匹見の広見河内について

広見河内について。

なにかをいう前にもう少し調べてみたい。そのための材料をいくつかおいておこう。

『角川日本地名大辞典・32 島根県』昭和54(1979),角川書店から引用したものが下記。

天保のころに17戸ほどがあったということがわかる。

江戸期〜明治7年の村名。石見国美濃(みの)郡のうち。はじめ幕府領の益田(ますだ)領匹見(ひきみ)組,元和5年から江戸期を通じて、浜田藩領のうち匹見組に属す。村名の由来は山間の所々に広い所があることによるという(八重葎)。

検地は明暦2年・明和元年で,明暦2年の村高は36石余であり、生産高があまりに少ないため、法懸御免につき免税された。その後村高は「石見国高郷村帳」に33石余、「天保郷帳」では36石余山村で、文政7年には安芸吉和(よしわ)村の組頭が細谷山の杉の木を買入れている。また枌(そぎ)が天保7年に57貫410匁、安政3年に杉大枌17束・杉小枌835束を藩に献上した。

当地では、禿ノ谷・オウコウ・河崎原で藤井氏によって鈩(たたら)が行われていた。天保8年の飢饉には被害が大で、17戸のうち6〜7軒が逃散し、5反歩の田から三斗俵が5俵しかとれなかったという。

広見河内神社があり、この神社および村名については次のような伝承がある「安政元年1匹の鹿が広見部落へ迷い込んできた。これを河崎の部落民が捕えて殺し、肉を分けようとした時、鹿は急に起きあがって走り出したので人々は、鹿を埋葬し社を建て河内神社とした。安政2年この話を聞いた藩主が、これまで広見村といっていた村名を広見河内と改称するように命じられた」という(石見匹見町史)。

地内を通る広見街道は途中で分岐し1つは安芸の佐伯(さえき)郡を経由して芸州の山県(やまがた)郡の二軒小屋へ、1つは五里山の頂上を通って吉和村に向かっていた。明治7年東村と合併して匹見村となる。

*令和7年10月4日に誤字や句読点漏れを訂正した。また以下の「広見河内探索その後」を同日加筆した。

「広見河内探索その後」

まず上記の引用に注を施しておく。

(1)地名について

「村名の由来は山間の所々に広い所があることによる」とは、文化13年の自序をもつ石田春律の『石見八重葎』にある釈。書名には「つぬさはふ」すなわち石見の枕詞が冠されている。桑原良敏は『西中国山地』(1982,渓水社)の「広見山」の項で、まず吉田茂樹『日本語源地名辞典』をひきながら、ヒロミは広(ヒロ)に接尾語ミを付加したもので、「山地の中で部分的に広くなった平地のある所」だということを広見河内の地形がまさにそれであると、述べている。桑原は「広見山」のことをここで述べており、吉田の説明をいったんは受け入れ、広見山とは広見という村の奥にある山という命名由来とするのが穏当であろうとする。しかし続けて、広見山は広く見渡すことのできる山という意味にもとれると述べ、広見山と並ぶ十方山もそうであると、双方ともに頂上部の植生が笹となっていて、四方を見渡すことができるのだと。そうしたことは登った経験をその時の実感を重視するものであろう。他の山名にもそうした感覚が生かされた名になっているものがあるのだと考える。ひとつの見方として心に留め置きたい。広見(村名)よりも広見山(山名)が先にあるという名語史は『石見八重葎』も併記している。「又廣見山有故共云」と。

そしてまた『石見八重葎』は広見山を十方山と同じ山としている。すなわち広見の項において高山として十方山をあげ、「魔所にて登る人ヲ不聞。廣見山とも云」と。*1

(2)法懸御免(ほうがかりごめん)

