伊勢、熊野、龍神、茸作りの道

1300km以上を車で駆け抜けた4日間。その断片を備忘として記しおく。
龍神村の宮代にあると伝わる、とある墓を探し訪ねた。
墓石があるらしい寺は全国文化財総覧には◯◯寺跡となっており、墓所はそこにないであろうことは予期された。一部の地図には寺名と位置が記されていること、国土地理院地図にのみ、なぜか寺名が地名として記載があること、行けば何かがあるという信のみ。
 6月16日、真夏のような陽射しが照りつける中、いくつかの記載を頼りに、狭く急な坂道を汗をかきながらのぼっていくと、楠の樹冠とその下に石垣がみえた。あぁ、あった。だが、目にできたのは、薬師堂と謹告として記された由緒のみ。屋根と幕を施された宝篋印塔は銘文により応永4年(1397)の建立と知られる。お堂のまわりだけは人の手が行き届いているものの、かつて、山門、宿坊を擁した寺院はやはり寺跡と呼ぶにふさわしいものであった。
 墓石などもまったくみられず、きれいに移動されているようであった。これまでと諦めた。妻は水の張られた田んぼに泳ぐオタマジャクシに「島根から来たんだよ、わかる?」と話しかけ、気分を軽やかにしてくれた。帰りの長い坂を下りはじめると、畑の草取りをしておられた男性がおられた。声をかけ、斯々然々とわけをお話すると、思わぬお返事が! 「あぁ、椎茸の常蔵さんの墓ですか、うちの墓の隣にありますよ」と。
 常蔵さんのことは、祖父から聞いていた。墓参りのたびに花を手向けたりしている。うちだけでなく、何軒かも同じく。
 祖父は山仕事していて、島根に林業指導の仕事で行っていたこともある。島根との技術交流もあったようで、島根と言われて、いろいろ思い出す、、と。墓の場所をお教えいただいた。
 墓所は寺跡から谷を挟んだ裏側ともいえる場所、共同墓地のはずれにあった。こちらも急な坂をのぼった杉林の中である。戒名を記した側面に、「文化元年七月二十二日没」「俗名スルガ国常蔵 施主五味右左衛門」と。
 文化元年は1804年、遡ること230年ほども前になるが、暑さのせいか、ついこの前、数十年前のことのような気に襲われる。
 常蔵は、古老が伝えるところによれば(日高郡誌など)、享和元年ごろ「山向こうの村」である寒川村(現美山村)へきて、椎茸栽培をする一方で多くの人に技術を教えもしたらしい。白髪童顔の姿態は駿河爺(するがじい)と呼ばれ愛されたようである。広井原村で山稼ぎをする中で風邪をこじらせ、戸板にのせらせふたつ向こうの村の医師のもとへ運ばれる途中、かの墓石がある村でなくなるのである。埋葬などの際に関係者間で交わされた文書も残る。原本の所在は未確認だが、翻刻されたものは美山村史資料編に所収。
 椎茸栽培黎明史(仮)の中では、寛政〜享和〜文化〜文政のおよそ40年ほどが業としての立ち上がりの時期にあたる。藩営あるいは商人による資本投下が各地方で盛んになる。浜田藩内での国東治兵衛によるものも同時期であるが、こちらはおそらく失敗に終わっている。
 常蔵は単身ではなく、複数人の集団である。常蔵がそうであったかは不明であるが、当時日高川上流域の寒川、山路には数百人もの木地師集団が、遠州、駿州、信州、日向、筑紫など全国から集まっていた。多くは木地師から農民化しつつあった人々であることに特徴がある。彼ら彼女らは木地づくりと椎茸栽培を同時に行っていた。
 木地師がもっとも早く山渡をやめて定住化していった地方として伊勢がある。その「解体」は織豊時代からはじまり、幕藩体制の下、少しずつ進行していく。その様は堀田吉雄の著書に詳しい。
 伊勢をトポス的仲立ちのようにして、東は遠州、駿州から伊豆に至り、西は紀州から阿波へとに至る道。その中で今も生きる共通項として、サンマ寿司を節目に食する文化がある。古くは熟れ鮨。そのサンマのなれずしを新宮の東宝茶屋で食した。「魚ではなくチーズだと思って食べてみてください」と言われた通り、まさにチーズである。ワインともよくあいそうであった。
 木地師と椎茸栽培。伊勢にある(元)木地師集落で祖父に代から今も椎茸栽培を営む方を訪ねた。木地師の末裔ではないと断られてはいたが、家のつくりや、使う山仕事の言葉にそれらしい片鱗がみられる。椎茸栽培は(栽培とはいうが)、職人の工芸みたいなものだと言われたとき、あぁその向き合い方こそが、木地師が椎茸栽培の先駆者たりえたエートスではなかったかと。
 伊勢と熊野を結ぶ山間にある寺では、文化年間に、椎茸屋(椎茸を扱う商人)が大般若経500巻のうち五巻を寄付した記を拝観することができた。ご厚意に謝しつつ縁を感じ入った。やってくれと背中を押されているのだと、いや本当に。
 海の博物館はすばらしい。ゲーター祭りと、太陽の魚、サンマ(あるいはサバ)を結びながら、展示から海人たちの来た道、私たちが向かう道を考えながら、見入った。
 さて、椎茸栽培が天然採取から栽培へ至る技術開発のなかで行われた技術の「発展」を科学哲学として捉えることが課題なのであるが、無理は承知で行けるところまで行ければよいと思うようになった。勝手なお願いを聞き入れいただき、応対いただいた多くの方々に手をあわせつつ、七月は豊後・日向へ向かう。

