断簡を連ね考える#1

机上におかれ書棚と行き来するものの収拾をはかる。

野生の思考を中沢新一『精霊の王』のなかに検する

野生の思考(La Pensee sauvage)―世俗にまみれつつある概念である、と言ってみる。否定的な観点を示しながら、中立から肯定へ傾きうるまでの「振り幅」を用意したいからである。自身が把持している印象の相対化でもあろう。それは対象化(異化)する地点からはじめられる。発すること、言葉として表出すること。主体の内なるものとして、主体の一部を形成している心象―印象であるものが、内なるものから外にあるものでもあることの自覚を促すこと。さらに、いかなる心象であれ、言語として表出が可能である以上、一主体一個体の心象であるものから、集合体の共有概念とでもいうべきものであることが明らかとなる。

その明示性の自覚へ向けての表出こそが、冒頭に示した言表である。

庵野秀明監督の『シンウルトラマン』(2022年公開)、その劇中において、外星人と呼ばれる地球外生命体が地球・人類を理解しようとする行動のひとつとしてクロード・レヴィ゠ストロースの『野生の思考』、そのみすず書房翻訳版を読むシーンがある。みすず書房の翻訳刊行は1976年。爾来50年も経とうかという書籍であり版を重ねている。

あまりに多くの人に読まれていることの弊を言いたい。読書の真髄。テキストを読むという行為の核心。その一片として、エクリチュールと個が一対一で対峙していることを挙げよう。その唯一無二といっていい出会いの奇跡のような時空に他者が入り込むことは厄介だ。面倒だ。邪魔だ。いやなんといっていいかわからぬ。多くの人が読んでいるのだという意識がそこにはないほうがいい。この読みは私という個にだけ開かれているのだという意識こそが、読書の真髄なのだ。

しかも、そうであることによってはじめて、その読みは普遍に、他者に開かれたものになる可能性を帯びてくるのだ。

たとえば、松岡正剛の記述はそうした読みにあたると思う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0317.html

あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける職人のことだ。
そのためブリコラージュにおいては、貯めていた断片だけをその場に並べ、それを動かしているうちに、相互に異様な異質性を発揮する。のみならず、しばらくして「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていきもする。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないかと、レヴィ゠ストロースは見たわけである。

レヴィ゠ストロースは神話をブリコラージュ的に観察しているうちに、もうひとつ新たな仕組みがあることを発見している。それは、雑多に集めておいた材料や道具の「断片」や「部分」たちが、一応は想定していた「全体」とのあいだであれこれ対話を交わすのではないかと見たことだ。

先に全体があるのが「生命」である。松岡が言う「全体」とは何か。

つづく。。

 

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