文字通り「(年貢付法=免割の“法”を)懸けることを御免」=本途物成(年貢)の課税対象から外すという扱いを指す。背景には、辺僻・瘠地・極小高などで、定めの法(免割)を適用しないという運用が各藩で存在していたようである。
広見村ついてこれをみるときに、決め手となる文書が確認できないのが問題となる。まず『角川日本地名大辞典・32 島根県』(1965,島根郷土史会)が矢富熊一郎『石見匹見町史』のみを参照してこの項目を書いていることが随所に伺える。私は時折参照しているのだが、矢富の『石見匹見町史』には点々と誤読、錯字等があり、中には深刻な間違いも存在する。広見の法懸御免についての『石見匹見町史』記載の箇所の表に間違いがあることは後に指摘するが、まず、問題の箇所を点検する。すなわち「明暦2年の村高は36石余であり、生産高があまりに少ないため、法懸御免につき免税された」の真偽について、である。

何が本当かわからないとき、一次資料が提示されている場合には、そこから足場を固めることである。『石見匹見町史』本文中にみえる翻刻に次のものがある。

《御組生高三拾六石九斗壱合、広見河内村往古より諸掛り御免、五石(拾五を転記間違いか)七斗六升内石村の内、去ル辰(弘化元年)。より当卯(安政2年)。十二カ年、諸掛り御免、残弐千四百八拾四石三斗八升六合、尚組諸掛り高ニ相成候由被仰越、承知いたし候》*括弧内は編者の注記

とある。安政六年に原井組割元宇津与七郎から、匹見組割元美濃地表左衛門にあてたものだという。

諸掛り御免(しょがかりごめん)という語が出てくる。こちらは年貢以外の付加負担(御用金・運上・夫食・口米・小物成など雑税諸役)を免除する処置。恒常指定と時限免(飢饉・荒廃年などの一定年期)があり、本年貢の免除とは別枠である。

  • ① 広見河内は「往古より」諸掛りは免除だから、恒常免

  • ② さらに、(十五石七斗六升?)相当の他村については弘化元~安政二まで十二年間の時限免。
    ③ その残余(2,484石3斗8升6合)が組としての12年間の諸掛り負担高になる、という割付の内訳通知

  • 数値の小さな齟齬
    「五石」か「拾五石」かは、文脈上は「拾五」の可能性が高(“残2,484石…”という桁との釣合い)。ここは原本を確認しないとわからない。

  • 広見河内の“往古より”諸掛り御免は、雑税・諸役の恒常免除の由緒を意味する。

では、法懸御免はどうかといえば、文書は示されない。「広見河内村の年貢(高)三拾六石九斗壱合は、同村の土地が辺僻で生産高も少ないので、法懸御免に付し、租税は免除されている」と根拠を示さず本文で叙述されているのみ。

ただ、「日本歴史地名大系」(平凡社)の広見河内のくmにその傍証となることが記されている。

「元和五年(1619)の古田領郷帳に村名がみえ、高33石余、年貢高は田方4石余・畑方2石余。正保4年(1647)の古田領郷帳では有高32石余、免一ツニ分」

古田領郷帳とは、浜田藩主が

広見小学校についてですが、「匹見町へ行こう!」ブログに以下の記述。

広見小学校は集落移転に伴い

昭和45年12月24日に廃校式と集落移転式が行われ

翌年1月から匹見小学校に統合されています。

(匹見町へ行こう!)

またもうひとつ。廃村をまとめて出版しておられるHEYANEKOさんのページから。

広見小学校は,へき地等級2級 児童数31名(S.34),明治17年開校,昭和45年閉校。 三八豪雪や集中豪雨の影響もあって過疎化が進行した時期は早く,最終年度(昭和45年度)の児童数はわずか2名でした。

広見集落の閉村は昭和45年12月。同年に制定された過疎地域対策緊急措置法(過疎対策法)を受けた匹見町の集落再編事業によるもので,最後まで残った7戸。そのうち2戸は甲佐家と久留須家だったことになります。

http://heyaneko.web.fc2.com/zsw14.html

*1『石見八重葎』は、石見地方未刊資料刊行会の翻刻(1999年刊)による。

椎茸の栽培法〜鉈目法について

2025/08/12現在。多少の補筆をする。

以下は2015年2月に書いたもので、引用したところには誤りも多いのだが、そのままとするが、特に気になる1点について。

*1「江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり」とあるが、まず、積極的に種菌を植えつける方法が試みとして始まったのは昭和初期。ひろまったのは戦後である。椎茸栽培の初期的広まりは大分県内に限らない。宮崎、鹿児島、三重、和歌山、静岡(伊豆)、複数にわたる。大分に発してそこから全国へというように、この津久見の発祥地をたてた人たちに思えたのにも理由があろう。