つれづれに、桜咲くころに思い起こされること

令和7年3月31日の午後であった。お天気もよく、疲れもたまっていたので、妻とふたり、それぞれの仕事の合間を縫うように、近所の秋葉山へ。
そこで、昭和14年生まれの86歳だというご老人とお話した。以下、その備忘である。

昨日は雪が降っていたことを思い出させるほどに風は冷たかったが、まだ葉に遮られることのない陽射しが、強く暖かく樹下に届いていた。

小綺麗に服を着合わせ、ステッキを手にされた老紳士は風景に溶け込んでいた。頭上の桜を仰ぎ見るその視線は、やがて遠くの山々へそして眼下の町並みに、あるいはまた一本の大きな桜の樹にと、泳ぎ遊んでおろられるようにみえる。山上にはわたしたち3人のほか人影はなく、向かう方向も同じであったので、先に向こうから自然と声をかけられた。

「ここの竹藪もずいぶんとひろがって。前は向こうまで景色がのぞめたものだったが」と。
「そうですか。私たちはこちらへ越してきて十数年しかないので、この竹林の景色しか知らないのです。その昔にはなかったのですね」

木次の町で生まれ育ってこられた方であった。春にはいつもここの桜を見にあがるのだという。別れてからも、妻といろいろ話したことなど、忘れてしまうのが惜しく、思い出すための箇条書きをここに。

◆花見は家族でするものだった。それがだんだんと職場や団体でするものにかわっていった。訪れる人もにわかに増えた。

◆木次の桜といえば、この山の桜のことだった。あまりに花見の人が増えすぎてしまったため、土手の桜のほうへ人を仕向けることがはじまって、今に至る。

◆今年の桜はおかしい。開花の時期が木によって違いすぎる。こんなことは今までなかった。

◆昔のことをみな語らなくなった。なぜだろうと不思議に思う。昔より今のほうが大事だというのはわかるが、その今とはそんなにいいものだろうか。

◆町から人がいなくなった。桜がこんなに咲き始めているのにだれも歩いていない。仕事があるからだろうが、仕事がなによりも大事な社会になってしまった。

「ねえ、まだ先だと思うかもしれないけど、すぐ先、あっという間だよ。考えてみてごらん」
「ほんとだ。ちゃんと生きなきゃね」

其の日の早く来れかしとのみ存候

昭和19年5月3日。2日後には古賀峯一の殉職が発表されることになっていた。山本五十六の後を受け連合艦隊司令長官の職位にあった古賀の死が意味するものを、この国に生きていた人々が、この時どう受け止めたのか、思い至るは難しかろう。すでに戦局は著しく悪化、前年から学徒出陣が多くの若者を戦地への送り込んでいる時勢である。1ヶ月後の6月15日には、本土空襲が福岡の八幡製鉄所を嚆矢としてはじまる。

東京帝国大学の国史学科に学んでいた加茂町出身の速水保考は昭和18年に海軍予備中尉として大学から離れた。戦死している私の祖父の弟は戦地から帰還するも、再び出陣しているのだが、同じ頃ではなかったかと思う。送る者も見送らるものも、誰もが生きて帰れるとは思っていない。そんなころのことだ。

