだ」「何をやってるんだ政府は、行政は」「どうして」「なんで」。そんな中で、事態は進行していくのだ。銭を握りしめて飢え死んだものの姿もある。金があっても、食べるものが手に入らない。そんな世の中は、いますぐそこにまで来ているようだが。

◆あぁ、それから。AIは結論を急ぎすぎだ。頭しかないからだろう。人間たるもの、結論をいそがず(結果を求めすぎることなく)、手足を動かしていこうと思う。

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