 

〜〜以下元〜〜〜

備忘として記すものなり。

それは「タヌギなどの原木に鉈で傷をつけ(鉈目という)、自然界に浮遊しているしいたけ胞子が鉈目に付着するのを待つという極めて原始的な方法です」とある。

私にとって、鉈目法についての関心は、いま、できる人はいるのか、が真ん中にある。

映画「千年の一滴」の中では、宮崎県椎葉村の椎葉クニ子さんをあげていた。

山の谷ごとに異なるような微細気候(マイクロクライメット)の読み方という点で、いま取り組んでいる竹の焼畑の可能性ともつながる。

web辞書どまりの記述では、傷をつけて待つという、のんびりしたものだが、私が聞いたことがあるのは、胞子が飛んで付着する時期を長期で読みながら準備し、短期でよむその数日の間に、一気に原木を運ぶ(水から出す? 鉈目をいれる? それら全部?)のだというようなこと。

文献レベルでもう少し知る必要がある。

大分がその発祥の地とされる証左はこちら。
http://hamadayori.com/hass-col/agri/SiitakeSaibai.htm
なくなるといけないので、複写しておく。

日本特殊産業椎茸栽培業者発祥地

大分県津久見市上宮本町

JR日豊本線の津久見駅から 500mほど南西に 浄土宗の寺・長泉寺がある。

寺の土塀外側の道路脇に,古い苔の生えた大きな石碑と「由来記」と書かれた副碑が建っている。

大分県は 椎茸の大生産地で,乾椎茸では 全国で第一位,30%のシェアを有する。栽培の歴史も古く, 江戸時代初期(17世紀前半)に豊後の国で炭焼きをしていた源兵衛という人物が, 原木の残材に椎茸が生えるのを観察して 初歩的な人工栽培を始めていたという。

これは“鉈目法”と呼ばれる方法で,クヌギなどの原木に鉈で傷をつけて野外に放置し,自然に椎茸菌が 付着して繁殖するのを待つという原始的な方法であった。

江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり,明治以降は椎茸輸出の増加に伴い生産量も急増した。

大正時代になると,種菌を原木に打ち込む“埋ほだ法”が開発され, さらに昭和になるとくさび型の木片に椎茸菌を培養した“こま菌”を原木に打ち込む方式がが開発されて, 簡便な接種方法のため広く受け入れられ全国に普及した。

この発祥碑は,江戸時代末期に種菌を人為的に植えつける方法が行われるようになったことを記念・顕彰したもので,昭和30年に建碑された。

また,内陸の豊後大野市には「しいたけ発祥の地」という碑が建っている。

現在国内で栽培されている椎茸のうち上記のような“原木”を用いる方法を採っているのは少なくなり, 多くは“菌床法”と呼ばれる,おが屑に栄養分を混ぜ込んで固めた“菌床”で種菌を培養したもので 栽培されるようになっている。 しかし大分県での椎茸栽培は,現在もほとんどが原木を用いているのが特徴である。

なお,この発祥碑については 若干の疑問点がある。

§ 発祥碑の表面に刻まれている文字は「日本特殊産椎茸栽培業者発祥地」と読み取れ, 「産業」の「業」の文字が抜け落ちているように思われる。

「特殊産」では意味が通じないし,副碑(由来記)には 「日本特殊産業椎茸栽培業発祥之地」と書かれていることから,「特殊産」というのは誤記ではないかと想像される。

§ 標題の「日本特殊産業」とは何を意味するのだろうか? 椎茸栽培は林業に分類されているので,その中の“特殊”な業態という意味であろうか。

§ 椎茸栽培の発祥地は “静岡県の伊豆半島”説がある。

伊豆は17世紀末~17世紀にかけての話であるのに対して,大分県は 17世紀前半なので, 大分の方が若干早かったが,いずれも不確かな伝承に基づくので断定は難しい。

日本特殊産椎茸栽培業者発祥地

(副碑)