この日、柳田は疎開先の神奈川県愛甲郡(現厚木市)から、島根県松江市奥谷に住していた牛尾三千夫へ葉書を認める。

十六島のわかめ御手紙と共に今朝到着皆々珍らしかり且つなつかしく存候 北濱の村長ハ心ある人のよしうけたまはり候 一度そういふ人たちに逢ひニ出雲路をあるいて見たく候 其の日の早く来れかしとのみ存候

十六島かどうかはわからんが半島産の板わかめをあぶり食したあと、「炭焼日記」をとかんとして、たままた目にしたのだった。美しい文の調べと当時の時勢、東京と島根の距離、その他諸々、候文の機微に心打たれる。
「其の日」はついに訪れることはなかった。

定本柳田國男集の別巻2であったか、書簡の入っている巻には牛尾宛の書簡が2~3頁にわたって収められている。昭和17年1月13日には伊豆熱海の樋口旅館からのはがきに、折口氏来訪三泊共同し、の文のあと、「粒々辛苦」は精読いたし候 と。

小さな畑の隅の肥やし山

令和7年2月17日。先週7日の金曜日から10日たったことになる。あの日の前後に積もった雪が、ようやく前庭からも消えた。裏の畑に面した軒下にはまだ屋根から落ちた雪が残ってはいる。明日からまた雪が降る天気となるようだが、それは予報が知らせてくれるだけであって、予兆を感じることはない。小鳥らがなにか教えてくれてもよさそうなものなのだが。

さて、裏の畑の隅には畑の穀物残滓や野菜や果物の屑やときには牛乳やら何やらをおいたり流したりしている「肥やし山」がある。いつごろからそうしてきたかはわからないが、年に一度ほりおこして下にできた土を畑へ移している。年々よくできるようになっている気がする。なぜか量が増えているのではないか。草が増えているわけではなかろうに。すると、それは野菜残渣の類の増加なのかもしれない。

この日はその肥やし山を整理した。例年と違うところは、昨年畑で株だけはたくさんできたタカキビの稈がたくさん残っており、それを下にひいてみたということ。考えていたわけではない。よく肥えているように見える最下層の土を掘り上げて、畑にほおるのだが、その畑に稈がたくさんほおったままであったのが目に入り、そうか、使ってみようと思い立ったに過ぎない。土の中に通気層ができるのは肥やしづくりにはよいと思われる。好気性発酵に寄与するであろうからだ。

嫌気性菌類での分解を促しているボックスの中の野菜残渣は比較的上のほうへ。分解はボックスの下部では進んでいたが、上部はかんばしくない。時々撹拌すればよいのだろうが、詰まることで水分調整が難しくなることをおそれている。容器が小さいこともあるが、今年はともかく違うやり方を試してみよう。

夕方5時少し前から畑に出て、一時間ばかりいただろうか。ずいぶんと日が長くなったものだ。気温は4℃くらい。けっこう動いても汗はかかないし、寒くもない。土を動かす仕事をするにはちょうどよい季節なのだ。

そして、畑のこと。今年はいろいろ動かしてみるのだ。山の畑に柵をと思う。大豆を作つける場所がなく、山にと思うのだ。獣との交渉をはかってきたが、話し合いは不調に終わり、昨年は種子さえとれないというこれまでにない事態となったことにもよる。

焼畑の次なるシーンを試すときでもある。つづく。

雪に思う

雪は人類史を遡るはるか古代より、地上にあったものだ。そう書きつけてみると奇妙な気がてくる。人がいない昔から天も星もあると言われることに違和はないが、こと雪についてはちがうのだ。

天空も星も手を伸ばしてもふれることすらできない。雪は手にふれることはもちろん、深いそれに身を沈めることもできる。手に取りかたくにぎってたまのようにして誰かに投げつける。転がしてたまをつくり雪だるまをつくる。それだけではない。大量に降り積もる豪雪地帯であれば、これから積もり始めるであろうという日には、明るいうちに、日暮れの前に、かけるものはかいてしまうべく、たんたんと除雪にいそしむものだ。

いろいろと書き連ねてみたいが、頭のなかに結論めいたものがあるうちに、唐突ではあるが、簡潔に終わりたい。雪が積もるところに住み続けたいと思うのだ。そこでは人がやさしい。斐川の人たちも私の母もそう言っていた。

