ナバニコ考#3、いま読むとずいぶんイキっているものだと、我ながら失笑を禁じ得ないところもあるが、当時(といっても3年前)の民具資料を収集した施設に対する波は、あらゆるものを押し流してしまいそうで、耐えられぬものがあったのだ。いま、状況はさらに進み、社会ニュースで存続そのものに疑問を呈する報道も少なくない。益田の民俗資料館はリニューアルにともない民具の展示はなくなった。保管はされているとのことだが、誰も知らぬ間に、手続き上は問題なく、廃棄となることをおそれる。
こうなることを、大庭良美はわかっていたのではないか。予期はあったであろう。NDLのデジタルコレクションで閲覧できる大庭の著、『日原の民俗資料』1986,日原町教育委員会刊。そのあとがきにも、現れていると私は思う。
日本における民具研究は、戦前、戦中、戦後にかけて、理念的基盤をかたちづくったと考えるのだが、当時の人脈‐学脈ともいえるものから、それは生まれている。これはまた、知らず複雑な問題を孕んでいる。あの戦争をめぐって構造づけられた社会の中で、当時の人がどう生きたか、学問はそれにどうこたえようとしていたか、ということと民具研究あるいは民俗学は、深い関係を持っている。このことは、本題からはそれるが、自分に対して一言しておくものである。
さて、《大庭が東京のアチック・ミューゼアムへ野尻抱影の紹介で訪問したのは昭和12年1月21日。この時、磯貝勇から『民具蒐集調査要目』『山村語彙採集帳』を出してこられ、民具名彙や農村語彙を採集してみたらとすすめられている。》と、以前ナバニコ考#3に書いたのだが、出所を記しておらず、かつ、思い出せない。
重要なことだと思うので、見つけ出したい。探しものをたぐりよせる糸はおそらく3つ。野尻抱影の糸、民具研究の糸、磯貝勇の糸。この3つのうち、民具研究の糸をたぐろうとしている。
昭和12年、大庭が東京のアチック・ミューゼアムを訪ねる前年、昭和11年には、アチック・ミューゼアムが大正12年から取り組んでいた足中研究の成果が『所謂足半に就いて』としてまとめられた。民具研究のひとつ画期といっていいものであるが、「足中なんぞを研究している変わり者たち」という視線にもさらされることになる昭和12年である。少なくないテキストがあるのだが、宮本常一が著者となっている『日本民俗文化大系 3 澁澤敬三』1978,講談社からひく。
(渋沢は)学問の方法は一人一人の中にあるものでその方法は一人一人が自己の体験を通して開発していかなければならぬものであるとしていた。もとより研究方法の手ほどきは、その初めには誰かに学ぶことが大切であるだろうが、注意深く、しかも見落としのないようにこまかに物を見て行こうとするとき、おのずから自分なりの見方が生まれて来るのではないかというのが澁澤の考え方であった。
宮本はアチックマンスリー19号(昭和11年12月刊)に澁澤が書いたものをひき、「これがアチックという学問社会の理念であったと言っていい」と記している。すなわち以下の4点である。
◯アチック同人は美しき鹿であってほしい。しかしそれは山野を駆ける美しき鹿たることが肝要で、檻に入れられた鹿であってはならない。
◯アチックにうぬぼれは禁物だ。独善と自尊、妥協と協調、謙遜と卑屈、これらの混同はアチック社会には見出せないはずである。
◯『学とは精密なる知識の系統的全部なり』と。簡明説き得て妙である。が、これは形態的定義である。およそ高貴な人格の上に成り立ってとは公理である。
◯アチック同人はアチック社会を各自が生態学的見地に於て批判するを要する。自己反省は正しき成長の決定的ホルモンである」
参照
岩井宏実,1993『民具が語る日本文化』(河出書房新社)-p19
宮本常一,1972「民具学の提唱 民具試論四」,日本常民文化研究所編『民具論集4』(常民文化叢書9,慶友社)
この時代を「感じる」ことを、宮本の足取りから少しひろってみよう。昭和14年の秋、教員を辞してアチック・ミューゼアムの研究所員となった宮本は出雲、石見の旅に出る。所員として最初の旅は邑智郡田所の田中梅治を訪ね、稲作についての農村語彙集ともいえる「粒々辛苦」の原稿を出版へと進めるべく話をつめることであった。田中梅治を訪ねたときのことは、宮本のもっとも知られた著作である岩波文庫の『忘れられた日本人』にくわしい。
一連の旅は、昭和18年に三國書房から刊行された『村里を行く』に「土と共に」として収められた。
翌昭和15年の夏、宮本は大田植の調査で邑智郡日貫(田所のふたつ隣の村)を訪れ、田中梅治と再開する。この時、同席していたのは、澁澤敬三、石田春昭、森脇太一、牛尾三千夫、そして、大庭良美。大庭は澁澤、み「石見日原村聞書」の原稿をその場で見てもらい、出版への道が開けた。『石見日原村聞書』の未来社版前編のあとがきにそれは記されている。また、1961年に未来社から刊行された『新編村里を行く』には昭和30年に日原を訪れたときのことが「大庭さんの日原聞書」として収められている。
このときの、澁澤と宮本のやり取りからひこう。
さて宿屋の座敷にくつろぐと、翁はあらためて渋沢先生のまえで挨拶した。私はうっかりして気がつかなかったが、翁が階下へおりてから、
「田中さんは実に古風な人だね」と言われた。
「どうしてですか」ときくと、
「あの人はね、今挨拶するのに―普通の人なら手のひらを畳につけて挨拶するだろう―手をかるくにぎって、手のひらの方を内側に向けて手をついていたよ。律儀で古風な人の証拠だよ。あの人の頭の中には古い知識が正確にしかもギッシリつまっているよ。引き出して記録しておきたいものだ。大した人だよ」私はまた私の師匠の眼のするどいのにおどろいた。
「あの人はね、えらい人だよ。自分の学問をちっとも鼻にかけていないだろう。田舎をあるくと、多少とも学問のあるものはそれを鼻にかけて尊大ぶるものだがあの人にはすこしもそれがない。ボスではないね、ほんとうの百姓だよ」
昭和14年の「村里を行く」に戻る。
現吉賀町の金山谷でのことで、隠居した老人が椎茸栽培で生活費はまかなえるのだというところ。
子供たちに金山谷の様子を一通ききとって、私は村の下のはづれに一人の老人をたづねた。もう隠居して部屋住みの身である。腰を下して、丁度乾燥してゐる椎茸の事からききはじめると、之だけで隠居の生活費は出るとの事であった。村の様子からすると河津とはかなり差があるらしい。
つづく。