由来記

往昔天保の頃津久見の先覚者彦之内区三平西之内区徳蔵嘉吉平九郎

久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し三平徳蔵は石見へ出向椎茸栽培

業を経営す是中国に於ける専門事業者の始祖なり嘉吉平九郎久吉は

九州奥地に於て創業した是九州地方の専門的事業者の始祖にて郷土

の子弟に是を継続して連綿百二十余年伝統を保つ而て本業の推移は

時恰も幕末期にて営業上幾多の支障あり従て労多く得少く継続困難

の状態なりしが明治初年日支貿易開港以来輸出椎茸旺盛となり価格

の躍進につれ本格的に事業化し此頃より業者の数も著く増加せしは

歴史が明示する九州地方百九十四名中国四国済州島地方七十余名の

専門事業者を算す斯くて日本特殊生産品として輸出市場に名声を高

揚し神戸港及長崎港を経由輸出椎茸は年々巨額に達せり其大部分は

津久見人の出先経営地の生産品である実に開港以来七十余年間何等

名聞も求めず深山に籠り孜々黙々として外貨獲得の一役を果し其余

沢は郷土の経済安定に寄与し一面着々未墾地の開拓を励行し風土に

最も適応した柑橘園の基礎を構築したのも現実が証する此先輩の貴

い伝統を子弟は能く継承し出ては貿易品増産に勤め入りては郷土の

産業を振興した其業績の偉大さは全国的に総合し椎茸栽培専門業者

として抜群的特技の存在にて是業界再興の権威日本特殊産業椎茸栽

培業者発祥之地を穣成す此国家的大産業の振興は津久見市の大なる

誇なり茲に碑を建設し過去と現時を通じ斯業に精進せる郷土人士の

敢闘精神と其業績を讃へ以て永遠不朽の記念とす

昭和三十年五月二十一日

一介茸山子  西郷武十 (八三翁)

そして、大分から中国地方へこの技術が伝わる拠点となったのが、匹見町広見であるという。それについては今度。

志津見で行われていた竹の焼畑

竹の焼畑メモを更新しました。

重複しての引用を以下にひっぱります。
飯南町の志津見では竹の焼畑の証言が白石昭臣『竹の民俗誌』p.26にもある。

 …前略…三瓶山の東麓にわたる神戸川上流域の山村。近年、この地区内にダムができることにより集落の再編がみられるが、かつてはハンゲ(※1)までに田植えをすませると、組ごとに管理する山を焼く。無用山ともいう竹や笹を主とする雑木山を焼くもので、サンカ(山火)ともいっている。一戸あたり1.5町歩(約150a)を焼くという。

40年ほど前(昭和35年ごろ)までみられたもので、まず共同体で竹木を伐り、飛火を防ぐ道を切ってから、火入れをする。よく焼けるという。焼いたあとまだ灰の冷めやらぬうちにソバやカブを播く。2年目にクマゴ(アワ)、三年目にナタネなどを作る。そのあと放置し牛を放牧する。クマゴは1反(約10a)あたり6俵(約430リットル)の収穫をみたという。ソバもよくできていた。かつては麻も栽培していた地区であり、ここでも田の神サンバイは3月から山から田に、ハンゲがすむと麻畑に入り、山に行くという。

昭和35年頃までみられたということは、証言を集めることは今でもできる。

読み落としていてちょっと驚いたのは、焼畑4年目以降に牛を放牧するということ。この牛は肉牛だったのだろうけれど、詳細を知りたい。また、組で管理していた無用山という存在についても。入会地の呼び方として。なぜ「無用」としたのか。

*令和4年12月17日追記
昭和35年頃までみられたのである。これ聞いてみなくては!

奥出雲での竹の焼畑、その後1

前回、ちょろりと奥出雲のたたらと刀剣館できいてみた話は、「奥出雲で竹の焼畑なんてきいたことがない」だった。そこで、再度、白石昭臣氏のテキストを読んでみた。

『竹の民俗誌』2005.