石見から出雲に越してくる際、100センチを超えるような奥出雲の豪雪地帯にそれと知らず住むことを検討していたときもある。いまから思えば無理無理と、妻と話すのは冬の決まり文句のようなものになった。それでも雪のないところで暮らしたいとは、思いはするものの、やめておこうと考え直す。

その理由をひとつ。雪は不合理な存在だから。どんな奥地の田舎でもいまや都市の論理が深く入り込んでいる。そんなところでも、雪に対することだけは「しかたがない」とあきらめて、それに向かわざるを得ない。道路が使えなければ、勤務先からは「今日は休んでください」となる。これから雪もひどくなるからと早退という線もある。だが、災害・非常時というものとはニュアンスが違うのだ。

ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩にあるなにか。なのだろうと思いつつ、詩集をひもとくのは、いずれまた。森の思想ともつながることだ。

「雪は天から送られた手紙であるということができる」

戦前の日本で、世界で初となる雪の結晶を

黒千石豆と高黍のご飯

黒千石大豆。黒豆ではあるし大豆ではある。香りよし。黒豆より小さいので、混ぜて炊くのに適している。8分づきのコメが9割で、1割強が次のもの。

・黒千石大豆
・高黍
・黒米

24時間弱、浸け置いてから焚く。豆はかたくはないが、保温で12時間ほどたつとほくほくになってさらに旨味がますようである。食べれば食べるほどうまい。くせになって何度も炊いている。飽きないどころか、どんどんはまる味。豆がもう少しやわらかくなるのなら、割合を1割から2割にまして試してみたい。

黒千石大豆は作付けをふやしてもっとつくってもよいぞな。

まだ見ぬ森へ導くは、幼子であり、女である

ふだん、神なる存在からは、見離されているかのように思える。

「あぁ、そうだよねー」「いやいや、それは」

私の表明へ諾否の異はあろうが、諸氏思いあたる節を浮かべることに変わりはなかろう。

ただ、なにゆえ、昨日ばかりは、護られているかのように、木次と安芸高田の間を無事往復できたのか。豪雪吹雪のなか、通行止め、渋滞が多発していたことは後に知った。吹雪のなかホワイトアウトもあったが、うまく切り抜けられた。道中知るは私ひとりであり共有はできず、映像にも残っておらぬ。いくつもの峠をこえるなか、景と光をみた。書き記そうとは試みたが断念し、特異な一日であったとして、陽光さしこむ安芸高田市の旧郷田小学校の景をここにおく。

この日おもむいたのは、

†. あきたかたの森 構想プロジェクト主催 森の交流会

発表団体は主催者のほかにはふたつ。

・ほしはら山のがっこう
・芸北せどやまコモンズ(西中国山地自然史研究会)

すべてが(とはいわないまでも8割方)、いまいる場とは対照的でおもしろかったなあ。備忘的に記せば、それは社会契約論の外に出る場であった。子ども、年寄り、女性が導いてくれる。森はこの人たちのそばにある、と直覚した。その場に近づけるよう日々修養を重ねたい。

さらに備忘を少しばかり記しておこう。(つづく)

 

出雲の山墾り〜 R7-sec.2-6

朝から雪、そして雨。降っても小雨程度とみていたが、さにあらず。中止にするかとも考えたが、雨が降れば林内で焼けるな、それもよしと。あれた未整備の一角がある。あそこで。

そう、写真がその「あそこ」。燃えるかどうか若干の不安はあったが、そこそこ火力は出た。よい演習であった。

織火となったところにおいた竹筒ふたつには、鶏汁セット。今回はじめて、筒の側部から火がみえはじめ、途中はずすということになった。生煮えであったので、持ち帰って鍋で再加熱。竹の香りはまあまあ出ていた。

翌日の午後、灰をとりに入った。まだ炭が燃えているところも。突っ込んだ手をアッチッチと引っ込めることになった。

令和6年焼畑の蕪

温海かぶの種子が尽きそうなのは、昨年にほぼ収穫がなかったことによる。かろうじて種子だけを三株ばかりの残存から採った。夏の旱とコオロギらの異常な繁殖、加えて火入れ地のなにか(土質なのかなんなのか)、いくつかの要因のからみあいというか相乗というか。10株もなかったのではなかろうか。実ができたのは。花を咲かせ実をつけてはいたが、小鳥らが食べ尽くさんばかりであったので、未熟なものを里にひきあげ、ビニールか網をかぶせたものから採ったわずかな種子であった。