仁多町三成地区では、八月上旬に北川泉・島根大学名誉教授の指導の下、焼畑でカブを栽培してふるさと起こしのひとつにしている。

ここでいう焼畑の意味するものがなんなのか、にもよるのだ。白石は前掲の第2章・竹と農耕のなかで、「竹の焼畑」の認知度の低さをあげている。
高木林を伐採した後に焼くフォレスト・フォロー型の焼畑とは異なる、当初からの竹山(灌木などの雑木を部分的に含む)を焼くブッシュ・フォロー型の焼畑は、西日本から東海地方にかけて、かなり広範囲に分布している。

……中略……

九州地方では、竹の群生する竹薮の焼畑は古くから存在し、これをヤボと称して、高木林を伐るコバと区別してきた。(昭和11年3月,倉田一郎「焼畑覚書」,椎葉村の調査)
椎葉では、こう呼ぶ。

焼畑……ヤボキリ
コバキリ

西臼杵(椎葉の隣、高千穂)では、こう呼ぶ
ヤボ……焼畑
コバ……山畑
コバサク……焼畑作業のことで、ヤボとコバ両方でつかう。

いやいや、大変だよ、これ。理由はその2にて。中途ですが、今回は以上。

初詣に斐伊神社と木次神社へ〜その1

 あけましておめでとうございます。
 今日は仕事はじめ。初詣からをふりかってみましょう。 大晦日はカフェオリゼの年越しで深夜まで仕事のお手伝い。元旦は朝遅くにめざめまして、お雑煮つくって食べました。午後に、大原郡の郡家跡に停めている車を動かして斐伊神社と来次神社へ初詣。
 斐伊神社(月の光)  斐伊神社wikipedia 
 自宅から徒歩3分のところに郡家があったという由緒ある土地であることに改めて感心します。表示もなにもおかれていないのですが、山と川に想像をめぐらせて千年の歴史へダイブしていけるような、気持ちよい場所です。
 さて、そこから車で1分のところにあるのが、斐伊神社。
 斐伊神社は遠い昔、樋(Hi)社と呼ばれ、大宮の氷川神社はこの樋社から分霊されたというのです。が、その時代は孝照天皇三年。神武天皇からかぞえて三代目の天皇にあたるのですが、歴史の闇にあって、年代すらさだかではありません。後代の作文の可能性もありますが、埼玉には出雲系の氏族の色が認められるだけに、そのルーツがここ斐伊であると言いつのることも、荒唐無稽ではない。

 

 祭神はスサノオ命として現在、祀られていますが、はて、かの時代には、いかがであったか。埼玉の大宮神社では、アラハバキ神がもともとの祭神であったという説もあります。アラハバキスサノオ、2神の系譜と関係をみてみるとこから交差するものをひろってみるとおもしろいのかもしれません。 …つづく。

雪道

 雪道を3本、あげてみる。そんだけ。

 三所の家の屋根の応急処置は2日前にやりました。まあ、あの箇所は大胆にごそっと補修せんとですわ。  トタンをかぶせただけです。とめることはせず、軒の端に棒をたてておさえてあるだけ。風で飛んだらどうしよう。風の強い日は心配ですけど、その都度気になる存在になってしまいました。雪がつもってくれたほうが重しになってかえって安心かもかも。

天が淵の西岸の集落の雪景色

 今朝の雲南市木次町はふたたび雪。

 通勤途中の天が淵付近、国道314号脇に車をとめて、撮りました。

 斐伊川の西岸の集落です。確か地名は「川手」。
 天が淵にまつわる伝承について、神陵や神社や、淵の底がお寺の井戸(だったかな)とつながっているとか、そのような話はすべて東岸に由来地があります。

 そして、この写真に見える西岸にはまったくない。

 そのあたり、もう少し知りたいところです。なぜなのかを。

 

20141222天が淵

奥出雲タケヤマ開拓2014ー第2回レポートの序

 実施報告をつくって、竹取り通信第3号を発刊せねば。

 島根日日新聞に記事が載りました。これこれ。

「目指せ荒廃竹林の整備」とあるのは、新聞の方便というべきもので、そんなことはひと言も申し上げてはおりません。大義名分としてわかりやすく批判のでないフレーズとなると「竹林整備」に落ち着くことはよくわかります。

 しかし、運動・活動の主体のひとりとしては、とても違和感があるということだけ申し上げておかないとと思います。そう、違和感があるのです。この活動は微妙な立ち位置にあります。

 そもそも、なぜ荒廃竹林を整備する必要があるのか、整備できるのか、どこまで、誰が、どうやって整備するのか、などなど。そのような問いはおきざりにされたまま、とにかくやりましょうという記事になってしまうのですね。

 この活動は松江市で開催しているセミナーとリンクしているのですが、鳥瞰的、意味論的、思想的、問題発見的、、、まあ、はっきりしないといえばはっきりしない足取りでやってます。いかんだろうね、これじゃ、非難をあびておかしくない。むしろそれ、歓迎。

 

 そもそも、賛否うずまくことというものは、「否」の存在感がクローズアップされることになっています。とくに規模が拡大した社会機構ではそう。マスメディア、大規模店舗、大都市……挙げ方が不自然ではありますが、がたいがでかいもの一般というくらいの把握でもいいでしょう。

 しかし、ですね、否が唱えられないことがいいことであって、それしかできない・しない社会って、もう終わりに向かって進んでる社会だと思うんです。

 

 タケヤマ開拓がめざすのはぼんやりしたものですが、山地酪農と竹との共存をめざしているといえば、ようやくちょっと近いのかもしれません。竹林整備はその一部でしかない。

 ま、そんだけ。

 ああ、ぐだぐだですね。私も頭の中と計画を整理せねば、です。

 今日も徹夜か、体力がほしい!

 

奥出雲での竹の焼畑

横田地域に「竹に驚く日」のチラシ配布。横田のコミセン、そろばんと工芸館、刀剣館、島根デザイン専門学校、キャロットハウス、そんだけまわっただけですが、竹の焼畑について刀剣館できいてみました。さっそく尾方さんに電話で照会。尾方さんから教育委員会(社会教育委員)のタカオさんにもきいてもらったようです。以下箇条書きにて要点のみ。

・奥出雲では竹の焼畑についてはきいたことがない。

・いまでこそモウソウなどがはびこっているが、もともと竹は少なかった。竹細工をするにも探してくるのに苦心したという子どもの頃の記憶もある(尾方氏)。貴重なものだったので、焼畑に供するようなことはしなかったのではないか。もともと木炭製造のための造林のための焼畑はよくあったことで、たたら製鉄に由来する焼畑はここの特徴であるが、竹のそれはこれまで聞いたことがない。

・モウソウチクが奥出雲へ入ってきたのは江戸後期から明治にかけて、である。

といったところ。いくつかのとっかかりがみえてきました。

工芸館では竹の工芸をやっている方をご存じないか、事務局できいてみました。この界隈ではいらしゃらないと。趣味のレベルで竹細工をやっている人はいるだろうが、ということでした。

*2022年12月17日追記

よくまわったものだが、「モウソウチクが奥出雲に入ってきたのは江戸後期から明治にかけて」ということだが、ここをもう少し掘り下げてもみたい。また「たたら製鉄に由来する焼畑」についても。

田舎の風景が美しいのはなぜだろう

3週間ほど前に撮影したものだと思う。この1週間後から寒波到来となり、雪の季節がはじまった。それにしても、この配置のバランスの妙といったらない。ただただ美しい。

山方の晩秋風景

こうして干された大根は漬けられるのだろう。小さな小さな小屋の軒先につるされ、ほのかに夕陽をあびている白い白い大根。

大根干し

ここは木次町平田の山方。なぜこんなところに集落がと驚くような、急な山の坂道をのぼったところに数軒が集まっている。わずかに開けた田と小さな畑があるのみ。冬の労苦を思わずにはいられないが、春の喜び・夏の夜空・秋の稔りもまた、想像するにあまるものがある。
そんな思いがなぜ生じるのかといえば、だんだんと目の前から消えていき、やがてなくなってしまうかのような風景であるからなのだと、思う。
また、そんな感傷に沈むのではなく、もう少し、これを残す、継ぐための、記録と分析の方法を考えてみたい。ランドスケープ。概念として、そこから。