その種子とかなり以前に採取していたものを播種した。以下はその備忘である。

8月18日:火入れ

8月19日:播種(温海カブ1)
8月24日:播種(天王寺カブ、コリアンダー、ディル)
8月28日:播種(温海カブ2、コリアンダー)
9月7日:追播(天王寺カブ、コリアンダー)
9月15日:追播(天王寺カブ)と大根播種

下の発芽は8月28日。ごくわずかだった。写真はないが、記憶によれば、9月上旬にようやく周辺部に発芽がみられた。

9月下旬から、焼きすぎによるものかどうかの検証も兼ねて、移植を11月くらいまで断続的にやった。

写真は9月29日の様子。驚くほど虫(コオロギなど)に食われていない。夏の暑さの影響だろうと考えた。虫も繁殖できなかったのだ、あの猛暑の日々で。

同じく9月29日の、これはダイコンの発芽(だと思う)。

10月20日。収穫をはじめた。

12月末。それなりの量がとれはした。

令和7年のはじまりに

なんとなくぼーっと新年を迎えたようである。
キレ、ケジメ、フシメとは相変わらず縁遠い。なあなあ、テキトウ、よく言って不羈奔放。

3日は初山であった。曇り空の間から時折光が差し込む中、小雪が舞う時間もあった。雪が静まると風が強く吹いた。竹の林はざわざわごろごろびゅうびゅう、うなっているようだった。

昨年夏の焼畑は、旱で発芽せず何度も追い撒き。なんとかできた蕪と春焼畑では全滅となったタカキビは菜園畑でできた穂を供奉し、古代倭人のまつった山水から醸した清酒を注ぎ、伐開のゆるしを請うた。
しばしの間、この地を借り、ここで生きるものと恵みをわけあわんとするものとして。鳥、虫、獣との分配は話し合いで。言葉より大事なのは、態度と姿勢である、たぶん。

 

◆ことわけの論理について、生成AIとやり取りしたのだが、LLM(Large Language Models)の現行モデルとは、根本的なところで相容れないのではとの感。いずれ、擬似的に限りなく真に近づきはするのだろうが。逆説的に「ことわけ」なるものの、非知性を証明してもいるようだ。
◆あえていえば、吉本隆明が『最期の親鸞』で説いた「非知」の側にある概念だと。ゴースト・霊性という言い方もあるだろう。以下一部を引く。
◆「頂きを極め、そのまま寂かに〈否知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に〈非知〉に向かって韓流するほか仕方がない」

◆ちなみに、ことよせの論理とは何かを生成AIとやり取りする中で、高取正男における記述を質した際のAIの回答を引く。
高取正男氏の著作では、「ことよせ」の概念が頻繁に用いられています。特に顕著に見られるのは、日本人の心のあり方を深く掘り下げている作品です。『民俗のこころ』では、日常の行為や習慣の中に潜む、日本人の心の奥底にあるものを「ことよせ」を用いて解き明かしています。
◆AIはこころをmind=知性=頭脳の枠内で捉えているようだ。日本語を学んでいるのにね。思考フレームは欧米言語のそれがベースにあるのかもしらん。私たちが「こころ」という言葉に託しているものを共有するのにはいま少し。それでも絶対境界線があるような気がする。

◆近世の飢饉文書をぱらぱらとではあるが、紐解いている。記録であるので、些末なところばかりが記憶に残るが、大飢饉においては、古老の知恵が役に立たなかったことを一つ一つ点検している箇所を興味深く読んだ。あぁ、そうであったろうが、知恵とはそういうものでもないのではなかろうかとも。知恵が単に知識としてしか捉えられなくなってしまえばそうかもしらんとも。
◆また、じわじわと波及的重層的に事態が悪化していくさまは、飢饉ではないが、現代と重ね合わせられるものだ。「ひどいな」「なんで手を打たないんだ」「何をやってるんだ政府は、行政は」「どうして」「なんで」。そんな中で、事態は進行していくのだ。銭を握りしめて飢え死んだものの姿もある。金があっても、食べるものが手に入らない。そんな世の中は、いますぐそこにまで来ているようだが。

◆あぁ、それから。AIは結論を急ぎすぎだ。頭しかないからだろう。人間たるもの、結論をいそがず(結果を求めすぎることなく)、手足を動かしていこうと思う。